第四章 〜延元(三)〜



  

 
 
 
 
北畠顕信は、1339年(延元四年・暦応二年)現在、「陸奥介兼鎮守府将軍」の官位にあって、年齢は20歳代に入った
ばかりであった。戦死した兄顕家が「陸奥大介兼鎮守府大将軍」であった事を見ても、この人事は現在の我々の目か
らみればとてつもなく異常に映る。それだけに、顕信の人事は南朝の人材不足を物語る一例として捉えられがちであ
る。しかし、少し見方を変えれば、顕家、顕信、顕能の「北畠三兄弟」が南朝において若手のホープと見られていたとも
考えられる。戦死した顕家の後を継ぐ形で、顕信は鎮守府将軍になり、顕能は顕信の後を継ぐ形で伊勢国司となり、
近畿南朝方の主戦力として活躍するのみならず、戦国期まで続く伊勢北畠氏の実質的初代としても知られるに至って
いる。他に、南北朝期の国司から戦国期まで続いた家は飛騨の姉小路氏くらいのものであるから(土佐一条氏は南北
朝合一後の赴任)、北畠氏は当時の南朝におけるエリート一族として見られていたと考えても、あながち間違いではな
いだろう。

さて、顕信の動向であるが、一度目の東国下向が失敗すると、一旦伊勢から吉野に伺候したのではないか、と考えら
れる。というのも、共に下向かなわなかった義良親王(のりよししんのう)が吉野に戻って、そのまま後醍醐天皇の東宮
(皇太子)となっている為である。
この年の内に顕信が再び伊勢を発して、奥州へ向かったという説もあるが、嵐で船の数を減らした船団をすぐに元の
規模まで戻すという芸当は、当時の造船技術を想像するに難しいと考えざるを得ない。
船といえば、前回は南北朝期の船に関して北前船を例えに出してみたが、ある資料によると、南北朝期の中、大型商
船は舳先(船首部分)が後の伊勢船に通じるものであったといわれているようだ。伊勢船といえば、戦国期に瀬戸内海
などの海で戦った水軍の船の原型にもなったといわれる船である。戦国水軍の船で有名なのが、「信長の野望」やら
「大航海時代」といったゲームなんかにも出てくる「安宅船」と呼ばれた軍船である。とはいえ、南北朝期の船は商船が
主体で、専門の軍船などは無かったようであり、商船の船首や中央部、船尾のどちらかに簡単なやぐらを付けて、臨時
の軍船にしたものが当時の水軍を構成していたと考えられる。また当時の船は、順風時は帆走し、逆風時は人力で漕
いで航行したようだ。
じゃあ鎌倉期の絵巻物に手漕ぎの小型船(大きくても積載重量20t級くらいがせいぜい)ばかり描かれていて、何で南
北朝期にいきなり帆走の船?なんていう疑問も出てくるであろうが、鎌倉期にも帆走の船はあったし、絵巻物の描き方
は人物を大きく描く手法であって、逆に人物に対して船の方が小さく見えるのである。当時は内海や近距離航行が主で
あった事も手伝ってか、帆をたたみ、帆柱を倒した状態で、手漕ぎ航行していた。ちなみに漕ぎ手は8人から10人程度
であったと推測される。遠距離航行となると、帆走航行の手段を採ったもののようだ。
もちろん、大型船の必要性がにわかにクローズアップされたであろう時期はあった、と推測するのは可能だ。それが
「元寇」の頃と筆者は見る。この頃は日本から高麗に逆上陸を、という声も上がっていた時期で、当時の鎌倉幕府とし
ても考慮には入っていたであろう。南北朝期には船体構造の改善など、いわゆる「構造船」への発達が進み、400石
級(積載重量40t級)以上の中・大型商船が登場し、これらが軍船に徴用される事となる。
さて、水軍と聞いて「海賊」とイメージする方もいるかと思うが、当時の水軍は一種の流通集団(平たく言えば、武装した
フェリー会社とか商船企業と考えても遠からず、かな?)であり、海賊行為は相手との利害が対立した時の「最終手段」
に過ぎなかったのである。

水軍の話はここまでにして。

今までもそうだったが、ここからは教科書に載らない領域がわんさと出てくるので、諸賢どうかお覚悟の程を(笑)。


ここで、舞台は東国に飛ぶ。
顕信の父、北畠親房は常陸に上陸すると、霞ヶ浦南岸の神宮寺城(現・茨城県桜川村)、阿波崎城(あばさき。現・茨
城県東村)を経て、常陸南軍の中心的存在であった小田治久(おだはるひさ)の拠る小田城(現・茨城県つくば市)に入
り、そこから南軍決起を促す書状を各地に発している。
元々常陸は、古代から親王の任国という事で皇室にもゆかりがあり、皇室の料所もあったようだ。ここを拠点として、関
東、南奥州(以下、南奥)の南朝諸将を糾合して北朝に対抗する、というのが親房の考えであったと推測できる。
親房と共に上陸した伊達行朝は、この後南朝側の領地を通過して自分の所領に戻ったと考えられる。一部資料には、
行朝が常陸で親房と共に戦った結果北軍に捕らえられ、後に北朝に転じたという記述もあるが、これはあまりにも根拠
が無さ過ぎる。後の話であるが、伊達氏が北朝に転じるのは1350年代に入ってからであり、当時の南奥は、伊達だ
けでなく結城、田村、石川(宗家ではなく支流の一族)等の南軍諸氏が健在であった。

さて、1339年春。
まるで関東の南軍の動きに対応するかの如く、津軽の地に動きが生じる。糠部(ぬかのべ。現・青森県八戸市周辺)の
南部氏が、津軽の豪族曾我氏を攻撃したのである。当時、曾我氏は大光寺城(現・青森県平賀町)を本拠として北朝
側に付いており、この時期は日本海側の安東(安藤)氏、出羽の浅利氏も北朝側だった為に、南朝側としても非常に厄
介な存在であった。
ここで、当時の状況を記した書状を引用してみたい。以下は「曾我貞光目安状」の文面である。


目安

曾我太郎貞光大光寺合戦忠節次第事

一、去三月為大将軍先代越後五郎殿、南部六郎晋類 
并成田小次郎左衛門尉 同六郎 
工藤中務右衛門尉跡若党等 
安保小五郎 
倉光孫三郎 
滝瀬彦次郎入道以下御敵等 令乱入国中 
大光寺外楯打落之処馳向貞光最前 令致散々合戦之間 一族曾我次郎師助代官等馳来 
令致合力候処 経三ヶ月令退散了 
此間分取打死手負 不可勝計 仍賜御判 為備後証 
粗々目安言上 件如

暦応二年五月廿日          承候了(花押)


・・・・・・端的に前半部を要約すれば、

「去る三月に、先代越後五郎を総大将として、南部六郎の親類ならびに成田、工藤一族の若党、安保、倉光、滝瀬氏
等の南軍が領内に乱入し、大光寺城を攻撃した。曾我貞光はこれを迎え撃ち、この間に一族の曾我師助所領の代官
などが来援、合力し、三ヶ月を経て南軍は退散した」

と読む事が可能であろうかと思う。
別に、「曾我貞光申状案」なる文書の一部に同じ様な文面がある。

一、暦応二年三月 御敵越後五郎(先代一族の表記ありか?)南部六郎 成田小次郎左衛門尉以下輩 
率数百騎責入津軽中之間 貞光馳向致散々合戦 凶徒多々討取之畢 
仍所残御敵無程没落之者也 
此条清連并安藤(注・安東か)太師季等一見状在之・・・・・・(後略)

これも大体「目安状」と似た様な文面であるので要約は敢えてしないが、ここで疑問符が湧いて出てはこないだろう
か?
つまり、南部氏を中心とした北奥州(以下、北奥)の南軍が津軽に攻め入ったのはいいとして、それが関東の動き、ひ
いては吉野の動きとは別物なのか、それともリンクしたものなのか?という事である。
ここで目安状に登場する「御敵」をクローズアップしてみる。

まずは"大将軍"とされる越後五郎という人物だが、目安状によると大将軍に次いで「先代」の記述がある事が分かると
思う。この「先代」とは、実は元弘三年に滅亡した執権北条氏の事なのであり、越後五郎なる人物は越後(現・新潟県)
に残っていた、北条一族に連なる人物である事が推測できる(もちろん、本姓がどうであるかでも話は違ってくるかとは
思う)。つまり、新政後に南朝(あるいは建武政権)に降伏した後、南部領に赴いて津軽に攻め込んだという事である。
とはいえ、ただ単に南部領の糠部まで流れて客将になったというのであれば、わざわざ「大将軍」の称号まで戴いて津
軽に侵攻する理由がつかない。しかもこの津軽侵攻は、北畠親房等の常陸上陸、その後の活動に呼応するかのよう
なタイミングで行われている。現在の様にeメールもインターネットも、ましてや電話や無線すら無いこの南北朝期であ
る。
結論を急ぐ事になってしまうが、この津軽侵攻が"あらかじめ吉野からの命令に従って「計画された作戦」である"可能
性が最も高いのである。しかも作戦計画自体は親房達の東国下向以前にすでに発令され、越後五郎が「大将軍」(あ
るいは軍奉行か?)の名目で、当時新田氏はじめ南朝方も多かった北陸から南部領に派遣され、冬越しで工作を進め
た後に実行された可能性がある。もちろん、これはあくまでも推測でしかないのではあるが、吉野発の命令を遠方の津
軽に発令して、更に実行に移すとすれば、相応の準備期間を要したはずである。

次に「南部六郎晋類」という記述であるが、南部六郎とは、北畠顕家の第二次西上に従って戦死した南部師行の弟、
南部遠江守政長を指す。政長は師行に代わって糠部の南部一族を統括していた。そして「晋類」とは「親類」の事であ
り、政長自身は参加せず親族がこの作戦に参加したと見られている。
で、この親族は誰なのか?というと、現在最も有力視されているのが政長の長兄、南部時長の子供で行長である。行
長は別名「信長」ともいわれ、戦国〜江戸期に続いた盛岡藩の「三戸南部氏」の祖と考えられている。時長、行長父子
は南部氏本貫地のある甲斐(現・山梨県)にいたが、行長が南部師行の下向に従って、そのまま糠部にあったらしい。

「成田小次郎左衛門尉 同六郎」は、鹿角郡(現・秋田県鹿角市)に所領を持った成田氏と見られ、その後も南部氏同
様南朝側の豪族として活動している。
次に「工藤中務右衛門跡若党等」とあるが、工藤中務右衛門とは、黒石(現・青森県黒石市)に所領を持っていた工藤
貞行という人物の事を指し、「跡」とはこの貞行死後の所領、という意味である。貞行は南部師行と共に戦死したとさ
れ、その後の所領は貞行の未亡人が仕切っていた様である。先述の南部政長はこの工藤貞行の娘婿であったらしく、
政長は工藤家(貞行未亡人)の後ろ盾もあって北奥屈指の豪族となっていたようである。
ちなみに「若党」とは、工藤貞行の他の娘婿達と推測されている。貞行には南部政長の妻の他に四人の女子がいたそ
うで、彼女等が安保、倉光、滝瀬の三人にそれぞれ嫁いでいたと考えられる。

最近の研究などによると、この時期の奥州南部氏は、糠部の政長を実質的初代とする「八戸南部氏」が惣領権を持っ
ていて、後の盛岡藩南部氏たる「三戸南部氏」が惣領権を得るのは、戦国期以降と見られている。いずれにしても奥州
南部氏は、南北朝期において合一のその時まで、一貫して南朝側として奥州にあり、顕信を支える事となる。

さて、南部政長はこの津軽侵攻を常陸の北畠親房に急使を立てて報告している。
政長の急使は、白河(現・福島県白河市)の結城親朝(ゆうき・ちかとも。結城宗広の嫡男)を介して親房の拠る小田城
に向かったらしい。この時期結城親朝は、奥州南軍の旗頭的存在であったと見られている。ただ、親朝は顕家の戦死
後、南朝側としての活動が次第に消極的なものとなっていく。
一方で、現在の宮城県北部に所領を持っていた中部奥州(以後、中奥)の葛西清貞も親房に使者を送って、親房かあ
るいはしかるべき大将が奥州に下向すべきであると進言している。元々は義良親王を奉じた顕信が南軍の指揮を執る
予定だったのが、肝心の顕信はこの時未だ吉野に在った為、葛西氏をはじめとする中奥の南軍は、奥州の北軍に動
きを封じられていたと思われる。

他戦線の南朝方を見ると、北陸では戦死した新田義貞の弟に当たる脇屋義助(わきや・よしすけ)が、越前において未
だに南朝の旗を降ろさず戦っており、一度は越前の北軍を破るものの結果的に美濃、伊勢を経て吉野までの撤退を余
儀なくされる事となる。
東国下向に同行し、嵐の為に遠江に上陸した宗良親王は、遠江南軍の井伊氏に迎えられている。井伊氏は後の戦国
期に今川、徳川と仕え、井伊直政の代において武名を轟かせている。また江戸期には幕末の大老、井伊直弼を誕生さ
せる事となる家であった。宗良親王は井伊氏の支援を受けて南軍の糾合を図っているが、この1339年夏には北軍の
攻撃を受けている。

・・・・・・1339年(延元四年・暦応二年)八月十六日。
後醍醐天皇が吉野にて崩御した。

「太平記」によると、後醍醐天皇は皇位を義良親王に譲位した後、

「玉骨ハタトヒ南山ノ苔ニ埋ルトモ、
魂魄ハ常ニ北闕(ほくけつ)ノ天ヲ望マント思フ」

と言い残して、左手に「法華経五の巻」を、右手に御剣を持って息絶えたという。
吉野に還幸して二年九ヶ月目の事であった。
後醍醐天皇が強烈な個性を持ち、また行動的な人となりであった事は、歴史資料にあまねく記されている通りである。
そして儒教に理解を示す一方で、悪魔的とも取られかねない呪法に傾倒した一面をも持った人物であった。
何しろ正中の変後、自分の中宮(側室)の安産祈願を隠れ蓑に、関東調伏の祈祷を、自ら御所の中で法衣を纏い、護
摩を焚きながら祈ったというエピソードすらあるほどだ。倒幕の為に「闇の力」を解放する事も厭わなかった、正に「異形
の天皇」と言っても過言ではあるまい。
しかし、それほどの個性を持った後醍醐天皇の目は、あくまでも「自らを頂点とした親政による公家社会」の為に向けら
れていた。民衆の動向、武士の趨勢に向けられる事は遂に無かったのである。前年に戦死した顕家の遺言たる諌奏
文が、そうした後醍醐天皇の「欠陥」を如実に物語っている。
後醍醐天皇は、確かに才能があったに違いない。しかしながら、まるで現代の日本の政界に多数生息するところの「政
治業者」が、"永田町の天下"しか見る事が出来ないのと同様に、「京都」という天下しか見る事が出来なかった、いや、
それしか見ようとしなかったというところに、筆者は後醍醐天皇の政治家としての「限界」を見る思いがする。

後醍醐天皇、享年五十二歳。東宮(皇太子)義良親王が後を継いで即位、後村上天皇となり、幕下には北畠親房が常
陸にいる間、四条隆資(しじょう・たかすけ)、洞院実世(とういん・さねよ)の両公卿があって政務を補佐する事となっ
た。

九月には後村上天皇の弟、懐良親王が紀州から九州に向けて下向、十二月には伊予国忽那島(現・愛媛県)に達して
いる。四国には当時瀬戸内海側に南朝側の豪族が多く、ここを経由して九州へ移動する計画であった。ちなみに、親
王の出発を1336年比叡山から、とする説が有力視されているが、当時の後醍醐天皇が地方に親王を派遣する必要
を認めていたのは、奥州の義良親王(後村上天皇)と、北陸の尊良、恒良両親王のみであったのではないか、と思わ
れる(北陸に関しては、当時の情勢から緊急避難的な印象が強い)。懐良親王を九州に派遣するに当たっては、戦死
した北畠顕家の諌奏が一部採用されたと考えた方が、より辻褄が合うのではないだろうか。この事は宗良親王にも言
える事である。

再び東国。
小田城に拠る親房は、この頃ひとつの書を執筆している。

「神皇正統記」

と呼ばれるものがそれである。
この書を端的に、しかも口さがなく言えば、これまでの歴代天皇の継承、事跡を述べた上で、「だから南朝は正統な朝
廷なのだ」と言っている様なものであった。
この「神皇正統記」に関しては、一体誰の為に書かれたものであるのかという事で、色々と論議を呼んできた。後村上
天皇に献上する為に書かれたというのは当然であろうとしても、例えば東国の武士達に南朝の正統性を訴え、味方に
付くようにという意味を込めて書かれたとか、あるいは南軍支援に消極的な結城親朝を説教する為に書かれたとか、
色々な見方が存在していたのである。
筆者はどちらかというとこの書に、理想と現実のギャップに苦悩する保守的公卿の姿を見て取る事が出来るのではな
いか?と思っている。
例えば、南奥で北朝側にあった石川氏の宗家筋が、新恩給付を条件に南軍参加を打診してきた事があったが、親房
はこの申し出を「まるで商人の様なもの」「武士として恥ではないか」と言って却下してしまっていた。当時の武家社会に
おいて、こうした所領の預け置きなどは茶飯の事であったし、また所領の実効確保は必要不可欠で、たとえ田んぼ一
枚でも既得権を覆されては死活に関わった。北朝、南朝の大義は、武士達にとっては「どうでもいい事」であり、むしろ
両朝の権威が自分の所領確保を認知するかどうかで、去就を定めていたのである。
武士は朝廷、公家に仕えるべきもの、という平安以来の公家的思想に依存していた親房の目からすれば、東国、ひい
ては奥州の武士が保身の為に打算的な行動をする「恥知らず」の集まりに映っていたのではなかろうか?
反対に東国の武士達にしてみれば、親房は「頼むに足りず」と映ったに違いない。結城親朝の支援が消極的であった
のも、こうした事と無縁ではないはずで、親房の「勤皇の大義」の押し付けは無力であるばかりか、迷惑ですらあったろ
う。
分厚い現実の壁に突き当たった親房は、先立った顕家の様には出来なかったのであろう、「神皇正統記」を書く事で、
ともすれば瓦解しそうになる自分の思想、信念を「純化」しようとしたのではないだろうか?顕家は親房の影響を受け
て、確かに保守的な一面を持ってはいたが、一部で言われる程「精神が不健康」な人間でも、「公家上位の思想」を押
し付ける様な人間でもなかった。顕家が「常に現実を見てきた、南朝随一の人材」であった事は、奥州の有力な豪族が
顕家を支えた事が、それを裏付けている。
親房は、しかし顕家の如くには出来なかったのである。彼は「神皇正統記」執筆により、「現実」よりも「観念」の世界に"
引き篭もってしまった"感が見られる。
関東の北軍は、この頃高師冬(こうの・もろふゆ。尊氏の執事、高師直の一族)を総大将に、常陸西部の駒館城を攻撃
しているが、この時は動員した軍勢が少なく撤収している。
いずれにしても親房は、東国において次第に孤立感を深めていったに違いない・・・・・・。

・・・・・・この1339年において、顕信の動向はほとんど分かっていないのが現状である。その為に、またもや概略をなぞ
る結果となってしまった。
さて「神皇正統記」であるが、楠木正成の事跡同様、後世において勤皇思想に影響を与え、昭和の皇国史観の"暴走"
にも体よく利用されてしまっている事は、ご存知であろうか?
こうした事は、まず教科書に掲載される事はない。しかし、往々にして教科書に掲載されない出来事にこそ、後に重要
となる出来事の深淵を知る手がかりが隠されている事が多いのである。
最後に、湊川以降ここまでの出来事を簡単に年表としてみたい。





1336年(延元元年・建武三年)
五月:湊川の合戦・・・・・・楠木正成戦死。後醍醐天皇比叡山に逃れる。
六月:叡山雲母坂(きららざか)の戦・・・・・・宮方千種忠顕戦死。足利尊氏、北朝光厳天皇(上皇)を奉じて入京。宮方、
月末に京都を攻撃、名和長年戦死。
十月:後醍醐天皇比叡山より下山、足利尊氏の監視下に。新田義貞は尊良・恒良親王を奉じて越前金ヶ崎に移動する
も、足利方の攻撃を受ける。
十一月:尊氏、「建武式目」制定。後醍醐天皇、光明天皇(北朝)に譲位するも、月末に京都を脱出する。
十二月:後醍醐天皇吉野に還幸。ここに南北朝の時代が幕を開ける。


1337年(延元二年・建武四年)
一月:北畠顕家、西上準備の為陸奥国府を放棄、霊山に移動。
三月:越前金ヶ崎城落城。尊良親王、新田義顕自決。恒良親王は捕らえられる(翌月殺害)。
八月:北畠顕家率いる奥州軍、義良親王を奉じて陸奥霊山を出撃。
十二月:奥州軍、鎌倉確保。


1338年(延元三年・暦応元年)
一月:美濃青野原の戦・・・・・・顕家、北軍を撃退するも自軍損害大きく伊勢へ。伊勢で顕信合流する。
二月:新田義貞、越前にて反撃開始。大和般若坂の戦・・・・・・奥州軍北軍に敗北、義良親王は吉野へ(後醍醐天皇の
皇太子となる)、顕家・顕信は河内へ向かい、その後河内、和泉を転戦。
五月:顕信は山城男山にて北軍と激突。石津浜の戦・・・・・・北畠顕家戦死。
七月:越前藤島の戦・・・・・・新田義貞戦死。顕信男山より撤退、吉野へ。後醍醐天皇の勅命にて、「陸奥介兼鎮守府将
軍」として奥州下向を拝命。
八月:足利尊氏征夷大将軍に就任、室町幕府開府。
九月:顕信、義良親王を奉じて海路伊勢を出発するも、嵐(台風と推定)に遭遇して伊勢に戻る。宗良親王は遠江に上
陸、北畠親房は目的地の常陸に上陸。
十一月:北畠親房、常陸小田城に拠る。


1339年(延元四年・暦応二年)
三月:南部氏を中心とする北奥南軍、津軽北軍の曾我氏を攻撃(かねてより、吉野からの指令があったものと推定。決
着は付かず、五月には撤収か)。
七月:南軍脇屋義助(新田義貞の弟)、越前にて北軍に対し反撃。遠江の宗良親王、北軍の攻撃を受ける。
八月:後醍醐天皇崩御。義良親王が即位、後村上天皇となる。
九月:北畠親房、小田城にて「神皇正統記」執筆。関東の北軍、高師冬を大将に常陸駒館城を攻撃するも撤退。


・・・・・・次はようやく、顕信メインで話を進められそうである。





第四章 〜延元(三)〜 了



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