コラム(4)



  
現場部隊の不運その3・陸軍航空隊第4航空軍
 
 
 
 
今回は、フィリピンの空の戦場について。
といっても、海軍航空隊に関しては「神風特別攻撃隊」の登場もあって語られた感があるので、ここで取り上げるのは
陸軍の第4航空軍(以下、4航軍)とする。

そもそも、4航軍は昭和18年7月に、ニューギニア方面で戦う陸軍航空隊を統括する為に編成された。
指揮下には、当時現地にあった第6飛行師団と、東部蘭印(現インドネシア東部)を受け持っていた第7飛行師団、そし
て挺身集団(こう聞くと特攻隊の集まりかと思うかもしれないが、実際は空挺部隊である)2個連隊があり、各種航空機
合計約400機、という陣容だった。
が、数字はあくまでも「書類上の定数」であり、実際は定数の6〜7割程度。
しかも、米陸軍第5航空軍(以下、米第5空軍)に主導権を握られてしまっていた。
当時米第5空軍の戦力は約400機以上(戦力は逐次増加)、これにオーストラリア空軍が加わる為、4航軍はただでさ
えも倍の敵を相手にしなければならなかった。おまけに補給難や衛生面の不備で、4航軍の稼働率は急速に低下して
いく。
これは、航空機の能力、搭乗員の練度や士気以前に、バカみたいに戦線を拡大した軍上層部の問題である。
昭和19年4月、米軍がホーランディア(ニューギニア島北岸のほぼ中央、インドネシア側)に上陸すると、4航軍はもは
やなす術無く、所属将兵約7000名が陸路脱出を余儀なくされた。
翌5月、西のサルミに達し「雪(ユキ)兵団」こと第36師団に合流したのはおよそ半数、エースパイロットすら行き倒れと
なった「悲劇の退却行」となった。
航空機を失った第6飛行師団は、8月には解散している。

その後、4航軍は比島決戦に備えて再編成され、第2、第4(実態は飛行場設営隊の集団)、第7飛行師団の他に、戦
闘機部隊で構成された「第30戦闘飛行集団」も加わった。
しかし、司令官人事は結果として最悪だった。
昭和19年8月1日付で、4航軍司令官になった富永 恭次(とみなが・きょうじ)中将は、参謀本部第1部長、人事局
長、陸軍次官とエリートコースを進み、航空戦どころか、実戦の経験すら怪しい将官であった。
とかく、机上と現場の意識は乖離しがちになりやすいといわれるが、それにしてもこれでは「お先真っ暗」もいいところで
ある。
実際、10月以降の戦闘ではニューギニアの二の舞を演じる事になったし、11月7日以降陸軍も特攻を開始すると、損
害は"うなぎ上り"になっていった。
富永中将は軍刀を抜いて檄を飛ばしたというが、いくつかの戦果はあがったにせよ、戦況は変わらなかった。

そうした中、中将は自分の意に従わなかった第2飛行師団長を解任したり、山下大将のマニラ撤収命令にも反対した。
4航軍は山下大将の指揮下になく、同列で「南方総軍」の序列に肩を並べていたのである。
さて、マニラ撤収に反対した富永中将は、こんな事を言った。

「多くの部下を特攻に出してしまった以上、自分はマニラから離れるわけにはいかない」

・・・・・・だが、富永中将は自らのこの言葉を裏切る行動に出る。

すでに、リンガエン湾で日米両軍が死闘を繰り広げていた昭和20年1月中旬。
富永中将は「戦力再建」を名目に、比島北部のツゲガラオ飛行場から台湾に脱出してしまった。
当然、4航軍の戦力を再建する事も無ければ、再び部下の元に戻る事もなかった。兵隊であれば決して許されない「敵
前逃亡」に他ならない。
当時、中将はマラリアにかかっていて、人事不省になっていたともいわれているが、だからといって1万名近い将兵の
指揮官として、果たしてこの挙は許される事であろうか?

・・・・・・2月13日、4航軍は解隊し、指揮下の第2飛行師団が5月に、第7飛行師団も終戦間近の7月には解隊された。
4航軍の最後の航空任務は、比島に置き去りにされた搭乗員達の台湾脱出であり、運良く脱出出来た少数の搭乗員
は、本土の部隊に配属された。
残る大半は、皆終戦まで地上戦を戦い、多数が比島の地に倒れた・・・・・・。

富永中将は、昭和20年5月に台湾脱出の責を問われ予備役に降格、終戦を満州で迎えた後、シベリア抑留を経験し
て帰国したそうである。


「またも逃げたか、4(し)航軍」


こんな事さえ言われた4航軍。
しかし、考えてみてほしい。常に優勢な敵を相手に戦わされ続け、補給も満足に受けられず、あげく解隊に追い込まれ
ながら、なお戦い続けた4航軍である。
「またも」と言った上層部は、そうさせたのが誰なのか、自分の言った事を顧みる、という事をしなかったのであろうか?

これでは4航軍の将兵達が、あまりにも報われなさ過ぎるというものだ。

まるで、某国外務省の「単なるハイテンションじじい」に端を発した、一連のゴタゴタみたいなもの。
呆れかえって言葉も出ない。

比島決戦のツケどころか、南方戦線の無謀のツケまでも背負わされたのは、不運どころか「悲運」とすら形容できよう。





コラム(4)現場部隊の不運その3 了



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