コラム(9)




植民地支配の落とし子・フィリピンのゲリラ活動





ここでは、フィリピンにおける現地人ゲリラの存在に焦点を当ててみたい。
と言ってもさほどの資料があるわけでもないので、ごくごく簡単に触れるのみである。

「レイテ戦記」(大岡 昇平著・中公文庫刊)によると、フィリピンにおけるゲリラの歴史は大航海時代を端緒とするらし
い。大航海時代のフィリピンというと、セブ島において、マゼランという名で知られるフェルディナント・マガリャネスが、現
地の民に殺害された、という出来事が残っている。

その後フィリピンはスペインの植民地になっているが、米西戦争後は宗主国がアメリカに変わり、やがて第2次世界大
戦を迎える事となった。開戦直後の昭和16年末、ルソン島などに上陸した日本軍は、マッカーサー将軍率いる米・比
連合軍を破ってフィリピンを手中にする。
以後、昭和19年まで、日本軍はフィリピン全島を勢力圏内においていた・・・・・・。
以上が、昭和19年に始まる「比島決戦」以前の、フィリピンのごくおおまかな歴史である。
この概要には重要な意味が隠されている。では、一体何が重要なのか。

まず、フィリピンの歴史が「植民地"被"支配者」の歴史である、という事。
もうひとつは、日本軍がフィリピンを「解放」ではなく「占領」した事。

この事がまず頭になければ、何故フィリピンにおいて「抗日ゲリラ」が活動する事になったかを理解するのは、日本人の
頭では実は難しい。
最初の宗主国スペイン、次のアメリカ。そして日本。本来であれば同じアジア民族である日本がひいきされてもいいよう
に思われるかもしれないが、実際はそうではなかった。
スペインは、フィリピンを支配するに当たって、基礎的な町を造り、対外航路を開き、キリスト教という宗教を布教する事
で、その搾取の見返りとした。
米西戦争において、フィリピン宗主国の座をもぎ取ったアメリカは、さらに大掛かりに、港湾事業や交通網の充実を図
るなどして影響力を保持し、さらにはフィリピンに自治国としての権限も添える事で、極東(と言うよりは"極西"と言うべ
きか)戦略でのフィリピン支配を正当化していた。やがてマッカーサー将軍というフィリピン政府にとっての「スポンサー」
が現れ、この図式は一層強化された。
では、日本はどうであったのか。
多少歴史、特に昭和史を少しなりともかじっている方にとっては周知の事であろうが、アメリカ軍を破った日本は「フィリ
ピンに対し、何もしなかった」のだ。いやそれどころか、占領者として驕り高ぶり、度々「徴発」と称して食糧や物資、あ
げくは人間まで略奪し、経済観念も何も無い軍政は天文学的なインフレを招来させたのである。

「スペインやアメリカは、ただ搾取するだけではなく、それなりの恩恵ももたらしてくれた。しかし一体、日本は自分達に
何をしてくれたというのだ?」

「謙虚さ」を持たず、ただただ軍の威光をかさに自分達現地の民を見下す、我儘で野蛮な民族。
・・・・・・これが当時の「日本人に対する彼等の本音、評価」であった。
まったく耳の痛い話ではないか。これをどこぞの政治的中心地に置き換えると、どうだろう?

ルソン島における親米抗日のゲリラ組織を、マッカーサー将軍は簡単とは言えないにしても作り上げた。そしてミンダナ
オ島に連絡将校を残して情報疎通を確保する。
そして自身は、かの「I Shall Return」という名セリフを、フィリピン国民に刻み付けたのだ。
この一事を見る限り、政治的にも戦略的にも、日本は完全に「敗北」していたと言える。

「ルソン島にはゲリラが50万いた」とは、実際にルソン戦を戦った故・河合 武郎氏が著書「ルソンの砲弾」(光人社NF
文庫刊)に記した一節であるが、実際程度の差は違えども、ほぼ全フィリピン人が旧軍の言葉を借りれば「敵性住民」
であった。わずかに「ガナップ党員」と呼ばれた小数のフィリピン人が、親日の立場を取っていたに過ぎない。
とはいえ、ゲリラ組織が一枚岩であったかというと、必ずしもそうとは言えなかった。まだ日本軍が完全に主導権を奪わ
れていなかった内は、ゲリラ同士の勢力争いもあったそうである。特に宗教がからむと、こうした争いは際限がなくなる
のが相場で、ムスリムの多いミンダナオ島をはじめ、フィリピン中・南部ではこうした「内部抗争」が度々起きていたとい
う。
しかし、米軍は日本軍を「共通の敵」とする事でゲリラをまとめ、情報伝達や武器供与を行ってきたのである。
やがて昭和19年、米軍の反攻が本格化するに従い、フィリピンのゲリラ組織も活動を活発化させていく。彼等は、手が
出せないと思うところでは従順な市民として振る舞い、いざチャンスとみるや、不意討ちをしかけてきた。
後に米軍がベトナムで嫌というほど味わう"不正規戦"を、日本軍はフィリピン各地で目一杯味わう羽目になった。
一般市民を装い拳銃や手榴弾を忍ばせているゲリラを見分けるのは、まず不可能である。
それだけに、愛想良い彼等の招きに応じてそのまま消されてしまう者がいたり、少数の部隊で移動しているところをい
きなり襲撃される事件が続発した。
米軍がレイテ島に上陸して以降、ゲリラ活動は頂点に達し、各地で日本軍の被害が増大していく。
さらに日本軍の情報は、細大もらさずゲリラ達によって米軍に伝わるから、マッカーサーは後にこんな事を言ったそうで
ある。

「これほど楽な戦争は初めてだ」

・・・・・・ルソン上陸に際し、米軍はいくつもの欺瞞作戦を行っているが、ゲリラ活動もその一環に加えられていた。特に
活動が活発だったのは、マニラ南方のバタンガス州などのルソン島南部である。
当時、バタンガス州には「振武集団」の中核部隊、「杉(スギ)兵団」こと第8師団所属の歩兵第17連隊(秋田出身の兵
士で構成)が展開していたが、ゲリラの襲撃で被害が増すと、当然ながら放って置くわけにはいかなくなった。容疑者を
逮捕し尋問する。恐らく、いや確実に拷問が容疑者に加えられた事であろう。憎悪は連鎖し、襲撃に掃討作戦で報復す
ると、その掃討に襲撃で報復する・・・・・・。
これは、ついこの間の中東そのものだ。
被害の増加を憂えた時の連隊長、藤重 正従(ふじしげ・まさみち)大佐は、部下を守る為に以下の命令を下す事とな
った。

「ゲリラを放置しておくならば、我々は米軍より先にゲリラにやられてしまう。目には目を、歯には歯を、だ。"責任は全
部俺が取る"から積極的にゲリラを討伐せよ」

連隊は動いた。ゲリラ討伐の為に。近在の村々は作戦の目標となり、老若男女問わず、村ごと掃討されていった。繰り
返しになるが、連隊将兵にゲリラかそうでないかなど、選別できるわけも無い・・・・・・。

比島決戦が始まると、日本軍は米軍に叩きのめされ、内陸部に追い詰められていった。しかしそこもまた安全ではなか
った。それどころか、地勢を知るゲリラ達の襲撃があって、とても落ち着けるものではなかったのである。敗残の小部隊
単位で、ゲリラに皆殺しにされる日本兵は後を絶たなかったし、終戦後も米軍の武装解除を受けるまでの間に、ゲリラ
の山狩りで多数の犠牲者が生じたといわれている。

やがて軍事裁判が始まり、日本軍のゲリラ討伐が「無辜の市民を虐殺した」として、指揮官を含む多くの日本軍将兵が
戦犯容疑にかけられた。歩兵第17連隊長の藤重大佐は、「責任は全部俺が取る」と言った言葉通り、連隊将兵の「戦
争犯罪」を背負って処刑された。歩兵第17連隊では、同罪で幹部将校が多数刑死したという。連隊総員約2400名
中、生存者は約970名であったそうだ。

ゲリラは米軍の援助もあって、遂に勝利を収めた。
しかし日本軍が去った後、フィリピンは新たなる一歩を踏み出したかに見えたが、政治的混乱と経済の低迷、そして宗
教や貧富の差などといった社会的問題を解決する事は出来なかった。
駐留米軍の存在は、表面的にはフィリピンの国庫を潤しているかに見えたが、結局国家としての成長は著しく立ち遅
れ、米軍も撤退した今、フィリピン政府はまさしく正念場を迎えている。
南部では、かつて共に日本軍に立ち向かったキリスト教徒とムスリムが、戦後再び対立を始め、それは終戦後60年近
く経過した現在においても、未だ解決していない。
現在、我々日本人は、フィリピンといえば首都のマニラやリゾート地のセブ島を連想するであろう。しかし、かつて彼の
地があまねく戦場であり、彼の地で戦争により命を失った人達がいる事を、そして今も戦争の痕が残っている事を、決
して忘れてはなるまい。





フィリピン。
そこは悲劇の島、「悲島」と呼ばれた場所である・・・・・・。





コラム(9) 植民地支配の落とし子・フィリピンのゲリラ活動 了



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