第十章 〜興国(六)〜









以前、北出羽の「板碑」と呼ばれる石碑について触れた。これに銘打たれている年号は、鎌倉期のものは別として、大
抵は北朝の年号が使われている。
筆者は現在の南秋田郡(現・秋田県の八郎湖西南岸周辺)に残されている板碑をして、北朝方だった曾我氏の所領が
あったと見ているが、同じ様な板碑は県南の横手市周辺にも存在しており、ここに使われている年号もまた、北朝の年
号である。
しかし、だからと言って現在の横手市周辺に所領を持った武士が一貫して北朝に属していた、とは短絡的に判断できな
い。要は、そこを「実力で押さえている事」を南北どちらでもいいから認めてくれていればいいわけで、情勢次第では北
朝が南朝に、南朝が北朝になったって、ともかく実効支配で生き残れば良かったのである。これは、武士とはまた違う
「悪党」と呼ばれた土豪達にも、共通した事である。
この辺りを念頭においた上でないと、日本史における南北朝という奇妙な時代を、ほんの一端でも理解するのは難し
い。
戦前、あるいは戦後も長い事、武士達は南朝か北朝か、どちらかに一貫して忠節を尽くしたと見られているフシが多い
が、実際はそうとは限らなかった……そういう事である。





さて、興国四年(1343年、北朝康永二年)になると、いよいよ関東南軍は予断を許さぬどころか、まさに逼迫した状況
となる。
関城(現・茨城県関城町)と大宝城(現・茨城県下妻市)の両城に立て籠もる南軍を、高師冬率いる関東北軍が激しく攻
め立てていた。
この時期、北畠親房は関城にあって白河の結城親朝へ救援を求める一方、自ら記した「神皇正統記」を、籠城する将
兵に読みやすいよう簡略に書いて配らせた、と言われている。いわゆる「関城本」とされるものであった。これは「太平
記」にもその記述があり、守備兵達は"貪る様に"これを読んで勤皇の意気を新たにした、としているが、実際の所守備
兵達にとってみれば、

「こんなものを読ませるよりは、腹一杯飯を食わせてくれ」
「これを読んで戦に勝てると言うなら、今頃ここまで追い詰められる事などなかったはずだ」

というのが、偽らざる本音ではなかったろうか?
いずれ、如何に結城親朝が近隣に影響力を持っていたとしても、もはやどうしようもない状況にあった事は確実であ
る。

これまで、結城親朝が周辺に影響力を持っている事に幾度か触れたが、これは前の鎮守府将軍たる、北畠顕家の命
令により周辺の検断奉行の職、すなわち行政監督権を与えられていた事によるもので、その後も親朝はこの権限を以
って現在の福島県南部に影響力を保持してきた。
福島県南部は、奥州から関東への、あるいは関東から奥州への出入り口であったから、その重要性は言うまでもな
い。だからこそ、当時常陸に拠っていた親房は白河結城氏をアテにしていたわけである。
親朝と同じ様に検断職となった者としては、顕家の片腕として活躍し、共に戦死した南部師行(なんぶ・もろゆき)が知ら
れている。彼は糠部(ぬかのべ。現・青森県八戸市周辺)や津軽方面の検断を任されていた。
しかし検断職という公権は、この動乱の時代において決して強い権力とはなり得なかったと考えられる。となると、曲が
りなりにも検断職にあった親朝(あるいは南部師行など)が影響力を保持できた背景とは、どんなものであろうか。

検断職の下に動く豪族達――歴史的には「国人」と呼ばれる――は、この時代一族の縦のつながりと、近隣の豪族同
士による横のつながりを有していたと見られている。
この内、豪族同士の横のつながりがいわゆる「一揆」と呼ばれるものとなるわけだ。
現在の我々がイメージとして抱く「一揆」とは、室町後期から幕末に至る期間の農民による一揆であろう。あり合わせの
農具を武器に"むしろ旗"を掲げて、気勢を上げる農民達……。
しかし、これだけをして一揆の全てとするのは正解ではない。
一揆とは元々「揆(はかりごと)を一にする」という意味だそうで、この場合は南朝に味方する豪族による一種の連合と
言うべきであろうか。
ちなみに、宗家と分家の争いが頻発した南北朝期にあっては、縦のつながりを強化する為に「一族一揆」と呼ばれる手
段で結束を強化した豪族も多い。
つまり、この「一揆」の旗頭的存在が奥州の北、すなわち青森や岩手北部では南部師行であり、師行の後を継いだ政
長であり、福島県南部では結城親朝であったと考えられる。
恐らく、当時は各地にこうした一揆――歴史学的には「国人一揆」が存在していたはずであり、これらの掌握が、南北
朝における勝敗の鍵を握っていたと考えていいと思う。

当然この事を北朝、つまり室町幕府が知らないわけがなく、直接的な戦闘のみならず政略的な切り崩しを一揆勢力に
仕掛けていた事は、容易に判断できる。こう考えると、親房や顕信が親朝のみならず、各地の豪族に何度も書状を送
っていた理由が分かるであろう。
北朝は政略的切り崩し、この場合は所領安堵などを餌に撹乱する。南朝もまた官位の推挙などを餌に、味方の掌握を
図る。こうしたところであろうか。
ただ、関東の戦場に関して見てみると親房はこの辺り、一揆を掌握する事の重要性は重々承知していたものの、政略
的には自らの思想に縛られて、非常に柔軟性に欠けていたと判断せざるを得ない。だからこそ北朝の切り崩し作戦に
対抗し切れず、吉野での「藤氏一揆」事件以後は急速に、一揆諸氏の離反を招いて孤立化していったのではないだろ
うか。

興国四年二月から六月にかけて、北朝は白河の結城親朝に書状を送って帰順を促している。二月には足利尊氏自
ら、六月には石塔義房(いしどう・よしふさ。当時の奥州北軍総大将)が、それぞれ白河に使者を送った事が分かってい
る。
この時期の親房は、もはや劣勢を跳ね返すだけの力を持っていなかった。「藤氏一揆」後は、奉じていた興良親王(お
きよししんのう。護良親王の遺児)が下野国の小山氏のもとにあって、既にシンボルとしての総大将も失っていた。小山
氏は既に興良親王を奉じて別行動を取り、北関東の上野国、すなわち現在の群馬県には有力な南朝方として新田氏
一族があったが、上野から常陸まではあまりにも遠過ぎた。完全に八方塞がりの状況にあったと見ていい。
こうした状況の中で八月、結城親朝は遂に北朝に転ずる。北朝に転じた後、親朝は足利尊氏に宛てて注進状を届けて
いる。





註進

結城

太田九郎左衛門尉広光
結城下総三郎兵衛尉宗顕
同能登権守経泰
同五郎左衛門尉泰忠

村田

安芸権守政胤
下総権守光成
長門権守胤成
藤井五郎左衛門尉朝貞
備前権守家政
修理亮政景

下妻

下野次郎左衛門尉景宗
同五郎右衛門尉政国
同徳犬丸
同王犬丸
同五郎兵衛
同八幡介景貞

長沼

淡路八郎左衛門尉胤広
同七郎兵衛尉宗清
伊賀権守入道宗意
同益犬丸
越中権守宗村
信濃権守時長
同弥五郎入道戒願
同又七左衛門尉宗行
同五郎兵衛尉宗親
同大輔法眼宗俊
河村山城権守秀安
同一族
新蒔五郎左衛門尉秀光
南条蘭夜叉丸
標葉三河権守清実
同三郎左衛門尉盛貞
同太郎兵衛尉清俊
同三郎兵衛尉清房
石河駿河権守光義
同大寺孫三郎祐光
同千石六郎時光
同小貫三郎時光
同一族等着到在別
伊賀孫太郎左衛門尉親宗
同三郎左衛門尉朝末
五大院兵衛入道玄照
伊東刑部左衛門入道性照
同常陸新左衛門尉祐信
同五郎入道顕光
那須首藤兵衛尉高長
田村遠江権守
同一族等
佐野九郎入道重円
中村丹弥五郎実泰
斑目周防権守惟秀
牟呂兵庫助親頼
由利兵庫助入道輪照
船田三郎左衛門尉高衡
競石江左衛門尉祐遠
和知三郎兵衛尉朝康
豊田刑部左衛門尉親盛
白坂治部左衛門尉祐長

右注進如件
康永二年九月(日時不詳)

修理権太夫親朝





この注進状に書かれた諸氏は、白河結城氏の周囲のみならず下野や常陸の豪族も含まれている事から、周辺の豪族
同士の横のつながりを垣間見る事が出来る。親朝は所領と検断職安堵を条件に尊氏の帰順勧告を受け入れたわけ
で、これにより常陸に孤立していた親房は、万に一つの勝ち目も閉ざされてしまった事になるわけだ。
この年の十一月、遂に関城、大宝城は相次いで陥落した。関宗祐を始めとする一族は戦死、親房の幕僚として活動し
た春日顕国(かすが・あきくに)は、常陸南西部の馴場城(現・茨城県竜ヶ崎市)に逃れ再起を図ったが、翌年三月大宝
城攻撃に失敗して捕らえられ、四月に斬首されたという。
親房自身は、関一族と共に戦死するつもりであったと「太平記」などには書かれているが、実際には脱出を果たし、恐
らくは伊勢か熊野の修験や水軍の手引きで、海路尾張の宮崎城(現・愛知県南知多町)に達し、ここを経由して伊勢か
ら吉野に帰還したと推測出来る。
いずれにしろ、親房はおよそ五年間、常陸において南軍の指揮を執ったわけだが、彼は遂に関東の地において南朝
の領域を拡げる事が出来なかった。これをどのように評価するべきかは、今でも見解の分かれるところであり、筆者が
どうこう言ったところで、実は詮無い事でもある。
言える事があるとするなら、親房は確かに、その他大勢の公卿――普段は威張り散らしているくせに、戦になれば為す
所を知らずおろおろと醜態を晒す者達とは、はっきりと一線を画していた。しかし、その頑なまでの強烈な意志、思想故
に、急激な武士社会の変貌に対して、最後まで柔軟に対応する事が出来なかったのである。

さて、これにより南奥の全てが北朝の側に帰順したかというと、そう簡単に事態は収拾しなかった。
例えば田村氏(現・福島県三春町に所領を持った。戦国期に伊達氏と姻戚関係を結ぶ)は南朝の旗を降ろさなかった
し、更に北朝側が手段として用いた切り崩し作戦が、思わぬ副作用をもたらしたのである。つまり、各地の豪族内部で
一族の分裂が加速してしまったのだ。
宗家も分家も、自分の所領を守りつつもっと自分の取り分を増やしたかったから、今度は一族で同士討ちになる事も珍
しくなくなった。表向きは北朝になびいていても、どこでいつ旗色が変わるか分からないという状況が結局続く事にな
る。やがて南北合一後から戦国の間に、こうした状況は淘汰されていく事になるが、そこまでカバーする煩に堪えない。
何にしろ、こうした一族の分裂は南北朝の混乱を助長させる、ひとつの要因となった。違う角度から見ると、こうした豪
族内部の分裂が、劣勢にあった南朝を存続せしめた原因のひとつではないだろうか。よく南朝存続の要因として、修験
勢力や悪党と呼ばれた在地の土豪、そして山岳や海を行動圏とする、いわゆる「非農業民」の存在が挙げられるが、
彼等は有力たりえたと言っても、南朝そのものを存続させるにはあまりにも非力ではなかったかと、筆者は考える。
一族の統率から分裂した豪族が、その後の生き残りの為に北朝から南朝に転向する。大本の一族との間で何らかの
妥協点が見出せれば、まさしく「一族一揆」して旧に復し、妥協できなければ敵味方となったであろう。南北逆のケース
もまたあったであろうし、敢えて一族が敵味方と別れたケースもあるはずだ。この情勢は、姿かたちを変えつつ江戸ま
で続く。
ひとつ対応を誤れば、あっという間に叩きのめされる時代であった事は、今更論ずるまでもない事だ。
親房はこの頃の武士のあり方を「商人の所存」と言った。しかし、どんな事を言われようが結局は生き残った者が、戦
に勝った者が当たり前ながら勝者なのである。建武体制はこの事を理解する事がなかったし、建武の理念を継承した
南朝も、そして親房当人もまた、最後までこのジレンマを打ち破る事は出来なかったどころか、むしろ固執したままであ
った。





この時期、鎮守府将軍たる顕信は何をしていたのであろうか。結城親朝の北朝帰順と、それに続く常陸の失陥は顕信
にとって打撃であったに違いないが、だからと言って、いつまでも気落ちしているわけにはいかなかったろう。
こうしている間にも、北朝は南朝諸氏の切り崩し工作を続けていたと考えられるから、これに早急に対応しなければな
らなかったはずである。
実際、史料を見ると顕信は南出羽に移ってから、周辺や奥州各地の地固めに力を注いでいるらしく、興国四年から五
年の時点では目立った軍事行動を見せていないようである。
この間、奥州ではそれまで南朝方であった葛西氏が北朝に帰順したと推測でき、顕信も負けじと北朝方の豪族に圧力
をかけ、和賀氏の一部や湊安東氏、浅利氏などへの工作を進めていったものであろう。

味方に誘う餌は、大抵知行(所領)か官位のどちらかであったが、ここで少しはっきりさせておくべき事がある。
意外に思われるかもしれないが、朝廷から武士に与えられる官位と言っても、当時はどこまでも名誉職であり、いわば
殆んどが形式的なものであった、という事だ。
朝廷から武士に官位が与えられたとしても、官位に実効が伴う事はないのである。
例えば、中には国司と守護職を混同している方がいるかもしれないが、これは元々全く別物である。どこが違うのかと
言うと、国司は"朝廷が公卿に対して、正式な手続きを踏んで任命する役職"であり、守護職は"朝廷より政治を委任さ
れた幕府が、武士に対して任命する事で初めて効力を発揮する役職"なのである。要するに幕府は、本来朝廷という大
会社の下請け会社なのだ、とでも言えばいいだろうか。ともあれ、こうした事を勘違いしてはならない。
それが証拠に、上記書状に名を連ねる武士達には「権守」や「左衛門尉」などと言った官職名が付いている者が多い。
これが何を物語るのか、諸賢であれば分かるかと思う。
所領についてはまた別の機会に述べる事として、今は先に進む。

顕信は、各地の豪族に対する工作を進めて南朝勢力の地盤固めをする一方、吉野との連絡もまた確保していた。次
の文面は年号や宛名を欠くものの、南部政長(なんぶ・まさなが。南部師行の弟で、師行亡き後の奥州南部氏を統率
する)に宛てたものと見られる。





北畠顕信書状

自此進候使者 昨日廿八日到来 西国様事 以外目出候なり 入道殿状遣之候 可被披見候 委細急候間 不能委
細候也 状件如

四月廿九日

(顕信花押)





この書状が書かれたのが四月二十九日である事は、末尾の日付けによって明らかである。

「自此進候使者 昨日廿八日到来」

という文面は、使者が四月二十八日に顕信の拠る拠点に来た事を表している。この時点では、何年の四月であるかが
不明だが、

「西国様事 以外目出候なり 入道殿状遣之候 可被披見候」

この文面から、ある程度の推測が可能となる。
使者は、西国の状況が意外にも良い事を告げ、更に"入道殿"の書状も合わせて持参して来たようである。
この"入道殿"とは、後醍醐天皇の一子である世良親王(よよししんのう。後醍醐天皇の皇太子として期待されたが早
世)の死後、剃髪入道していた親房の事を指すと思われる。
先述の通り、興国四年に常陸を失陥した親房はその後吉野に戻っているから、この顕信書状は翌興国五年(1344
年。北朝康永三年)の四月に書かれたものではないか、という推測が成立する。
この書状は「新渡戸文書」と呼ばれる、南部氏関連の古文書の集まりの中の一通として見つかったものである事が分
かっているので、宛先はまず南部政長で間違いないと見ていい。
ちなみに「入道殿状遣候」とあるのは、「入道殿(親房)の書状を遣わす」くらいの意味に相当するので、その後の「可被
披見候」という文を合わせてみると、

「入道殿(親房)の書状を遣わすので、披見されるべく候」

くらいには読めるかと思う。つまり、親房の書状は政長に宛てた書状であるとも受け取れるわけだ。
よく言われる「落人同然の負け犬」というイメージが、顕信にはどうしても付いて回っている印象が強いが、本当にそうで
あるなら吉野との連絡そのものが付かないのが普通であろう。
少なくとも、顕信が鎮守府将軍としての権威を持っていた事、そして吉野との連絡も絶えずつけていた事が、ここから推
測できる。

この頃の顕信の根拠地は、恐らく南出羽の藤島城(現・山形県藤島町)ではないかと筆者は推測する。岩手県などの
史家によると、長く滴石(現・岩手県雫石町)に拠点を置いていたのではないかとの見方もあるが、次の文書の存在が
この見方を否定する。





北畠顕信教書

其堺事 其後何様沙汰候哉 諸方合戦之最中之由令申之間 当国事 方々被誘仰之子細候 近日則可被始合戦候
 其方事 先々如被仰遣 ?令対治近郡者 可為当方合力候 委細之旨 以森四郎左衛門尉被仰遣之由候也 仍執
達如件

九月八日 左近将監清顕奉

南部遠江守殿





この書状は、顕信の幕僚である五辻清顕の代筆による教書(作戦指令書)で、南部政長に宛てたものである。政長は
吉野から遠江守に任ぜられていた為、宛名には「南部遠江守殿」と書かれている。
この教書は、いつ書かれたかという事で諸説分かれているが、興国三年か、四年か、はたまた五年か、という事が問
題になっていたようである。ただ興国三年と言えば、南部政長は津軽曾我氏との戦が終わったばかりで身動きが取れ
ない状況にあったし、顕信自身は「三迫合戦」発動の為に多忙を極めていた頃であるから、これは除外されなければな
らない。
興国四年なのか五年なのかとなると、実際筆者としても推測に困るところであるが、

「其方事 先々如被仰遣」

という文面により、この書状が書かれる前にも似たような教書が、政長宛てとして書かれている事を匂わせる為、ここで
は筆者が特に参考させていただいている「史料解読 奥羽南北朝史」という書籍の説に従って、興国五年に書かれた
ものと推測する。

さて、この書状の中には「当国事」とある。顕信が場所こそ違え同じ奥州にいたならこんな言葉は恐らく使わないであろ
うし、政長に宛てた指令書の中でこの言葉を使うとなれば、まず顕信の拠った場所が南出羽でなかろうか、という推測
を強化するものとなる。

「近日則可被始合戦候 其方事 先々如被仰遣 ?令対治近郡者 可為当方合力候」

上記文面は岩手県の史家などによる「近郡を制圧した後、我々の下に参陣せよ」との解釈もあるが、同じ奥州に、それ
も糠部から距離的に近い滴石に顕信がいたとすれば話は分かるとして、南出羽に顕信がいるとなると、この解釈は成
立しなくなる。
だとすれば、こうは読めないだろうか。

「近く戦を始める予定なので、その方(政長)には以前も遣わした書状にある通り、近隣の敵を制圧するように。そうす
れば、こちらにとっての合力になる」

また、この書状には、

「委細之旨 以森四郎左衛門尉被仰遣之由候也」

という文章があるので、詳細の詰めは「森四郎左衛門尉」なる顕信の部下を派遣したので、彼と行うように、とも受け取
れる。





こうして見ると、顕信は中央――吉野との連絡を取りつつ、奥羽の南朝方を従えて再起を企図していた様がうかがえ
る。そこには我々が抱きがちになってしまう「負け犬」とは程遠い、若いながらも強かな"公卿将軍"が浮かび上がって
は来ないだろうか。
とかく、表面的な戦のみで判断しやすい南北朝の歴史にあって、こうした地方の文献を解読する事によって生まれる新
たなイメージは、まことに新鮮なものを伴って我々に迫ってくる。
これこそ、歴史を楽しむ醍醐味ではなかろうか。





第十章 〜興国(六)〜 了



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