Written by 春日野 馨
「あれからもう四年になるのね……」
わたしの口から自然にそんな言葉が出てくる。
ここはビッグ・アップル、ニューヨークのマンハッタン島、ツインタワーの跡地にいる。
恭也くんとシェリーと一緒に。
あの日、わたしは当直で、恭也くんと一緒にテレビを見ていてこの事件を知った。
そして、いてもたってもいられずに緊急援助隊に志願して三日後にはこの場所にいた。
「フィリスはすごかったよ。ぼくが見てもあのときのフィリスは今まで見たことない顔してたもん」
「そんなにすごい顔してた?」
「うん。髪が邪魔だからって後ろでまとめて、いつもの白衣じゃなくて野戦服みたいな服装で……結局何日寝なかった
の?」
「うーん……三日かしら」
「……俺は寝てくださいって言ったんですけどね」
「だって、あの状況じゃ寝てなんていられないわよ」
「フィリスらしいよね」
三人で顔を見合わせる。
今は更地になってしまったあの場所。
あの時は廃墟だった。
日本から政府専用機で飛んできて初めてこの場所に着いたとき、わたしは息を呑んだ。
ううん、わたしだけじゃない。日本から来たみんなが息を呑んだ。
あれはこの世の光景ではなかった。あたり一面濃淡すらない灰色の闇。
雪が積もったとしてもあたりには幾許かの色は残っているものだが、あの時は一面が灰色。
その中をたくさんの人と機械が動いていた。警察官、消防官、救助隊、医療関係者、建設機械……そのすべても灰
色に染まっていた。
FDNYレスキュー6のシェリーも。もちろんわたしも。そして恭也くんも。
あれでいったいどれほどの人が亡くなったのだろう。
医者なんて仕事をしていると、だんだんと人の生き死にに対する感覚が鈍くなってくるらしい。
でも患者さんが亡くなったとき、今でもわたしは涙が出る。
恭也くんには
『それがフィリス先生の一番フィリス先生らしいところだと思いますよ』
なんて言われてるけど。
だけどあの時は涙が出なかった。ううん、涙を流せなかった。
あのときのわたしにあったのは怒りだけ。
なんでこんな理不尽なことで命を奪われなくちゃいけないのか……その思いだけだった。
到着してすぐのころは瓦礫の中から生存者が見つかることもあった。でも三日もすると生存者は見つからなくなった。
代わりに見つかるのはこれも灰色に染まった遺体。どれもが損傷が酷く、正視できないような遺体ばかりだった。
そのころになるとわたしたち医療チームの仕事は遺体の身元確認作業が主になった。遺体の特徴を確認し、身元確
認の手がかりを集めること。
それでも家に帰ることができた人はまだよかったのだろう。残念ながら、家に帰ることがかなわなかった人も大勢いた
のだから。
そんな帰れなかった人を置いて、わたしは日本に帰らなくてはいけなかった。
それが心残りだった。
「ねぇ、フィリス」
「なぁに、シェリー?」
「うん、人間って弱いよね」
「……うん……」
「なんにもできないんだもんね……」
「……うん」
「フィリス先生、セルフィさん、何もできないなんてことはないと思いますよ」
突然恭也くんがこう言う。
「え?」
「一人では、できることには限界があります。でも、誰かと一緒だったらよりたくさんのことができるはずです。もっとたく
さんの人と一緒だったら、もっとたくさんのことができるはずです」
「……」
「その証拠にこれほどの惨事であれだけの人を助け出すことができたんです。それは誇りにしてもいいと思います」
「うん……」
「それに……愛する人を護れるじゃないですか。人にはそれができるんだと思います」
最後の言葉をちょっぴり照れくさそうに恭也くんは言った。
護る。歩む。応援する。抱きしめる……
それは愛する人と一緒だからできること。ううん、愛する人と一緒じゃなくちゃできないこと。
そんな愛する人が傍にいてくれる。
傍にいる人が愛してくれる。
それってとっても幸せなこと。
わたしは『仕返し』をするって誓った。
世界中のたくさんの人の命を助けること、それがわたしの仕返しだと考え、今までやってきた。
でも、『仕返し』ってそんなに仰々しいものでなくてもいいのかもしれない。恭也くんの話を聞くとそう思える。
人一人ができることには限界がある。
人を助けるにはまず自分が助からなくちゃいけない。
だったら、人を幸せにしたいと思ったらまず自分が幸せをわからなくてはいけないのではないだろうか?
もしかしたらわたしの『仕返し』は、人の命を助けるだけではないのかもしれない。
わたしの『仕返し』は、わたしが幸せになって、周りも幸せになってくれること。それがわたしにとっての『仕返し』の真
の姿だったのかもしれない。
今、わたしには恭也くんという愛する人がいる。恭也くんもわたしを愛してくれている(と思う)。
今のわたしには、愛し愛される幸せがある。
だったら、この幸せを大事にしよう。
この幸せをたくさんの人に分けてあげよう。
それが、志半ばにしてこの場所で亡くなられた方たちの気持ちにそぐうことになると思うから。
それがわたしの『仕返し』になると思うから。
テロをなくす第一歩になると思うから。
「ねぇ、恭也くん」
わたしは恭也くんの腕に抱きつく。
「ずぅっと一緒よ」
「……はい」
真っ赤な顔で答えてくれる。
「あ〜、妬けちゃうなぁ。どうせぼくは独り身だもん」
シェリーがうらやましがるような口調でからかう。
「シェリーにもいい人見つかるわよ。だって、わたしの妹なんだもん」
「いいよ。ぼくは当分ランスと一緒で」
ささやかな笑い。
こんなふうに笑える幸せを大事にしたい。
だからできる範囲で『仕返し』をしよう。
それがわたしの新しい『仕返し』。
そのはじめに恭也くんを心から愛し続けよう。
変わり果てたツインタワーの跡地はいまでも荒涼としているけど、それだっていつまでもじゃない。
人は時間と共に進み、変わって行く。
ふと足元を見れば、そこには一輪の花が咲いていた。
諦めなければ、きっと夢は叶う。
恭也くんへの想いだって通じたのだから。
ずっとずっと……愛してる。
誰よりも大好きよ、恭也くん。
……ありがとう。
(初出 天使の微笑)
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