ここに、ある意味"比島決戦のツケ"を背負ったひとつの部隊がある。
通称「河嶋兵団」。
河嶋 修(かわしま・おさむ)陸軍少将の名字を取って名付けられた部隊である。比島決戦においては「振武集団」に所
属、マニラの水源地「イポ・ダム」をめぐって米軍と死闘を繰り広げた。
河嶋少将は昭和19年6月に編成された、「勤(キン)兵団」こと第105師団指揮下の第82旅団長であり、4つの独立
歩兵大隊を率いていた。
しかし、師団主力のルソン北部への移動で、3個独歩大隊までが引き抜かれてしまう。
それでも当初は、「杉(スギ)兵団」こと第8師団から歩兵第31連隊(弘前で編成されたが、兵士は岩手から召集)が、
さらに方面軍教育隊が代わりに指揮下に入る事になっていた。
が、間もなく教育隊はルソン北部に移動、歩兵第31連隊もマニラ失陥を境に原隊に戻され、結局少将の指揮下には
以下の部隊が残った。
独立歩兵第358大隊(指揮官・笠間少佐)
第2航空測量連隊(指揮官・室谷少佐)
第9航空情報連隊(指揮官・花房少佐)
第12航空通信連隊(指揮官・友野中佐)
マニラ航空廠独立整備隊(指揮官・鳴神大尉)
臨時集成歩兵大隊(指揮官・宇野大尉)
(注)他に火力支援の為、野砲兵第8連隊(指揮官・瀬戸口大佐)が展開していた。
・・・・・・まるで、どこぞに飛行場でも設営するか、それともどこかの飛行場守備隊かと勘違いしそうな部隊編成である。
この中で、元から少将の指揮下にあるのは、笠間少佐の独歩第358大隊のみ。
河嶋少将の憤りと、その後の苦労は想像を絶する。何せ、数は約1万5千名に達するとはいえ、早い話が単なる「寄せ
集め部隊」でしかないのだから。
驚くのは、この無茶苦茶な編成の部隊が、いくら地形などに助けられたとはいえ、3月から5月中旬まで「米軍相手に踏
み止まった」事だ。
この部隊の編成を知った米軍は、さぞ驚き、そして理解に苦しんだ事であろう。
河嶋少将は、受け持ちの場所や指揮下部隊の通称に、「神州」の文字を使ったといわれている。
少将が「神州の不滅」を心から信じていたかどうかはともかく、「寄せ集め部隊」を何としても掌握しなければならなかっ
た少将の心中は、いかばかりであったろうか。
戦闘開始前、約1万5千名を数えた「河嶋兵団」。
しかし、戦闘、飢餓、病気で兵力の大半が倒れていった。
こんな話がある。
ある日、兵団司令部が野営中に奇襲攻撃を受けた。
これが現地のゲリラだったなら、話はまだ簡単だった。
何と、司令部を攻撃したのは数人の"友軍兵士"だったのだ。
彼等は飢餓に耐えかね、「司令部ならば、絶対に食糧があるはずだ」という理由で、手榴弾まで持ち出して攻撃をかけ
たのである。
この「事件」で、河嶋少将は額に軽傷を負い、副官は臀部に手榴弾の破片が刺さる怪我をしたという。
飢餓は兵隊達の理性を奪い去り、下手をすれば味方がいとも簡単に"敵"になったのが、末期の比島戦であった。
終戦時、「河嶋兵団」の生存者は約1000名前後であったという・・・・・・。
コラム(2)現場部隊の不運・河嶋兵団 了
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