Written by タケ
「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ汚名ヲ残ス事勿レ」
―戦陣訓の一節―
「見知らぬ友達よ、ここでは悼む理由など無いのだ」
―ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」―
"悲島"の記憶・第5話
プログ。
ルソン島北部に聳え立つ、標高2930mの山。
フィリピンに住む者が、「聖なる山」として崇め、未だ誰一人として登頂した事の無い山。
この山を中心とした一帯に、日本軍は立て篭もっていた。
今なお5万名に及ぶ兵力のあった日本軍だったが、実態は「飢えし者」と「病に侵されし者」の集まりに過ぎなかった。
神咲少尉が「その声」を聞いたのは、スコールの上がった森の中であった。
それは、まるで生気に欠けてしまっている声。が、ひとつだけ、大きな違いがあった。
「まさか・・・・・・?」
声の聞こえる方向へと急ぐ。いや、急いでいるつもりであったが、雨上がりのぬかるんだ土と倒木が、神咲の歩みを
邪魔していた。しかも、満足に食を摂っていない体が、自分の思うようになかなか動いてくれない。それでも、声の主を 確かめようと神咲は足を速めた。
近付くにつれて、言語は次第に明瞭に聞こえてくる。
歌っていた。
何もかもを失ったかのような震えの混じった声が、ただただ淡々と歌を紡ぎ出す。
まだ、声の主の姿は見えない。
と、神咲の耳は、歌声とは違う「別の音」を右手から捉えていた。
地上か、と最初は思ったが、どうも違う。神咲は自分の右手方向を見た。森の梢が深く、どこに何がいるのかすら定
かではない。耳を澄ますと、少しして音が大きくなってきた。それは飛行機のエンジン音。
爆音!?
神咲は思わず駆け出していた。早く、あの声の主を助けないと。早く、早く。
爆音に時折掻き消されながらも、歌は続いている。
不意に、神咲の耳に歌詞が流れ込んできた。
うぅ〜〜さぁ〜〜ぎぃ〜〜、追ぉ〜〜い、し・・・・・・彼ぁ〜〜のぉ、やぁ〜〜まぁ〜〜
小ぉ〜〜ぶぅ〜〜な・・・・・・釣ぅ〜〜り、し・・・・・・彼ぁ〜〜の、かぁ〜〜わぁ〜〜
駆ける神咲の視界に、ようやっと声の主の姿が見えてきた。潅木の茂み越しに、ふらふらと揺らぎながら、声の主は、
"彼女"は歌い続ける。
神咲の耳は大きくなる爆音も同時に捉えていた。いかん、今"彼女"がいる場所は、森の梢が開けた・・・・・・。
ゆぅ〜〜めぇ〜〜は・・・・・・いぃ〜〜まぁ〜〜も・・・・・・めぇ〜〜ぐぅ〜〜、りぃ〜〜てぇ〜〜
「早く、早く逃げろぉ!!」
思わず叫んでいた。もう一度叫ぼうとして、木の根っこにつまづいた。
前のめりに倒れる。
「・・・・・・くっ!」
再び立ち上がる。
・・・・・・・・・空から、機関銃の乾いた連射音が響いた・・・・・・・・・。
わぁ〜〜すぅ〜〜れぇ〜〜、がぁ〜〜た、し、ふぅ〜〜るぅ〜〜、さ・・・・・・・・・・・・
着弾。湿った土が"彼女"と共に一瞬の「舞」を舞う。
敵機は満足したのか、そのまま遠ざかっていった。すぐに爆音は小さくなり、森は何事もなかったかのような静寂を取
り戻してゆく。
神咲はすぐさま"彼女"の元へ駆けて行った。
・・・・・・・・・髪の毛は乱れ、衣服もほとんど破れ果て、全裸も同然の若い女性が、そこに四肢を投げ出していた。
泥と血と、誰かの欲望のはけ口にされたのであろうか、「粘つくモノ」に全身が汚されていた。
さほど大きくない左の乳房のすぐ上には、赤黒く染まった穴が穿たれ、そこから絶え間無く流れ落ちる血が、新たに
身体を染め上げていく。もう生命の灯は消えかかっていたが、それでも彼女は弱々しく呼吸していた。
神咲はひざまずくと、彼女の上半身を抱き起こして声をかける。
「しっかりしろ」
やりきれなかった。彼女に何の「罪禍」があろう?おそらくは従軍看護婦であったろう彼女が、何故「ここ」で生命の終
焉を迎えなければならないのか?もし「ここ」にいた、その事こそが罪だと言うならば、それではあまりにも救いが無い ではないか・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
彼女の口が動いた。かすかに、ほんのかすかに動いた。
「どうした?」
神咲は、精一杯の優しさで応える。
彼女は喘ぎながら、
「お、父、さま・・・・・・お・・・・・・母・・・・・・さ、ま・・・・・・」
そこまで言って、力尽きた。彼女の目尻から一滴の涙が流れ落ち、神咲の、泥と汗と返り血に汚れた軍服に染み込
んだ。
「・・・・・・・・・・・・」
神咲は無言だった。悲しいのに、悲しいはずなのに、涙がまるで出てこない。そしてそれを不思議とも思わない。人間
の死を、正に目の前で看取ったというのに、「それ」がとても辛い事なのに。
ふと、和音と「十六夜」の事が浮かんだ。やはり「十六夜」を和音に託して良かった。こんな場所では「十六夜」の優し
さも、何ら救いにならないかもしれない。
和音の、美しき妻の表情を思う。この有様をもし和音が見たならば、何と言うだろうか?この身に「霊力」を持ちながら
"誰一人の魂をも救えない"自分を、妻はどう思うことだろう?
どうにも形容し難い無力感の様なものが、心の中にどんよりと澱んでいた。自分が「人間でなくなっていく様な錯覚」を
感じ、神咲はぶるっと一度だけ、身震いした。
屍と化した彼女を抱いて、森に入る。
物言わぬ彼女の身体に、あっという間に黒光りした蝿がたかって来る。羽音がやけに気に障った。
我等が皇軍の、これが、これが・・・・・・理想の「死」だとでも言うのか?冗談じゃない。
「少尉殿ぉ〜」
声が聞こえた。
「小島ぁ、こっちだぁ!」
程無く小島上等兵が姿を現した。右手に小銃、左手には一匹の蛇をぶら下げていた。
「・・・・・・少尉殿、その女性は?」
怪訝そうな表情で問う小島に、神咲は重い口調で応える。
「・・・・・・たった今、息を引き取った」
「そうでありましたか・・・・・・」
小島も言葉に詰まって黙り込んだ。
それから二人に出来た事といえば、土の柔らかい場所を探して穴を掘り、彼女を埋めてやったくらいであった。
彼女にたかり損ねた蝿が、神咲達にたかる。屍臭の強い臭いと蝿の羽音が、どうにも気に触って仕方が無かった。
その後の「食糧探し」ははかどらなかった。
神咲が蛙を一匹捕まえた後は、食べられそうな幾つかの野草、淡い紫色のタヤバスの実がいくつかと、そして小島が
捕まえてきた蛇くらいしか、その日の食糧は手に入らなかった。
二人して情け無い顔を合わせる。ため息が出てきた。
持ち場に戻る途中で、白瀬一等兵と合流した。
神咲小隊(といっても、もう分隊以下になってしまったが)でまともに動ける部下は、小島と白瀬のみ。谷山軍曹と平上
等兵は重傷を負った身で持ち場に残っていた。本来であれば後送しなければならなかったが、野戦病院には薬剤も無 く、病人と負傷者の"姥捨て山"同然であり、後送のしようもない状態だった。
「おお、白瀬、無事だったか」
「はぁ、ですが、収穫はキノコが少しであります」
情け無い声をあげて、白瀬は被甲入れ(被甲「ひこう」とはガスマスク。ガスマスクを入れる袋の事)の中身を見せた。
マスクではなく、確かにキノコが少しと野草が入っていた。
「うん、前に採って食べたのと同じだな。少なくともこいつを食べて笑い死にやら大当たり、なんて事にはならん」
神咲はほっとして多少の軽口を叩くと、二人を促して持ち場へ戻る事にした。
「さあ、戻ろう。二人が待ってる」
けもの道のような現地人の道を、自分達の持ち場へと急ぐ。道のあちこちに屍が転がっていた。その屍全てに蝿や
蛆、蟻がたかり、黒と白がワラワラと蠢いていた。中には腐敗が始まり、衣服を破かんばかりに身体の膨れ上がった屍 が、あるいは、まるで蛇が身体に入り込んだ様な、実は内臓をぶちまけた屍が、あるいはすでに白骨化し、何も無くな った眼窩が虚ろに森を睨み付けているかのような、ありとあらゆる屍が無防備に、辺りに転がっている。
吐き気をもよおす様な屍臭の中を、ただ無表情に歩く。
不意に、どこかでくぐもった爆発音がした。
―自分は、もう助からないのでありますか?―
―自分は、捕虜の辱めは受けたくありません―
唐突に、谷山と平の言葉が浮かんだ。
あの「事件」以来、まともな食事も出来ず、満足な治療も受けられず、傷口に蝿や蛆がたかるのをただ見ながら、次
第に体力も気力も衰えていく二人を、神咲は幾度と無く励まし続けたが、このところとみに気力の衰えてきた二人が、い つ手榴弾を持ち出すか気が気ではなかった。
今のが二人でなければいいが・・・・・・。
神咲の不安は濃くなっていく。いつしか、誰が言い出したともなく駆け出していた。
そして、持ち場が見え・・・・・・。
「!?」
「ああっ!」
「なっ!?」
そこには、二条の細い煙がたなびいていた。
「なっ、何て事を!!」
三人が持ち場に駆け付けた時、神咲の不安は「現実の光景」となっていた。
かつて「谷山軍曹」だった、手榴弾を抱いてうつ伏せになった屍・・・・・・かつて「平上等兵」だった、上半身がバラバラに
散らばり、顔の原型すら定かでは無い屍・・・・・・。
小島は呆然と両膝を突き、白瀬はあまりの光景に、四つんばいになって胃液を吐き出した。
せめて誰か一人残しておけば、いや、自分が残って見てさえいれば、こんな事には。俺は、二人に「こんな最後」を遂
げさせる為に、今まで二人を励ましてきたのではないのに。ただ、ただ生き延びて欲しかった、それだけなのに。
何故か、無性に腹立たしかった。一方で、やっと"自分の中の人間"が戻ってきた様な気が、ほんの少しだけしてい
た。だが、どうしても、涙は出てこなかった。
「自決させる為に、自決させる為に・・・・・・お前達に、お前達に、生きろと言ったんじゃ、ないんだぞ」
つぶやく。
「命令違反は、重罪、なんだぞ。軍人勅諭にもあるだろう?"上官ノ命令ヲ、朕ノ命令ト心得ヨ"・・・・・・ってな・・・・・・なぁ、
そうだろう?」
やがて、雨雲が近付き、雨が降り始めた。
それぞれの屍と肉片をのろのろと集めながら、降りしきる雨がこのまま、全てを洗い流してくれはしないか、と、神咲
はそう願わずにはいられなかった。
降伏を呼びかける米軍のビラが、はらはらと舞い落ちるようになった中、ルソンの日本軍は、第14方面軍は抵抗を、
あまりにも絶望的な抵抗を続けていた。
昭和20年7月。神咲は、一発の砲声を聞いた。
それは、「虎(トラ)兵団」こと、第19師団に残された最後の山砲から放たれた、文字通り「最後の砲弾」であった。
"悲島"の記憶・第5話 了
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