ペーパー・ムーン
Paper Moon

「生きる意味」
1973年(アメリカ)

1973年(1973年)第46回アカデミー賞
助演女優賞
(テータム・オニール)
助演女優賞ノミネート
(マデリーン・カーン)
脚色賞
(アルヴィン・サージェント)
音響賞

第31回(1973年)ゴールデン・グローブ賞
有望若手女優賞
(テータム・オニール)
監督=ピーター・ボグダノヴィッチ
原作=ジョー・デヴィッド・ブラウン
脚本=アルヴィン・サージェント
製作=ピーター・ボグダノヴィッチ
撮影ラズロ・コヴァックス
編集=ヴァーナ・フィールズ
配給=パラマウント
(上映時間103分)

モーゼ・プレイ=ライアン・オニール
アディ・ロギンス=テータム・オニール
トリクシー・デライト=マデリーン・カーン
ハーディン保安官=ジョン・ヒラーマン
リボン店の店員=ドロシー・プライス


『ペーパー・ムーン』(原題:Paper Moon)は、ジョー・デヴィッド・ブラウンの小説『アディ・プレイ』を原作とした、
1973年制作のアメリカ映画。
監督はピーター・ボグダノヴィッチ。
聖書を売りつける詐欺師の男と、母親を交通事故で亡くした9歳の少女との、
互いの絆を深めていく物語を描いたロード・ムービー。
シンプルな脚本で普遍的な映画を目指したという。
年間トップの興行収入を得、1973年の第46回アカデミー賞では
テータム・オニールが史上最年少で助演女優賞を受賞した。この最年少受賞記録は未だに破られていない。
後に監督は、テータムが受賞したのはその努力の賜物だと証言している。
モーゼとアディを演じたライアン・オニールとテータム・オニールが実の親子。

原作小説の題名は『アディ・プレイ』だったが、監督は「ヘビのようだ」と気に入らなかった。
会社に変更を求めたが、10万冊以上売れている原作だったため容易に聞き入れてはくれなかった。
監督は困り果て、友人であるオーソン・ウェルズに 『ペーパー・ムーン』という題名ではどうかと相談すると、
「良いタイトルだ、表題だけで売れる」と絶賛され、劇中のカーニバルの写真屋で「紙製の月」の上に
アディが乗りたがるシーンを追加したことで、現在の題名が許可された。
やがて、映画が公開されると、原作の題名も『ペーパー・ムーン』と変更になった。
タイトルの『ペーパー・ムーン』は、劇中挿入歌として使われている1935年の流行歌『It's Only a Paper Moon』
(『イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン』、歌:ビリー・ローズ、イップ・ハーバーグ、ハロルド・アーレン)から拝借したものである。
ただし、 ビデオ版では歌が異なっている。

原作では舞台がアメリカ南部であるが、当時は南部を舞台とした映画が多かったため、映画では中西部に変更されている。
この他にも、原作に大幅に手が加えられており、エンディングも撮影中にはまだ決まっていなかった。
ラストシーンは、スタッフが未舗装の道に迷い込んだ時に、偶然見つけた場所から発想されている。

当時はカラー映画で撮ることも可能であったが、あえてモノクローム作品として制作されたのは、
主演の2人が恐慌という時代設定に合わない金髪で青い目をしていたのを隠すためである。
モノクロのもうひとつの理由は、監督によれば「白黒の方が映画として表現力が増して見えるからだ」という。
また手法として、カット割り無しで一気 にシーンを撮影する場面が多く見られる。
これは、観客を自然に引き込ませる意図を狙ってのことだが、演技する側にとっては難題であり、
直線のドライブシー ンは36回も撮り直された。
この手法は、後半のカーアクションでも効果的に使用されている。
劇中で自動車を駐車する際、モーゼは縦列でなく斜めに車を駐車している。
これは、当時の駐車方法を再現したものである。
撮影のラズロ・コヴァックスは、オーソン・ウェルズからのアドバイスでコントラストが引き立つ赤色フィルターを使用した。

当時はまだ無名だったランディ・クエイドが、モーゼと車を交換するため一緒に取っ組み合いをする男役で顔を出している。
出演する俳優・女優のほとんどが、『ラスト・ショー』などから監督作によく登場していた顔ぶれである。
密売人と警察官の俳優は同一人物であり、体重の増減を行うことで体型に変化を見せ、2週間あけて撮影された。

映画のヒットを受けてテレビシリーズ化(1974年9月にABCテレビにて放映)もされた。
当時まだ子役だったジョディ・フォスターがアディに扮したが、人気は振るわず、1975年1月に放送は終了した。



あらすじ
1935年の大恐慌期のアメリカ中西部。
聖書を売り付けては人を騙して小金を稼ぐ詐欺師のモーゼが、亡くなった恋人の娘アディと出会う。
モーゼは嫌々ながらもアディを親戚の家まで送り届けることになったが、アディは大人顔負けに頭の回転が速く、
モーゼはアディを相棒として旅を続けることにする。
しかし、モーゼの前にダンサーだという白人の女が現れる。
アディはこのままでは自分が見捨てられると不安になり、思い切った行動でモーゼと女を引き 離すことに成功する。
失恋したモーゼはがっかりしながらも、休暇のせいで所持金が少なくなったことを気にかけ、また詐欺を仕掛けることにした。
偶然にも酒 の密売人を見つけ、取引を持ちかけると商談は成立。
モーゼは事前に密売人の酒をごっそりと盗み出し、それをまた密売人に売りつけたのだった。
しかし、話を 聞きつけた警官が猛スピードの車で迫ってくる・・・。

何度観ても見飽きないし、新たな発見がある映画。
こまっしゃくれたアディと、詐欺師としては2流のモーゼ。
頭の回転が速く、機転が利くアディを相棒に稼ぎまくるモーゼ。
9歳の子供という武器で大人を騙す術を心得ているアディ。
一方で、男の子と間違われて、へそを曲げたり、タバコを吸ったりして大人びているかと思えば、紙の月に乗りたがったりと、
子供らしい一面を覗かせる。原作は「アディ・プレイ」だが、音楽の「ペーパー・ムーン」から映画の題名になった。
映画のヒットを受けて、後に原作の題名も「ペーパー・ムーン」となったという。
たしかに音楽「ペーパー・ムーン」はよかった。映画の雰囲気にもピッタリだし、口ずさめるところもよい。
映画の場面は何一つとして無駄なところがなく、どこを切り取っても名場面。
中でも私が一番好きなシーンは、指定席の助手席を奪われたアディが、なんとか降りてもらおうとボイコットするシーン。
野原でダンサーのマデリーン・カーンとふたりきり。
マデリーン・カーンの切なく哀しい大人の台詞。
一度は納得したものの、待ちきれないアディは策略をめぐらして、罠にかけてしまう。悪い子だ。
なんだか、ただ助手席を奪還したかっただけなんじゃ・・・?

圧巻はなんといっても帽子のシーンだろう。レースの隙間からお札が覗いているあのシーンだ。
なんて頭のいい子なんだろう・・・。
これだけの仕事をやってのける子が、人のいいおばさんの家で、退屈な生活を送れるわけがない。
たとえ、あれほど欲しがってたピアノがあろうと、温かい愛情と、手作りの焼きたてクッキーがあろうと・・・。
モーゼとのスリリングな生活を選ぶアディ。


人間、って平凡に安泰に暮らせるのが幸せと頭では分かっていても、それが退屈ならどうなんだろう?
幸せ、とはよべなくなってしまうんじゃないか?
アディが別れ際渡したペーパー・ムーンで一人で写ってる一枚。
モーゼと一緒に撮りたがったあの写真には無愛想なアディひとりが写ってる。
大事な一枚をモーゼに渡して、「忘れないで欲しい」と願うアディの想いが浮かび上がる。
モーゼはまともな生き方ができない男だ。
いかさま師として生きるしかできない男。しかも2流の・・・。
女の尻を追いかけても、これまた長続きせずハッピーエンドとはほぼ遠い。そんな男に思える。
だからこそ、アディの退屈を埋めてくれる相棒になりうるのか。
持ちつ持たれつの相手。
いやいや、そんなことが言いたいのではなかった。
人生、ってままならない。
生きる意味は?と問われたら、このふたりきっとこう答えるんじゃなかろうか。
モーゼは「アディを守るため」
アディは「モーゼを助けるため」
お互いがお互いの生きがいになっていく。
人は自分の人生を切り開いていくもの。人生は自分だけのもの。
たしかに間違いじゃない。
だけど、私この年になって気づいたことがあります。
誰かのために生きることも、自分の人生なんだ。ということ。
私の場合、親のためなんですけどね。親はいい迷惑かもしれない。
でも、うちの親は「子は親を面倒見るのが当たり前」という古い人間なんです。
かなり反発もしましたが、それは心の中のことで、結局私自身の行動は変えられませんでした。
そして、今は「親のために生きるのが私の人生、私が生まれてきた意味、私の存在理由」くらいに思えるようになりました。
それは初めは「諦め」だったかもしれません。
でも、今は自然に受け入れられるようになったから不思議です・・・。
事実、母が亡くなった時は、自分のための何も見失ってしまった。
もちろん、モーゼとアディはそういう関係ではないでしょう。
いつか、どちらもお互いから独立し、自分の人生を見つけることでしょう。
絆はそのままで・・・。



(2017年3月記)