読書のひととき 前編


Written by タケ



 放課後の風芽丘学園。
 委員会活動や部活動などで、まだ生徒の数は多い。ここ図書室も、図書委員会の先生が午後五時までいてくれるの
で、学校のものとしては広めの図書室には、未だに生徒達が何人もいる。
 読書目当ての生徒、書籍を借りに来た生徒、友人か、あるいは彼氏彼女の待ち合わせで来ている生徒……。
 そんな中、窓際の席のひとつに腰を落ち着けて、本を読みふけっている男子生徒がひとり。
 彼が読んでいるのは、一冊の単行本だった。
 題名は――





池奈巳正三 「鬼狩り重三 黒い鬼」





〜情け雨〜







 上方で盗み働きを繰り返してきた盗人、不知火の左平治が江戸に入った。
 そこまでは分かったが、その後の足取りがまるで分からない。
 先手頭兼火付盗賊改方・保科重三は内心、
(さて、どうしたものか)
 屋敷の居室で瞑目しつつ、考えあぐねていた。
 重三は、これまでに人殺しも厭わぬ凶悪な者どもを縄にかけており、江戸の町民からは、
「鬼狩り」
の異名で畏敬されている。
 その〔鬼狩り重三〕をして思い悩ませる盗人が、不知火の左平治であった。
 不知火の左平治は、かつて江戸を〔働き処〕としてあちこちの商家に押し入っては、盗み働きをしていた。
 重三が今の職に就いて暫くした頃、左平治を後一歩のところで逃がしてしまった事がある。配下の与力、同心達の動
きも密偵の働きも、文句無いものであった。
 にも関わらず、
(彼奴め、余程勘働きの鋭い奴……)
 いわゆる〔盗人宿〕として目を付けていた、とある百姓家に踏み込んだ時、左平治もその手下も、既に逃げ去った後で
あったのだ。
 その後、重三は幾人かの凶悪な盗人どもを捕らえたものの、その中に左平治の名はなかった。
 やがて大坂町奉行所からの知らせにより、左平治が上方でも盗みを働いており、結局取り逃がしたと知れたのであ
る。
 もっとも、このところの大坂町奉行は、何かとあまり評判がよろしくない。それ故、取り逃がしたと聞いても、
(それ、見たものか)
なのだが、流石に重三も江戸の治安を司る武士の端くれ、このままには、
(捨て置けぬ)
のであった。江戸に舞い戻って来たと聞いてはなおの事、異名の沽券など一向構わぬが、これ以上のさばらせるわけ
にもいかぬ。

 町奉行の如く奉行所を持たぬ火付盗賊改方、略して火盗改(かとうあらため)は、任ぜられた旗本の邸そのものが
〔役所〕というわけで、重三も番町にある屋敷の居室に端座しつつ、職務に当たるのだ。
 居室の真ん前は、見事な造りの庭になっている。その庭を越えて、ひとりの若い浪人が静々と現れた。
「御頭」
「ん、おお、董か。相も変わらずその姿、似合っとるの」
「はっ、恐れ入ります」
 この浪人の身形をした若者、浪岡董(なみおか ただす)という、れっきとした火付盗賊改方の同心なのである。今は
役目の内として、ちと薄汚れた身形をしていた。
 普段は温和な性格で、しかも目鼻立ちの優しい顔立ちに似合わず、実は草間一刀流の使い手である。そして捕り物
においては、果敢で退く事を知らぬ。それだけに、重三も目をかけているひとりであった。
「どうじゃ、左平治の動き、何か掴めたか?」
「今のところは、掴めておりませぬ」
「ふぅむ……彼奴め、今度は更に用心深く構えておるな……前もそうだったが、よくよく隠れるのが上手い奴」
「さりながら、これ程までの盗人……寡聞にして初めて相まみえまする」
「そうじゃろう、何せ、左平治がわしの網をすり抜けた頃はお主、まだわしと会うておらなんだからの」
「はぁ……」
 重三と董が出会ったのは、三年程前にさかのぼる。左平治を取り逃がしたのはそれよりも前の話であるだけに、董が
その時の事を知らぬのも無理はない。
 もっとも、重三とて人相書きと盗みの事以上には、左平治が如何なる人物なのかまでは分からないが、
「いずれにせよ、舞い戻って来たからには必ず動く。そこを捕らえねば、また同じ事の繰り返しだ……人相書きには目
通ししてあるな?」
「はっ」
「うむ、良いか、慎重の上に慎重を期せ。今度こそ、逃がしてはならん」
「承知仕りました。では」
 董が出て行った後、重三は腕組みをしつつなおも思考の内に没入していた。
 庭の松の木に、雀が一羽止まって忙しく首を傾げているのをじっ、と見ながらも、その頭の中では左平治の事を考え
ている。



 翌日の日暮れ前。
 重三の姿を、神田・今川橋から程近い本石(ほんごく)町の一角にある、小ぢんまりとした茶屋に見る事が出来る。
 丁度真後ろに背中合わせているのは、長らく重三の密偵をしている源次である。今でこそ、どこぞの御店の主とも見
紛う様な姿格好だが、過去は〔三笠の源次〕の名を持つ盗賊で、重三に捕らえられた後、今の様になったという経緯が
あった。
 密偵となるのを条件に盗人稼業から足を洗って、その後妻を娶り、今は鎌倉河岸の近くに小間物屋を営んでいた。そ
して一朝事があると、密偵として働くのである。
「そうか……まだ掴めんか、源次」
「へい、どうにも……」
「なぁに、良いのだ。彼奴が簡単に頭を出さねぇ事なぞ、分かり切っておる。だがなぁ源次、いずれ左平治も動き出す。
その前に、抑えねばならんのよ」
 多少伝法な語も交えながら、重三はくつくつと笑う。だが、直ぐに難しい顔となって、
「ともかく、彼奴の居場所を掴む事だ。だが、それが難しい」
「いかさま、あっしも稼業をやりまして何人かの凄腕を知っておりやすが……左平治ほどの奴ぁ、そうそうおりやせん」
 源次は、以前左平治に会った事があるから、その言には知っている者のみが持つ〔もの〕が醸し出されている。もちろ
ん、源次が密偵をしている事が知れれば、命はない。
 二人の会話は、傍からしても殆んど聞こえぬ。しかし、話の内容はまことに剣呑なものだ。
 茶請けに出された落雁には、二人とも手を付けていない。ただ、時折口を湿らせるくらいに茶を含む。
と、何気なしに往来を見ていた重三の目が、見覚えのある姿を見咎めた。
(董……と、女?)
 薄汚れとはいえ、それなりに整った浪人姿の董が、親しげに隣を歩く女性に話しかけている。女は若いが如何にも臈
長けた雰囲気をしており、婀娜っぽく潤みを帯びた目つきで董を見つめ、受け答えしていた。
(あやつめ……いつの間に)
 重三にしてみれば、意外である。が、そのくせ意地の悪い楽しみもある。
(さぁて、あの"お由紀どの"に見つかったらどうするつもりか)
 董は妻持ちではなかったが、婚儀を約した娘がいる。それを重三は知っていた。何となれば、董と由紀の仲立ちに立
っているのが、重三その人だったからだ。

 両国は横山町に面した屋敷の中に、小さい道場を営む小太刀の使い手、本堂修理と重三は昵懇の間柄であり、そ
の修理の娘が由紀である。
 由紀もまた父に倣って小太刀を使い、本人は、
「まだまだ、とても父上の様には参りませぬ」
と笑って話すが、見目麗しき風貌に似合わず気が強い上に、その腕は、なまなかな者ではまず相手にならぬ。
 教えてもいぬ小太刀の術を、見よう見まねとは言え、覚え、上達していく由紀は、確かにその力を備えていた。
 最初は喜んで見ていた修理も、この頃は、
「いやぁ、娘があまり強過ぎるというも、考え物ですな」
 重三に、予てよりこぼす事が一再でなかった。
 それが、つい半年ほどさかのぼるであろうか、道場破りの剣客が本堂道場で、
(あわや刃傷)
という騒ぎを起こした時に、たまたま役目の途中通りかかった董が急を見て取るや、大音声に、
「盗賊改方同心、浪岡董!」
 名乗りざま踏み込んで、不意を突かれた道場破りを、刀も抜かずねじ伏せてしまった。
 その後、由紀に生じた〔変化〕を怪訝に思った修理が問うて、初めて重三に事の次第を打ち明け、知った重三が肝い
りして、今に至っている。婚儀は年明けという事になっていた。

 董は、室町の方向に歩いていく。女は、出て来た方向へゆっくりと戻っていった。
「いや、驚きましたよ。ははぁ……浪岡様も、あれで中々、隅に置けませんな」
「見ていたか」
「へい、ですが、お役目はどうしてるんでしょうかねえ」
「何、あれは役目をおろそかにせぬ。だが……あの女の方がどうもな」
「御頭……人様の色恋沙汰に、詮索無用と言っておりやせんでしたかい?」
「ふふ、覚えておったか」
 その時重三の心に引っかかったものは、何とも名状し難い。強いて言えば、
(己の勘働き)
とでも言えばいいだろうか。
「源次」
「分かっておりやす。あの女、あっしの目に狂いがなければ"働いて"いたみたいでやすね。では、御免なすって」
 言って銭を置きざま、源次は動き出している。源次も、何か怪しいと感じていたようだ。
 追っている件(ヤマ)に関わりが無ければ、それはそれで――いや、本当はよくないが、
(関わりがあるならば、厄介な……)
事にもなりかねない。
 由紀との事もあるし、また役向きの事もある。重三としては放ってもおけなかった。
 それにしても、世の中とは分からないもので、もし重三がそこにいなかったなら、董と女の姿を見なかったなら、そこで
勘働きがなかったなら、事は動かなかったやもしれぬのである。



 源次は、女の後を尾行(つけ)ている。
 女は、岩附(いわつき)町のとある小路に入って少し歩くと、小ぢんまりとした一軒家の中に入っていった。
 家の前に出ようとして、
(おっ……!?)
 源次は物影に何とか身をねじ込ませた。
(奴ぁ、平七……)
 小路の反対側から、小柄で細い目つきをした、着流し姿の中年男が歩いて来る。源次は、その男に覚えがあった。
 左平治の一の乾分、飯綱(いづな)の平七である。その平七、迷う事無く女のいる一軒家の戸を叩き、入っていったで
はないか。
(こいつぁ、とんだ事になってきやがった)
 気配を探りながら、源次は緊張した。
 それまで尻尾すら掴めなかった左平治に一歩でも近付く、これは大事であるからだ。
 湧き出る唾を飲み込みつつ、源次は待つ。
 小半刻ほど経ったろうか、平七が女の家から出て来た。女の姿はない。
(さぁて……この後どうする? 平七さんよぉ……)
 平七は、すたすたと歩いて通りに出る。間を置いて源次が後を追った。
 往来で活気に溢れる通りを、両国橋の方向に抜ける。平七の歩調は、相も変わらず颯爽としたものだ。こちらに気付
く様子もない。
 両国橋は長さ九十六間。この橋は、両国廣小路と本所を結んでいた。本所に入ると右手に尾上(おのえ)町、正面に
元町となり、元町を過ぎると回向院、そして門前町がある。現在、両国と呼ばれているのがこの辺りだ。
 平七はその両国橋を渡り、まだ歩く。
 松坂町まで来て、平七はとある飯屋に入った。源次もそれとなく追ってみる。が、
(あっ、しまった)
 暫く待っても出て来ないのを不審に思った源次が、店の中に入ってみると、もう平七の姿は無かった。
 店の者に聞くと、
「ええ、入ってすぐ後架に行って……おかしな人もいるもんですねぇ」
 悔しがったがどうにもならぬ。ともあれ、
(仕方ねぇ、御頭に申し上げて指図を仰ぐしかねぇな)
 源次は、一旦重三の屋敷へ行く事に決めた。

 重三が、縁側から片膝突いた浪人姿の董を見下ろしている。だが、別に怒っているわけでもなし、むしろ好奇心からく
る笑みを浮かべていた。
「おい、別におめぇをどうこうしようってんじゃねぇ。ただ、いつから付き合いがあるのか、それを知りてぇだけよ」
「はぁ……」
 恐縮しながらも、董は簡単に件の経緯を話し始めた。その話はこうである。
 名はお京といい、ひと月程前、素浪人に絡まれたところを董が助けたのが、そもそもの始まりだった。
 それで済めば話はそこまでだったのが、数日後にばったり出会い、その内、
(なるように、なってしまった)
という。
「何となく流されているような心持ちでして」
と、いささか困惑気に董は話す。
 お京は、とある店主の囲い者とかで、今住んでいる岩附町の家が、そうなのだと言ったとか。
「ふぅむ……まぁ、お主の事は良く分かってるつもりだ。もうこれ以上の事は聞かん。ともあれ今は、お由紀どのには黙
っておくが良いのう」
「はっ、それがしの未熟故の不始末にて……」
 董が言いかけるのを制し、
「なぁに、俺とて若い頃は、散々遊び呆けたものだ。それにおめぇ、人様の妻女と懇ろになったってえわけじゃねえから
な」
 そこまで言って、
「おい董、今の話はここだけぞ」
と、声を潜めた。

 本所、と言っても、広い。
 各大名の中、下屋敷が多い上に、町屋もあれば百姓地もあった。江戸も外の方に行けば、士農工商が混在する場
所がいくらもあるが、ここはまさにそれである。
 夜も更けた頃。
 その本所は緑町の、とある店の中に平七の姿がある。
 そこは、書物問屋〔清水屋〕といい、店の佇まいを見る限り、特に繁盛している様にも見えないが、それでも数年来商
いは続いている様だった。
 清水屋の奥に、平七ともう数人、人の姿がある。
「そうかい、町方め、動き出しやがったか」
「へぇ、姐さんのところでは、特に怪しいものは感じやせんでしたが……」
「まぁ、撒いた事にゃあ変わりねぇやな」
「ですが頭、今度はあの"鬼狩り"も黙っちゃおりやせんぜ?」
「ふん……」
 上座に座る壮年の男が、煙管を咥えたまま目を細める。苦みばしった顔つきをしている他は、どこから見ても普通の
町人に見える。しかして、
「鬼狩り重三……奴を恐れて"お勤め"なんざ出来やしねぇよ。それこそ"不知火の左平治"の沽券に関わらぁ」
 上座に座る彼こそが、〔不知火の左平治〕その人なのだ。即ち、この清水屋はいわゆる〔盗人宿〕なのである。
 左平治は、煙管からたなびく煙を無造作に見やると、徐に言った。
「おう、それよりも今度の仕事場はどうだい」
「へい、駿河屋でしたら……」
 心得たかのように、ひとりが簡単な図面を取り出して拡げた。
「ふふっ、俺が上方に行ってる間、さぼっちゃあいなかったようだな」
「へい、今、一番羽振りのいい店ってえと、まずはここでさぁ」
 日本橋は、音羽(おとわ)町の一角にある薬種問屋〔駿河屋久兵衛〕が、どうやら今度の彼等の標的となったらしい。
皆、瞬きも惜しんで図面に食い入る。
「……ふぅむ……」
「まだ、幸六は入り込んでるんだな?」
「へい、そろそろ詰めでして」
「鍵、か……」
 既に駿河屋には、左平治の手下たる〔葦の幸六〕が、店の下男として入り込んでいる。彼は錠前の図面を書くのが上
手く、左平治の盗みには、欠かせないひとりであった。しかし、手下の中には荒っぽい者もいる。
「構う事ぁねぇ、早めに押し込んで主を脅しゃあ、こっちのもんだ」
「急いては事を仕損じる、とも言うぜぇ? ここは、幸六に任せようじゃあねぇか」
「まずは、錠前よぉ。だが万が一、気付かれたら、分かってるな?」
「へい」
 どうにもいかないのであるなら、血の雨の降る〔急ぎ働き〕も辞さぬ。彼等はいざとなれば、殺しも厭わなかったのだ。


 少し時間を戻して、再び重三の屋敷に視点を戻そう。
 平七を見失った源次は、そのまま重三の屋敷に駆け付けていた。
 縁側で、重三の内儀、瑠衣の手ずから淹れた心づくしの茶を啜って、ようやく人心地ついたところである。
「そうか、本所で見失ったか……」
「へい、面目次第もございやせん」
「何、それでも一歩踏み出したのだ、そうかしこまらずとも良いわ」
 事の次第を全て聞いた重三は、その後しばらく考え込んでいたが、
「田中ぁ」
「これに」
 与力の田中新八郎が、次の間から姿を現した。
「聞いたな? これから本所、あるいは深川も考えに入れて、重点的に探索の網を巡らせよ」
「御意。しかるに御頭……町奉行所は、如何なさいますか?」
「町奉行の方では、左平治を扱いかねておるだろうからな。ここは、我等が仕事よ」
 火付盗賊改方は、厳密には町奉行所とは違う。奉行所が現在、我々が連想する一般の警察に相当するとすれば、こ
ちらは機動隊か、はたまた旧軍の憲兵隊、とでも言えばいいだろうか。
 かつての軍制の名残りを留める役職、という事もあって、本来は武士つまり旗本や御家人、浪人などで罪を犯した者
を主に相手とするわけだが、今ではそんな事に関わりなく、町奉行所の手に負えぬ凶悪犯を相手にするのが多くなって
いた。
 指図を受けた田中与力が退ると、
「さぁて、源次」
「へい」
「実はな、最前董から聞いた」
「へっ? あの……」
「うむ。それにしても、こいつは面白い事になってきた。なぁ、今董と割りない仲になっておる女、もしやすれば……」
 源次は、何とも言えない顔持ちになった。
「御頭、ちぃと厄介な事になりやせんかねぇ」
「それはある。が、こうなったら董にゃあ悪いが、このまま囮になってもらうしかあるめぇよ」
 重三、表情を引き締め、
「良いか、明日から人手を増やして、岩附町の女の家を張れ。口の堅い者の当たりはあるな?」
「へい、二、三の者なら、心当たりがございやす。それでなければ、彦兵衛を」
「任せる、くれぐれも目を離すな。これを持って行け」
 重三が源次に手渡したのは、紙に包まれた小判である。いわば、探索費用とでも言うべきものであった。
 源次が去った後、重三は広い夜空を何気なく仰ぐ。
 雲の切れ間から、いくつか星が瞬いている。
(これから、忙しくなりそうだの)
 外で、野良犬の吠える声が、殷々と響き渡っていた。





 ――未だ、帰る生徒は少ない。図書室でも生徒達が、思い思いの時を過ごしている。
 腰掛けたまま、男子生徒は本を読み続けていた。
 彼もまた、誰か人を待っているのであろうか。
 窓越しに、部活動をしている生徒達の声が、聞こえてきている。





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