第三章 〜延元(二)〜



  

 
 
 
 
北畠顕信が、本格的に歴史上に登場したのは1336年(延元元年・建武三年)と言われているが、この年だけを見て
も、とかくやたらと事が多い。
前回は湊川の戦を経て、足利尊氏が入京したところまでを取り上げたが、ここまででこの年の上期半分にしか触れて
いないのだ。全く、我ながらトンでもない時代に首を突っ込んでしまったものだが、愚痴っていても進むわけがないの
で、少しずつでも先に進む事にしたい。

尊氏の入京に先立つ六月初旬、尊氏の弟直義は、配下の軍を率いて比叡山を攻撃している。京都から逃れた後醍醐
天皇が、延暦寺に立て篭もった為である。
この戦で天皇方は、後醍醐天皇の寵臣、千種忠顕が戦死するなど苦境に立たされたが、延暦寺の僧兵達を味方につ
けていた天皇方は、なお抵抗を続けている。
千種忠顕は、後醍醐天皇が隠岐に流された際に近侍を許された数人の内の一人で、天皇の「分身」とまでいわれた公
卿であったが、建武新政が始まるとその重用に奢ってか、奢侈によって声望を落としてしまった。戦となるや武将として
も働き活躍したが、叡山で遂に戦死したのである。
後醍醐天皇は、苦境の中にあっても京都奪還をあきらめず、六月末には総反撃を命じ、天皇方は京都に進軍、足利
方と戦闘に入った。
しかし、盆地に雪崩れ込んだ天皇方は逆に尊氏率いる足利方に分断され、名和長年が戦死するなど大損害を蒙る結
果に終わってしまった。
名和長年は、後醍醐天皇が隠岐から脱出して以降、常にその側に従って武勲を立て、建武新政においては親衛隊長
格はもとより、京都の「東市」を任されるなど、商業にも明るい人材として重用されたが、遂に彼も乱戦の中戦死したの
であった。

時に後醍醐天皇の寵臣「三木一草」(さんぼくいっそう)と呼ばれた楠"木"(正成)、結"城"(親光。結城宗広の嫡男)、
名和(長年。伯"耆"守の地位にあった)、千"種"(忠顕)の四人は、結城が先の坂本の戦で戦死、楠木は湊川で、千種
が叡山、名和が京都で戦死と、その全員が悲劇的な最後を遂げるに至ったのである。

後醍醐天皇が頼みとするのは新田義貞のみ、という状況の中、天皇方は未だ叡山で必死の抵抗を続けていたが、こ
の間の八月に、尊氏の奏請による光明天皇(北朝の天皇。豊仁親王)の践祚が挙行された。後醍醐天皇の在位が公
然と否定された瞬間である。
十月になって、孤立したままの状態を続けられなくなった後醍醐天皇と、光明天皇への譲位によって自らを正当化せん
とする尊氏との間で講和が成立、後醍醐天皇は京都に還幸した。
ここで問題になったのは、新田義貞であった。後醍醐天皇は義貞に恒良親王を奉じて北陸に向かい、盛り立てるように
と直々に命じ、これを受けた義貞はすぐさま越前に向かったが、向かった先の金ヶ崎城にて足利方の攻撃を受ける事
となる。
それにしても、義貞は陣中の情報すら把握していなかったのであろうか?天皇と尊氏の講和、それに伴う一族の離反
すらも、彼は察する事が出来ず「何かの間違いだろう」と言っていたというが、それが本当だとしたら、彼の将としての
資質を疑わざるを得ない。

・・・・・・十一月、後醍醐天皇から光明天皇への譲位が行われ、続いて尊氏は「建武式目」という法令を制定した。この
時点で、尊氏はまだ征夷大将軍にはなっていなかったが、式目はいわば幕府の法律とでもいえるものであり、この時を
以って室町幕府は実質的に発足した、と言ってもいいであろう。ところが、ここで事態は終わらなかった。

十一月末、京都花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出したのである。

北畠親房が後醍醐天皇に脱出を進言、これを入れた後醍醐天皇は京都を脱出、楠木氏の領内を経由して大和に逃
れたのだった。
通説では、この辺りでようやく"このコラムの主人公"顕信が登場してくる(笑)。
この時、おそらく顕信は親房の指示を受けていたのであろうか、少数ながら軍勢を率いて後醍醐天皇の護衛についた
様である。もっとも、伊勢の地固めに奔走していたであろう顕信が、どれほどの兵力を掌握していたのか、また指示を
仰いだからとて、伊勢からいかにして京都近郊まで出てきたのかは、はっきりと分かっていない。だが、当時率いてい
た兵力がそれほど多くなかったであろう事は確かであろう。いずれにしろ、親房、顕信父子は後醍醐天皇を奉じて京都
を脱出、大和吉野に赴くのであった。

これを知った足利直義は、直ちに配下の将兵を出して後醍醐天皇の行方を捜させたが、尊氏は家臣達を前に、

「天皇(後醍醐帝)の事を今後どうするか、実は迷っていたが、今御自身で他所へ移られたのは"不幸中の幸い"であ
る」

という主旨の事を語ったという。しかし、尊氏の本意がどこにあったかはともかく、この時の彼のビジョンはあまりに甘過
ぎた。
後醍醐天皇は吉野に行宮を設定、ここを本拠として各地の味方豪族に檄を飛ばす。ちなみに、奥州にあった北畠顕家
宛の勅書が残っているので、これを紐解いてみたい。


「子細ありて出京の處(ところ)、
直義ら申沙汰(もうしざた)せしむるの趣、
かたがた本意に相違(あいたが)いす。
当時のごとくんば、国家として、愈(いよいよ)その益なきの間、
なお本意を達せんがために、
洛中を出で、和州(大和国。現・奈良県)吉野郡に移住し、
諸国に相催(あいもよお)し、
重ねて義兵をあぐるところなり」


後醍醐天皇は、吉野にあってなお意気軒昂であったが、すでに現実との乖離が著しいものがあった事は疑いないとこ
ろである。

いずれにしろ、ここに「一天両朝」と評された南北朝時代が本格的に幕を開ける事となった。

明けて1337年(延元二年・建武四年)。
三月、新田軍の籠城した金ヶ崎城が落城した。尊良親王は義貞の嫡男義顕(よしあき)と共に自害、恒良親王は捕らえ
られ、後に殺害されている。しかし義貞はこの苦境にかえって奮い立ったか、態勢を立て直し越前を舞台に反撃に転ず
る事となる。
一方奥州では、義良親王を奉じた北畠顕家が苦心の奥州平定を行っていたものの、後醍醐帝の綸旨に応じる形で、
休む間も無く第二次西上の準備に入っていた。この準備の為に、顕家は国府を離れ霊山城(現・福島県霊山町)に移
る。通説では、この顕家の霊山移動を「足利方の攻撃で戦況が不利に傾き、国府が確保できなくなった為」と説いてい
るが、最近の資料を見るに、そう言っている割には当時の奥州における事態の急変や、国府周辺での大掛かりな戦闘
の記録がまったく見られない。津軽などでは紛争が起こっていたが、国府周辺では留守氏の離反こそあったものの、だ
からといって即戦闘、という状況までには至っていない。留守氏は離反したまでは良かったが、所領がなまじ国府に近
かったが為に、かえって顕家に動きを封じられていた可能性が高いのである。下手に兵を動かせば、顕家に叩きのめ
されて一族滅亡になりかねない。それに、留守氏当主の留守家任(いえとう)は、この時期関東にあった。
こうして見ればむしろ、霊山を作戦根拠地として西上の準備に取り掛かった、と見た方が余程自然であろう。もちろん、
顕家はこの時義良親王の安全も考慮していたはずで、国府をむしろ意図的に放棄したと考えれば辻褄が合う。
大体、仮に足利方の国府攻撃があったとして、その包囲を突破して霊山に向かい、その後西上なんて無理が過ぎる、
というものだろう。当時の状況が、前よりはるかに厳しかったであろう事は容易に推測できるが、それを差っ引いても通
説の見解は不自然に映る。顕家は少なくとも、インパール作戦を指揮した牟田口中将より、はるかに有能であったと考
えていい。
顕家はこの年八月に霊山を進発、関東各地で足利軍(以後北軍、あるいは北朝方と呼称)を破り、十二月には関東執
事たる斯波家長を自刃に追い込み、鎌倉を確保する。顕家はここで関東・甲信の天皇方(以後南軍、あるいは南朝方
と呼称)を結集して態勢を整え、その後西上したい考えであったようだが、吉野からの矢の催促に抗し切れず早々に鎌
倉を発ち、翌年一月末には美濃青野原(現・岐阜県関ヶ原)にて北軍を破るものの、自軍の損害も著しく伊勢に移る事
となる。

伊勢で、顕家は顕信を幕下に加えて大和→河内→和泉と転戦、義良親王はこの間に吉野へ赴いている。
ここで顕家にとって不運だったのは、転戦した各地において友軍の支援をほとんど受けられなかったであろう事だ。長
躯進軍の末ルートを変えたのが運の尽き、という見解もあるが、第一次西上の時とは状況が全く異なっている事を、よ
くよく考えてもらいたい。美濃を突破しても近江で、近江を突破してもなお尊氏の本隊が待ち受けていたはずである。し
かも新田義貞は未だ越前で反撃の真っ最中であり、連携も望めなかった。
むしろ態勢を整える事無く、ただ「早く来い」とばかりに顕家を死地に呼び込んだ後醍醐天皇とその側近に、最大の罪
があると言えよう。畿内最大の南軍勢力たる楠木党は、正成を失い再編の途上にあったし、畿内各地の南軍も、態勢
を固めた北朝方の圧迫で身動きが取れない状態にあった。とはいえ、北朝が直ちに吉野を攻略できるかというと、実
際はそこまでの状態になってはいなかった。
こうして見ると、顕家は吉野の我儘に翻弄されて、別に出る必要の無い時期に各地を転戦させられ、しかも満足な支援
すら受けられなかったという事になる。
顕信は、恐らく苦悩する顕家の姿を間近に見ていたはずだ。兄の姿が弟にどれほどの影響を与えた事か、それは諸
賢の推測に委ねざるを得ないであろう。

1338年(延元三年・暦応元年)も、春になっていた。
顕家は和泉堺(現・大阪府堺市)に本陣を定め、顕信は河内を経て山城男山(現・京都府八幡市。男山石清水八幡社
がある)に布陣した。この態勢で南軍の兵を集め、京都を窺わんとしたのである。
顕信率いる南軍はいわば、北軍に対する「楔」であり、顕信は男山の要害を利用して北軍を引き付けていた。当時、北
軍を率いていたのは尊氏の執事たる高師直(こうの・もろなお)であった。彼は後に「悪逆非道の輩」と呼ばれるほど粗
野な面があったが、反面戦上手としても知られていた。その師直でさえ、この時の男山の南軍には手を焼いている。顕
信は数で劣る配下の南軍を指揮して、北軍相手に一歩も譲らない。兄が態勢を立て直せば、挟撃して打ち破る事も不
可能ではない、その意気で顕信は南軍を指揮していたものであろうか。
だが、師直はここで顕信から顕家に狙いを変えた。男山に押さえの兵を置くと、本隊を南下させ、未だ態勢の整ってい
ない顕家軍に襲いかかったのである。
ここに、北畠顕家は堺石津浜において戦死した。五月二十二日、「ここに奥州軍は潰えた」と「太平記」は伝える。

戦死の一週間ほど前、顕家は吉野の朝廷に宛てて一通の書状を上奏したと伝えられる。
それは、七ヶ条(六ヶ条とも)に渡って朝廷を批判した痛烈極まる諌奏であった。


「人材を選び、各地に派遣して諸国を統括すべし」
「民の租税、地頭等の負担を軽くすべし」
「人材登用には慎重にあたるべし」
「公卿、僧侶への恩賞を慎重に考えるべし」
「臨時行幸、奢侈を戒めるべし」
「法制を厳格に整えるべし」
「権門、宮女、僧侶の政治介入を禁ずるべし」


・・・・・・北畠顕家、享年21歳。「花将軍」の異名をとった公家武将の戦死を知った尊氏は、大いに安堵したといい、一方
南朝側は「力をぞ失いける」といわれている。

顕信は顕家戦死後も男山に拠って戦っていたが、遂に支えきれず男山を放棄、吉野に戻っている。
後に鎮守府将軍として奥州に赴く事になる顕信の、それは苦い戦闘の記憶になった事であろう。

この時期、越前では新田義貞が反攻に転じていた。越前府中(現・福井県武生市)を落とし、越後からの友軍も来援
し、義貞は越前守護の斯波高経を追い詰めていた。
ここで総攻撃に移れば勝利は確実であったが、折からの後醍醐天皇の催促を優先するあまりに、重大な戦局をほった
らかしにしてしまう。これに呆れて、折角味方についた越前平泉寺の宗徒が離反、義貞は二正面作戦を余儀なくされた
末、七月初めに戦死してしまった。
北陸における南朝、あるいは反尊氏派の動きは、この後1350年代まで低調なものとなってしまったのである。

新田義貞が戦死した七月、顕信は後醍醐天皇より勅命を賜る。

「鎮守府将軍として奥州に赴くべし」

・・・・・・伊勢国司の任を弟の顕能と交代し、いよいよ顕信が奥州に向かう事となったのである。
これには奥州軍の残存戦力も加わり、顕家の時に続いて義良親王を奉じる事が決まった。顕信の補佐には、奥州軍
残存を統率してきた結城宗広、伊達行朝が付き、父親たる親房は宗良親王(後醍醐天皇の皇子の一人)を奉じて関東
に赴く事が決定し、水軍により海路、目的地へ向かう予定となった。

ここで「どこかおかしい」と気付いた方は、きちんと文章を「読んで、理解した」方であろう。
つまり、顕家の戦死と共に「奥州軍は潰えた」はずなのに、なんでここで「奥州軍残存」が顔を出すの?という事である。
実はこの辺りが「太平記」のみならず、いわゆる"軍記物の弊害"といえる。
明治以来の通説として、義良親王を奉じた東国下向の目的は、奥州の体制を挽回して南朝の基盤を固めるのが目的
とされている。それはいいとして、では「太平記」の記述を鵜呑みにすると、この一行に従った結城宗広や伊達行朝、彼
等が率いた奥州軍残存は「冥土から甦りでもしたのかい!?」という事になってしまう。
多少日本史、特に合戦に関して一家言ある方々にも少し考えていただきたいのだが、中世の戦闘で、果たして"ある一
軍が全滅するまで戦った"例はどのような時で、どのくらいあったのであろうか?
・・・・・・実際のところ、当時の合戦で全滅を期して戦うといった事は、まず余程の事が無い限り無かったはずである。そ
れこそ昭和の日本陸海軍じゃああるまいし、ましてや戦の目当てが"名誉以上に恩賞だった"この時代である。大勢が
決まれば、敗者はいち早く撤収し、勝者も深追いはしなかったのが当時の戦の形態であったと考えられる。
俗に「勝敗は武門の常」と言われたように、敗北=即滅亡ではなく、勝者も深追いの挙句、逆撃を食らって戦死しては
恩賞にもありつけない・・・・・・。
要は、奥州軍は顕家の戦死後、顕信や結城、伊達の諸将に統率されて吉野周辺に集結していたと考えられるのだ。実
際、西上の奥州軍で戦死した有力な武将は、南部師行のみであった。

全ての準備を終えた顕信を始めとする東国下向の一行は、九月に伊勢大湊(現・三重県伊勢市)から船に分乗して出
帆したという。この時の船がどのようなものであるのか、何隻あったのか、従った人数はどのくらいか、といった諸々の
事は、残念ながら未だに分かっていない。おそらくは伊勢・熊野の水軍が彼等を乗せていった事であろう。いずれ海路
を関東、東北まで行くわけだから、それなりの外航能力のある船でないと、あっという間に転覆するのが関の山である。
鎌倉〜室町期の船に関する研究は、絵巻などによる研究を主にせざるを得ないところがあり、しかもそこには小型の
内海用の船が多く描かれている事からか、まるで丸木舟に毛が生えた様な原始的なものだった、なんていう極端な例
もあったりする。
さて、ここでもうひとつ考えて欲しいのは「倭寇」である。「倭寇」は前期と後期に分かれ、前期は日本人の水軍、後期は
主に中国人の海賊が主力であった。そして、特に前期は南北朝時代、朝鮮半島や中国沿岸を時に荒らし回っていた。
一体、丸木舟に毛の生えた原始的な船を以って、どうやって組織的に大陸沿岸を荒らせ、というのか?
まぁ、室町期の船と見られる大型船舶の描かれた絵巻もあるので、少なくとも江戸期の「北前船」クラスか、それより多
少小さめのクラスではなかったか?というのが筆者の推測である。

ところでこの東国下向計画は、いきなりつまずいてしまう。船団が嵐に遭遇して、散り散りになってしまったのだ。推測
だが、台風にぶつかってしまったのではないかと思われる。九月と言えば、秋の台風シーズン。運悪く遭遇してしまった
のではなかろうか。
親房と伊達行朝の船団はどうにか嵐を突っ切って常陸に上陸、宗良親王は遠江に上陸できたが、義良親王、結城宗
広、そして顕信の船団は嵐によって伊勢に戻されてしまう。
結局、義良親王は伊勢から吉野に戻り、後に後村上天皇となる。
結城宗広は、伊勢に戻った後病に倒れ、奥州に戻る事もならずそのまま息を引き取った。
顕信はおそらく義良親王に従って吉野に赴き、その後すぐさま再下向の準備に取り掛かったものと思われる。顕信の
任務は「鎮守府将軍」として奥州に行き、当地の南軍を再び糾合する事にあるからだ。

・・・・・・足利尊氏は、この南軍東国下向に先立つ八月、北朝における全ての手続きを踏んで待望の「征夷大将軍」に就
任、正式に幕府を開府した。いわゆる「室町幕府」が、ここに発足したのである。しかし、この時期の尊氏は各地の南軍
に対する対応、味方のはずの諸豪族の所領問題などもあって足元を固めざるを得ず、どうも吉野を直接攻撃するだけ
の余裕がなかった様だ。
すでにこの時点で、幕府の「弱さ」は浮き彫りになってしまっていたのである。
南北朝の動乱がこの後60年近くに渡って続こうとは、尊氏にも後醍醐天皇にも、親房にも、そして顕信にも果たして予
想できた事かどうか・・・・・・。





そして、1338年も暮れていった・・・・・・。





第三章 〜延元(二)〜 了



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