第二章 〜延元(一)〜









第一章掲載後、お読み頂いた読者の方から、「出来事が分かりにくい」というご指摘を頂いた。
なるほど、確かに読み返してみるとその通りである。
建武新政を経て、南北朝の期間は情勢が複雑に絡み合っている為、非常に理解に苦しむところもしばしば現れてくる。
このご指摘に応える為、第一章で取り上げた出来事を、以下、順に示していきたいと思う。





1324年(正中元年・元亨四年)
九月:正中の変・・・・・・後醍醐天皇による鎌倉倒幕計画が失敗。

1331年(元弘元年・元徳三年)
五月:元弘の変・・・・・・倒幕計画再び失敗。
八月:笠置山の戦・・・・・・後醍醐天皇、大和笠置山に逃れ幕府軍と戦闘するも、敗れて捕らえられる。
九月:楠木正成挙兵・・・・・・河内赤坂城に兵を挙げるも、幕府軍の攻勢により十月には落城。

1332年(元弘二年・正慶元年)
三月:鎌倉幕府、後醍醐天皇を隠岐に流す。
十一月:大塔宮護良親王、吉野に挙兵。楠木正成、河内千早城に再度挙兵。

1333年
一月:赤松則村(円心)、播磨にて挙兵。
二月:後醍醐天皇、隠岐より脱出し、伯耆の名和長年に奉ぜられ船上山に拠る。
四月:足利高氏(のち尊氏)、丹波篠村にて幕府に叛旗を翻す。
五月:足利・赤松・千種・護良親王連合軍京都に突入、六波羅探題を攻略、占拠。新田義貞が上野にて挙兵、鎌倉を
攻略、占拠。ここに鎌倉幕府は滅亡する。
六月:後醍醐天皇、入京。
十月:北畠親房・顕家父子、義良親王を奉じ奥州に赴任。
十二月:足利直義、成良親王を奉じ鎌倉に赴任。

1334年(建武元年)
この年、各地で北条の残党蜂起。
六月:大塔宮護良親王と足利尊氏の対立表面化。
十月:大塔宮護良親王拘禁事件。紀伊飯盛山の乱・・・・・・北条残党の蜂起。翌年一月鎮圧。
十一月:大塔宮護良親王、鎌倉に移され、禁錮。

1335年(建武二年)
北条残党の蜂起、各地で相次ぐ。
六月:後醍醐天皇弑逆計画露見。
七月:北条時行、信濃の諏訪氏に擁せられ挙兵、鎌倉を占拠(中先代の乱)。足利直義、退却時に部下に命じて、大
塔宮護良親王を殺害。
八月:足利尊氏京を進発、北条時行を破り鎌倉を奪還。時行は信濃に逃れる。
十月:足利尊氏、建武政権より離反。
十一月:新田義貞、足利追討の命を受け京を進発。赤松則村(円心)、足利方として播磨に挙兵。
十二月:箱根竹ノ下の戦・・・・・・足利尊氏、新田義貞を破り追撃に転じる。奥州の北畠親房・顕家父子、勅命により義
良親王を奉じて陸奥国府を進発、西上開始。

1336年(延元元年・建武三年)
一月上旬:足利尊氏、新田軍を破り入京。





第一章で取り上げた期間は、実に12年間に及ぶ。
前回はかなりの駆け足となってしまっているので、相当分かりにくかったのではないだろうか。これで少しは、出来事を
年代的にお分かりいただけたかと思うのだが・・・・・・。
この場を借りて、お詫びしたい。

さて、「君側の奸」を除くとして新田義貞を追撃する足利尊氏は、建武三年一月上旬には京に入り、近江坂本に難を逃
れた後醍醐天皇の軍勢(新田義貞・楠木正成など)と戦闘に入った。
尊氏はこの時点で楠木正成を目下の強敵と見ていたらしいが、実は正成以上の「リーサルウェポン」が急速に戦場に
近付いていた。
義良親王を奉じた、北畠顕家を大将とする奥州軍の精鋭部隊である。前年暮れに陸奥国府を発した奥州軍は、何と一
月中旬に坂本に到着したのだ。途中尊氏方の妨害もあったし、兵站の問題もあった。更に将兵の疲労も極限をとっくに
超えていたはずである。それが、進発後わずか20日余りで坂本に着到、時を移さず尊氏軍を押しまくり始めたのであ
った。
まぁ、当時の事を考えると普通は遠い奥州から援軍に来る、などとは考えられない。ましてや尊氏配下がもしもに備え
ていたのだから。しかし現実には、奥州軍を度外視した尊氏が、その高いツケを払う事になってしまったのである。
一月下旬の天皇方による総反撃で、尊氏は連戦連敗を喫して丹波に逃れ、更に山を越え、摂津から海路九州に逃れ
る事となった。尊氏はショックだったに違いないが、それでもただでは転ばない。二月上旬に持明院統の光厳上皇より
院宣を入手する事に成功、戦力再編を期して九州に向かったのである。

こうして尊氏が再起を期している頃、顕信は弟の顕能(あきよし)と共に伊勢に下向している。
父、親房の伊勢下向に従う形ではあったが、その時期については諸説ある。
「南方紀伝」という書物では、この1336年説が採られ、「櫻雲記」という書物は1335年説となっている。しかし、親房
は1333年から奥州軍西上まで、顕家の後見として奥州に下向していたのではないかと考えられる為、ここでは「南方
紀伝」の説に従いたい。
北畠氏はここから伊勢国司として活動を始める事になるが、伊勢下向の目的としては、

「伊勢湾岸に良港が多く、熊野や伊勢・志摩の水軍の協力を期待でき、海運力を確保できる」

「伊勢神宮の神官たる度会(わたらい)氏を始め、天皇方の豪族があり、これらを糾合する事で天皇方の基盤を固め
る」

といった事が挙げられる。
ここで北畠父子(親房、顕信、顕能)の中で、誰が国司に就任したのか、という事になるが、北畠氏の系図等を見ると、
どうやら親房ではないようである。となると、顕信か顕能か、という事になる。顕家は鎮守府将軍として奥州にいなけれ
ばならなかったから、自然とこの二人になってくるわけだ。
年齢からすれば親房が伊勢の国司に就任しそうなものだが、実際に国司に就任したのは顕信の方であったようだ。顕
能はこの時期ようやく元服した頃であったろうし、親房は実はこの時期出家の身であった。
親房は後醍醐天皇の信篤く、親王のひとり世良親王(よよししんのう)の傳役を務めていたが、世良親王は早世してし
まい、これに責任を感じた親房は38歳で出家、宗玄(そうげん)と号していた(一説には覚空とも)。
話を戻して、伊勢国司となった顕信は親房の後見を受け、伊勢の地固めに専念する事となる。
この時期の北畠氏の根拠地は、田丸城(現・三重県玉城町)であった。まずはここを拠点として北畠一族は各地に展
開、周辺を掌握しつつ城郭を整備していく。

さて、尊氏を京都から追い払う事に成功した天皇方だったが、その後がまずかった。
周辺の基盤を固める事もせず、側近の公家達はただ遊興に呆けるのみであった。同じくらい始末に終えなかったの
は、新田義貞の軍事的能力の低さであった。播磨の赤松則村(円心)を討伐に向かった義貞は、延元元年(1336年)
四月から五月にかけて則村の立て篭もる白旗城を攻撃したが、遂に陥落させる事が出来ずに終わってしまう。義貞
は、一説に天皇に仕える女官を下賜されて有頂天になっていた、と言われているが、それを差し引いても義貞の「指揮
官」としての能力には疑問が生じてしまう。
名和長年はこの時期山陰に帰っていて、当時最強の奥州軍を指揮する顕家も、国司不在で乱れていた奥州に帰って
いる。天皇方で近くにいた有力な武将は、この時期楠木正成か、新田義貞しかいなかったはずだが、義貞は上記の如
く赤松則村に翻弄されて釘付け状態となっていて、実際は正成しか天皇の側に有力武将はいなかったのである。
この時期正成は、尊氏が九州で態勢を立て直して再び京都に迫るのは明らかとして、義貞を地方に左遷し尊氏と和睦
するべき、と上奏する。しかし、天皇の側近達は真剣に受け止めようとはしなかった。
この間に、尊氏は九州に上陸、筑前多々良浜(現・博多)にて天皇方の軍を破り、短期間で九州の諸将を味方に付け
ると、一気に京都目指して進軍を開始した。
これを受けた御前会議で正成は、新田軍を呼び戻したうえで、一度京都を空けて尊氏を誘い込み、周辺の糧道を封鎖
して敵の疲労を誘い、頃を見て総反撃すれば壊滅出来ると上奏した。
京都を恒久的に確保するには、表面的な軍事力以上に、兵站能力と経済力が余程強力である必要があった。これは
歴史上何度も証明されている。
しかし、坊門清忠の頑迷な観念論「只聖運ノ天ニ叶エル故」に敗れる事なし、という台詞に周囲が同調し、天皇もまた
京都を離れる事を良しとしなかった。

この時期の顕信を始め北畠父子は、先に述べた如く伊勢の地固めに奔走していて、中央のこうした無益な議論からは
距離を置いていた。これは顕信にとって今のところ幸いであったろう。ただ、会議の結果は当然耳に入っていたはず
で、後見の親房、補佐にあたった顕能共々、暗雲を予感せざるを得なかったのではないだろうか・・・・・・。

楠木正成は、最後の上奏文をしたためた後、延元元年五月、摂津湊川において尊氏軍との戦闘の末討ち死にした。
「太平記」によれば、弟正季(まさすえ)以下一族13名、郎党50名余が共に自決したといわれている。
正成最後の上奏文は、以下の文にて締め括られている。ここでは読みやすく仮名ふられたものを引用してみたい。


「今度は君の戦必ず破るべし。
正成、和泉河内両国の守護として勅合を蒙る間、
軍勢を催すに、親類一族猶以って難渋の色あり。
何に況(いわん)や国の人民においておや。
是(こ)れ則(すなわ)ち、天下君をそむけ奉(たてまつ)る証拠なり」


・・・・・・後醍醐天皇は延元元年(1336年)五月末、京都を離れ比叡山に退いた。翌六月中旬、尊氏は持明院統の光
厳上皇、豊仁親王(ゆたひとしんのう・後に北朝の光明天皇となる)を奉じて再入京する。

またしても顕信メイン、というわけにはいかず、概略をひとつひとつなぞる格好になってしまった感がある。顕信をメイン
としながら南北朝をなぞるのはまだ先になるかもしれないが、何卒ご容赦頂きたい。
それにしても、今回これだけ書いてやっと半年分である。いかに当時の状況が複雑であったかが、充分想像できようと
いうものであろう。





第二章・延元(一) 了










※コラム内に登場する人物については、最終時に総括して掲載するので、しばらくはご容赦いただきたい。



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