コラム(6)




マッカーサー将軍に見る“二面性”と“正義の意味”
 
 
 
 
 
日本史、特に昭和史を語る上でどうしても外せないのが、米国軍元帥ダグラス・マッカーサーである。
某国営放送のTV番組でも取り上げられたように、戦後日本に与えた影響は今なお大きい。
しかし、その事跡に関しては色々な書籍、資料に詳しく述べられているので、ここではそれについて取り上げる事は避
けようと思う。
なお、「マッカーサー元帥?誰?その人??」という方がもし、このコラムを読むとするならば、まずその前に歴史の教
科書をもう一度読み直すか、市販の書籍などを購入するなり、図書館あたりで資料を閲覧するなど、一通り読んでもら
ったうえで読む事をおすすめする。
要は、それだけ日本に関わった人物である、という事なのだ。
 
ダグラス・マッカーサーとフィリピンの関わりは、日本でいえば日露戦争直前の頃までさかのぼる。
彼の父親アーサーは、当時陸軍の将官であり、米西戦争(アメリカとスペインが、太平洋の植民地領有を巡って争っ
た)でフィリピン攻略を指揮、戦後フィリピン総督となっている。その後、フィリピンの民政化に反対し本国に召還され、
日露戦争の観戦武官として旅順に赴任、乃木 希典(のぎ・まれすけ)大将を間近に見ている。
息子は士官学校(ウェストポイント)を首席で卒業後、工兵少尉として父と入れ替わるようにフィリピンに赴任、マニラ湾
の改良やコレヒドール島要塞の建設等に携わっている。後に参謀総長となるまでの間に合計3回、ダグラス・マッカー
サーはフィリピンに赴任しており、親子二代でフィリピンに縁を持った事になる。
参謀総長の任期(4年間)を終え、フィリピンの軍事顧問となったマッカーサーは、マニラ・ホテル最上階のペントハウス
に住み、フィリピン連邦議会から「元帥」の称号を贈られた。
マッカーサーは、これに応えるかの様に米陸軍を退役までして、フィリピン国軍の育成を図った。実際、この時期のマッ
カーサーは、フィリピンの実質的指導者であり、米国からみれば、フィリピンは「太平洋の米国権威の象徴」でもあっ
た。少なくとも、マッカーサーが「得意の絶頂」にあった事は確かである。
 
「得意の絶頂」にあったマッカーサーのプライドがズタズタにされたのは、太平洋戦争における、日本軍のフィリピン攻
略だった。
本間 雅晴(ほんま・まさはる)中将率いる第14軍(後第14方面軍に昇格)に米・比連合軍は敗退、マッカーサーは、
魚雷艇でコレヒドール島から脱出するほどであった。
もし、この後日本が軍政支配をしなかったならば、“もしかしたら話も少しは変わった可能性があったかもしれない”が、
現実に当時の日本は「単に占領国家としてふんぞり返っていただけ」であり、フィリピン国民の為の何一つすらもしなか
った。そこにマッカーサーのつけこむ隙があったのではなかろうか?
 
少し話がそれかけてはいないであろうか?
先に進む。
 
「I Shall Return」
 
脱出先のオーストラリアで、彼は後世に残る「名」台詞を残している。
 
・・・・・・誰ですか?「I'll be Buck」って。そりゃ映画でしょ。
 
今度こそ話が脱線してしまったので、先を急ぐ。
マッカーサーは相当に自尊心過剰な人間であったのだろうか、こんな話が残っている。
 
アメリカ戦略情報局(OWI)が、日本軍占領下のフィリピン国民に呼びかけるビラの文面に、「“We” Shall Return」と入れ
ようとしたところ、マッカーサーは「まるで“だだっこ”の様に」反対したという。
 
さらにこんな話も残っている。
 
米軍統合作戦本部は、当初フィリピンを素通りして、中部太平洋から台湾あるいは沖縄を攻略する案を立てていたが、
マッカーサーは“政治的圧力”を使ってまでフィリピン攻略にこだわったという。
 
ここらあたりから、何やら戦略と「個人の復讐」が“ごっちゃ”になってきている、と感じるのは、気のせいであろうか?
ついでに、どこぞの「どもり“逆ギレ”じじい」みたい、と思うのは果たして間違っているのだろうか?
 
昭和19年10月。
マッカーサーはレイテ島に上陸、「I Shall Return」の公約を果たした。
が、日本軍は最後まで、マッカーサーの“言いなり”にはならなかった。
その最たるものが、山下大将の撤収命令に従わず残留した「マニラ守備隊」と、終戦まで「マッカーサーの軍隊を釘付
け」にした山下大将だった。
 
昭和20年2月。
本編でも触れたが、マッカーサーは「マニラ解放」を焦るあまりに無差別砲撃を許可してしまった。
無差別砲撃は人種を選ぶか?
 
答えは・・・・・・「否」。
 
「マニラ戦で、日本軍は10万人のフィリピン市民を虐殺した」
 
後に、米軍はそう主張して山下大将の責を問うたが、むしろ決定的に被害を拡大したのは、他ならぬ米軍の「無差別
砲撃」ではなかったのか?
さらに解せないのは、攻略する必要すらないフィリピン中南部の各諸島に、独断で軍を派遣、占領していった事であ
る。
一体、百歩譲って、マッカーサーのフィリピンに対する愛着が本当であったとしても、では彼にとっての「フィリピン戦」と
は何だったのであろう?
こうなると、もはやそこには理解しきれない「執念」しか見えなくなってくる。
 
終戦後、マッカーサーは敗軍の山下大将を「ネチネチと」追い詰めていく。
現地での降伏調印の席に、かつてシンガポールで山下大将に降伏した、英軍のパーシバル中将を出席させたのは「ほ
んの序の口」だった。
マッカーサーは、山下大将を「戦争犯罪人」として、米軍捕虜やフィリピン市民虐殺、あるいは暴行の主犯として起訴し
たのである。
もちろん、起訴した罪状は多くが事実であったし、それが裁かれるべきは当然である。
しかし、弁護側の調べによると、山下大将が実際にそうした事を容認した事はなく、また関与もしていなかった。さらに
「マニラの破壊」を、山下大将は命令すらしていなかった。孤立した現地の日本軍将兵の暴走、マニラにおいては日本
軍と米軍の戦闘の巻き添え、特に「無差別砲撃」後の犠牲がほとんどを占めていたのだ。
山下大将の弁護団の一人、フランク・リール米軍大尉は、ふとした偶然から、マッカーサーが山下大将の判決を急ぐよ
う指示している事を知った。この頃、すでに戦火の止んだドイツでは、やはり軍事裁判が開かれようとしているところで
あった。
 
・・・・・・であれば、マッカーサーの“望むところ”とは・・・・・・
 
山下大将の弁護団は、米最高裁に裁判の中止を請願したが、管轄外であるという理由で却下された。が、中には事の
真実を見抜いた判事がいた。
 
「もし、敗戦の敵将を処置する為に、“正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神”をのさばらせるならば、それ
は同じ精神を発生させ、全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」
 
・・・・・・この指摘通りの事を、マッカーサーは「ものの見事に」やってのけた。
山下大将の“軍人としての全てを剥奪した”うえで、絞首刑に処したのである。
さらに約1ヶ月半後、フィリピン攻略を指揮した本間中将を、バターン半島での「死の行進」の主犯として銃殺刑に処し
た。
 
果たして、マッカーサー元帥の「復讐」は、かく果たされたのであった・・・・・・。
 
反面マッカーサー元帥は、GHQ最高責任者として日本の民主化に関わり、「日本国憲法」に大きな影響を与えている。
そして、こんなエピソードを残している。
 
マッカーサーは戦中、東京赤坂の「乃木神社」周辺を絶対に空爆してはならない、と指令した、といわれる。
そして、GHQ時代はMP(憲兵)を神社に派遣し、米兵を近寄らせなかったという。
明治の昔、父アーサーは乃木大将を間近にして敬意を抱いたといわれており、息子もそれを受け継いだのであろう
か・・・・・・。
 
・・・・・・中にはこれまでの文面を読んで、
 
「こいつはマッカーサー元帥が“嫌い”なんだ」
 
と思われる向きもあるのではなかろうか?
 
しかし、ここで誤解してもらいたくないのは、
 
「自分は何も、マッカーサー元帥の“全てを否定するつもりは毛頭無い”のだ」
 
という事である。
 
ただ、「人間の二面性」と、「正義の意味」について、この駄文、乱文からほんの少しでも、考えてみて欲しい、そう思う
のみなのである。
 
 
「第二次大戦後、彼は屈服した大日本帝国に対して寛大であった。それでいて日本軍の二人の将軍を処刑したのだ
が、その二人の唯一の罪科は“彼と戦った事”だけだったのである」
―ある米国人史家の評―
 
 
後、マッカーサー元帥は朝鮮戦争でも最高指揮官となり、自ら「ばくち」とまで評した「仁川上陸作戦」を成功させるな
ど、連合軍の攻勢を指揮したが、米首脳部との対立などから指揮官の座を降り、本国帰還後、
 
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
 
の台詞を残して退役した・・・・・・。
 
 
 
 
 
コラム(6)マッカーサー将軍に見る“二面性”と“正義の意味” 了



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