第7話


Written by タケ


「俺は、言葉にされない真実を言っているのだ。戦争の哀れさ、戦争が生んだ哀れさを。さあ、人々は俺達が"駄目にし
たもの"で満足するのだ。まだ満足しないなら、"血の海"というわけだ」
―ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」―

「全ては記録が物語っている。後味の悪い雄弁さを以って」
―フランク・リール 米陸軍大尉時代、マニラ軍事裁判における山下大将弁護団の一員―

「おまえの為に生き、おまえの為に―」
―グスタフ・マーラー―










"悲島"の記憶・第7話





 ・・・・・・戦争は終わった。
 昭和20年8月15日の事である。
 しかし、前線に終戦の情報が届くのが遅れ、実際にルソンでの砲声が止んだのは、翌16日午後の事だった。
 8月19日から25日にかけて、サイゴン(現ベトナム・ホーチミン)の「南方総軍司令部」からは停戦と、それに関連し
た命令が、フィリピンの日本軍将兵に下令された。
 しかし、連絡手段の不備などから命令が届かなかった所もあり、例えばルバングという島で、その後30年余りも「戦
い続けた」小野田 寛郎(おのだ・ひろお)少尉のエピソードは、有名である。
 8月31日、山下 奉文(やました・ともゆき)大将は米軍の出頭要請に応じ、プログ山の陣地を降りて行った。
 バギオで降伏の調印式が行われたのは、昭和20年9月3日、0930時の事である。

「そうか・・・・・・。ご苦労さん」
「はっ、では、次の場所に行かねばなりませんので」
「うん、気を付けて行け」
「はっ、ありがたくあります」
 敬礼を交わすと、伝令兵は己が任務を果たす為に森の奥へと進んで行った。
「フウ〜ッ・・・・・・」
 大きなため息が一つ出てきた。
 戦争は終わった。しかし、本当に終わったのだろうか?まぁ、いい。
 神咲少尉は、疲れ切った身体を倒木に腰掛け、首を心持ち前に倒した。
 何一つ考えられなかった。
 小島上等兵も白瀬一等兵も、やはりボロボロの身体を地面に座らせて言葉も無い。
 "生き残った"という実感が、どうしても湧いて来なかった。
「・・・・・・"最後の光景"・・・・・・か・・・・・・こんなものなのかな」
 軍帽を取って、空いた右手で額を揉む。疲労がどっと押し寄せてきた。
 もう一度、今度は空腹も手伝って大きなため息がこぼれ出た。

 上級部隊たる「旭(アサヒ)兵団」こと、第23師団の命令により、師団所属部隊の下山が始まった。
 9月13日、神咲の所属する歩兵第71連隊は米軍に投降、武装解除を受けた。
 下山前に連隊旗が奉焼された時、将兵の中には涙を流す者が多かった。だが、神咲は泣かなかった。というより、泣
くにはあまりにも"冷ややかな何か"が、神咲の内心を支配していた。

―我々は、「旗」の為に戦った、とでも言うのだろうか?あの「旗」の為に、谷山も、平も、月沢も、いや、部下達も、ここ
で散った兵達も無惨に生命を散らしたというのか?―

 「何かが間違っている」・・・・・・そんな気がして仕方が無かった。
 軍旗が燃える。灰になっていく・・・・・・。
 その後の武装解除でも、没収される武器を未練に見詰める者がいたが、神咲はもう、軍刀に何の未練もなかった。 
あの時、別にこうなるであろう事を予感したわけではなかったが、やはり「十六夜」を和音に託して良かった。改めて、そ
う思う。
 いずれにせよ、全ての武器を渡して、神咲はかえって気が楽になったように感じていた。
 下山途中、神咲は山名一等兵との再会を果たしていた。キャンガン以来、数ヶ月ぶりの再会である。だが、久々に会
った山名は、足から膿が流れ出て、しかもマラリアにも侵されたのか、髪の毛も抜けてやせこけた姿となってしまってい
た。
 一人では歩けないのか、衛生兵に支えられてようやく歩いている。
「よくぞ、生きていてくれたなぁ、山名ぁ」
「・・・・・・は、はい。しょ、少尉殿、も、ご無事、で・・・・・・」
「もういい、もういい、山名、もう少しの辛抱だ。頑張って生きるんだ」
 神咲は、それ以外に言葉のかけようがなかった。
「・・・・・・はい、あ、ありがたく、あります」
 山名は、力無く答えた・・・・・・。

 北部ルソンで降伏した将兵は、マニラ南方、ラグナ州の「カンルバン収容所」等に収監され、その中でも将官や現地
人の対日協力者は、マニラの南約30qの地にある「ニュー・ビリビット刑務所」に収容された。後に、「ああ、モンテンル
パの夜は更けて」という歌にも歌われた"モンテンルパ刑務所"である。
 やがて山下大将は、マニラや、それ以外のフィリピン各地における日本軍将兵の残虐行為に対する責任を問われ、
戦犯容疑を受けた後軍事裁判にかけられた。
 その後の調査で、検察側の言う「残虐な行為」に、山下大将は全く関与していないばかりか、許容すらしていなかった
事、各地で連絡すら取れずに、孤立した日本軍将兵が暴発した事が、この様な事態を引き起こした事が分かったが、
 東京に進出していたマッカーサー元帥は、自分に逆らい、「英雄への道」に水を差した山下大将を、決して許そうとは
しなかった。
 戦後の日本に大きな影響を与えた元帥は、自身の命令で「愛していたはずのマニラ」を瓦礫の街に変えた元帥は、
「全てをヤマシタのせいにする」事で自分のプライドを満足させようとしたのであろうか?フィリピンでの日本軍の残虐な
行為は、多くが事実であった。その「行為を行った者」を裁くのは、むしろ当然である。しかし・・・・・・。
 少なくとも、マッカーサー元帥にとって、山下大将の「弁護団」などというものは、元々必要なかった。
 昭和20年12月7日。アメリカの「開戦記念」の日。
 最後まで裁判を傍聴した連合国(米・英・豪)記者団12名が、「山下大将を死刑にすべきか?」という質問に全員
「NO」と答えたマニラ軍事裁判における、山下大将への判決が言い渡された。

 絞首刑。

 昭和21年2月23日。0302時。
 山下大将は最後に、
「天皇陛下の御長寿と永遠の御繁栄をお祈りします」
と言い残して、永久に還らぬ"旅路"についた。

 待てしばし 勲(いさお)残して逝きし友 後な慕いて 我も逝きなむ

―山下 奉文陸軍大将、享年61歳。

 2月25日になって山下大将の処刑を知った日本軍将兵は、誰が言い出したともなく各収容所の広場に集まり、1分
間の黙祷を捧げた。

 約1ヵ月半後、フィリピン攻略を指揮した本間 雅晴(ほんま・まさはる)中将が、バターン半島における「米軍捕虜"死
の行進"」の責を問われ、銃殺刑に処された。
 マッカーサー元帥は、自分のプライドに傷を付けた者に対する「復讐」を、こうして完遂したのだった・・・・・・。

 神咲が、山名一等兵の死を知ったのは、山下大将への黙祷の日から間もない、ある日の事であった。足の腐敗が進
み、マラリアにも侵された身体が、ついに回復する事はなかったという。
 神咲は塀の中から、窓を通して差し込む日の光を見詰めつつ思う。
 一体、俺達はこの地で何をしたのだろう?
 「比島決戦」とは、詰まるところ何だったのだろう?
 多くの犠牲と引き換えに、俺達は、米軍は、この地に住まう人たちは、何を得たというのだろうか?
 塀の窓から空を仰ぐ。青い空は、何も応えてくれない。
 ふと、戦死した、いや凶弾に倒れた竹下少尉の事を思い出した。
 以前彼は、何とかいう作品の一節を口にした事があった。

「この世なるものは、なべて虚像の如し」

 そして竹下少尉は、こうも言った。それでも俺達は生きなきゃならんし、この世は全て現実なんだよなぁ、と。
 ふん、と神咲は鼻息をついた。
 死者にとって、この世が「なべて虚像」であっても、生者にとってこの世は「現実」。
 生き残った者には「これからを生きる責務」がある。
 なら、自分はどうだ?「神咲一灯流」を継ぐ、継がぬは別にして、神咲家の者として自分にはやはり、「これからを生き
る責務」がある。だとすれば、自分の果たすべき最初の責務とは、一体何だ?
 ・・・・・・決まっている。決まりきっている。愛しき妻の、和音の待つ神咲家に「帰る」事だ。
 何だ、簡単な事じゃないか。
 笑いがこみ上げてきた。笑った。周りの目を気にせずに心から笑ったのは、本当に久しぶりの事だった。

 フィリピンにおける日本軍将兵の復員が許されたのは、昭和21年夏以降の事だった。
 神咲は、復員船となった駆逐艦の構造物に背を預けて座り、遠ざかるフィリピンの島影を眺めていた。
 知らず、神咲の口から歌が紡ぎ出される。それは、即興の軍歌の替え歌だった。

ここは、御国を何百里
離れて遠き、比律賓の
赤い夕日に、照らされて
戦友(とも)は、草生す土の下

 聞くとはなしに歌を聴いていた者達が、堪えきれず嗚咽を漏らし始める。

肩を抱いては、口癖に
どうせ、命は無いものよ
死んだら、骨を頼むぞと
言い交わしたる、皆が仲

 小島上等兵も、白瀬一等兵も、泣いていた。
 神咲は、二人を両脇に抱え込み、歌い続ける。

思いもよらず、我等のみ
不思議に命、長らえて
赤い夕日の、比律賓に
戦友(とも)の塚穴、掘ろうとは・・・・・・

 皆、泣いていた。歌を聴いていた者は、皆・・・・・・。

 神咲小隊はこの時、上官と部下、戦友を超えて、確かに「家族」となっていた。

 "悲島"が遠ざかっていく。
 ルソンの峰が、島影が・・・・・・遠く、霞んで・・・・・・見えなくなっていく・・・・・・。





「お世話になりました」
「少尉殿も、お元気で」
「ああ、二人とも、元気でな」

 鹿児島。
 無事生還を果たした神咲、小島、白瀬の三人は、万感の思いを込めた敬礼を交わすと、それぞれの道へと別れてい
った。
 周りでは、やはり復員を果たした将兵とその家族が、再会を喜び合っている。しかし、未だ還らぬ者を待っている家族
もいる。
 帰って、落ち着いたら、小隊の戦死者の家族の元を訪ねよう。たとえ、時間はかかろうとも。
 人いきれを抜け、家路へと続く道に一歩踏み出した、その先に―

「・・・・・・・・・」

 愛して止まない妻の姿が、そこにあった。気丈にも、微笑みすら浮かべて、そこに立っている。
 神咲は、自分が「忘れてしまったもの」に、心が強く衝き動かされるのを感じた。眼が潤む。
 ゆっくりと和音の正面まで歩く。視界が少しずつ霞む。
 正面で立ち止まり、
「和音」
 妻の名を呼ぶ。
「今、帰ったぞ」
 自分の声が、情けなく震えている。
「お帰りなさいませ」
 和音が深く、頭を下げた。そのまま細かく震え出す。
「和音・・・・・・!?」
 路面に落ちた滴。神咲がそれを涙だと思う間も無く、和音が頭を上げた。
 安堵と嬉しさと、それまでの寂しさと・・・・・・。涙が頬を濡らし、全てがない交ぜにになって、和音の表情はくしゃくしゃに
なっていた。
 和音はそのまま、

「あなたあっ!!!」

 夫の胸に飛び込んだ。そのまま泣きじゃくる。
「うあっ、あっ・・・・・・あなたぁ・・・・・・ぐすっ、うっ、うあああああああっ」
 神咲は和音の髪の毛を撫でる。
 自分が「忘れていたもの」が、目尻から流れ落ちた。
 ああ、涙が、涙が、流れる。
 和音は夫の胸に顔を埋め、親との再会を果たした迷子の子供の様に、ただ泣き続ける。
 そんな妻が、愛しくてたまらなかった。
「うくっ・・・・・・あなた?」
「うん?何ね、和音」
「もう、ひくっ・・・・・・もう、うちを、うちを、置いて行かんね?」
「和音・・・・・・・・・」
「ひくっ、もう、うちを・・・・・・ぐすっ、うちを"一人"にせんね?」
 飼い主にすがる小動物の様な、そんな頼りない瞳の和音を、神咲は初めて見た。
 狂おしい程愛しさがつのる。和音、もう、もう・・・・・・。
「もう、おはんば、離す事は無か。和音、"薩摩隼人"に、二言は無かぞ」
「うん、うんっ・・・・・・うあ・・・・・・うああああん・・・・・・」
 いつまで経っても泣き止まず、夫に抱きついたまま離れない妻。
 その妻を抱き締め、やはり涙で顔を濡らす夫。
 しばらくして、神咲は妻に優しく声をかける。
「さあ、涙拭かんね、和音。良か女子が台無しじゃ」
「あなたも・・・・・・ぐすっ、良か"にせぶい"(鹿児島弁・いい男ぶり)が・・・・・・」
「くくっ、はは、あははは・・・・・・」
「ぐすっ、うふっ、ふふふっ・・・・・・」
 ひとしきり笑い合うと、和音は夫から一旦身を離して涙を拭い、本来の快活な声で夫に呼びかけた。

「さぁ、あなた、戻いもんそ、家に」

「・・・・・・ああ!」





 神咲陸軍予備少尉の「太平洋戦争」は、こうして幕を閉じた。
 その後神咲は、ルソンにおける出来事を、妻以外の誰にも話す事は無かった・・・・・・。





比島決戦参加総員(陸・海軍) 約63万名


総戦没者数 約50万名


第23師団「旭(アサヒ)兵団」延べ参加総兵数 約3万名
内生存者 約5000名


第23師団所属歩兵第71連隊「旭(アサヒ)第1125部隊」延べ参加総兵数 約5500名
内生存者 約600名





"悲島"の記憶・第7話 了



戻る
戻る