第十一章 〜興国(七)〜









諸事情により、長く執筆を休んでいた事をまず始めにお詫びしたい。
むしろ忘れ去られていたとしても、これは致し方のないところであるが、少なくとも筆者にはこの執筆を投げ出すなどと
いう意識は毛頭ないので、不定期に続くこのコラムに、出来れば気長にお付き合い頂きたい。
さて、今回はちょっと止まって、奥羽の諸豪族が南北どちらに属していたか、という問題に少し触れてみたいと思う。





ところで、ひと言で奥羽と言うが、歴史的な(南北朝当時の)行政区分に当てはめると、陸奥国と出羽国のふたつの地
域に分けられており、現在の行政区分に照らし合わせれば、以下のようになる。

陸奥国(奥州):青森県、秋田県(鹿角市周辺の他、大館市を含む周辺地域も編入されていた。これまでの執筆では、
便宜上大館市を含む地域も出羽国と書いている)、岩手県、宮城県、福島県。

出羽国(羽州):秋田県、山形県。

古代において陸奥の国府は多賀城(現・宮城県多賀城市)に置かれたが、建武新政時には鎮守府将軍となった北畠
顕家が、当地の豪族であった留守氏から岩切城周辺(現・宮城県仙台市、利府町にまたがる)を接収して国府としたの
ではないかと、最近では考えられている。
出羽の国府は、古代において北に置かれたり南に置かれたりと変遷しているが、最終的には城輪柵(きのわのさく。
現・山形県酒田市)に落ち着いている。建武新政時には、国司に任ぜられた葉室氏が藤島城(現・山形県藤島町)に拠
り、その後も長く南朝の根拠地として機能していたと推定されている。
では、南北朝時代の奥羽において主要な豪族はどのくらいいたものか。そしてどこの地を領し、南北どちらに属してい
たものか。とりあえず、それぞれの地方史などにその名が見える主な氏族を北から順に並べていく事にしよう。まずは
奥州から。
ちなみに北畠氏や、奥州探題となった斯波(しば)氏、同様足利一族の畠山氏、石堂氏、吉良氏などの足利氏系は、後
述する高水寺斯波氏を除いて紹介の性格上除いている。





●津軽安東(安藤)氏
奥州安倍氏系とされるが、詳細は不明。現在の青森県津軽地方の海岸部――当時は律令以来の行政区分の外に位
置付けられ、日本海側は西浜(にしのはま)、陸奥湾側が外浜(そとがはま)と呼ばれた――を領していた。一族には後
述する出羽安東氏があり、基本的に同族連合的な体制で北部日本海の制海権を握っていたと思われる。
南北朝期になると、南北双方の政治的な働きかけによって一族内が分裂したと推測されるが、その後の奥羽における
事態の推移を見ると、通説に言われるような北朝側よりも、むしろ南朝側となっているように推測出来る感がある。

●黒石工藤氏
南家流藤原氏系とされる。現在の青森県黒石市周辺を領していた。この黒石工藤氏と南部氏は姻戚関係にあり、共に
南朝側となっているが、その後南部氏に吸収されていると見られる(黒石工藤氏と南部氏が、姻戚関係にあった事が
知られている)。
ちなみに工藤氏は元々、現在の岩手県盛岡市周辺に所領を持っており(厨川〔くりやがわ〕工藤氏と呼ばれている)、こ
ちらは北朝に属し、南部氏との交戦で壊滅状態になって、後に南部氏に降伏したようだ。

●曾我氏
桓武平氏系。現在の青森県弘前市、平賀町周辺を領していた。建武新政においては北条氏残党討伐に活躍するも、
南北分裂後は一貫して北朝に属する。
長く南部氏を始めとする北奥南軍と戦い続けたが、孤立した末滅亡する事となる。

●南部氏
清和源氏系。現在の青森県三戸町周辺を領していた。建武新政以降、南北朝の全期間を通して南朝に属しており、北
奥の検断職を務めるほど重きを成している。
北畠顕信に従った南部政長は、戦功により現在の青森県八戸市周辺を領する事が許されており、いわゆる「八戸南部
氏」の初代ともされている。
江戸期には奥州屈指の雄藩となるが、この時期には政長の長兄の系統と推測される「三戸南部氏」が、南部氏全体の
惣領となっている。

●成田氏
藤原氏系とされているが、現在では武蔵七党横山党系の流れが有力視されている。現在の秋田県鹿角市周辺を領す
る。南北朝期は南朝に属して鹿角国代となっていたとされ、その全期間を南部氏の指揮下で戦っていると言っても過言
ではない。
鹿角地方には、他にも安保(あんぼ)、秋元、奈良の各氏が国人領主として名を知られているが、これらもまた南部氏
に従ったと考えて良いと思われる。

●浅利氏
清和源氏系。現在の秋田県大館市周辺を領する。南北朝期には北朝の側に属しているが、その後の資料や状況から
推測すると、南朝に転じたと思われる。
その後も勢力を保ち続けるが、戦国期に入って安東氏に滅ぼされる。

●河村氏
秀郷流藤原氏系とされる。現在の岩手県岩手町、紫波町周辺に所領を持っていたと推測される。当初は北朝の側に
あったが、後に南朝に転じている。
しかし、一族の中にはそのまま北朝の側に属した者もいるので、恐らく岩手町と紫波町の方に所領を持っていた一族と
では、進退が違ったのではないかと推測される。

●閉伊(へい)氏
清和源氏系と言われるが、定かではない。現在の岩手県宮古市周辺を領する。南北朝期は北朝の側に属したが南部
氏との戦に敗れ、その後は南部氏の下で存続していったものと見られる。

●高水寺斯波(こうすいじしば)氏
清和源氏系。現在の岩手県紫波町周辺を領する。室町幕府を開いた足利氏の一族であるが、鎌倉期より斯波郡の地
頭職にあったとされる。当然ながら北朝に属している。
後の奥州探題となる大崎斯波氏と同族で、南北合一後から戦国期には「斯波御所」と称されるようになった。天正年間
に南部氏に敗れ、滅亡する。

●滴石(しずくいし)氏
桓武平氏系。現在の岩手県雫石町周辺を領する。南北朝期は南朝に属しており、北畠顕信が一時期滴石氏の所領に
留まるなど、その関連も深いと見て良いだろう。
出羽戸沢氏とは同族とされ、戦国期に南部氏との攻防に敗れた滴石氏が戸沢氏を頼って出羽に落ち延びた、と言わ
れている。

●稗貫(ひえぬき)氏
武蔵七党横山党の流れをくむ中条氏系。現在の岩手県花巻市周辺を領する。建武新政では北畠顕家の下にいたが、
その後は北朝に転じている。南部氏とも交戦しており、一度は壊滅的な打撃を蒙るなどしているが、結果的に戦国期ま
で存続している。豊臣秀吉の奥州仕置で取り潰された。

●和賀氏
武蔵七党横山党の流れをくむ中条氏系(成田氏、稗貫氏とは同族関係と思われる)。現在の岩手県北上市、和賀町周
辺を中心に、現在の秋田県六郷町や千畑町周辺にも所領を持つなど、北上川中流域の有力な領主であった。しかし、
一族内では鎌倉期よりしばしば所領を巡る争いがあり、南北朝期には宗家が北朝、いくつかの分家が南朝に属するな
ど、その動向は複雑である。
戦国期まで存続しているが、豊臣秀吉の奥州仕置で取り潰された。

●阿曾沼(あそぬま)氏
秀郷流藤原氏系。現在の岩手県遠野市周辺を領する。南北朝期は北朝に属していたと見られ、そのまま戦国期まで
存続する。
その後衰退して南部氏の傘下に入り、関ヶ原合戦の頃に没落する。

●葛西氏
桓武平氏系。現在の岩手県一関市、平泉町、宮城県気仙沼市周辺、石巻市周辺を領する。南北朝期の前半は奥州
南軍の一翼として重きを成していたが、三迫合戦で南軍が敗れた後、恐らく何らかの政治工作があったものだろう、北
朝に転じているが、庶流の一族が津軽や出羽にあって南朝に属したとも。
その後も勢力を保ち続けて戦国期まで存続するが、天正年間には衰退し、その後豊臣秀吉の奥州仕置で改易され
る。

●山内首藤(やまのうちすどう)氏
秀郷流藤原氏系と言われる。現在の宮城県河北町周辺を領する。南北朝期は当初南朝に属し、後に北朝に転じたと
推測される。
室町後期に全盛期を迎えたが、葛西氏との争いに敗れる。

●留守氏
藤原氏摂関家系。現在の宮城県利府町周辺を領する。建武新政時は北畠顕家の下にあったが、その後北朝に転じて
いる。観応の擾乱ではその渦中にあって、一族壊滅の危機に瀕した事もある。
戦国期に衰退するが、伊達氏の傘下に入り存続する。

●大河戸(おおかわと)氏
秀郷流藤原氏系。現在の仙台市(泉区)周辺を領する。南北朝期は南朝に属し、陸奥国府を巡る戦いに参加している
が、敗れた後は北朝に転じたものと思われる。
戦国期まで存続し、国分氏、後に伊達氏に仕えている。

●国分氏
桓武平氏千葉氏系。現在の宮城県仙台市周辺を領する。建武新政時は北畠顕家の下にあるも、その後北朝に属して
いる。この辺りは留守氏と大差ない。
度々留守氏と対立したが、後に留守氏同様伊達氏の傘下に入る。

●伊達氏
魚名流藤原氏系と言われる。現在の福島県伊達町周辺を領する。南北朝期の前半は一貫して南朝に属し、葛西氏が
北朝に転じてからも、しばらく南朝の一翼として重きを成していたが、後半期に入ると、南奥における南朝の衰退に伴っ
て北朝に転じている。
その後は現在の山形県米沢市周辺に進出、戦国期には「独眼龍」の異名を取った伊達政宗の活躍で奥州屈指の大名
となり、江戸期には仙台六十二万石の名家として令名を馳せる。

●奥州相馬氏
桓武平氏系。現在の福島県相馬市周辺を領する。南北朝期はほぼ一貫して北朝の側に付いたとされる。一時は一族
滅亡の瀬戸際に立たされた事もあったが、その後は勢力を保ち続け、関ヶ原の合戦で徳川家康の召集に応じなかった
為、一時所領を没収されるも、徳川家光の生誕による恩赦で再び返り咲いた。
ただ、現在の千葉県北部(下総国)にあった下総相馬氏は南朝に属したと言われるなど、こちらも南北朝期の動向は
複雑である。

●標葉(しめは)氏
桓武平氏系。常陸大掾(だいじょう)氏の一族とされる。現在の福島県二葉町周辺を領する。当初は南朝に属していた
が、白河結城氏の北朝帰順に伴い、後に続く形で北朝に転ずる。
その後は戦国期まで存続するが、相馬氏に滅ぼされる。

●葦名(あしな)氏
桓武平氏三浦氏系。現在の福島県会津若松市周辺を領する。南北朝期は最初の時期は南朝、後に北朝の側として
行動していると推測されているが、その詳細は掴みきれていない部分もある。
戦国期には、奥州屈指の勢力となるも天正年間には衰退、二階堂氏から跡継ぎを迎えるなど混乱した末、伊達氏に滅
ぼされる。

●田村氏
坂上田村麻呂を祖とするとされているが、藤原氏系とも言われ詳細は不明である。現在の福島県三春町周辺を領す
る。南北朝期はほとんどの期間を南朝側として行動しているが、後半期には逼塞していたと考えて良いかもしれない。
なお、他に平氏系の田村氏もいて、こちらは北朝側だったと言われている。
戦国期には伊達氏と姻戚関係となり、伊達氏の傘下となって江戸期に至る。

●二階堂氏
南家流藤原氏系。現在の福島県須賀川市周辺を領する。建武新政では北畠顕家を補佐しているが、その後北朝に転
じている。
戦国期まで勢力を保ち、会津葦名氏の跡継ぎまで出ているが、葦名氏滅亡と前後して伊達氏に滅ぼされている。

●石川氏
清和源氏系。現在の福島県石川町周辺を領する。南北朝期は北朝に属していたが、分家が南朝に属した時期がある
など、その動向はやはり複雑である。
長く結城氏と対立した他、周辺との同盟、戦闘も多く、戦国期には伊達氏から当主を迎えたりしている。
豊臣秀吉の奥州仕置で取り潰され、その後は伊達氏に仕える。

●伊賀氏
秀郷流藤原氏系。現在の福島県いわき市周辺を領する。建武新政では北畠顕家に属するも、南北朝期には北朝の側
として行動している。だが、その後は同じ地域を領していた岩城氏との争いに敗れ、表舞台から姿を消す。

●岩城氏
桓武平氏系。伊賀氏同様、いわき市周辺に所領を持っていた。当初は南朝方であったが後に北朝に転じ、伊賀氏と争
いながら勢力を拡げて行った。
戦国期には伊達氏との関係が深く、一時期対立するも後に講和する。関ヶ原合戦後所領没収となるが、大坂の陣に参
加して出羽岩城二万石に返り咲く。

●白河結城氏
秀郷流藤原氏系。現在の福島県白河市周辺を領する。建武新政時は北畠顕家を良く補佐し、伊達、葛西、南部と共に
重きを成したが、南北朝期の前半の内に北朝に転じている。
室町期は南奥、北関東に大きな影響力を持っていたが、内紛で衰退して戦国期には佐竹氏、後には伊達氏の傘下に
入る。その後豊臣秀吉の奥州仕置で取り潰しとなった。





続いて、出羽の豪族を取り上げてみたい。





●出羽安東(安藤)氏
津軽安東氏と同族。現在の秋田県秋田市、男鹿市、能代市周辺を領する。当初は北朝側に属していたが、後に南朝
に転じたのではないかと推測される。
戦国期には浅利氏領を併合するなどして、出羽北部に勢力を持ったが、関ヶ原合戦の後国替えとなり、江戸期には秋
田氏として陸奥三春を領する。
能代の檜山(ひやま)安東系と秋田の湊(みなと)安東系、ふたつの系統があったとされているが、未だに不明な部分も
多く、最近では系図そのものの見直しも行われている。

●戸沢氏
桓武平氏系。陸奥滴石氏の同族と言われる。現在の秋田県田沢湖町、西木村周辺を領する。南北朝期は南朝に属し
ていたと推測される。
戦国期には現在の秋田県角館町を本拠に、安東氏や小野寺氏と戦ってその勢力を保った。江戸期には出羽新庄を領
している。

●平賀氏
秀郷流藤原氏系か。現在の秋田県十文字町周辺を領する。平賀氏は北朝に属していたとされているが、そもそも平賀
氏の本領が尾張国とされている事と、資料の年代から推測するとこちらの平賀氏は庶流で、南朝に属した可能性も考
えられる。
あるいは当初南朝で、資料に記された年代の1359年頃には、北朝に転じていた可能性もあるが、実情は今のところ
定かではない。

●小野寺氏
秀郷流藤原氏系とされる。現在の秋田県稲川町周辺を領する。南朝に属していたと推測されるが、その動向には不明
な部分も多い。後半期には北朝に転じている可能性も考えられる。
室町から戦国期に勢力を拡げたがその後衰退、関ヶ原合戦後取り潰される。

●赤尾津(あこうづ)氏
現在の秋田県岩城町周辺を領する。南北朝期は南朝に属していたと推測される。
清和源氏系で、信州小笠原氏系(同族の大井氏系とも)と言われており、出羽由利郡に赴任した代官の系統という説も
ある。
戦国期、由利郡内の領主と連合して存続、その後最上氏に仕えたがやがて没落したと言われる。

●打越(うてつ)氏
当初は現在の秋田県西仙北町町周辺を領し、後に大内町周辺に移ったと推測される。南朝側の人物では最も有名
な、楠木正成の一族とされる楠木正家の系統と言われるが、今のところ仮説の域を出ていないようである。
南北朝期は当然南朝に属していたと見られ、当時の由利郡内における、南朝側諸氏のまとめ役的存在として位置付け
られたのではないかと推測される。

●由利氏
発祥は定かでない。現在の秋田県本荘市周辺を領していたと推測される。
平安から鎌倉初期にかけて由利郡を掌握していたが、鎌倉初期の内乱において、由利郡の宗主権を失ったと言われ
る。南朝に属して所領を正式に安堵されたものと思われるが、仮説の域を出ていない。
ちなみに、この由利氏の末裔を名乗っているのが戦国期由利諸氏の滝沢氏とされており、末裔は江戸期に出羽本荘
の六郷氏に仕えている。

●鳥海(とりうみ)氏
奥州安倍氏の末裔とされるが、定かではない。現在の秋田県仁賀保町、鳥海町周辺を領したと推測され、南北朝期は
南朝に属していたと見られる。
鎌倉期以降、由利郡南部で勢力を保持したものの、南北朝期半ばに内紛が起きて衰退したとされている。豪族として
の一族は、室町期も存続したと思われる。

●大井氏
清和源氏系。信州小笠原氏の流れと言われる。現在の秋田県矢島町周辺を領したものと推測される。北畠顕家に従
い戦功を上げたのが縁で、一文字に三ツ星の家紋を使う事にしたという逸話からも、一貫して南朝の側にあったと見て
良いと思われる。
なお、大井氏の系統は南北朝後期から室町期にかけて、信州から由利郡内に入部したと思われ、その中に江戸期ま
で存続した仁賀保(にかほ)氏も含まれているものと推測される。

●武藤氏
桓武平氏系。現在の山形県鶴岡市周辺を領する。通説では北朝側とされているが、後半期を除くと南朝に属していた
と見られる。
修験で有名な羽黒山とも関係が深く、戦国期は大宝寺氏を名乗り、越後上杉氏の後ろ盾を得ながら勢力を伸ばすが、
無理な外征の為領内が疲弊して内粉が起き衰退、豊臣秀吉の奥州仕置で取り潰される。

●中条氏
武蔵七党横山党と言われ、稗貫、和賀氏と同系と思われる。現在の山形県河北町周辺を領する。南北朝期は北朝に
属していたと言われているが、南朝に属していた時期があった可能性もあり、その動向の詳細は不明な部分も多い。
戦国期まで存続したが断絶している。

●白鳥氏
奥州安倍氏の流れとも、鎌倉幕府に仕えた大江氏の流れとも、中条氏と同族ともされるが、最近では元々地元に根付
いていた豪族ではないか、という見方がされている。現在の山形県村山市周辺を領する。南北朝期は南朝に属し、後
半期は北朝に転じたと思われる。
戦国期に、断絶した中条氏の所領を吸収して全盛を迎えるが、その後最上氏に滅ぼされる。

●小田島氏
こちらの出自は筆者の力不足で分かっていない。現在の山形県東根市周辺を領する。元は荘園を管理していた代官と
言われ、南北朝期は南朝に属し、後に北朝に転じたものと推測される。
山形県新庄市には、斯波氏との戦に敗れた小田島氏が移り住み、地名を新しい荘園と言う意味の「新荘」とした、とい
う言い伝えがある。

●寒河江(さがえ)大江氏
鎌倉幕府に仕えた大江広元の後裔。現在の山形県寒河江市周辺を領する。南北朝期は南朝に属しており、後期に出
羽国に入った斯波氏との戦に敗れ、北朝に転ずる。
戦国期まで存続するが、最上氏に滅ぼされる。

●左沢(あてらざわ)氏
寒河江大江氏の一族。現在の山形県大江町周辺を領する。南北朝期は寒河江大江氏と同じく南朝に属し、斯波氏と
の戦に敗れた後、北朝に転じる。
戦国期まで存続したが、最上氏に滅ぼされる。

●溝延(みぞのべ)氏
左沢氏と同様、寒河江大江氏の一族。現在の山形県河北町南部を領する。寒河江大江氏、左沢氏と行動を共にして
いたので、後半期に斯波氏に敗れるまでは南朝に属している。
やはり戦国期まで存続したが、最上氏に滅ぼされる。

●出羽長井氏
寒河江大江氏同様、大江広元の後裔。現在の山形県長井市、米沢市周辺を領する。南北朝期は北朝に属していたと
されるが、時の当主が足利尊氏の側近として京都にあったと言われる為、果たして在地の一族が一貫して北朝に属し
ていられたかどうか、筆者としては疑問に感じられる。
後半期は北朝に属していたと見て間違いないと思われるが、この頃には伊達氏との衝突によって衰退、南北合一前に
滅ぼされる。





こうして主要な豪族を挙げてみたが、これ以外にも数多くの豪族がいた事は当然で、ここに挙げたのは、いわば主な者
たちと言っていい。ともあれ、これだけ多くの豪族が、当時南北に分かれて争ったわけだ。
さて、こうして挙げた豪族達だが、多くに共通する点が存在する。
全てとは言わないが、彼らは大半が清和源氏系や桓武平氏系、そして秀郷流藤原氏系などの、いわゆる関東の武士
団であり、彼らは初期の鎌倉幕府が奥州藤原氏を滅ぼした後の旧領を、それぞれ幕府より知行分けされた事。
更に、彼らの多くが戦国期まで、一部は江戸期まで存続しており、南北朝期に彼らは自らの地盤を確立して室町、戦国
期に臨んだものであろう、という事だ。
ともあれ、筆者の推測(あるいは憶測とも言う)を多分に織り交ぜてこうした豪族達の動向を考えてみたわけだが、結論
から先に言ってしまうと、

「ごちゃごちゃ」

このひと言で片付けたくなってしまう類のものである。
南北朝期の全期間、一貫してひとつ旗の下に留まり続けた豪族を捜す方が、この場合余程に簡単である、と言って良
いくらいだ。





戦死した北畠顕家の後を継いで、顕信が鎮守府将軍として奥州に下向してからも、奥羽南朝の基盤は決して磐石なも
のではなかった。そして同様に、当時石塔義房が率いていた奥羽北朝の基盤もまた、決して磐石ではあり得なかったと
見ていい。
鎌倉期、御家人達は一朝事あれば「いざ鎌倉」と馳せ参じたと言われるが、この言葉は誇張と聞こえるとしても、少なく
とも当時の鎌倉幕府――北条政権が、それなりの求心力を維持出来たという、ひとつの証左となるはずである。
だが、その鎌倉幕府が様々な理由から衰退、滅亡した後の南北朝――正確には室町幕府と吉野の朝廷となるだろう
か――は、鎌倉幕府よりも総じて求心力は弱かったと考えていいだろう。
そうした事態の推移の中で、かつて御家人の惣領が中央にあって、一族に地方の所領を監督させる、という経営方法
は、南北朝期に入って確実に崩壊していったと思われる。この萌芽は、鎌倉期の時点で既に見受けられていて、後期
には所領の帰属に関する訴訟が、ひっきりなしに幕府に届け出されていたそうだ。
こうした争いが元で、一族間の仲が険悪になった末に南北朝期を迎え、挙句、親類縁者が敵味方に分かれた例もあ
り、奥州では北上の和賀氏がその典型と言えるかもしれない。
南朝の鎮守府将軍も、はたまた北朝の奥州総大将、後の奥州探題も、求心力の弱体化してしまった中央の権威をもっ
て、彼等豪族達を糾合しなければならなかった、とすら言えるわけで、その立場はいっそ滑稽なものとして、我々の目
に映るかもしれない。
ただ、ここで気を付けておかねばならないのは、その滑稽な立場にあった彼等の保障があって初めて、豪族たちは戦
場で戦果を立てた事が認められたのだ、という事であり、また所領の安堵もなされたという事であり、朝廷云々幕府
云々はともあれ、豪族たちは中央の権威、指示を代行して自分たちの身分、所領を保証してくれる者を必要とした、と
いう事であり、その保障に対する代償行為、いや、むしろ相互契約の履行として、鎮守府あるいは奥州探題の指示に
従った、という事なのである。
戦国期のような弱肉強食の思考は、この時代未だに豪族の間には完全に浸透しきっておらず、たとえ負けてもそれで
おしまいという事には、必ずしもならなかった。もちろん、勝たねば(名目だけでも)褒美をもらえない、という意識は、当
時充分以上に浸透していたであろうけれども。
これは先述した主要豪族を見ればよく分かる。奥羽地方において、南北朝期に所領を失った末、現在の我々からすれ
ば豪族として滅亡したと言うに足る状態となったのは、せいぜい津軽の曾我氏、厨川工藤氏、そして出羽の長井氏くら
いしかいない、という事がそれを証明してくれると思う。





次回からは、再び顕信を中心にして話を進めてみたい。










第十一章 〜興国(七)〜 了



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