ルソン島の戦いの中にあって、北部の戦闘やマニラ周辺の戦闘以上に目立たず、資料も少ないのが、クラーク地区を
受け持った「建武集団」である。
今回は、この建武集団について少し触れてみたい。
第14方面軍は、ルソン島守備の為に3つの集団を形成していた。
主力の「尚武」、マニラ周辺を担当する「振武」、そしてクラーク地区を担当する「建武」である。
建武集団の守備範囲は、マニラ北方の「クラークフィールド飛行場群」とその周辺であり、彼等の目的は、この一大飛
行場群の守備だった。もう少し言えば、来るべき米軍の飛行場使用の妨害と、マニラ突入の遅滞が目的である、と言う 事が一応はできよう。
だが、編成当初から暗雲はたちこめていた。
元々の守備部隊であった、戦車第2師団「撃(ゲキ)兵団」がリンガエン湾守備に引き抜かれた為に、以下の戦力で戦
う事を余儀なくされてしまう事となったのである。
「建武集団」集団長・塚田 理喜智(りきち)中将(第1挺身集団長兼務)
第1挺身集団「鸞(ラン)兵団」司令官・塚田 理喜智中将 ※1
永吉支隊(第10師団所属歩兵第39連隊基幹・指揮官 永吉大佐) ※2
機動歩兵第2連隊主力(指揮官 高山中佐・戦車第2師団より)
マニラ陸軍航空廠主力(指揮官 植山少将)
第2航空通信団(指揮官 藤沢少将)
他、陸海軍の航空整備兵、通信兵など諸部隊
※1 注・第1挺身集団は特攻部隊ではなく、現在で言うところの「空挺部隊」である。当時ルソン島には、指揮下の第2
挺身団(主力は昭和19年12月6日、レイテ島に降下。"高千穂空挺隊"の呼び名で知られる)の残置部隊などがあっ た。
※2 注・永吉支隊はバターン半島の防衛を主任務とし、書類上は建武集団指揮下であったものの、実質的には独立
行動部隊である。
兵数としては約3万名に達した集団であったが、その内訳は、以上の雑多な部隊の「寄せ集め」である。
まともな重武装といえば、わずかな戦車と高射砲(当時クラーク地区には22門あった)、20o高射機関砲(約50門)く
らいのもの。戦闘部隊でない彼等は、それでなくとも小銃すら満足に行き渡っていなかった。大体が4人に1人の割合 でしか小銃を持っていないなど、本当にお寒い限りである。それでも整備兵達は、破損した航空機から機銃を降ろした りして、武器を確保する努力をしていた。
ルソン戦に限った上で見てみると、どう考えても「レイテ決戦のツケ」が全て、「建武集団」に回ってきたように思えて仕
方がない。人材の適用という観点を度外視した、元々無理矢理な編成であったのだ。
急遽編成された「建武集団」にとって最も致命的だったのは、集団を率いる司令官が、当初決まっていなかった事であ
った。
第1挺身集団長の職にあった塚田中将が、急ぎルソンに到着して「建武集団」司令官に就任したのは昭和20年1月8
日。
何と、米軍のリンガエン湾上陸の前日である。いくらなんでも、これでは"まともな準備"など出来ようはずも無い。基本
的に軽装備の空挺部隊や、戦車の援護を期待できない機動歩兵、頭数だけ多い整備兵や通信兵の雑軍で、完全装 備の米軍に真っ向から当たればどうなるであろう?さらに言うと、クラーク地区は平原地帯なのである・・・・・・。
「第14方面軍が"何故建武集団を編成したのか"理解に苦しむ」と、ある史家が評したのもうなずけよう。
・・・・・・昭和20年1月下旬。
「建武集団」は、リンガエン湾の戦線を突破した米軍と衝突、5日間の戦闘で多数の将兵を失った。集団の将兵は、ク
ラーク地区西側にどうにか準備していた複郭陣地まで後退、更に戦闘を継続したが、この時点で集団の存在意義はま ったく無くなってしまっていた。
クラーク地区飛行場群が米軍に完全制圧されたのは2月5日。すでにこの時、マニラ市街戦は始まっていたのである。
集団将兵は、やがてピナツボ山を有するサンバレス山系に追い詰められ、ゲリラ戦を余儀なくされる。比島決戦では多
くの日本軍将兵が、戦闘よりも飢餓やマラリアなどの病気で命を落としたが、「建武集団」も例外ではなかった。米軍は ボロボロの「建武集団」には目もくれず、1個師団を"押さえ"として展開させただけ。集団は、放っておいても自壊する だけの存在になってしまっていた。
もはや組織的戦闘が不可能となった4月下旬、塚田中将は指揮下各隊の指揮官に、共に苦闘した事を感謝した上で、
「以後各自ニテ行動、自戦自活スベシ」
という主旨の命令を下した・・・・・・。
さて話は変わるが、自分は以前ある書籍を読んでいて気になる文面を見つけた。
うろ覚えで申し訳ないが、大体以下の様な主旨の文であったと思う。
「建武集団に加わっていた整備兵などの将兵は、いずれもがそれぞれの分野におけるプロフェッショナル達であった。
内地に戻す事さえできれば、兵力再建に役立ったはずである」
文面の前半は、自分も同意するところ大である。しかし、後半に関して言うならば、失礼を承知の上で「ちょっと待ってく
れ、何を今更」と言わざるを得ない。
当時、比島の陸海軍の航空部隊は未だ航空戦闘(後には、特攻作戦が主になってしまったとはいえ)を継続していた。
つまり動く航空機がある限り、たとえ制空権を奪われていようが、彼等もまた「戦っていた」のである。
しかも、"退く事すら彼等には許されていなかった"事は、少しでも当時の日本軍について知る者であるならば、分から
ぬわけがないはずだ。
もう一つ。米軍は陸軍がミンドロ島に航空部隊を展開させ、海軍は第3艦隊(ハルゼー提督指揮の機動部隊)が、昭和
20年1月下旬南シナ海に殴り込みをかけ、片っ端から各地の日本軍艦船を攻撃していくなど、まさにやりたい放題の 情況を呈していた。
要するに、ルソンの日本軍は袋小路に追い詰められていたも同然であったのだ。だいいち、マニラ陥落後にルソンから
台湾に脱出できた航空関係者(ほとんどが航空機搭乗員であった)ですら、ほんのわずかであったのに・・・・・・。
整備兵のみならず、陸海軍の搭乗員達でさえ、その多くが蒼空に舞う事すら許されず地上に屍を晒したのだ。それを
知らないとは言わせない。
ましてや、内地ですら足元に点いた火を消せない状況で、何が「兵力再建」であろう?
そもそもそんな事を言うのであれば、定見もなく軍人将棋の延長みたいな軽い気持ち(でなくともそれに近い精神構造)
で戦争を始めた者達こそ、断じられてしかるべきではないのか?
彼等を惜しむ気持ちには、繰り返すが同意するところ大である。
だからこそ、当時真に求められたのは「戦争を起こさぬ努力」のはずではなかったのか?いや、それは今も変わらず求
められているのではないのだろうか?
・・・・・・ここでひとつ書き添えておきたい。
塚田中将は空挺部隊に関する第一人者として内地にあったが、部下を死地に送って自分が内地に留まる事を、いさぎ
よしとしなかったといわれている。
そして全滅する為に来たようなルソン島で、山下大将から「建武集団」司令官としてクラーク地区を守備せよ、と命じら
れた時、少しも不平を顔に出さなかったそうだ。時に上官に"かみつく"事もあったという塚田中将にとって、この戦いは どのような"意味"を持ったのであろうか?
塚田中将の本心を推し量るのは難しい。しかし、少なくとも「塚田 理喜智陸軍中将」という将官が「建武集団」と共にあ
り、終戦を迎えた事は確かである。
編成当初、約3万名を数えた「建武集団」。
終戦時の生存者は、僅かに約1300名程度であったという・・・・・・。
コラム(8) ルソン決戦に埋没した「建武集団」 了
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