読書のひととき 後編


Written by タケ



 陽が少しずつ傾き始めてきた。
 しばらくしてちらほらと、生徒が図書室を後にする。
 まだ、窓際の席に座る生徒は、腰を降ろし続けていた。周りの様子を気に留める事無く、「鬼狩り重三」の"情け雨"を
読みふけっている――







 それから、三日程が過ぎた。
 火盗改の与力、同心、はたまた御用聞きによる本所周りの探索が続いていたが、中々に左平治一味の本体は現れ
ぬ。
 他方、岩附町に住む"お京"の家に対する張り込みも続いていた。
 今、お京の家を見張るのは、源次と、同じく重三の密偵となっている彦兵衛である。
「やぁれやれ、動きがないねぇ……おい源の次、本当にここなのかえ?」
「ああ、間違いねぇ。平七の奴、確かにあの家に入ってった」
「ふぅむ……うん?」
と、気配を察した二人が、物影に潜み込む。
(あっ!?)
 彦兵衛が声を上げかけるのを、寸でのところで源次の掌が口を押さえる。
(浪岡様だよぉ、何てこった)
 実際にこうして現れるのを見てしまうと、改めて吃驚してしまう。
 探索であちこち回り歩いたのであろう、多少顔に疲れを滲ませた浪人姿の董が、それでも足取りに危なげなく、件の
 お京の家に着くや、声をかけつつ戸を二、三度叩いたではないか。
 すると、臈長けた女――お京が戸を開け、喜色満面で、董の袖を掴んで引き入れる。
 戸が閉まってからも、源次と彦兵衛は、呆気に取られてしばらく声一つ出ない。ようやく源次の掌をはがした彦兵衛
が、大きく息を吸って吐き出し、
「源の次、こりゃあ一体どういうこってえ?」
「いやぁ、俺らもついこないだ見たときゃあ、びっくりしたもんだが……」
「うぅ〜ん」
「彦さん、こりゃあ内緒にしといてくれよ? 御頭の指図だ」
「あ、ああ……それにしてもねぇ、浪岡様がねぇ……」

 半刻程過ぎている。
 お京の家の中、董は素っ裸で、夜具の上に仰向けに寝そべっていた。外見だけでは、さほど強そうに思えないが、そ
の実、身体は剣で鍛えられていて、無駄な肉はひと所もない。
 隣には、お京があられもない姿を、董の身体にひたと押し付けている。その身体は紅く、汗にまみれて、言いようのな
い艶を醸していた。
「ねぇ……左内の旦那……」
「うん?」
 董は、この時〔高野左内〕という変名を使っている。
「今日くらいは……宵越しして、くれるんでしょうねぇ?」
高 野浪人、もとい董は、苦笑いに近いものを浮かべつつ、
「そうも、いかんのだ」
「んもぅ……やっぱり、誰か他に、女がいるんじゃないのかえ?」
「…………」
「ふふっ、当たりなんだねぇ」
「ふぅ、剣で身を立てんとする武士を掴まえて、その言い草もないだろう」
「うふ、ふふっ……そういや旦那とは、本当に夜を過ごした事がないねぇ」
「まぁ、な」
 董が半身を起こすと、気だるげにお京も起き上がって、その裸身を押し付け直す。まだ、彼女は情の余韻を引きずっ
ている。
 夜具の横には、椀がふたつ、無造作に転がっていた。酒を、共に一杯ひっかけていたのだ。
 ため息をひとつ、大様に吐くと、お京は甘ったるげに、
「今夜も、どこか行くのかえ?」
「ああ、今少しすれば、な。用心棒よ」
「ふぅん」
 嘘である。
「さて、そろそろ行かねば」
 言って、董は身支度を整え始める。お京も、渋々という調子で身支度を始めた。この辺り、全く遠慮というものがな
い。
「ねぇ、次は?」
 問いかけに董、
「そうさなぁ……ここ一両日はいかぬから……四日、いや五日経ったら」
 言い終わり、脇差を差して刀を取ったところで、門戸の方をふと見やる。
「どうしたんだい? 旦那」
「誰か、来るな」
 剣を修める故の業か、董の気はやけに鋭敏であった。
 と、お京はすぐさま土間に駆けると、慌てて董の草履を取り戻り、
「忘れてたよ、今日うちの人が来るって。早く、裏から……」
「いや、どうやら出る暇無しかな……済まないが、暫時借り受ける」
 その時、どういう心動きがもよおしたか。咄嗟に、董は押入れの中に身を押し込んで、引き戸を閉め切ってしまった。

 どうしたものか、と思ってそのまましている内に、
(来た、来やがった。左平治だ)
 源次が目をひんむいた。
 どこから見てもどこかの店の主、しかしその実、盗賊・不知火の左平治が、隙のない物腰で歩いてくる。
 しゃがんでいる彦兵衛が、源次の顔を見上げて目配せする。
(おい、このまんまじゃあ)
 しかし、今はとても出て行けたものではない。
 左平治は、お京の家の真ん前まで来て、用心深く辺りを数度見回す素振りを見せると、徐に戸を叩いた。

 左平治は、入るなり、
「お京、おめぇ……男でもこさえたか」
 にやりとしながら、のたまった。
 こうなると、胆が据わったか、
「悪いのかい? お前さんがあたしを放ったらかして、上方なんぞ行くのが悪いのさ」
 お京は悪びれぬ。その口調は、つい先程まで董に甘えきっていた時と、
(雲泥の)
差であった。
「言うようになったじゃあねぇか。まぁ、今日はそんな事で来たんじゃあねぇよ」
「じゃあ、何だってんだい」
 どっかと腰を落ち着けると、左平治は言い放つ。
「おつとめが事よ」
 押入れの中の董は、危うく反応しかけた。
(つとめ、だと?)
 このまま捨て置ける事ではない。が、今は身動きを取れぬ。気取られてはならぬ。
 流石に刀は使えない。だが、屋内ではむしろ脇差が役に立つ事がある。いつでも突き出せるようにしておいて、董は
気を潜めた。
(それにしても……如何な事だ?)
 会話は続く。
「今度は、音羽町の駿河屋だ。ここが終わったら、もうひとつ、やる」
「いつ、やるんだい?」
「明晩だ。ようやっと、錠前の図面が取れたんでなぁ」
 左平治は、続けた。
「もうひとつやったら、また上方だ。今度は、おめぇも連れて行く」
「ふぅん……嫌、とはいかないんだろう?」
「当たり前だ。今宵、清水屋に来い。細けぇ事ぁその時だ……店入る時の合言葉は、分かってるな?」
 お京が頷くのを見ると、
「今は、これまでだ。せいぜい、間夫と別れ惜しんできな」
 音が聞こえ、戸が開き、閉まった。足音はすぐに遠ざかっていく。
 立ち尽くしたまま、お京は、
「もう、いいよ、旦那」
 気の抜けた声で呼んだ。押入れの戸がゆっくりと開き、
「盗人の情婦とは、驚いたな」
 董が、脇差を差し直し、とりあえず刀を持って出て来た。
「ふふっ、一応、ね。これでも前は、ひとり働きだってしてたのさ……ごめんなさいね」
「いや、何。別に素性を聞くつもりもなかったのだ。それに、たかが若僧の三一(サンピン)ひとりなぞ、あの男、気にも
留めてはないだろう」
「…………」
「清水屋、と言うと?」
「ええ、本所緑町の書物屋さね」
「ふむ……お京。今宵は、行かぬがいい」
「どうして?」
「……勘働き、かな」
「勘、ねぇ」
「ああ、勘、だ。行かぬがいい」
 董としては、やはりそれなりに情があるから、お京をここに、いや、出来ればどこかに移しておきたい。さりながら、こ
の事は役儀上捨て置けぬ。
(それにしても)
と、董は苦いものを噛み締めざるを得ない。
 由紀と言う、申し分のない許婚がありながら、自身も由紀を愛しながら、こうして別の女と共にしている。しかもその
女、由紀と別に愛する女を、役目柄騙しているのだから。いや、勘付かれているやもしれぬ。それでも、嘘の皮を被り
続けなければならない。
「やっぱり、行くよ」
「そうか……行くか」
 結局、董はお京を引き止められなかった。



 董がお京の家を出ると、源次が追いすがってくる。
「浪岡様、ご無事で」
呼びかけるのを制して、
「直ぐに、御頭の屋敷へ走ってくれ。明晩、音羽町の駿河屋に押し込もうとする賊がいる。そ奴はいずれ、本所緑町の
清水屋にいるはずだ」
 歩きながら、小さいながらも早口で董は言った。
「えっ?」
「覚えたなら、早く行くんだ。他に誰かいるか?」
「さっきまで彦兵衛がおりやしたが、今は左平治を尾行ておりやす」
 董の歩が停まる。
「何、左平治!?」
「へい、あたしゃ胆冷やしましたぜ」
「そうか……あれが」
「へっ、もしかして、知りませんでしたので……?」
 董は歩を停めて、何やら考え込んでいたが、それもひとときだった。今度は、
「源次、共に来い」
「え、あっ、お待ちなすって」
 重三の屋敷目指して、脱兎の如く駆け出していた。源次が慌てて後を追う。
 往来の人々が、何事かという表情で、走る二人を見送っている。

 董と源次が屋敷に駆け込んだ時には、もう陽が落ち込んでいた。
 次第を聞き終えるなり、
「でかした」
 重三、喜色を露わにして、
「動く時が来おったわ」
 決着を付けるべく、動き出す。
 同心のひとり、藤下数馬と小者二名を源次に付けて先発させ、次いで彦兵衛からの知らせを受けるや否や、火盗改
方二十余名に即時命令を下す。
 重三は、一旦董を留め置いて、二人だけになると、
「おい、董。今度の事、間違ってもお主が腹ぁ捌く事はないぞ」
「…………」
「その代わりなぁ、何も話さず、黙してお由紀どのに嘘を吐き徹しておけ。それが、俺のお主への沙汰よ」
「はっ」
「死ぬのはいつでも出来る。だがなぁ、それよりも重いのが、生きる事よ」
 董、深く頭を垂れると、そのまま退出していった。
 月が雲に隠れ、その内さらさらと小雨が滴り落ちてくる。

 旧暦五月の、とある夜更けであった。
 既に丑の刻を大きく回り、寅の刻にならんとしている。小雨はこの頃には熄み、今は雲だけが夜空の主となっている。
 本所・緑町の書物問屋、清水屋を、重三配下が音もなく取り囲む。正面に十名、裏手に十名、重三の側に三名、総勢
はこれだけであった。
 もはや、奇策を弄する必要もない。
「それ!」
 掛け声一声、
「そりゃあ!!」
 力自慢の同心、菅沼小平太が持参の大槌(かけや)で、いきなり正面の戸を叩き破った。
 捕り方数名が一斉に打ち込む。
「うわっ!?」
「くそっ、嗅ぎ付けやがったのか!」
 屋内の奴どもが騒ぎ立てる。そこに容赦なく、
「生かすに及ばぬ鬼どもぞ、刃向かう奴は斬って捨てい!!」
 今度は重三が踏み込み、打ちかかってきた浪人くずれを一刀に斬り捨てたものである。
 ここが、火付盗賊改方の骨頂、荒々しいやり方で、
「おう!!」
一斉に刀を抜き放った同心達が、当たるを幸い斬り回る。
 狭い家の中とて、そうそう振り回すわけにもいかぬが、すぐに、すさまじい斬り乱れの叫喚が現出する。
踏み込みざま、それでも勘の良いやつどもが吹き消した行灯が、凄まじい斬り合いの中で転がされ、ばらばらに壊れ
た。
「くっ、お京! 来い」
 左平治が、匕首を持ったお京の手を引っ張り裏手から出ようとするが、
「げえっ……」
 裏の勝手戸を蹴破って、捕り方が雪崩れ込んだ。板塀の外からは、役儀の高張提灯が掲げられている。
 斬り合いが、大きく、近く、見え隠れする。
「くそうっ!」
 左平治が気勢を吐くが、捕り手は動じぬ。裏庭に出て、先に逃げようといた左平治の乾分のひとりが、捕り方ふたり
に突きかけられる。平七だった。
 遅れて裏庭に出てきた左平治は、お京の手を離して、悪あがきをしようとする。
 そうした中、斬り合いは次第に収まりつつあった。
「不知火の左平治、神妙に縛につけ!」
 重三が、裏庭に臨む縁側に姿を現した。
「ち、畜生!!」
 左平治が、長脇差を振り回して同心のひとりに打ちかかったが、
「えい!」
 いとも簡単に、左平治は同心の刀の峯で打ち落とされてしまった。左平治はそのまま別の捕り方にねじ伏せられる。
 左平治を打ち落とした同心が顔を上げて、お京を見据えた。董である。
「ふふ、あははは……まさか、旦那がねぇ……」
「盗賊改方同心、浪岡董……まことの名だ」
「そうかえ、だからあんな事……ふふ、盗賊改の同心に惚れちまったなんて……あたしも、焼きが回ったかねぇ」
 お京は、匕首を逆手に持つなり、
「あっ……」
 自らの左胸に、深々と突き立てた。
 力無く、膝を突き、そのまま仰向けに倒れるお京を、董が駆け寄って抱きとめる。
「浪岡!?」
 最後まで抵抗した浪人くずれを斬り殪して、出て来た藤下同心がその場に行こうとするのを、
「出るな、数馬」
 重三は止める。
 雨が、また落ちてきた。前よりも、幾分強い。
 董の腕の中、お京の瞳から涙が一筋、垂れていく。
「だ……旦那……旦、那」
 か細く甘えてそのまま、息絶えた。董は、冷たくなっていくお京の身を抱いたまま、頭を垂れて身じろぎもせぬ。
 そして、雨は全てを包み込んだ。



 その後、重三は駿河屋に入り込んでいた〔葦の幸六〕も捕らえ、ここに不知火の左平治の一味は、一網打尽となっ
た。
 が、事件はこれだけでは済まず、すぐに別の意外な様相を見せた。
 清水屋に踏み込んだ時に出て来た副産物が、その発端である。
 そこから出てきたのは、
(幼子の売買)
を記した帳簿で、これは大事だった。現在で言うところの、
「幼児売買春」
である。
 即ち、清水屋は書物問屋を隠れ蓑として、盗みのみならず、恐らくは貧しさ故に間引きされた幼子を、密かに言葉巧
みに引き取って、
(その欲に目のない輩どもを、潤していた)
事になる。しっかとその帳簿に、そうした輩の名を記していたのは、後に何事かあった時に
(強請るタネ)
とするつもりであったのであろうか。
 驚いた事に、この中には旗本の名が二、三、含まれていたのだ。取り調べで重三が知ったところでは、左平治が上方
にいる間、指図を受けた平七が、中心になってやっていたそうである。
 さすがに評定所とて、
「断じて、身に覚えがござらぬ」
と言われれば、そこは武家の中の事、都合が悪い事には蓋をしたがるのが常だが、非合法の買春ともなると、時の老
中始め、綱紀粛正に取り掛かっていた矢先だけに、
(放ってはおけぬ……)
ものとなった。しかも、この買春絡みで揉め事を起こしていた旗本があった事が分かり、こればかりは捨て置く事も出来
ず、この旗本はやがて吟味の上、辻斬りの余罪もあった事から切腹を仰せつかり、家名断絶の憂き目を見る事となっ
てしまった。更にまた、他に連座していた旗本や商人、僧侶なども、内密にとは言え、取り調べを受ける事になったので
あった。
 もっとも、重三がこの始末を知ったのは、今度の事件が終わってひと月以上も経ってからの事である。

 同心・浪岡董は、その後何も変わるところがなかった。
 実際のところは、治安を守るべき同心が、
(盗人の情婦と通じていた……)
などとなれば、大事である。
 しかしながら、重三は董に腹を切らせるつもりはなかった。
 むしろ、
「わしが、董を敢えて囮としたのだ」
と、大きく広言してはばからぬ。
 それに、散々奉行所や火盗改を悩ませてきた不知火の左平治が、こうして実際に捕まると、最早誰も文句のつけよう
がない。
 そして、一部の旗本や僧侶どもが、密かに清水屋を通じて行っていた買春の事も、幸いした。
 役目で万やむを得ず、囮をこなしたというのであれば、それが功を成した以上、言うべき事もない、むしろ褒めるべき
であろう。
 それに、たかが一同心の事をいつまでも構ってなぞおられない。
 ともかく、降って湧いた旗本の不祥事を、何とかしなければならぬ、というのが、評定所としても、正直なところではな
かったか。
 董はいつものように重三に仕える事となり、本堂修理の娘、由紀との仲も、これまで通りであった。

 ある一日。屋敷の居室で、重三は田中与力を相手に、将棋を指している。
「のう、田中」
「はい」
「今度の事はなぁ、それぞれが何も深い事を知らなんだ挙句、気が付いた時には、もう抜き差しならぬところまで、事が
進んでしまっていたのだろうよ」
「浪岡が、事でしょうか?」
「いや、董に限らぬ。董はあの女の素性を、知らなんだ。そして、女は董の素性を知らず、しかも情夫の左平治めが、
裏で乾分に何をさせていたのか、それも知らなんだのだろうて」
「…………」
「そして、左平治。あ奴、女が誰と割りない仲になっていたのか、遂に知る事なく、わしらに踏み込まれた……まこと、世
の中とは分からぬものよの」
「そうでございますなぁ……王手」
「ん!? しまった……田中ぁ、待ったは利かぬか」
「なりませぬ、たまにはそれがしに、勝ちをお譲り下さいませ、御頭」



 それから、数日が過ぎた。
 重三は、両国廣小路を歩いている。
 火付盗賊改方の、それは伝統と言ってよい、自らの市中見回りであった。
 直接歩く事で、空気を読み、情報を得る。前任者も、そのまた前任者もそうしていたのだ。
「保科様」
「ん? おお、由紀どの」
 浪岡董の許婚、由紀が、重三を見て声をかけてきた。意志の強い瞳が、彼女の美しさを際立たせている。
「修理殿は、ご息災か」
「はい、皆を相手に楽しんでおります」
「それは良い。いや、役目ゆえ中々会いに行けぬでな、済まぬと言っておった、そう伝えおいてくれぬか」
「承りました。その……董様は」
「うむ、今日も役目で回っておる。だが、今宵はそちらに行くだろう」
「本当でございますか?」
「うむ」
「ま、嬉しゅうございます」
 頬を赤らめて笑顔を見せる由紀を微笑ましく思いながら、重三はふと考えた。
 董は、一生涯、由紀に対してひとつだけ、嘘を吐き徹す事になるだろう。それがいい事か悪い事か。
 江戸の空を、つがいの鴨が、忙しく翼をはためかせて飛び過ぎていく。





 ――ひょい、と、読んでいた本が消えて、視界に図書室の風景が飛び込んできた。
 振り向くと、
「びっくりした? 真一郎」
「あっ、瞳ちゃん」
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
 ぺろっと舌を出して、ごめんなさいの仕草をする千堂瞳の姿が、男子生徒――相川真一郎には、新鮮な可愛らしさを
持って迫ってきた。
 瞳の右手には、先程まで真一郎が読んでいた「鬼狩り重三」の単行本がある。
 少し前、真一郎が瞳を迎えに行くと、たまたま彼女は友人の相談事に耳を傾けていた。
 ちょっと時間がかかりそうだから、と言うのを、それじゃ図書室で待ってるから、と言ってきていた真一郎である。
 瞳の表情を見るに、特に深刻な内容ではなかったようで、真一郎はほっ、とした。
「じゃ、そろそろ帰りましょ、真一郎」
「うん、あ……そうだ」
「?」
「ね、今日、うちに来ない?」
「えっ?」
 言外の意味を察して、瞳の頬が上気する。
「ん〜……」
「べたべたしようよ〜」
「ん、もう、真一郎ったらぁ」
 困った様な表情になる瞳だが、その実まんざらでもない。本当は、彼が甘えてくるのが愛しくて仕方がないのだ。
 ふと視線を移すと、図書委員の先生がちら、とこちらを見て再び書類に目を落とした。
 さすがに、これ以上ここでいちゃいちゃしているわけにもいかない。
「……うん、行くわ」
「やった! じゃ、ちょっと買い物して、それからだけど、いいかな?」
「ええ、いいわよ♪」
 本棚に単行本を返すと、二人は連れ立って図書室を後にした。




















 ――そして、今日の二人の時間は、始まったばかりである――










読書のひととき 後編 了




















後記

いかがでしたでしょうか?
今回の作品、恐らく読み手諸賢の中には、
「これって、とらハSSではないんじゃないか?」
と、そう思う方もおられるのではないでしょうか。
しかし、ここでちょっと考えてみて下さい。今回取り上げた「鬼狩り重三」とは、とらハ本編の中での選択肢から派生した
話題のひとつであり、少なくとも"とらハの世界観"からは、全く逸脱しておりません。
この作品は簡単に言うと、とらハの中の話題をひとつ、クローズアップさせてみた、というだけの事です。
もう少し述べる事にしましょう。
二次創作と言えば、大抵執筆する場合、登場するキャラクターに焦点を当てます。そして、書き手の感性なりに掘り下
げていくわけですが、この作品は別のところに焦点を当てる事で、とらハの世界を掘り下げてみようと、まぁ、こういうわ
けなのです。
ちょっと考えてみれば、とらハに限らず二次創作を執筆するのに、
「本編に登場するキャラを必ずメインに据えて書かなければ、絶対に"それらしい作品"にはならない」
という法則も、その定義も、実は存在しないわけで。
もちろん、出来得る限り、とらハの世界観に違和感のない書き方をするならば、本編に登場するキャラの存在は、本来
ないよりあった方がいいのです。いいのですが、違う角度から掘り下げて書いてみるのもまた、違う楽しみがあっていい
のではないか、そう考える次第です。
何も、二次創作でとらハを楽しむ手段が、登場キャラに限られているわけじゃなし、ちょっとした事がヒントになって書け
るものも、きっとあるのではないか、そう思います。
さて、この辺りで筆を擱く事にします。
ではでは。



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