コラム(7)




「旭(アサヒ)兵団」 〜二度壊滅した“精鋭”〜
 
 
 
 
 
 今回は"悲島"の主人公たる、神咲少尉の所属した歩兵第71連隊と、その上級部隊である「旭(アサヒ)兵団」こと、第
23師団について触れたいと思う。

まずは、歩兵第71連隊から。
71連隊が連隊旗を下賜されたのは、明治41年5月8日である。
発足当初の編成地は広島であった。
編成当時は、日露戦争後の緊張した時期であった事もあり、早速満州に派遣されている。その後シベリア出兵にも参
加したが、大正14年の軍縮によって一度解隊している。

そのまま日本が「帝国主義」という"麻薬"にのめりこまなければ、もしかしたら連隊が復活する事はなかったかもしれな
い。よしんば復活したとしても、はるか後の事であったかもしれない。
しかし、満州事変以降の戦線の拡大は、第71連隊を再び誕生させたのであった。
昭和13年第71連隊は復活、編成地も鹿児島となり、熊本を編成地とした第64連隊、都城を編成地とした第72連隊
と共に、第23師団(「旭」兵団)を構成した。この第23師団は、昭和12年編成の第26師団に次ぐ「3単位制師団」であ
った。
 
ここで、「3単位制師団」について少し述べておこう。
「3単位」とは、師団主力を構成する歩兵連隊の数の事である。要は歩兵連隊が3つある師団、と覚えてもらえればい
い。
それまで日本陸軍の師団編成は「4単位制」であった。4個歩兵連隊であり、これを半分にして「歩兵旅団」を二つ編成
していたのである。
しかし、満州事変以後の急速な戦線拡大で兵力に不足が生じた為、現有師団から1個歩兵連隊を引き抜き、これらを
合わせて師団の数を増やそう、という動きが出たのである。そうした中で「3単位制」編成となったのが第23師団であっ
た。ちなみに、歩兵連隊3個で「歩兵団」という名称を付けられている。

編成は以下の通り(比島決戦時)。

師団司令部
歩兵第64連隊(熊本・移動途中、米潜水艦の襲撃で1300名海没)
歩兵第71連隊(鹿児島)
歩兵第72連隊(都城・移動途中、米潜水艦の襲撃で1000名海没)
(3個歩兵連隊で「歩兵団」を編成)
捜索第23連隊
野砲兵第17連隊(移動途中、米潜水艦の襲撃で一部海没)
独立野砲兵第13大隊(注・野砲兵第17連隊の戦力補完の為配属)
工兵第23連隊
輜重兵第23連隊
その他通信隊、衛生隊、野戦病院等

話を戻す。
第23師団は編成早々満州に派遣されたが、昭和14年、有名な「ノモンハン事件(個人的には"紛争"と呼びたいところ
である)」の主力部隊として、ソ連赤軍との死闘を演じる事となった。
5月に始まったこの戦闘は9月まで続いた(厳密には第一次、第二次と分けられる)が、全期間参加した第23師団は、

参加総数15040名

内、死傷11958名

と、総戦力の8割近い大損害(こんな言葉が陳腐に聞こえる)を蒙った。
歩兵第71連隊に絞ると、

延べ参加総数4615名

内、行方不明を含む死傷者数4254名

・・・・・・ほとんど「玉砕」といっていい。
連隊長も、代理を含めて3人が相次いで戦死、連隊旗も燃やしたという。

その後、第23師団は補充を受けて再編されたが、この時師団砲兵や工兵、輜重兵が機械化され、更に軽戦車ながら
「師団戦車隊」が編成されるなど、当時の陸軍としては"破格の装備強化"が計られた。
とはいえ、当時の国力では「歩兵の機械化」まではカバーできず、軍部の頑迷な思想も手伝って、歩兵は「歩兵」のまま
であった。
せいぜい、新しい連隊旗が再授与され、兵隊の補充が行われたのみであった。

後、昭和19年まで師団は、満州西北部のハイラルに駐留している。神咲少尉が予備士官として第71連隊に配属され
たのは、設定ではこの時期の終盤にあたる。
昭和19年、戦況の逼迫により満州駐留の各部隊が、次々と南方に引き抜かれたが、第23師団も例にもれず10月に
は満州を離れている。
ただ船舶輸送能力の低下から、戦車隊と砲兵の機械化装備等は残置されてしまった。
当初は台湾防衛の任務が割り振られていたが、途中で比島に目的地が変更された。

・・・・・・これが"運命の分かれ道"であったに違いない・・・・・・。

米潜水艦の襲撃で、多数の人員、装備を失いながらも比島に着いた師団は、昭和20年1月以降、米軍やゲリラとの
戦闘に突入する。
歩兵第71連隊も、当然最前線で戦ったが、すでに米軍との格差は覆うべくもなく、夜間斬り込みに活路を見出すより他
になかった。
しかし、1月19日の斬り込みで参加550名中生還36名等、損害が続出、じりじりと後退していった。

こんな話が残っている。

バギオ攻防戦中、当時の連隊長が病気で後方に一旦退いた第71連隊では、バギオ西方の危機により、南方正面を
守っていた連隊も移動する事となった。
この時、連隊長代理は1個中隊程を殿軍として残したが、この殿軍将兵に対し、

「現地ヲ死守セヨ。後退セル者ハ銃殺ニ処ス」

と厳命したという。
いわゆる「死守命令」であった。
この部隊は、程なく米軍の猛攻を受け文字通り"全滅"したという。

バギオ失陥後、連隊は内陸部をプログ山に向け後退、途中バレテ峠に兵力を供出したり、ゲリラと交戦したりしてい
る。
この間、飢餓や疾病で多くの死者を出しているが、これは何も連隊に限った事ではなく、比島で戦った全部隊に共通し
た事だった。

・・・・・・そして終戦。
第23師団は比島において、現地補充含め約30000名の兵力をもって戦った。
内、無事復員を果たした者は約5000名(71連隊生存者含む)であったという。

"悲島"本編でも触れたが、歩兵第71連隊は現地補充含め参加約5500名。

内、生還者は約600名。

・・・・・・71連隊将兵の生還率は、僅か1割程度であった・・・・・・。

 
 
 
 
コラム(7)「旭(アサヒ)兵団」 〜二度壊滅した“精鋭”〜 了



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