序章 〜通説〜



  

 
 
 
 
北畠 顕信(きたばたけ・あきのぶ)

果たして、何人の人が彼の名を知っている事であろう。
また、知っていたとして、いつの時代を生き、何をした人物か、あるいはいつ没したのか、果たしてどの位の事を知って
いる事であろうか?


・・・・・・かく言う筆者とて、彼がどれほどの人物であったのか、まるで気にも留めていなかった。
顕信が南北朝時代(鎌倉幕府滅亡後の、約60年に及ぶ動乱の時代。室町幕府がこの頃開府している為、室町時代
初期と見ても支障は無い)に生きた人物である事は知っていたし、奥羽を転戦した事も知ってはいた。
知ってはいたが、逆に言えばせいぜいその程度しか知識がない、という事でもある。
南北朝で有名な人物といえば、後醍醐天皇や足利 尊氏・直義兄弟、楠木 正成・正行父子、新田 義貞が始めに挙
がる事だろう。
更にこの時代に惹かれた人であれば、赤松 円心(則村)や佐々木 道誉(高氏)、大塔宮護良親王、北畠 親房(顕
信の父)・顕家(顕信の兄)父子、高 師直・師泰兄弟、さらには征西宮懐良親王あたりまで挙げる事が出来るかもしれ
ない。
「徒然草」で知られる吉田 兼好も、この時代の人という。
顕信の名は、こうした人物達の影にともすれば隠れがちになってしまう印象があるのだ。
では、今回コラムに取り上げた北畠 顕信が、日本史の中でどう見られてきたのか、あるいはどう見られているのか、
ふたつの例を挙げてみたい。





「北畠顕信=春日少将と称す。春日の地に住するを以って名付く。親房の子。延元元年(1336年)後醍醐天皇華山院
に在らせらるる時、兵を伊勢に起し、ひそかに興復を図らんと奏請し、天皇吉野に潜幸し給ふ。三年(延元三年・1338
年)春、兄顕家に従ふて土岐頼遠を青野原(後関ヶ原と呼ばれる)に破り男山(現京都府八幡。男山八幡がある)に拠
る。高師直来り攻む。相持する数月、天皇兵遣はして之を救ふ。敵兵急撃、城中資料(この場合食糧、物資)尽き、遂
に顕信河内に走る。
尋で近衛中将に転じ、従三位に叙し、兼陸奥介鎮守府大将軍と為る。父親房と義良親王(のりよし・しんのう)を奉じて
陸奥を鎮守し、東国の官軍を総督せんとす。会々(たまたま)海風に遇ひ、顕信、親王と与(とも)に伊勢篠島に漂到
す。親王遂に行在(あんざい)に還られ帝位に即き(つき)給ふ。後村上天皇と称す。
天皇顕信に勅して恢復(回復)を図らしめる。興国四年(1343年)、宇津峰宮(うづみねのみや・皇族に連なる親王の
一人だが、詳細は不明)を奉じて陸奥に留まる。正平二年(1347年)、結城顕朝来り攻め、顕信敗走す。後遂に吉野
に還る。正平十四年(1359年)征西大将軍懐良親王(かねよし・しんのう)に従て、少弐頼尚を筑前大原(福岡県大保
原)に討ち戦没す。官中納言に至る」





「きたばたけあきのぶ 北畠顕信(?〜1380、?〜天授6・康暦2)
南北朝時代の公卿・武将。親房の次子。左近衛少将となり、春日少将と称した。1335(建武2)年足利尊氏が背き、
翌年後醍醐天皇が京都花山院に幽閉されると、伊勢にて挙兵し天皇を吉野に還幸させた。1338(延元3・暦応1)年
兄顕家と共に摂津・河内・和泉に転戦。ついで陸奥介鎮守大将軍となり、父と共に義良親王を奉じて東国下向を計画し
たが、暴風によって伊勢に吹き戻され、吉野に帰った。翌年再び奥州に下向し、多賀国府に入ろうとしたが敵軍に阻ま
れ、常陸関城(茨城県関城町)の父親房と呼応して奥州に転戦した。父の帰還後も霊山(福島県霊山町)や宇津峰城
(福島県須賀川市)によって奮戦したが利あらず、ついに吉野に帰った。のち大納言・右大臣に任じられた」





前者は戦前の通説、後者は戦後の通説を引用させていただいた。
戦前と戦後において、顕信に関する記述は上記のごとく変化している。
前者では1359年戦死とされ、後者では1380年没となっているとはどういう事であろう?
これは、南北朝時代の研究が戦後に大きく進んだ証左でもあるが、ここ最近の研究や資料の公表などにも関わらず、
実際のところ顕信の事跡については未だに分かっていない事が多いのである。
また、南北朝時代は「太平記」による知識がほとんどであるのと、戦前の勤皇論争によって大きく歪められた側面も持
っている為、非常にとっつきにくい時代である事も事実である。

そこで、筆者はいくつかの資料を基にして、「北畠 顕信」という歴史上実在した人物を通した南北朝を追ってみたいと
思う。

果たしてどこまで迫れるかは分からないが、迫れるまで迫ってみたい。
これを読んだ方が、共に歴史の不思議を少しでも感じていただければ、まことに幸いである。

では暫らくの間、筆者にお付き合いいただきたい。





序章 〜通説〜 了



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