第十二章 〜興国(八)〜









当時の南北朝を巡る各地の豪族達の動きであるが、通説では、北朝寄りの立場を取る者が増えていったとされてい
る。これは全国的な視点で見れば、間違っていないと筆者も思う。
もっとも、南朝に従う事で自分の所領を守ろうとした豪族も、当然いた訳であるから、中央の発動する合戦以外にも、こ
うした所領を巡る豪族間の小競り合いは、日常的に近い割合で起こっていたのではないか、そう筆者は推測している。
これに対して彼等を統率すべき、北朝であれば奥州探題――今はまだ「総大将」と言うべきだろうけれど――や、南朝
であれば鎮守府将軍――つまり、北畠顕信――の影響力はどれだけのものであったのか。
通説を参考にすると、当然北朝の奥州探題(総大将)の方が影響力は大きく、南朝の鎮守府将軍(顕信)の影響力は
まるで小さいか、あるいは落人伝説に近いくらいまでに無視されがちであったりする。
ところが、三迫合戦における北朝の総大将、石塔義房の書状と、南朝鎮守府将軍たる顕信の書状(こちらは主に幕僚
の代筆だったりするが)を見てしまうと、どうもこの力関係があやしく感じてられてきてしまう。
何と言うか、顕信の率いる南軍の方に気合いが入っていて、義房の方はいっそ、泣きが入っているのではないだろう
か、とすら思いたくなってくる。ただ、三迫合戦は北軍が勝利を手にした為、義房もまずはひと息ついた格好とでも言え
るだろうか。
とは言っても、顕信がそのまま引き下がったわけではない。南出羽の藤島城を当面の根拠地としつつ、政治工作も指
示すれば作戦の立案もしたであろうと推測される。
興国元年(1340年。北朝暦応二年)に奥州入りしてから、顕信は南部や伊達、葛西などの諸氏と連絡を取りつつ、陸
奥国府奪回の為の作戦を練ってきていた。結城親朝の北朝転向、三迫合戦の敗北といったマイナス要因はあったが、
それが即、奥羽南軍の崩壊につながる程大きなものではなく、諸将の態度如何では南朝の巻き返しも決して不可能で
はなかった、と言ってもいいだろう。それを頭に置いて、顕信は今度は出羽藤島城などを拠点とし、南軍の指揮に当た
ったものではないだろうか。





ところで、顕信が新たに根拠地としたとされる出羽国の藤島城だが、場所は現在の山形県藤島町である。
藤島城は、山形県でも庄内地方(現在の山形県鶴岡市周辺)と呼ばれる地域にあり、羽黒、湯殿、月山といった修験
勢力の本山とも隣接する位置にあった。
出羽国府は、古代において現在の酒田市北部となる城輪柵(きのわのさく)に置かれたが、南朝の出羽国司となった葉
室氏が根拠地として定めたのがこの城である。しかし、葉室氏の出羽支配は、当初思うように機能しなかったと言え
た。
建武の新政で出羽国司として赴任した葉室光顕(はむろ・みつあき)が、着任間もなく殺害されるという事件が起こった
のである。足利尊氏の関与も疑われると言われるこの事件だが、出羽国にはかつて鎌倉幕府の執権であった北条氏
の一族が残党と化して展開しており、恐らく光顕は彼等の襲撃を受けて命を落としたのではないだろうか。
出羽国の北条残党は、安達高景(あだち・たかかげ。北条一門の出で、鎌倉幕府末期、秋田地方に所領を持って建武
新政に抵抗した)や名越時如(なごえ・ときゆき。北条一門の出で、鎌倉幕府末期に秋田に逃れ、安達高景と共に抵抗
する)を盟主にして建武の新政にこぞって抵抗したのである。
もっとも、建武政権がこれを黙って見過ごすわけがなく、すぐに葉室光世(はむろ・みつよ。出羽で殺害された光顕の息
子。光顕の後継として出羽国司に任命される)を出羽国司として北条残党討伐を断行させている。この討伐戦は成功し
たらしく、安達、名越の二人は津軽に逃れたが、ここでも北条残党討伐は進められており、死亡したものか、あるいは
どちらか、もしくは両名とも降伏したものだろうか、いずれにしろその後の資料にこの二人の名前は現れてこない。
津軽方面が、その後も豪族同士の所領争いなどで情勢が決して安定しなかったのに対し、出羽国ではその後大規模
な戦闘は起こっていないが、出羽国司の影響力は、顕信の鎮守府将軍としてのそれより弱かったと考えていいのでは
なかろうか。
出羽国司の話で脱線してしまったが、ここらで話を本筋に戻そう。山形県の城郭の資料を見てみると、藤島城に関し
て、

「興国五年に北軍の攻撃を受けて陥落し、出羽国司葉室光世は戦死した」

という記述がある。そして、これを境に出羽の南朝側も多くが北朝に転向したとされている。
同時に、顕信に関する記述として、

「正平二年(1347年。北朝貞和三年)に宇津峰から追われた後、立矢沢(たちやざわ。現在の山形県立川町)城に逃
れる。その後正平六年(1351年。北朝観応二年)に挙兵して陸奥国府を奪回するも敗れ、正平八年(1353年。北朝
文和二年)に宇津峰が陥落すると再び出羽に逃れ藤島城に拠るが、正平十一年(1356年。北朝延文元年)に藤島城
も陥落、顕信は最上川以北に潜伏する」

というものがある。
興国五年の藤島城陥落という記述は、そのまま受け取れば、出羽においても南北朝の争いが北朝主導に進められた
という事になるわけだが、これまでの顕信の行動を、最新の研究を参考にしてたどっていくと、ちょっと辻褄が合わなく
なってくる。
まず、奥州に下向した顕信が最初に根拠地としたのは、これまでの通説では南奥の宇津峰城とされているが、その後
研究が進むと、根拠地は宇津峰ではなく石巻ではないかという説が有力視されるようになり、今では石巻を最初の根拠
地としたと見て、間違いはないとされるようになっている。まぁ、宇津峰から三迫合戦を発動するよりなら、足場を固めて
直接陸奥国府奪回を図った方がよほど近道であり、実際の三迫合戦は、決戦ではなく前哨戦的なものであったと見た
方が、より戦闘の性格に合っている。
三迫合戦後、通説では顕信はなおも宇津峰に留まり、上記記述のような行動を取ったとみなされているが、その後は
滴石に逃れたという説も出たりしている。
最新の研究では、三迫合戦後の顕信は興国四年頃に出羽に移動したと推定されている。ここで通説に従うとすれば、
その翌年には何らかの形で、北軍が藤島城に拠る顕信以下の南軍を叩きのめせるだけの状況が、曲がりなりにも整
っていなければならない。
ここで取り上げた資料では、庄内地方に所領を持っていた武藤氏が北朝の側にあって、興国五年の藤島城攻撃の一
翼を担っていたように書かれているが、これだって他の資料とも照らし合わせて見ていくと怪しいものだ。何しろ、出羽
の武藤氏は羽黒修験との関係を密にしながら力を保ってきており、その羽黒修験は南朝側に付いていたとされている
からだ。
また、興国元年に庄内地方で南軍と北軍が衝突し、南軍が敗れたという記述も資料にあったりするが、これなどはむし
ろ後年の、奥州探題斯波氏による出羽侵攻との混同ではないだろうか。この辺りは証拠のない、個人的な憶測になっ
てしまうが、こう考えて見ていくと、興国五年の藤島城陥落というのは、建武新政序盤における葉室光顕殺害事件との
混同なのではないか、とすら思えてくる。
もし、仮に葉室光世が上記の通り興国五年に死去したとしても、それは城を枕に討ち死に、というものではなく、病死で
はなかったろうか? いずれにしろ、興国五年の段階で藤島城が北軍の攻撃により陥落した、という通説は、否定され
ると言ってしまっていいのではないかと思う。
憶測を、誤解を恐れずにもう少し言い方を変えた形で述べると、顕信が宇津峰に長く拠っていたという通説に従う形
で、興国五年の藤島城陥落の記述はひょっとすると"作られていた"のではないだろうか? それを、東北の歴史研究
に携わる人々が孫引きしていたとすれば……。
繰り返すが、これはあくまでも個人的憶測である。推測でも断定でもない。ただ、これまでの通説通りに顕信の行動を
追っていくと、素人目ですらあまりにも辻褄の合わない事が、それこそいくつも出てくるが、これは一体何なのか? とま
ぁ、そういう事なのだ。
もっともこんな事、歴史研究など丸っきりど素人の筆者が、知ったかぶりのでかい顔して言うような事ではないのだが。





ともあれ、顕信は興国五年の段階において出羽国、それも庄内地方にいたであろう推測は、藤島城の存在によって補
強される事になるが、この藤島城は、出羽国司たる葉室氏の根拠地であった。もし、それが理由で藤島城が顕信の根
拠地でなかったとすれば、もうひとつの根拠地候補として挙げられるのが近郊の立矢沢城である。
先述の通り、立矢沢城に顕信が拠ったという山形県の歴史に関する記述もあるので、以前書き留めた「藤島城を顕信
が出羽における根拠地にした」という記述は、むしろ訂正されるべきなのだろうか、とも考えたくなってくる。
藤島と立矢沢、どちらが顕信の根拠地であったかというのも調べてみると面白いかもしれないが、とりあえず話を先に
進めていく事にしよう。
興国五年における顕信の行動には、どこかに移動したとか、あるいはどこかで戦闘を指揮したとか、そういった目立つ
ものは見当たらないが、前回取り上げた南部政長への教書がこの年に書かれたものではないか、という推測がなされ
ている。
戦後新たに唱えられた説では、この時期の顕信は滴石(岩手県雫石町)に南部氏や滴石氏を頼って身を寄せていた、
という事になっているようだが、むしろ当時の顕信は出羽国で南軍を統率していたのではないか、という最新の説を筆
者は支持している。
この教書の他に、顕信自筆と言われる短い文面の書状が、新渡戸文書と呼ばれる南部氏関連の一連の文書群の中
に含まれていたとされている。





北畠顕信書状

去六日令下着山南候信州 勢を被上事候はゝ 相構代官少々可被上候也 状如件

八月十二日(花押)





これは、南部政長宛に書かれたものとされているが、ほぼ同じ内容の書状がもう一通出ているとの事であり、それは政
長以外の一族に出されたものではないか、という推測がなされているようだ。
それにしても、これだけでは何の事かさっぱり分からん、というのが第一印象であろうし、それは筆者自身も同感だが、
とりあえずこの文章を崩さない事には内容の「な」の字も見えてこないので、ともあれ崩してみる事にしよう。

「去六日令下着山南候信州」

この文章を資料に頼りつつ崩すと、

「去る六日、信州山南に下り着き候」

くらいには読めるだろうか。この中の「信州」というのが、後の陸奥国府攻防戦において、顕信の副将格として北軍に位
置付けられる事になる「南部信濃守」ではないか、と言われている。南部氏は、八戸南部や三戸南部が主に取り上げら
れるが、元々本家は甲斐国(現在の山梨県)の出であり、こちらの方から奥州に下向した誰かが、顕信の幕僚として仕
えたのではないか、というのがその推論とされているわけだ。
八戸南部の当主は、この時期奥州南部氏を統括していた政長であるが、彼の最終的な官位が「遠江守」であり、三戸
南部が行長(信長とも)で、こちらの官位が「伊予守」であったとされるのも、この推論を補強する材料とされているよう
だ。
では、その次に出てくる「山南」とはどんな意味なのか、という事になるが、これは地名ではないか、と言われている。出
羽のおおまかな地域を表す言葉に「山北」という言葉が、当時からあったと考えられる事から、これに対しての地名、と
いう事になるだろうか。
この「山南」「山北」に対応する場所は東北地方にあるのだろうか、という事になるが、答えから言うと、ある。
当時の出羽国、それも現在の秋田県、大曲市や角館町、田沢湖町などの地域は、かつて「山本郡」と呼ばれていた。
現在の秋田県で「山本郡」と言えば、能代市の南にある山本町や琴丘町といった地域を指して言うわけだが、この当時
は別の場所を「山本郡」と呼んでいたわけだ。
つまり、ここで言う「山南」とは「山本郡の南側」を、意味する事になる。山本郡の南側となると、大雑把に推測しても現
在の秋田県大曲市辺りに相当する事になるだろう。もしかしたら、この読み方の名残りが、現在の「仙南」「仙北」という
地名になったものだろうか。
次に、残りの部分を崩してみよう。

「勢を被上事候はゝ 相構代官少々可被上候也 状如件」

この文面を崩すとなると、前の部分との関連で考えないとならないが、こういう風に読めないだろうか。

「勢を上げる事候はば、相構え代官を少々上げるべく候 状件の如し」

この場合「勢」とは軍勢を意味するものと考えられ、一見意味が分かりにくい「少々」とは、現在とはニュアンスが違い
「応分に」「然るべく」という意味合いで用いられたそうである。とすれば、この部分をもっと分かりやすいように崩していく
と、

「軍勢を上げる事があったら、必ず代官を然るべく派遣するように」

こんな意味合いになるのではないかと思われる。この前後ふたつの部分を、崩した状態で組み合わせると、以下の意
味合いになるはずである。

「去る六日、信濃守が山南に着いたので、(彼が)軍勢を上げる事があったら、必ず代官を然るべく派遣するように」

要は、顕信が南部政長に送った簡単な指示書というわけだ。特に内容を細かく書いてあるわけではない事から、詳細
については使者の口頭による説明で伝えられたものであろうか。
これは、顕信が南部氏を頼って逃げ隠れたとか、そういうニュアンスとは全くの対極にある書状と言えるだろう。逆に、
顕信が南部氏を統率下に置いている事の証明とも言えないだろうか。もちろん、顕信が奥羽における南軍の統率にお
いて、南部氏を頼みとして重視した事は想像に難くないにしても、少なくとも奥羽の南軍が、自分勝手に作戦行動を行
っていたわけではない、という証明のひとつにはなるはずだ。
恐らくは、影響力に問題なしとしなかった、とされる出羽国司葉室氏も、顕信を出羽に迎えた事でそれなりの権限を維
持する事が出来たに違いない。





話は変わるが最近になり、出羽国における南軍の統率に携わった人物として、現状まだ仮説の域を出ていないもの
の、楠木正家(くすのき・まさいえ)の名前が出てきている。
この楠木正家、一説では南朝の忠臣として今もその名を残す楠木正成の弟とされているが、どうやらそうではなく楠木
氏の傍流ではないか、との見方が有力視されているようでもある。
通説による正家の経歴を見ると、建武二年(1335年)に正成の代官として常陸国に赴き――建武新政により、楠木氏
の所領が常陸にも加増されたものであろう――瓜連城を拠点に活動、その後足利勢の攻撃により瓜連を放棄、奥州
に北畠顕家(きたばたけ・あきいえ。顕信の兄で、鎮守府将軍だった)を頼る。
延元二年(1337年。北朝建武四年)、顕家の二度目の西上に従い、翌年顕家の戦死後河内国に退去、正平三年(1
348年。北朝貞和四年)の四条畷の合戦で楠木正行(くすのき・まさつら。正成の嫡男)と共に討ち死にした、とされて
いる。
だが、これが事実だとしても、本当に顕家の二度目の西上に従ったのかどうか、あるいはその後の四条畷までの間、
一体何をしていたのかが、実は不明だったりするのである。
もしも正成の弟であったなら、そして顕家の西上に従った後に河内に帰ったのであるなら、少なくとも正行が成人するま
での間、楠木氏の惣領として迎えられ、名を残すに足るだけの働きはしたであろう。それ以前に、本流として顕家の第
二次西上に従っていたとするなら、楠木党にそれなりの影響力を行使し得ただろうし、顕家が和泉国において戦死する
ような痛恨事は、もしかしたらなかったかもしれない。
ともあれ、最近知る事になった仮説だが、正家の行動の中で空白とされる時期における行動は、出羽国をメインにした
ものではないか、というものである。
秋田県の海岸部でも山形県に近い地域は、昔から「由利郡」と呼ばれている。現在の本荘市周辺の地域であり、江戸
期に松尾芭蕉が立ち寄って一句を認めた象潟(現在の秋田県象潟町)もまた、この由利郡に属している。この由利地
方に、楠木氏にまつわると言われる寺院や伝承が残っているのだ。楠木氏のみならず、由利地方には南朝の親王が
身を寄せたのではないか、とする伝承もあり、由利郡が南朝の影響下に長くあった事を想像させるものとなっている。
正家に関する仮説にもう少し言及すると、以下のようになる。

「楠木正家は、奥州から南朝圏確保の為出羽国に入り、雄勝、平鹿を経て山本郡に橋頭堡を構え、その後由利郡に
移動、由利郡内の諸将を取りまとめた後河内に帰り、正行に従い四条畷で戦死した」

端的に述べると、こんな感じになる。
もっと述べると、正家が出羽国に入ったのは、南北朝分立後の延元年間以降ではないかという事であり、由利郡に入
ったのは興国元年(1340年)前後ではないだろうか、というのが仮説の中で語られているわけだ。そして、この仮説と
通説をかけ合わせると、楠木正行の挙兵した正平二年頃には、正家は河内に戻っていたのではないか、という推測が
出てくると思う。
繰り返しになってしまうが、正家が正成の弟だとすれば、彼は先にも述べたが正成亡き後の河内楠木党本流にこそ、
最も必要とされるべき存在だったはずだし、正家が正成の弟であるなら、そもそも遠い常陸国に与えられた所領に、お
いそれと正成が弟を派遣するだろうか、という疑問すら生まれてくる。
楠木氏の傍系、傍流という事であれば、建武政権より与えられた遠方の所領を管理するのに適した人物、という正成
の判断で、正家が家族郎党と共に派遣された、という事も考えられてくる。
その後、足利尊氏が叛旗を翻して南北朝が分立すると、常陸の所領を放棄した正家とその一族が奥州に入ったとすれ
ば、その後奥州経由で出羽国に入ったという仮説が成り立つ。この頃はまだ北畠顕家が健在だった時期でもあり、もし
かしたら正家の出羽入りは、顕家の指示によるものだったかもしれない。
顕家が戦死した後、顕信が鎮守府将軍に任命されるが、彼は興国元年まで奥州に下向できない状況に置かれた為、
正家は恐らく、出羽国司として藤島城にあった葉室光世や、当時常陸国に赴いて南軍の指揮を執っていた北畠親房と
の間で連絡を取りつつ、中部出羽の諸将を宣撫していたのではないだろうか。
興国元年に、顕信が鎮守府将軍として奥州下向を果たすと、正家は鎮守府将軍の後ろ盾を正式に得た格好となり、今
度は由利郡に移動して現地の由利氏や鳥海氏、大井氏などといった諸将を取りまとめた後、一族を代官として残し、河
内の楠木正行の下に戻ったとすれば、由利地方に伝わる伝承も含めて、正家に関する空白の期間を埋めるには、ふ
さわしくも思える。
通説に言われるように、顕家の第二次西上に従っていたと仮定すると、顕家の戦死後、一旦河内の楠木氏領内に帰
還し、やがて顕信に従って奥州に下向、その後顕信の本隊から分派して出羽国に入った、と推測する事が出来るかも
しれない。個人的には、顕家の第二次西上前には出羽国に入っていたのではないか、と思いたいところではあるのだ
けれど。
伝承のひとつには、正家が「出羽守」として由利郡に入ったような捉え方もあるらしいのだが、出羽守という官位は、南
朝にとってはイコール「出羽国司」であったはずで、その出羽国司には葉室氏がなっていたから、正家が「出羽守=出
羽国司」という事はあり得ないのではないだろうか。とは言え、鎮守府将軍たる顕信の指示を受け、出羽国司の指揮下
に入った形を取って、由利郡の裁量を任されたとすれば、後世の由利郡の歴史や、今に残る伝承とも照らし合わせる
と、仮説としては辻褄が合ってくるようにも思える。





顕信は、興国五年の時点でまだ20歳代半ばであると見られるが、現存するとされる教書や書状などの文面を資料な
どであれこれ見ると、これが中々どうして、落人伝説的な通説を笑い飛ばすような印象である。
考えてみれば「太平記」にしろ、各地における南北朝期の資料などを見ると、見た目に派手な合戦の行われた地域や、
それに関連した人物を除くと、お世辞にも決してフォローされているとは言い難い。
顕信はその点において、ようやく目が向け直され始めたばかりの人物と言えないだろうか。そして、顕信の指揮下でど
んな人物が活動したものか、という事も。
筆者は歴史学者でもなければ専門の研究家ですらない。筆者がここでしている事は、これまでに読んできた歴史関連
の書籍を通して「北畠顕信」という人物にどういうわけか興味を覚え、それに関する記述を読む内に素人ながら、ど素
人ながら疑問を抱き、図書館から書籍を借りたり、インターネットなどで補足的な事を見てみたり、そうした中で、

「こう考えれば、北畠顕信の行動が歴史の中で合致するのではないだろうか」

そんな事を考え、それを正直に殴り書きしているようなものである。もちろん、自分で考えるには難しいものもあるし、軽
率に判断しかねる事項だって多い。
ただ、だからと言って孫引きばかりじゃ芸もなければ能もないし、それでは上記のような事を考える意味すらないではな
いか。
これまでの通説と、最近の説を比べて考える事で、自分なりの答えをつたないまでも出してみる事。歴史好きの筆者と
しては、これが大事な事なのではないかと思っている。
流石に、1990年代に歴史愛好家たちや、歴史研究家たちを騒がせた「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし。東
日流は"つがる"と読ませるようだ)なんかは、関連で書かれた書籍を読んだ限りでは、なるほどスケールこそでかい
が、あまりにも「正史を無視し過ぎではないか」としか言いようがない。
どうやら「東日流外三郡誌」なるものは、江戸期津軽藩の正史と呼ばれた「津軽一統志」という文書や、奥羽の様々な
歴史資料を参考にして「作られた演義もの」と考えた方が、より適正な見方なのかもしれない。
とりあえず、このコラムと「東日流外三郡誌」は、ほとんど関わりを持たない。せいぜい、津軽の区分が四郡プラスふた
つの行政区分外地域――平賀(ひらか)、田舎、山辺(やまのべ)、鼻和(はなわ)の四郡と、外浜(そとがはま)、西浜
(にしのはま)の区分外地域――という区分けであり、六郡――平賀、田舎、鼻和、奥法(おきのり)、馬、江流末(える
ま)――ではないというくらいなものだろう。
津軽地方の事については後で触れる事にして、今回はここまでにしておきたい。









第十二章 〜興国(八)〜 了



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