コラム(3)


 
 
現場部隊の不運その2・戦車撃滅隊の壊滅
 
 
 
 
 
「戦車撃滅隊」
 
これに触れる事は、あるひとつの出来事に触れる、という事でもある。
その「出来事」とは、
 
「学徒動員」
 
である。
 
 
昭和18年9月22日に東條 英機(とうじょう・ひでき)首相が発令、10月2日正式に公布された勅令があった。
 
「在学徴集延期臨時特例ニ関スル勅令」
 
内容は、全国の大学・高校・高専に在学の満20歳以上の文科系学生に対する、従来適用されていた徴集延期を停止
する、というものであり、約13万人に及ぶ文科系学生を、一挙に軍隊に加えるのが狙いであった。
10月21日に神宮外苑にて行われた、学徒出陣の壮行式は有名である。
 
彼等学生は12月1日をもって各部隊に入営、中でも選抜された者は、各地の予備士官学校に入学した。
昭和19年9月、南方転属を命じられた約1300名(教官120名含む)が生徒隊としてマニラに移動した。当初は南方
の各方面に分散される予定が、船舶の被害から取り止めとなり、砲兵の教育を受けた約50名が比島駐留の各砲兵隊
に転属、残りが「第14方面軍教育隊」として再編成された。
当初「河嶋兵団」への配属が予定されていたが、方針変更によりルソン北部へ移動、山下大将直率の「尚武集団」指
揮下となった。
1月30日、教育隊の生徒達は全員が士官見習となり、多数が「尚武集団」所属の各師団に配属された。
それでも教官を含め約500名程が余っており、彼等が「戦車撃滅隊」として編成されたのである。
 
さて、現在の我々が「戦車撃滅隊」などという言葉を聞いて想像するのは、それこそバズーカやら、対戦車砲やらが充
実した部隊であろう。
しかし、当時の日本軍にバズーカ砲は無かったし、対戦車砲にしても米軍の主力戦車たるM4を真っ向からぶち抜ける
ものは無かった。
では、「戦車撃滅隊」はいかなる戦法を採用したのか?
決まっている。
爆雷を抱いて戦車にぶつかっていくのだ。
・・・・・・何とバカバカしい戦法だろう。
 
昭和20年5月下旬、ルソン島北部への出入り口・バレテ峠の危機に際して、「鉄(テツ)兵団」こと第10師団の援軍とな
った「戦車撃滅隊」は、直ちに敵戦車に対する戦闘を開始した。
が、米軍は戦車の後ろに援護の歩兵を付けていて、彼等が出て来ると容赦無く阻止砲火を浴びせかけた。それは航
空特攻が地上に移っただけの事で、戦車に取り付く前に、隊員のほとんどがなぎ倒されたのである。
「戦車撃滅隊」は、6月を待たずに壊滅状態となり、第10師団も敗走、6月上旬バレテ峠を突破した米軍は、カガヤン
川流域になだれ込んでいく。
 
一体、「学徒動員」とは、「戦車撃滅隊」とは何だったのか?
何故、学生達はこんな死に方をせねばならなかったのか?
未来を担うはずの若者を犠牲にしてまで、軍部が「欲したもの」とは、何だったのであろうか・・・・・・。
 
 
 
 
 
コラム(3)現場部隊の不運その2 了



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