第6話


Written by タケ


―その時、天使が天からアブラハムに叫んだ。
「子供に手をかけてはいけない、何もするな。見よ、角を生やした牡羊が生け垣にぶら下がっている。息子の代わりに
誇り高い牡羊を捧げ物にするのだ」
だが、老いた男はそれを望まず、彼の息子を殺した―
―ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」―

「ソレデモ、戦争ハマタ、同胞ノ命スラ断ツコトヲ許ス」
―ある陸軍中尉の回想―










"悲島"の記憶・第6話





 彼等は、何も知らないまま戦っていた。
 広島と長崎に原爆が落ちた事も、ソビエト連邦が宣戦布告し、満州に侵攻した事も、政府が「ポツダム宣言」を受諾し
た事も・・・・・・。
 日は昇り、沈み行く。
 時間が止まったかのようなルソンの森の中で、彼等は"ただ生き延びる為"だけに戦い続けていた。

 神咲少尉が、それまで全く行方が分からなかった部下と再会したのは、食糧を捜しに出てしばらく歩いていた、丁度
その時だった。
 大木の根元に寄りかかって尻を突き、足を投げ出していたその男は、神咲の姿を認めると、
「少尉、殿」
と呼んだ。
 神咲は近付いて、その男の顔をまじまじと見ると、頓狂な、しかし嬉しげな声を上げた。
「月沢ぁ、生きてたかぁ!!」
「はい、し、申告いたします、り、陸軍上等兵・・・・・・」
「ああ、もういい、何も言うな、何も言うな」
 月沢上等兵は、バギオ攻防戦中にマラリアに罹り戦列を離れていたが、その後の転戦の最中、行方が分からなくな
っていたのだった。
「む、足、やられたのか?」
「はい、途中で、ゲリラに・・・・・・」
 何故かそこで月沢の口調が澱んだような、一瞬そんな気が神咲にはしたが、それよりもまずは傷を診る方が先、と考
え、
「そうか・・・・・・」
とだけ応えて傷を診た。
 最初はかすり傷であったろうその傷は、無惨にただれ、蛆が何匹も出ては潜っていた。それが容易く見えるくらい、月
沢の姿はボロボロになってしまっていた。
 何をしてやる事もできない自分に苛立ちを感じながらも、月沢に声をかける。
「歩けそうか?もし何なら、今からでも俺達の持ち場に連れて行ってやるが、どうだ?」
 神咲達は、谷山軍曹と平上等兵が自決した前の持ち場を二人のせめてもの墓所とし、その近くに新たに「たこつぼ」
を作って繋ぎ、応急の持ち場をこしらえていた。
 今のところ、この辺りでの戦闘はほとんど無かったが、だからと言って油断は出来ない。
 しかし、月沢はこう言った。
「いえ、もう、少し、休みたくありますが」
 思えば、神咲はこの時無理にでも、月沢を持ち場に連れて行くべきであったろう。だが、神咲は結局、月沢に対して
無理強いはしなかった。
「そうか、ならば、とにかく無理はするな、俺が戻るまでここで休んでいろ。いいな、絶対に死ぬなよ、死のう、などと思っ
てもいかんぞ」
 月沢にかけた神咲の言葉。それはほとんど、自分に言い聞かせている様なものだった。
 月沢と別れ、再び食糧を捜しに森に分け入る。小島上等兵や白瀬一等兵も、それぞれ食糧を捜しに森の中に散って
行った。士官とはいえ、神咲も食糧になりそうな何かを捜さなければならなかった。そうしなければ、近い将来戦死より
も確実に、「餓死」という運命が待っている。

 時折、米軍機が降伏を促すビラを撒いていく中でも、砲声は止まない。この頃、プログ山麓の日本軍陣地には、神咲
の所属する「旭(アサヒ)兵団」こと、第23師団をはじめとする「尚武集団」が立て篭もっていた。しかし、この陣地に入る
事も出来ぬまま、「鉄(テツ)兵団」こと第10師団、「撃(ゲキ)兵団」こと戦車第2師団といった部隊の残存兵が、それぞ
れ孤立した状態で米軍に追い詰められていた。連絡も途絶えた彼等が辛うじて組織を保っていられた理由はただ一
つ、山下大将がプログにいる事、それだけであった。

 ・・・・・・渓谷は汚れていた。川の水も、赤茶けた色をして流れている。
 いつの間にか、神咲はとある渓谷を見下ろせる場所に来ていた。その川岸のあちこちに、二人、三人、いや五人、六
人と屍が固まっていた。その周りには糞が散らばり、中には赤い液体の様な糞が、土や石の色を変えていた。
神咲はすぐにそこから離れる。渓谷は赤痢に罹った者達の墓場と化していた。
 再び森の中を彷徨い、ふと立ち止まって梢の切れ目から覗く空を仰いだ。
 青い。嘘みたいに「そこだけ」が青かった。
 動物の、鳥の鳴き声すら聞こえない森。聞こえるのは、ただただ黒い蝿の羽音。そして命絶えし者達の「声無き
声」・・・・・・。

―俺には、お前達が見える。お前達の言いたい事も分かるつもりだ。だが、俺は、お前達に何一つしてやれない―

 自分は、何故ここにいるのだろう?

 青い空を、爆音と共に「黒いもの」が横切って行く。その後に、ひらひらと数枚のビラが舞い落ちて来た。一枚を拾う。

「日本軍将兵ニ告グ。南ニ向カッテ歩ケ。ソシテ米軍ニ降伏セヨ」

 何の感慨もわかなかった。代わりに取り止めも無い事を考える。
 最後にまともな飯を食べたのは、いつの事だったろうか?
 ビラを捨て、また歩き始める。まだ何も、食べられそうなものを手に入れてない。

 フィリピンの日本軍を統率する山下大将以下、第14方面軍司令部は、プログにおける持久戦の限度を9月上旬と判
断していた。そして、ギリギリまで持久して本土決戦を引き延ばした上で、米軍の包囲網を破ってゲリラ化する、という
(もはや作戦とは呼べない)作戦を立てていた。
 ゲリラ化する時は、統一指揮が執れなくなる時でもある。山下大将と、方面軍参謀長・武藤 章(むとう・あきら)中将
は、統一指揮の終末と共に自決する覚悟であった。
 ルソンの日本軍は、確実に「最後の時」を迎えようとしていたのである。

 散々彷徨い歩いて、やっと捕まえたのは一匹の蛇だった。
 しかも、野ネズミを半分飲み込んだ・・・・・・。
 野ネズミは蛇に飲み込まれ、蛇は野ネズミごと飢えた日本兵に食い尽くされる・・・・・・。
 神咲の口から笑い声が漏れ出てくる。その笑いはくぐもった上に、陰に篭った自嘲的、あるいは自虐的ともとれる、暗
い笑いだった。

 くっ、くくっ、くっくっ、くっくっくっ・・・・・・くくくくっ・・・・・・。

 自分の笑い声に、ハッとした。首を大きく左右に振る。
 とにかく、食い物が無いよりましだ。
 ああ、そういえばいつだったか、大豆に似た様な黒い実を持ってきた連中がいたっけ。沢山採れたから少し分けよう
か、と言われたが、あまりに黒いのが却って不気味で、丁重に断ったんだった。あれから連中の姿を見ないが、どうし
た事だろう?まあ、いい。それよりも食糧だ。月沢の分も何とかして手に入れないと。


 パン!!
 ・・・・・・・・・・・・。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 周りの空気の"異変"を感じたのは、もう少し歩けば月沢のいるはずの場所に着く、そんな頃だった。
 何だ、この異様な空気は?
 「神咲の意識」が、「剣士の意識」が研ぎ澄まされ、背筋に緊張が走る。
 いつでも軍刀を抜き打てる様に、精神を集中していく。拳銃はとっくに全弾撃ち尽くしていて、ただホルスターに収まっ
ているだけ。武器と言えば、軍刀の他には「ゴボウ剣」こと、30年式銃剣のみ。それでも手ぶらよりははるかにましだっ
たし、剣を志していた神咲にとっては、むしろ軍刀の存在は心強かった。
 音を立てぬ様に注意しつつ、少しずつ「気配」のする場所に近付いていく。
 一人ではない。三人・・・・・・いや、四人。嫌な予感は気のせいか?気のせいで、あって欲しい。
 あの先には、月沢がいる。俺の帰りを待っている。待っているはずだ。

 と、神咲の脳裏に、月沢の悲痛な声が響いた。月沢は、泣いていた。

―少尉殿、自分が一体何をしたというのでありましょうか?敵兵に撃たれて「名誉の戦死」となるのはまだしも、何故味
方に殺されなければならないのでありますか?奴等は以前にも自分を襲い、そして今、自分の肉を削いでおります!
少尉殿、自分の仇を、取って頂きたくありますっ・・・・・・!!―

 殺気がこちらに向かってくる。とっさに低い姿勢のまま、横っ飛びに転がる。
 大木の陰に隠れたのと、「パン」というやけに乾いた発砲音がしたのは、ほぼ同時だった。
 小銃弾が、ついさっきまで神咲がいた場所の潅木の枝を、弾いていった。
 神咲はまた、声を聞いた。それは、女性の声。最後を看取った彼女・・・・・・。

―私が「あの場所」で身体を喪う事になったのは、あるいはむしろ、仕方の無い事かもしれません。でも、一体、何故私
は"あんな目"に遭わなければならなかったのでしょう?あそこの兵隊達は、患者さん達と私を無理に引き離した後、患
者さん達を家ごと手榴弾で吹き飛ばし、森の中で私を「嬲り抜き」ました。そして、一人が私にこう言ったのです。「これ
も御国の為だ、"大人しくしろ"」と。こんな非道が、あっていいのでしょうか?―

「畜生、どこに逃げた?」
「馬鹿モン!弾丸を無駄に使うな」
「はっ、申し訳無くあります」
 その甲高い声に、神咲は聴き覚えがあった。一瞬、耳を疑う。しかし、確かに、確かにあの声は・・・・・・。
 神咲の心が、「怒り」に震える。
「むう、だが、確かに音がしたな」
「・・・・・・見られたのでは?」
 竹下少尉を亡き者にし、谷山軍曹を撃った・・・・・・。
「だとしたら面倒だな・・・・・・。おい、二人行って見て来い」
「はっ」
「はっ」
 俺が最後を看取った「彼女」・・・・・・。
「いいか、見つけ次第"処理"して構わん」
 そして、月沢・・・・・・。
「・・・・・・それにしても、あの女は惜しかった」
「大尉殿、それは言わない事にしませんか?」

 ゴスッ、ゴスッ。

 ズッ、ズッ、ゾブッ、ゾブリ、ズッ、ズッ・・・・・・。

「今頃は、どこかで野垂れ死にしているのではないかと。・・・・・・ああ、左足は蛆が湧いていて駄目であります」
「何!?・・・・・・ぬう、まあ仕方が無い。こうして我等が血肉となるのもまた、御国への御奉公の道、というものだ」

「・・・・・・くっ、こいつ等・・・・・・!!」
 危険な衝動が、神咲の全身を支配した。
 小銃を腰だめに構えて近付いて来る、二人の兵隊。その一人の背後に、気配を消して近寄る。
 後ろから左手で口を押さえ、右手で抜いた銃剣の刃を喉笛に押し込み、スッと掻き切る。
 切り口から血が噴き出て、どさりと崩れ落ちる。
 その音にもう一人が気付いた。こちらを振り向く。
 神咲は銃口を向けられるよりも早く、最初に片付けた兵隊から離れ、もう一人に向けて銃剣を投げ打った。
 銃剣が、今まさに小銃を構えんとした兵隊の右肩に突き刺さる。
「グアッ!?」
 痛みで小銃を取り落とした兵隊に、神咲が屍を飛び越えて踏み込む。
 軍刀を抜きざま兵隊の胴を薙ぎ払い、手近の茂みに潜み込んだ。
「ウ、ウアアアアアアッ・・・・・・ア、ア・・・・・・」
 胴を斬られた兵隊の悲鳴が、すぐに途切れた。
「む?やはり誰かいたか?」
「・・・・・・見てきます」
 先に小銃を撃ったと思われる声が近付いてきた。
 神咲はまた気配を消しつつ、近くの木の陰に移る。
 鬱蒼とした下草を掻き分け、兵隊の姿をした「獣」が小銃を手に近付く。
 それを睨みつつ、神咲は軍刀の鞘をベルトから外す。
 右手に軍刀、左手に鞘。
 やり過ごし、音を殺して背後に回る。一気に間合いを詰めると声を叩きつけた。
「おい、兵隊!!」
 驚いて振り向いた兵隊。神咲は小銃を構える暇も与えず、鞘で銃口をはたく。銃口が反れるが早いか、右手を突き出
す。喉仏のすぐ下に軍刀の切っ先が突き刺さった。
「ガッ!?・・・・・・カフッ・・・・・・」
 小銃が滑り落ち、眼からギラギラとした光が消える。軍刀を引き抜く。兵隊はゆっくりと膝を突き、前のめりに倒れ伏し
た。
 主を失った小銃を、神咲は蹴飛ばした。これで三人"殺った"。残るは・・・・・・。

「遅い!どうしたというのだ!?」
「・・・・・・三人とも、自分が"処理"しましたよ、大尉殿」
 右手に抜き身の軍刀、左手に鞘を提げて、神咲がゆっくりと「残る一人」に、大尉に歩み寄る。軍刀は血に染まってい
た。
「き、貴様は・・・・・・!?か、神咲少尉!」
「・・・・・・ほう?覚えておいででありましたか?それは"光栄"の至り」
「ぬうっ!?」
 神咲は普段、絶対に"人を馬鹿にした台詞を相手に叩きつける事"はしない。しかし、今の神咲は「怒りと殺意の塊」
だった。
「言ってくれるじゃあないですか、えぇ?"こうして我等が血肉となるのもまた、御国への御奉公の道、というものだ"と
は」
「な、何の事だ!?それに貴様っ!少尉が上官に向かって何と言う口の聞き方だ!その剣も収めろ!俺は大尉だぞ
っ!!」
「・・・・・・大尉なら、"人肉"を食らっても許されるとでも!?上官であれば、部下を、兵隊を無意味に殺しても許されると
でも言うのか!?そこに息絶えた月沢上等兵は、貴様等に肉を削がれた月沢は、俺の部下だ!!」
 もはや神咲は言葉を飾ろうともしなかった。怒りのままに、殺意の命ずるままに大尉との間合いを詰めていく。
「貴様等に"食われる為"に、月沢は今まで生き延びてきたんじゃない!俺が最後を看取ったあの看護婦も、貴様等の
"慰み者"になる為に生きたんじゃないんだ!!」
「ぐ・・・・・・や、やかましい!貴様ぁ、上官反抗罪だ、そこに大人しくしろ!叩っ斬ってやる!」
 大尉は苦し紛れに軍刀を抜き、上段に構える。しかし、振り下ろされるより早く、踏み込んだ神咲の左手がひらめく
と、大尉の軍刀は宙に舞った。鞘で大尉の軍刀をはたき飛ばしたのだ。
 神咲は鞘を地面に投げ、思わず後ずさった大尉を、憎悪の念を込めて袈裟に「叩き斬った」。
「ガアアアアアアアアアアッ!!」
 裏返った悲鳴をあげ、仰向けに倒れた大尉は、しかしまだ息があった。
 神咲の冷ややかな視線が、大尉をまともに射る。
「・・・・・・何か、言い残す事は・・・・・・?」
「・・・・・・ぐ・・・・・・ゴフッ・・・・・・き・・・・・・貴、さ、ま・・・・・・じ、上官、の・・・・・・オレ、に、歯向かい、おって・・・・・・ぐ、軍、
法・・・・・・か、い、議に・・・・・・」
「言いたい事は、それだけか?大尉殿?」

 その時、神咲の脳裏に和音の表情がよぎった。
 和音は厳しい、というよりもいっそ「悲痛」な表情で呼び掛ける。

―あなた、そこまででもう良かです!そん人ば、あなたが"止めば刺す価値"も無かです―

 しかし、神咲は、軍刀の切っ先を落とした。大尉の喉笛に・・・・・・。
 大尉は「うっ」と一声あげ、それきり動かなかった。

 「あの声」は、本当に"和音の声"だったのだろうか?
 自分の"本心"は、どこにあったのだろう?
 傍には、仰向けになったまま蝿のたかるのを許す「大尉だった屍」と、両足首を切り落とされ、足の肉を削ぎ落とされ
た「月沢上等兵だった屍」が、無惨な姿を晒していた。
 不意に、胃の中からこみ上げてくるものがあった。
 軍刀を落とし、片手で口元を押さえる。
 膝を突き、耐え切れず、一度だけ吐き出した。
 胃液が地面に染みを作る。
 こんな事をする為に、こんな場所まで来たのではない。無性に悲しいのに、辛いのに、涙が出ないのは何故だ?
 月沢と、看護婦の「声」が、神咲に聞こえた。

―少尉殿、申し訳ありません。しかし、少尉殿は非道を糺して下さいました。自分の仇を討って下さいました。ありがた
く、ありがたくあります―

―少尉さんがいなければ、私はきっとこのままでしたでしょう。本当はお優しい方なのに、こんな事をさせてしまっ
て・・・・・・ごめんなさい。そして、ありがとうございます―

 ・・・・・・二人の「気配」は、完全に消えた。
 軍刀を拾い、立ち上がり、次いで鞘を拾うと刀身を収める。
 全てが悪い夢であったなら、どれ程楽であろう?
 今すぐにでも、和音に会いたかった。声を聞きたい。その身体を抱き締めたい。温もりを感じたい・・・・・・。
 鬱然とした森の梢を見上げ、瞑目する。
 少尉殿ぉ〜、と、小島上等兵や白瀬一等兵の声が遠くに聞こえた。神咲の身を案じる声が、次第に近付いて来る。

 その時、初めて神咲は気付いた。
 時折聞こえた米軍の砲声が、全く聞こえなくなっている事に。

 昭和20年8月16日午後。
 北部ルソンの峰々は、時ならぬ静寂に包まれた。





"悲島"の記憶・第6話 了



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