第一章 延元迄 〜建武概略〜









北畠氏は中院(なかのいん)氏の一族で、村上天皇を祖とする「村上源氏」の一家として知られていた。中院家は公卿
の中でも「大臣家(だいじんけ)」の家格とされ、大納言までに進む事が出来た他、大臣が欠けた場合内大臣まで昇る
家柄でもある。
そして顕信は、時の北畠家当主、北畠親房(1293〜1354)の次男として生まれている。
生年は不詳とされているが、嫡男顕家が1318年(文保二年)生まれで、三男顕能(あきよし)が、生没年不詳とはいえ
1321年頃に生まれたと推定されている事から、少なくとも1319〜20年までの間に生まれたとみて良いのではない
かと思う。
当時の著名な人物に関してでさえ生年不詳の例が多く、また生没年すら定かでない人物もいる事である為、こういった
ところが全て推測になってしまうのは、仕方のないところであろうか。

さて、この「北畠三兄弟」が産まれて間もない1324年(元亨四年)に、いわゆる「正中の変」が起こり、更に1331年
(元弘元年・元徳三年)には「元弘の変」が勃発する。鎌倉幕府倒幕の気運は高まり、大和(現・奈良県)で大塔宮護良
親王が1332年(元弘二年・正慶元年)に決起すると、翌1333年(元弘三年・正慶二年)には「元弘の変」で隠岐に配
流された後醍醐天皇が、伯耆(現・鳥取県)の名和長年に擁されて脱出、河内(現・大阪府西部)では楠木正成が千早
城に決起、更に足利尊氏が幕府に叛旗を翻し、播磨(現・兵庫県南部)では赤松則村が旗を揚げ、関東では新田義貞
が挙兵して鎌倉を制圧、ついに鎌倉幕府は倒れたのであった。

政権を握った後醍醐天皇は早速、親房と、彼の嫡男たる顕家に奥州下向を命じている。
最初は難色を示した親房ではあったが、天皇直々の要請と言う事もあり、10月には顕家と共に義良親王(後の後村上
天皇)を擁して、奥州に赴任している。
当時の奥羽は、北条一族や恩顧の御家人達の残党が残っていて、更に地方豪族の所領問題も絡んで不安定な状況
にあった。親房や顕家の赴任には、これを沈静化して朝廷の基盤を確かなものとする狙いがあった。
この時期の顕信に関しての記録は無きに等しいが、この下向には同行せず、京都にいたのではないかと筆者は推測し
ている。顕信が「春日少将」と呼ばれた時期はいつ頃なのか、となると、やはりこの時期くらいではないだろうか。
奥州入りした顕家は、白河の結城宗広、伊達郡の伊達行朝、八戸の南部師行等の補佐よろしきを得て、奥州を少しず
つではあるが平定していった。赴任当時若干16歳であった顕家だが、公卿にして政戦両略に秀で、人格的にもよほど
誠実な人柄であったのであろう。彼等の心服なくして、顕家の奥州統治は成し得なかった。
もし、もう少し時があったなら、尊氏をもってしても揺るがないほど、奥州は顕家の下で磐石となったかもしれない。が、
天皇親政たる「建武新政」は、成立と同時に崩壊の一途をたどる運命にあった。

「建武新政」は、不慣れな公家政治が災いし、恩賞や政治形態の公平さを著しく欠くものとなった。当たり前だが、諸国
の武士達は激しい不満を抱いた。
当時は、ただでさえ「錐を打ち込む隙なし」と言われるほど武士や寺社などの所領が入り組んでいて、それこそ田んぼ
一枚の領有を巡って一族内で争いが起きるくらいだったという。
「一生懸命」という言葉があるが、これは元来「一"所"懸命」という言葉が変化したものである。
中世の日本は、近世、近代より人口も少なく開発も進んでいなかったから、文字通り「一所懸命の土地を巡る死活問
題」であったのだ。鎌倉幕府の時でさえ頭を悩ませた所領問題を、定見のない公家達が解決できるはずもない。
更に各地に潜む北条家の残党も、度々叛乱を起こしていた。

そうした中で、大塔宮護良親王が鎌倉に禁錮される事件が起こった。足利尊氏との政治的対立が原因と言われている
が、少なくとも建武新政権に大ダメージを与えた事は疑う余地もない。
その後、紀伊(現・和歌山県)飯盛山の叛乱を経て、鎌倉幕府最後の執権北条高時の次男、時行が北条家再興を期し
て決起する。世に言う「中先代の乱」である。1335年(建武二年)7月の事であった。
時行の軍に緒戦で敗れた足利直義は、鎌倉を逃れる混乱の最中に部下に命じて護良親王を殺害してしまう。
足利尊氏は、この乱において「征夷大将軍」としての関東下向を希望したとされているが、護良親王殺害の事で朝廷は
疑心暗鬼に陥っていたという。
結局征夷大将軍は、後醍醐天皇の皇子のひとりである成良親王となり、尊氏は勅命を得る事なく出撃し、北条時行を
破っている。ここで尊氏は自らの好むと好まざるとに関わらず、建武政権に不満を抱く武士達の頂点に立たざるを得な
くなった。
そして、新田義貞を箱根竹ノ下で破った尊氏は、そのまま追撃に転じて京都を占領する。尊氏の入京は1336年(延元
元年・建武三年)初頭の事であった。
この時、後醍醐天皇は近江(現・滋賀県)東坂本に逃れて尊氏と徹底抗戦の構えを取ったが、顕信がこれに従ったとは
残っていない。しかし、京都にいたとするならば、天皇に同道したと見て良いのではないだろうか。





ここまで鎌倉幕府滅亡後の、建武新政樹立から崩壊の過程を概略として見てきた。
読者諸賢の中には、この時期も含めて「南北朝時代」とする方も多いかと思われるが、この時点ではまだ両朝鼎立とい
う状態にはなっていないのである。
そしてこの時点で、コラムの主人公たるべき北畠顕信は、歴史の表舞台にすら登場していない。
しかし、これまでの状況を見ない限り、顕信が表舞台に登場するに至った背景は、到底理解できないであろう。
顕信がこの動乱の時代に姿を見せるのは、実は延元以降の事なのである。
次回からは、顕信の動向も見ながら、更に当時の状況を調べていこうと思う。





第一章 延元迄 〜建武概略〜 了










※コラム内に登場する人物については、最終時に総括して掲載するので、しばらくはご容赦いただきたい。



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