第六章 〜興国(二)〜



  

 
 
 
 
本題に入る前に、自分の恥を晒す事にしよう。
以前、延元年間に顕信が山城国(現・京都府)の男山(現・京都府八幡市)にて南軍の指揮を執った、と書いていたが、
どうもそれは「太平記」の記述によるもので、実際に男山の南軍の指揮を執っていたのは、春日顕国(かすが・あきく
に)という人物らしい、というのである。
春日顕国は南朝の公卿で、主に関東を中心に転戦した人物であり、北畠氏とは同族で親戚関係にあたる、といわれる
人物である。
この顕国が北畠顕家の第二次西上に付き従い、後に別働隊として男山に進出したものらしい、というのだ。
筆者はてっきり、顕信が男山に進出した別働隊の指揮を執っていたもの、とばかり思っていたのだが、よくよく見ると顕
信の出陣は「太平記」の記述によるものであり、実際に出撃していたものなのか、それとも伊勢の守備の為に出撃自体
をしていなかったものか、まるで判然としない部分であるのが分かってしまった。
何とも歯切れの悪い事で申し訳ないが、ただでさえ手駒となる資料(大抵は図書館所収の書籍が主なのだが)が少な
く、しかも肝心の事には全然触れられていないものが大半なのに、それでもにらめっこをしなければやってられない為、
公表した後になってから往々にして、こんな事が起こってしまう。
もっとも、それでもそれなりに、ちゃんと資料に目を通していればこういう事は防げるはずなのだが。
更に付け加えると奥州の情勢は、関東の情勢とも決して無関係ではなかったし、中央(つまり吉野や京都)の情勢とも
絡み合って、より複雑化していたのが現状だった。
本当に投げ出したくなりそうになるが、それでは何も進まないので、この辺りでそろそろ本題に入ることにしよう。





鎮守府将軍北畠顕信は、日和山城(現・宮城県石巻市)を根拠地として奥州の南軍を指揮する事となり、南部、葛西、
伊達、田村といった奥州南朝側の豪族は大いに活気付いたが、だからと言って、彼等は決して「一枚岩」ではなかっ
た。
一方の奥州北軍だが、こちらもまた予断を許さぬ状況にあったようだ。
前回で触れなかった事ではあるが、ここで補足しておこう。
興国元年(1340年、北朝暦応三年)の内に、北上川中流域に勢力を持つ和賀氏の領内で戦闘が起こった。
前にも触れたが、和賀氏一族は宗家こそ北朝に付いていたものの、一族全てが北朝だったわけではなく、庶流のいく
つかの諸氏は南朝側に付いていた。
こうした分裂は当時の各地において頻繁に見られるが、どれも「勤皇の大義」という思想的なものではなく、領土問題で
どちらかに付くか、あるいは家門の生き残りの為に敢えて分裂するか、このどちらかのケースがほぼ全てであったと見
ていいだろう。
実際、この戦いも和賀一族の内紛であったとみられている。
この戦闘は宗家側が勝利したらしく、当時奥州北軍の総大将であった石塔義房が、一族の石塔義元(いしどう・よしも
と)の名で感状(今で言えば、表彰状みたいなものか)を送っている。





石塔義元感状

参御方馳向須々孫城 被致合戦条神妙 有殊軍忠者 可被抽賞之条如件

暦応三年九月十二日

左馬助(石塔義元の官位)花押
和賀鬼柳三郎兵衛尉殿





当時須々孫城(岩手県和賀町)にいた和賀一族は南朝側だったらしく、和賀宗家がこれを攻めた事に関して賞したもの
である。
書状は九月付けとなっている為、顕信が日和山城に根拠地を置く前後の時期に当たる。
ところが、この書状が書かれた数ヵ月後、といっても年が明けてからの二月頃といわれているが、またも和賀氏の領土
において戦闘が起こっている。
この時の状況がどの様なものであったのかは殆んど分かっていないが、和賀義綱(わが・よしつな。「鬼柳(おにやな
ぎ)義綱」とも)の軍忠状(戦闘報告書に近いもの)が残っている。これによると、
「暦応四年二月、南朝の軍勢が"岩崎楯(館)"に押し寄せ合戦となり、弟の清義とその家来二人が戦死した」
とあるらしい。
この戦いで、南軍の誰が攻め込んだのかは定かではない。可能性としては出羽国に所領を持ち、南軍に呼応していた
和賀氏庶流の一族か、あるいは葛西氏が局地戦の一環として攻め入ったか、どちらかと見られている。
ともあれ、奥州南軍の動きがこの時期俄かに活発化したので、奥州北軍の総大将たる石塔義房は、当時相当胃が痛
くなっていたのではなかっただろうか。

さて、顕信は石巻の日和山城で興国四年(1341年、北朝暦応四年)を迎えていると推定されているが、何も彼はそこ
で「のほほん」と年を越していたわけではない。
彼は、奥州南軍の総司令官として陸奥国府を奪回し、最終的には上洛するという重大な戦略目的を達成しなければな
らなかった。その為にあらゆる手を尽くしていたのであるが、現在の我々が「では、顕信はどんな手段を尽くしたの
か?」という事になるが、それを知る術はまず前回に挙げた、南部政長宛ての教書である。
そして、以下は興国四年三月付けの書状だが、結城親朝に宛てた書状が残っている。





宮内少輔清顕書状

都以下下向之時 委被申候間 諸事被散御不審了 白河 坂東辺事無相違条目出候 抑此辺事 随分雖被回籌策
候哉 不令達候 無念之処 近日一道可然子細出来申事 巳可為近日歟 委者雖被戴状候間 専使ニ被仰含候也
南部 河村同心候ニ可令上洛候歟 就是非不過四月中之由申候也 兼又(一字欠落)源少納言構要害於伊具辺  
対治凶徒候者 此辺発向之潤色 可為此事候間 被相越伊達辺候就其中村 黒木等許へ可令戮力之由 可令下知
給  且又兵糧可見訪之由 同可有御下知候者尤目出候
一 府中対治事 自其辺合力 尤可為大切之由 葛西申旨候 委被仰含専使候也 委可令尋聞給候 兼又那須彼山
辺事 能々可被相誘候 葛西姪遠江守有別心之由 風聞之間 為惣領斗此間令討伐了 一族にて悦喜之間 為発向
も弥心安被思食候所候也 恐々謹言

三月廿四日 清顕奉
修理権太夫(結城親朝の官位)殿





これを全て訳していくのはひどく骨折りなので、いくつかの要点のみに絞ってみようと思う。
前半の部分は、恐らく結城親朝個人に宛てた文面らしく思うが、顕信とその幕僚達が、親朝に"不信感"を抱いているよ
うな節が見え隠れしている感じである。
後半の文面で、葛西氏が「府中(陸奥国府)攻略には結城氏との"合力が大切の由"である」と言っているものの、親朝
が南北両朝を天秤にかけているようにでも見えたのであろうか。
もっとも、この時点における親朝の周辺を見ると、実は北朝側の諸氏に囲まれて「八方塞がり」に近い状況であったか
ら、顕信達が抱いていたのかもしれない"不信感"を、簡単に鵜呑みにするわけにはいかない。
また、この書状には後半、葛西一族の中で「遠江守」を名乗る者が叛旗を翻し、宗家に討伐された、とあり、奥州の南
軍が決して「一枚岩」でなかった論拠として挙げる事が出来よう。
ちなみに、結城親朝はこの書状が書かれた前後に、隣接する石川氏(北朝側の宗家筋と思われる)を攻撃している事
が分かっているが、これについては後述する。
ところで、この文面の中に「源少納言」なる人物が、手勢をもって伊具郡(いぐ。現・宮城県南端部で、福島県相馬市な
どと境を接している)に要害(陣地)を構築している旨が書かれている。
この時期奥州に、それも現在の宮城県にいた源姓の指揮官クラスといえば、村上源氏の北畠一族くらいしか、該当す
る者がいないのではないかと思われる。
当時の北畠氏一族の姓としては、例えば「中院(なかのいん)」氏や「春日(かすが)」氏が知られており、親類筋には
「堀川」(ほりかわ)「久我」(くが)「土御門」(つちみかど)といった諸氏があった。もとより、これら全てが南朝側に付いて
いたわけではないが、少なくとも北畠氏一門に属した中院、春日などの一族の者が、顕信あるいは親房に従って関東、
奥州に展開していたであろう事は疑う余地が無い。
また、岩手郡に侵攻した南部氏を中心とする、北奥南軍の南下開始を四月とみており、その成果に期待していた事もう
かがわれる。

ではここで、前回の教書と上記書状から、顕信とその幕僚達の作戦構想を自分なりに推測してみよう。

●まず、雪解けを待って糠部(現・青森県八戸市周辺)の南部勢が、既に確保した岩手郡西根(現・岩手県西根町周
辺)から南下を開始、南朝に帰順した河村氏と共に現在の盛岡市を中心とした、岩手郡全域、斯波郡(現・岩手県紫波
町周辺。足利氏の荘園があった)などを制圧する。
●南部勢は、その後更に南下して葛西氏、南朝側に付いた和賀一族と呼応し、北上川中流域(現・岩手県北上市周
辺)に勢力を持つ和賀氏宗家を討つ。
●和賀氏の制圧に成功したら、南部、葛西を中心とした南軍は更に南下して府中(陸奥国府)を窺い、石巻の顕信本
隊と連絡する。
●更に呼応する形で、南からは伊具の「源少納言」率いる一隊と、伊達氏の軍勢が北上して挟撃の態勢を固める。
●ここからは憶測の域を脱しないが、南奥の北軍に対しては田村氏、標葉氏(しねは。あるいは"しめは"とも。相馬氏
領のすぐ南に所領を持っていた)、石川氏(分家筋)、国魂氏(くにたま。現・福島県いわき市北部に所領を持ってい
た)、結城氏等の南朝方国人が陽動作戦を行い、動きを封じる。
●また可能であれば、出羽国司の葉室光世に要請して府中に圧力をかけさせる。
●そして、時期を見て府中に全軍総攻撃をかけ、陸奥国府を占拠、周辺の地固めを行った後に西上を開始する……。

いかがであろうか?

これが計画通りに成功したなら、一気に岩手県と宮城県のほぼ全域を南朝色に塗り潰してしまえた事は疑いないし、
当時としては稀に見る、非常に大規模な作戦ではなかっただろうか?
これまで、奥州の南北朝時代は大きな作戦行動が少ない目立たぬ地域と見られがちであったが、前回の南部政長に
宛てた文書と、上記の結城親朝宛の書状から察するに、顕信とその幕僚達が如何に大掛かりな作戦を立てていたか
が分かるかと思う。
まぁ、上記構想はあくまでも「自分の推論」でしかないし、例えば「当時の状況を考えると、あまりに実現性の無い作戦」
と言う方もおられよう。
だが、ここで改めて考えていただきたいのは、諸豪族、つまり国人領主達の動静いかんによっては、いつでも戦局が逆
転したという"厳然たる事実"である。
北朝の旗幟を鮮明にしていた、とされている豪族達ですら、幕府(あるいは鎌倉府)の呼びかけに対し、時に言を左右
にして趨勢を傍観した事があるのが分かっているし、何よりも自領の確保こそが、国人領主たる諸豪族にとっては最も
大事な事であったのだ。そうした心理を上手く利用して作戦を展開する事が出来れば、上記の作戦構想は連絡手段の
難しさや兵糧の確保といった問題を差し引いても、成功する可能性が無いとは言えないどころか、充分に「勝算のある
作戦構想」だったのである。
中には、顕信が"軍事的な才能が低いか、あるいは無能者だった"とか言う論調もあるが、こうして見ると中々どうして、
幕僚達も含めその戦略スケールは大したものであると言わざるを得ない。もちろん実行に移さなければ、どれほど優れ
た構想であっても「絵に描いた餅」でしかないわけで、上記構想が果たして実行に移されたのかどうかが、さしあたり問
題になってくる。
そこで登場するのが、四月二十日付けのこれまた結城親朝宛ての書状である。





清顕書状

其後依殊子細 久不被仰候 南部以下奥方官軍 己令対治斯波岩手両郡 責上候間 河村一族等其外諸方参御方
候 稗(書状ではくさかんむりの"ひえ")貫出羽権守一族等宗者共数輩討取了 於御方者無殊子細候 付其葛西 以
下和賀滴石輩成一手 欲対治府中候 仍当所御勢等 悉今明間可被出候 其方相構々々 急速ニ可被罷立候 同
時合力 尤可為要枢候 且(二文字欠落)於其堺被合戦之由風聞候 実事ニ候哉返々目出候 尤被感仰之由候也 
恐々謹言

四月廿日 清顕(花押)
修理権太夫殿





 更に、以下は北畠親房の書状の最初の部分を抜粋したものである。





北畠親房書状(抜粋)

南部以下奥方勢己進発 岩手斯波両郡令静謐之 於栗屋河与部抜(←"部抜"と書いてあるが、どうやら"へぬき"と読
むらしく、稗貫氏の事を指すものと推測)党合戦 令打勝之 著和賀郡葛西勢等為一手可責国府之由 以飛脚被申候





この二つの書状を見ると、南部氏を中心とする北奥南軍が「栗屋河」にて稗貫氏を始めとする北朝方と合戦、北軍を撃
ち破って斯波郡(岩手郡のすぐ南。現・岩手県紫波町周辺)をも制圧した、とある。
南部政長を将とする北奥南軍は、雪解け前か同時、恐らく3月下旬に行動を起こしたと推測される。その論拠は上記
の書状(清顕の名で書かれたもの)が四月二十日付けである、というところで、当時の情報伝達速度が約1ヶ月である
事を考慮すると(前回参照)、南部氏は3月下旬に攻勢を開始したという推測が成り立つのだ。
北奥南軍と北軍が激突したのは、親房の書状から「栗屋河」、すなわち「厨川」、現在の岩手県盛岡市で行われたと見
て間違いは無い。かつて、安倍氏の遺跡から中世の太刀が発見されたという話もある事で、古代から変わらず盛岡市
は要衝だったわけだ。
さて、この戦は「栗屋河合戦」と呼ばれているが、以前は南軍が確保した岩手郡を奪回せんと、稗貫氏を始めとする北
軍が攻め込んで逆に返り討ちにあった、と推測されていたらしい。
しかし、前回や今回取り上げた書状を見る限り、「栗屋河」にいたのはむしろ北軍であって、南軍が攻め込んで叩きの
めした、と見た方が自然ではないだろうか。この戦で栗屋河に駐留していた北軍は散々に叩きのめされ、指揮官クラス
の武将も数名討ち取られたようである。
南軍はこの余勢を駆って斯波郡、更に南の稗貫郡(現・岩手県花巻市周辺)を席巻したようだ。現在の岩手県紫波町
周辺は、奥羽山脈と北上山地に挟まれた平野部であり防御拠点がほとんどなかったと思われ、攻め手の南軍は当た
るを幸いに北軍を撃破したのではないだろうか。

 さて、上記の書状二通は年号が欠けているものの、今では状況推測などから1341年(興国二年)と見られている。と
ころが前回の南部政長への書状、前年(興国元年)12月のものと見られる書状もまた、この年のものである、と以前
の学会では見られていたらしいというのだ。
 前回取り上げた書状には、こんな一文があった。

「今度又対治岩手西根  被構要害候之条目出候 此上者明春?和賀滴石成一手可被対治斯波  候左様候者」

 それが上記の五辻清顕の名で書かれた書状にはこう書かれている。

「南部以下奥方官軍 己令対治斯波岩手両郡」

 つまり、興国二年四月の時点で「己(←"既に"と同義)に斯波、岩手両郡を対治(制圧)した」とあるのに、何故その8
ヶ月も後になって
「今度、岩手西根に要害を構えたのはめでたい事である。この上は春を待って和賀、滴石と一手になり斯波郡を対治
する事」
などと言わねばならないのであろうか?
 これほど前後関係がはっきりしているのに、どうしてこの点が全く取り上げられなかったのか、理解に苦しむところで
ある。一体、当時歴史学に携わっていた人達は何を調べて何を議論していたのだろうか?

 これまでの事象を考えると、計画は確かに実行に移されたと見て間違いは無く、顕信はこうした情報を結城親朝に伝
えて決起を促していたと見られ、また自らも陸奥国府奪回の為、出撃を準備していたらしい。
 上記書状の中には「其方相構々々」という一文がある。「相構えて構えて」というくらいの意味合いで、顕信の作戦成
就にはどうしても親朝の出撃が不可欠だという事で、痛切なまでに決起を促していたようだ。
 ここで結城氏を始めとする陸奥南部の南朝方諸氏が動けば、事態はどう転がるか分からなかったかもしれない。
しかし顕信の作戦構想は、彼のあずかり知らぬ所から崩壊してしまう事になる。この顛末について語るにはかなり長く
ならざるを得ない為、次回に譲る事として今回は筆を擱きたい。





第六章 〜興国(二)〜 了



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