〜5〜 「今日もすでに満喫したって感じだねー」 「私、頭がパンクしそうです……」 まもなく日が暮れ始めるかな? という微妙な時間帯、今日は旧市街地を散策した後、モーツァルトやベートーベンという歴史的に有名な音楽家ゆかりの地を見て回ってきた。シュテファン寺院に始まったウィーン観光は修学旅行の時と負けず劣らず濃厚な時間の連続で、体はともかく頭がオーバーヒートを起こしかけており、いったん戻って一服しようとホテルに向かっていた。 「しかし、いつ覗いても賑やかだね、ここは」 初日にパンを買って、夕食もとった市場。私たちが到着した日が特別ってわけでもなく、今日も変わらぬ賑わいを見せている。 「晩ご飯、どうしようねぇ?」 「梅干しが恋しいとまでは言いませんけど、なんかこのあたりで済ませてもいい気がしてきました。一昨日の店もおいしかったですし」 「私もそんな感じがしなくもないなぁ……ホイリゲでワインでもって思ってたけど今からわざわざバスで行くのも面倒だしなぁ。休んだら気が変わるかもしれないけど」 「同じくです」 ホイリゲ……ウィーンの北の森に集まるワイン居酒屋で今日の予定を決めるときには夕飯はそこでと言っていたが、今は二人そろってこんな感じである。 まあそんなことを話しながら市場を抜けようとした時のことだった。 「Es tutmir leid.」 後ろからそんな声が聞こえる。これは聞き覚えがある。「ちょっと、すいません」の丁寧版だ。私がよそ見しててぶつかったときに言われたんだった。 「Es tutmir leid. 〜〜〜〜〜?」 繰り返し聞こえる。後半はなんて言っているのか分からないけれど、二度も言うなんてずいぶんと丁重な……って、ひょっとして私たちに言っているのか!? お姉さまも――私と違って何を言っていたのか分かったから振り向いたのかもしれないけど――私も振り返ってみると、そこにはウィーンに来た初日に出会った金髪美人さんがいた。 「Ah!(ここから超高速)」 ……私の理解の範疇を超えている。表情からすごく嬉しそうなのは分かるのだけど、その喜びのせいなのかネイティブそのもののスピードで話されるものだからさっぱり分からない。 「お姉さま、分かります?」 小声でお姉さまにそっと尋ねるもお姉さまもお手上げらしい。さすがのお姉さまも英語ならともかくドイツ語でこれだけ早く話されると苦しいみたい。しかし、そうなるとほんとどうにもならない。せっかく楽しげに話しているのに水を差すのは何だけど、せめてもう少しゆっくり話してもらわないことには。 そういうわけでお姉さまが合いの手を入れながら聞き直そうとしたとき…… 「いい加減にしなさい!」 美人さんの後ろからにゅっと手が出てその頭をはたく。 「あいたっ」 あいたっ? なんだそのドイツ語……って日本語!? 「何をするのよ、レンコ」 「人をからかうのはやめなさい。困ってるじゃない、この人たち」 驚く私たちを尻目にツッコミを入れた手の持ち主……白いシャツに黒いハット、ネクタイ、ロングスカート……スカートなのにオレと言ってもちょっと似合う気もするボーイッシュな雰囲気を漂わせる、やっぱり美人さんが現れた。 「だってレンコ、こっちの人だと思ってくれたんだからそういう風に応対しないと失礼じゃない」 「嘘おっしゃい、メリー。あなた好みの子がいたからからかってみたくなっただけでしょう」 「ひどいわ、レンコ。私はこんなにもあなた一筋だっていうのに!」 そう言ってキスしようとするメリー?さんを引き離そうとするレンコ?さん。 ……つまり、なんだ。あまりにあまりな出来事に立ち尽くしそうになったけど、このお二方、どちらも日本人(もしくは日本語ぺらぺら)? 「あの、失礼ですが……」 お姉さまの方が私より早く再起動できたらしい。未だに取っ組み合ってる二人に声をかけるとハッとしてこちらを向くレンコ?さん。 「すいません、先日も今日もメリーが迷惑をかけたみたいで。私はレンコ、ウサミレンコ。こいつはマエリベリー・ハーン、略してメリーっていいます。ほら、頭を下げる!」 その紹介はひどいっていうメリーさんを無視して、強引に頭を下げさせるレンコさんだった。 「この素敵な巡り合わせに感謝して、かんぱーい!」 「乾杯!」 メリーさんの音頭で乾杯する。 今、私たちはあの市場から歩いて十分ほどにある、お二人のお宅にお邪魔していた。見た目はウィーンの町並みを乱さない……よく言えば伝統的な家屋だったのだけど、内装はどちらの、あるいはふたりの趣味なのか、私の部屋ともさして変わらない今風の女の子の部屋って感じだ。 あの後、騙していた?お詫びもかねてぜひご馳走したいというメリーさんのお誘いに最初こそ遠慮していた私たちだけど、もう遠出する気力が尽きかけていたこともあってか、すぐ近くというレンコさんの言葉が最後の決め手となり首を縦に振ることとなったのだった。 「……で、ビールは飲んだ。そうなればウィーン最後の夜はホイリゲでワインを! なんて最初は話をしていたんですけどね」 「へえぇ。それならばこれ……じゃーん、地元産のモーツァルトワイン! しかもこれはモーツァルト生誕250周年の年のものです!」 「おおー!」 私とお姉さまの驚嘆の声が重なった。モーツァルトの横顔が書かれたラベルが張られている。 さすがウィーンと言うべきかさすがモーツァルトと言うべきか、こんなところにもモーツァルトグッズ? があったのだ。それも250周年の時のものとは素晴しい話だ。 「そして、これがとっておきの一品。2006年のヴァッハウワインは、なんと60年ぶりの空前の大当たりだって評判なのでーす!」 赤白のモーツァルトワインに続いて出して、これも開けると出してきてくれたワインは絶対高そうなものだったから「え、そんなの悪いですよ」と遠慮したのだけれど…… 「いいのいいの、今日は特別! ねぇ、レンコ?」 「もちろん。ささ、どうぞお二人さんとも遠慮せずに」 と、まあおいしい料理と素敵なお酒、そして何よりお二人の気さくな人柄の前にささやかな?宴会は盛り上がっていったのである。 「で、リリアンにはスール制度ってのができたというわけです。ちなみに私とお……聖さまですと私のグランスールが聖さまとなり、聖さまにとって私がプティスールってことになるわけです」 「すごい、すごいわ! そんな制度があるなんて、あぁ、私もレンコとスールになって手取り足取り……」 「メリーと姉妹? ……ごめんこうむるわ」 「そんな、ひどい! 私がこんなにも愛しているって言うのにあなたは……よよよ」 そうして大げさに驚いたふりをして嘘泣きを始めるメリーさん。そもそも同級生は姉妹関係にはなれないんだけど。 「うーん、私もそれなりに修行を積んだつもりだったんだけど……聖さんには足元にも及ばないわね。思わず弟子入りしたくなっちゃう。……あらもう空。こちらをどうぞどうぞ」 「どもども。しかし、ほんととんでもない。メリーさんの武勇伝に比べたら私なんて……あ、そちらも空じゃないですか、ま、ま……」 「いったい何の修行なんだか」 「……すいません、恥ずかしい姉で」 そう毒づくレンコさんに思わず恐縮。本当にお姉さまったら。でもそのお姉さまについて行ける、あるいはさらに上を行く!? メリーさんも相当な方だと思ったことはレンコさんに悪いので内緒にしておく。 「あぁ、ごめんなさい。祐巳ちゃんの「お姉さま」に言ったわけじゃないの。むしろあんな話に付き合わせてしまって申し訳ないというか」 「いえ、まことに遺憾ながら本人も十分楽しんでいるようなので。……ここはお互いのために見なかったことにしません?」 ……お二人の、特にお姉さまの「武勇伝」を聞いていると胃が痛くなってくるし。 「あぁ、それはいいアイディア」 レンコさんも同じような感じだったようで、私たちはあちらの話を聞かなかったことにした。 「話を戻しますけど、レンコさん専攻は量子物理学なんですよね……私、物理はさっぱりなんですけど、それでもお二人そろってK大の上飛び級で、さらには海外でポストを用意してもらえるほどなんてどれくらいのことなのか分かりますよ。……なんだか雲の上の人って感じです」 お二人ともかの有名なT大と天下を競うK大、さらには飛び級で卒業である。きっと国内海外問わず引く手あまただったに違いない。さらに、その中でもウィーンを選んだのはここでなら二人分のポストがあった、とかだったりして。 「買いかぶりすぎだわ、祐巳ちゃん。しがない物理屋に過ぎないのに二人揃ってこっちに来られたのは本当に運が良かったというか悪かったというか、なんというか。専攻がアレな私が言うのもなんだけど、これぞ神様の思し召しってやつ?」 そんな風に手を振るレンコさんだけど、「来られた」って言っているあたり、二人一緒にというのがやっぱり大きかったんだろうと思ってしまう。私たちの場合は…… 「私も聞いていい? 祐巳ちゃんがリリアン大学に進んだ理由」 今まさに考えを巡らせようとしていたことに話を振られてちょっとびっくり。まあ自然な成り行きではあるのだけど。 「私の場合は元々エスカレーター式ですから。幸いそこから転げ落ちることもなかったのでそのままって感じです。他の道自体考えていなかったというか」 「なるほど。じゃぁ、仮に聖さんが他の大学に進んでいたとしても?」 「うーん、その場合は正直わかんないです。ただ今みたいにすんなりと決めたってことは無かったと思います。かといってお姉さまがいるからってだけでその大学に追いかけていったら怒られたことは間違いないでしょうけど」 「そうなの?」 「なんて言うんでしょう、ええと、そういう身も心もべったりって言うか、それだけが大学を選ぶ理由になってしまうほどの「ありかた」ってのは好ましくないって」 まあこのことに関してはお互いがお互いに依存しすぎだのなんだのという話があった……ある?のだけど、さすがにそこまで話すのはどうかと思ったし、そこまで聞いてしまった方も困っちゃうだろうからこの辺にしておく。 「へぇ……」 すると、それまで楽しそうに微笑みながらうなずいていたレンコさんが目を細めた。あれ? なんか変なこと言っちゃった私? 江利子さまや静さまの琴線に触れることを言ったりやったりしちゃったときによく見る視線ゆえについ構えてしまったり。 「まずは……」 「……まずは?」 「何とかしようか?」 「え!? 何とかって……あぁ」 レンコさんが指さした先を振り返ってみれば、カーペットに突っ伏している二人の姿があった。 「はい、この毛布を使って」 「すいません、本当にふつつかな姉で……」 どちらも目的があったのかなかったのかはいざ知らず、がんがん飲ませようとして返杯されてを繰り返した結果、ダブルノックアウトと相成ったようである。まったくもう。 「そんなこと……っていうか、つぶすまで飲ませる馬鹿を相手にさせちゃって本当にごめんね」 そう言いながらレンコさんはメリーさんの頭をこづきつつ毛布を掛ける。ウーンとうめいたものの、とても目覚めそうにない。私もお姉さまを起こさないようにそっと毛布をかぶせた。 「これでよしっと……祐巳ちゃん、時間はまだ大丈夫?」 「あ、はい、大丈夫です」 一息ついて、そういうレンコさん。今の時間は……あたりを見渡すも時計がぱっとは見つからない……って、自分が腕時計をしていたことを思い出した。七時四十分。 夕方になろうかという時間から早めの晩ご飯兼飲み会をおっぱじめてしまったこともあって、まだ八時にもなっていない。明日はもはや空港に向かうだけなので非常識な時間でなければ全然問題ない。 「それはよかった。……それなら飲み直さない? 私たち二人だけだし、もう一本とっておきを出しちゃうわよ」 ワインセラーをあけてごそごそと奥から取り出したワインをかざした。 「大歓迎! ……なんですけど、あの、本当にいいんですか?」 メリーさんが開けてくれたのもそうだったけど、ラベルだけを見ただけでも伝わってくる高級感。袖振り合うも多生の縁とはいえいいものかどうか…… 「いいのいいの。ね?」 笑いながらそう言ってくれているし、ここで固辞するのもどうかと思ってうなずいてしまったんだけど、グラスから立ち上がる甘い香りがまたなんとも……いやいや、ここまで来てやっぱりなんて言うのは手遅れな上に失礼の極み。お言葉に甘えていただくことにしよう。 「はい、デザートと一緒にどうぞ」 香りでひょっとして……と思ったけど、デザートということは甘口ワインなんだ。どれどれ…… 「……」 あぁ、ため息が出ちゃう。甘いとただ一口で言えない、もうなんて言うんだろう、いくつもの要素からにじみ出る甘さって言うか……自分の語彙不足がうらめしい。 「どう?」 「もう、ため息しか出ないです」 「お気に召したようで嬉しいわ。祐巳ちゃん、基本的には甘党じゃないかと思ったから」 そうにっこり笑ってレンコさんもグラスを口に含んだ。 私もまたワインを一口……この味にふさわしい言葉は思いつかなくても、とってもおいしいことに変わりはない。 さっきまでわいわいと賑やかだった部屋は、打って変わって静寂が支配している。けれどそれは居心地の悪いものではなく、むしろとても心地よかったりする。 いつもお酒の席ではおしゃべりをしながら楽しくって感じだったから、こんな風に静かにお酒を味わって飲むなんて初めて……美味極まると、ことばを失ってしまうものなのだろうか? そして、初対面(実質)の人と沈黙すら楽しめてしまうのはメリーさんとレンコさん、お二人の人柄なのかな? ぼんやりとそんなことを考えたまま、デザートのフルーツをほおばりつつさらに……なんて、幸せ。 「少し暑くなっちゃったわね。窓、開けていい?」 「あ、はい、どうぞ」 手でひらひらと顔を扇ぎながら、レンコさんが聞いてきた。お姉さまたちみたいにつぶれるほどではないけれど、結構な量をいただいてしまった上に部屋も暖かいものだから、二人とも顔が火照ってしまっていた。 「八時ね」 ガチャリと窓を開け外を眺めたままレンコさんがつぶやいた。あれ? レンコさんは腕時計はしていなかったはずだし、そもそも手元を見てすらいない。……ま、まさか星空を見ただけで時間が分かっちゃうとか!? 「ぶぶー」 「……顔に出ていました?」 「ええ。ちなみに正解は窓を開けて耳を澄ませるとかすかに教会の鐘の音が聞こえるの。それにしても祐巳ちゃんって普通に落ち着いていてさ、正直自分で言っていたほど表情がころころ変わる子じゃないなって。まして百面相なんてとてもとてもと、思っていたんだけど……ごちそうさまです」 どこの教会なのか分からないけれど、かすかに聞こえるなんて風流かも。……それはおいておくとして久々にやってしまった。でもまあ笑顔で拝まれつつお礼を言われたら仕方がない。 「複雑ですが……お粗末さまです」 するとクスリと笑って、いつの間にか窓枠に乗っかり夜空を見上げていたレンコさんが、そのままの姿勢で口を開いた。 「同じにおいがしたってメリーが言ったんだ」 「え?」 あまりに突然の、その上何のことか分からない話に間抜けな返事を返すことしかできなかった。 「私はその場にいなかったけれど、最初にあなたたちに会った後、メリーが私にそういったの」 メリーさんは私たちに対して同じにおい……つまり自分たちと似た「何か」を感じ取ったということ? 単なる仲の良い友達関係ってだけなら、そんな言い方は絶対しない。となると、私の考えていることが当たっているのなら、つまり…… 「私とメリー、祐巳ちゃんと聖さん、どちらのことを先に考えているのか分からないけれど、もし私たちのことだったらご想像のとおり」 ……やっぱりそうか。お二人は友達という関係を超えた仲なんだ。それにしてもなんでまた突然? 私が考えている間に窓枠から降りていたレンコさんは、ごそごそとワインセラーを探って取り出した一本を掲げた。 「もう一杯いける?」 さっきほどは良くないけれどと、苦笑いしながら付け加えるレンコさんに思わず頷いてしまう。 「ふぅ……どう?」 「これが良くないなんて。とても美味しくて……ごちそうさまです」 甘い吐息をつきながらお礼を言う。 美味しいお酒の力ってやっぱり偉大だ。突然の展開に張り詰めかけていた空気がふわふわと自然に緩んでいく気がする。……飲まなきゃ話せない、聞けない話ってのもあるし。 「言うべきかどうかこれでも結構悩んだんだけど……」 レンコさんの中でも相当の葛藤があるのか、眉間にしわを寄せ、グラスに残ったワインをぐいっと飲み干しつつ、口を開いた。 「祐巳ちゃん、あなたの「ありかた」の話がどうにも気になって仕方がなかったの。もし、私の気のせいなら今からの話は笑って聞き流してくれたらうれしいのだけど……」 「はい」 あの時のレンコさんの視線はやっぱり私の話が原因だったんだ。あれがベターな回答だと思ったんだけど、もう少し言い方を考えるべきだったかも……そんなことを考えながらうなずく。 「最初はメリーのことを単なるっていうのが正しい表現なのか分からないけど、友達でしかなかった。大切な友達ではあったけれどそれだけ。……少なくともそう考えてたんだ」 普通はそうだと思う。リリアンにいた私でさえ、お姉さまとあんな関係になるまでは姉妹関係でさえどこか遠い話のように思えていた。友達は友達。とっても大事な人であってもそれはあくまで友達であるから。 「でもメリーにとっては違ったのよね。ここが傑作なんだけど、私と出会って一緒にそこらへ出かける仲になったときにはもうこの鈍感女に惚れちゃっていたんですって」 鈍感というときに自分の胸を指して、あははははと笑いながら話を続ける。 「本当に仕方のない子よね。相方がそんなことを考えていたなんてこれっぽっちも気づかないようなニブチンのことを好きになっちゃうんだから」 「何がきっかけだったのか、聞いてもいいですか?」 「……あるとき遊園地に行かない? って誘われて。そんなカップルで賑わってるような場所に行ってもなーって言っちゃったんだな、これが」 「うわぁ……」 レンコさんにしてみれば、お二人の仲だから気軽にそう返しちゃったんだろう。けれど、勇気を振り絞って誘っただろうメリーさんにしてみれば相当なショックだったに違いない。 「うん、そう。喫茶店だったんだけど、私がそう言った瞬間、涙を浮かべながら机たたきつけて出ていっちゃった」 「……」 「あんまりにも突然で、最初何が何だか分からなかったんだけど、メリーが好きな人と最初のデートは遊園地がいいって言っていたこととか思い出して、ようやく意味に気づいたのよね。……じゃあ私は? 私はメリーのことをどう思っているのか? そんなのは葛藤するまでもなく決まっていたのよ。何のことはない、自分の気持ちにすら気づけてなかっただけ。女の子同士? それが何? 私はメリーが好き。メリーとずっと一緒にいたい。そういうこと」 そう締めながらワインの残りを二人のグラスに注いだ。 「そ、それで……」 「うん?」 「その後どうなったんですか?」 「祐巳ちゃん、野次馬根性はよくないわよ」 レンコさんは人差し指をチッチッチと振りながら笑う。 「え、あ!? はい、ごめんなさい」 「ふふ、でも確かに気になるよね? ま、簡単に続きを。結局、あの後あちこち探し回ってようやく一人で泣いていたあの子を見つけて。で、思い詰めちゃってて、もうさようならとか言い出したから私の気持ちを伝えて……って感じ」 「本当に、本当によかったですね」 いくら今のお二人がいる、つまり結末が分かっている話とはいえ、一歩間違えればそのまま別れてしまうことだってあり得た展開からのハッピーエンドに思わず涙ぐんでしまう。 「そういってもらえて本当に嬉しいわ。ありがとう、祐巳ちゃん。……でね」 「はい?」 目からこぼれそうになった涙を拭いていたのだけど、まだ続きがあったみたい。 「感動までしてもらったのはありがたいというか、こそばゆいのだけど、私が本当に話したかったのはこの後のことなの」 「え、そうだったんですか?」 そういえば確かに私とお姉さまの「ありかた」の話が気になって、とレンコさんは言っていた。あまりにもいい話だったからそのことが頭から抜けかかっていたのだけど。 「なんか、今の祐巳ちゃんの様子を見るに、私の取り越し苦労だったっぽいわね。さっきの話は私には説明しづらい事情があったから、その辺をぼやかしたらあぁなったっていうだけかな? ひょっとして」 「……本当にすいません」 こういう風にならないように言葉を選んだつもりだったのに、かえって気を遣わせてしまうようでは本末転倒じゃないか。レンコさんに申し訳なくて心から謝った。 「あ、ごめんなさい、そんなつもりで言ったわけじゃないの。お願いだから頭を上げて。私だって祐巳ちゃんに話すのはちょっと……って部分を抜いたりしているんだからおあいこ、ね?」 そういう風に話をしたうえで、聞いている時に疑問に思う・思わないの差が出ている時点で全然違う気はするのだけど、レンコさんを困らせるのは本意でないのでお礼を言って頭を上げた。 「ありがとうございます」 「こちらこそ。それにしても私の早とちりだったからこっぱずかしいのだけど……祐巳ちゃん、もしあなたが今後ね、聖さん、つまりお姉さまを今みたいに慕うって想いから変化があったとき、ひょっとするとすごく思い悩むかもしれない。でも、そのときどう転ぶにしろ後悔しない道を歩んでくれたらいいな、とレンコお姉さんは思うのでした」 「……」 「うーん、結構遅くなっちゃったわね。聖さんがその状態だと歩きはつらいわね。ちょっと待ってね、タクシーを呼ぶから」 レンコさんはうーんと伸びをした後、お姉さまの様子をちらりと見て電話をかけに行った。 私は…… 「すいません、今日は本当にありがとうございました」 お姉さまを先にタクシーに乗せた後、レンコさんに心からお礼を言う。 「いいのいいの、こちらも本当に楽しかった。また来る……のは先になるかもしれないわね。でも、連絡先ももらったし、里帰りの時は私たちの方から遊びに行っちゃうから!」 手をひらひらさせながらそういうレンコさん。確かに私たちが再びウィーンに来るのは結構先のことになりそうである。それよりもたまには帰省するであろうレンコさんたちが日本に来ることの方が早いに違いない。 「はい、そのときはぜひ! またお会いできるのを楽しみにしてますから。それでは!」 タクシーの中から、レンコさんの姿が見えなくなるまで手を振った後、座り直す。隣には相変わらず幸せそうにお休みしているお姉さま。 「後悔しない道を、か……」 レンコさんの言葉を思い出す。お姉さまの過去、そして私との出来事を考えればレンコさんとメリーさんのような恋人関係にってのは無理があるような気がする。そうは思うのだ。そうは思うのだけど、もし恋人同士ならお姉さまのことをどう呼ぶのだろう。やっぱり呼び捨てになるのだろうか? ぐっすり寝ているお姉さま、日本語は分からない運転手さん、過ぎゆく異国の町並み、そしてほろ酔い気分、そういったものが一時の気の迷いを起こさせてしまったんだと思う。 お姉さまの髪にそっと触れて…… 「聖」 ……だめだ、これは。これはまずすぎる。いつだったか、由乃さん、志摩子さんを試しに呼び捨てで呼び合ったときの比じゃない。いとしさやらせつなさやら恥ずかしさやらごっちゃまぜのるつぼと化して、顔を真っ赤に染めたまま頭を手で抱えてじたばたし続ける。そのあまりに訳の分からない行為に運転手さんが心配して思わず声をかけてくれたくらいである。 もし、いつの日か、ひょっとすると本当にそんな日が来るかもしれないけれど…… 「うん、保留」 〜6〜 「で、ローマに行った後パリに来ていた紅薔薇ご一行に救われた、と。もう、最高!」 お昼時のカフェテリア。室内、オープンテラスともに学生でにぎわっている。 今回はわりと騒々しいカフェテリアで正解だった。これが喫茶室ならつまみ出されること間違いなしだ。あ、笑いすぎて息苦しそうにしている。……しーらない。 「由乃さん、大丈夫?」 見かねて、いくら何でも限度がすぎるわよ、と言いながら背中をさすってあげる志摩子さん。 「ありがとう、志摩子さん。でもこれが笑わずにいられますかって!」 そういってまた笑い出す。 ……ええ、もういくらでも笑ってくださいな。たとえ初めての海外旅行でも本当に飛行機に置いてかれるようなお馬鹿さんはそうそういないでしょうから。 ホテルに帰った後、思った以上に酔っていたのか、目覚ましもかけずに寝こけてしまったのだ。むろんお姉さまもあの状態だから早起きできるわけもなく。で、朝起きてみたらもうぎりぎりの時間だったという。 そんなときに限って……という話はよくあるものだけど、ご多分に漏れず私たちもそのパターン。朝から多数欠航があったらしく、空港は大混雑で列に並んでいる間に出発便はさようなら、である。それでもどうにか欠航の影響という扱いでパリ便は振り替えてもらえたのだけど、着いた時点で本来の乗り継ぎ便が空へ飛び立ちジ・エンド。 それでどうなったのか? 二人して途方に暮れてぼけっとたたずんでいたところで、ここでは聞こえるはずのない、しかし聞き覚えのある声が! そう、志摩子さんだったのだ。 せっかくの夏休みだからと、祥子さまが志摩子さんと乃梨子ちゃんをイタリアに連れて行ってあげたのだという。寺院巡りを満喫した後、私と似たようなことを乃梨子ちゃんがふとつぶやいたところ、すっかり孫にも甘々になってしまった祥子さま、その願い、かなえてあげましょうとそのままパリへ来てしまったそうな。 「で、でもさ、それで念願のファーストクラスにも乗れたんでしょ? 良かったじゃない祐巳さん」 まだ笑い足りないとばかりにおなかを抱えながら由乃さんはそういった。 そうなのだ。唯一の救いといえば出かけるときに言っていた冗談が真になったこと。事情を説明したところ、どこかの笑い続ける親友とは違い、親身になって話を聞いてくれた上で「私たちといっしょに帰りましょう」と、マリア様のような慈悲深きお言葉をかけてくれたのである! しかも当然のごとく席がファーストクラス!! さっきまでのことは綺麗さっぱり忘れて、いろいろとすばらしい設備に感動しながら日本へ戻ってきたのであった。 「志摩子さん、あの時は本当にありがとう。私の親友はやっぱりあなただけだよ!」 「ちょっと私は?」 「……」 隣をとりあえず放置して志摩子さんの手を握り、ぶんぶん振る。あらあら? といいながらも志摩子さんも楽しそうだ。 と、そんなとき。 「ここにいたんだ、祐巳。……なにやってんの?」 「ごきげんよう、お姉さま。ちょっと友情の再確認を」 「ごきげんよう、聖さま」 「はい、ごきげんよう。ふーん、変わった確認の仕方だね。……まあいいや。二人とも祐巳を借りていっていい?」 「はい、どうぞ」 「またね、祐巳さん」 「うん、ごめんね、由乃さん、志摩子さん。また連絡するから」 ちょっと慌ただしく席を立ち、お姉さまの後を追う。 「旅行の時の話でもしてたの?」 「はい、そうです。……親友の差をしみじみとかみしめつつ」 「ハハハ、楽しくていいね」 「江利子さまの親友をやっておられるお姉さまには負けますけどね。ところで今日はどうしたんです?」 「そうそう、メリーから携帯の方にメールがあってさ。帰省が早まりそうだって」 「え、そうなんですか?」 私もレンコさんとはあれからちょくちょくパソコンのメールでやりとりしているのだけど、その話は初耳だ。 「祐巳の方にも連絡いっているんじゃないかな。後でパソコンひらいてみたら?」 「そうします。でもそうなると計画を練らないと……つまりそういうことですね?」 「そういうこと。メリーたちにはあれだけ世話になったからね。どうする? 調べ物もするならどっちかの家の方がいいかな? ……どうかしたの、祐巳?」 「!? いえいえ、別に。そうですね、確かに外で考えるよりも良いと思います」 さっきもそうだけど、いつの間にやらお姉さまとメリーさんはお互いのことを「メリー」「聖」と呼び合っているらしいのだ。本当に相性がいいというかなんというか。相性うんぬんは置いておくとして、呼び方自体を意識した瞬間、あのタクシーの中でのことが頭に浮かんでいた。あの時は我ながら本当に大胆なことをしてしまったものだ。 「ふーん、じゃあ私の家にしようか」 「はい、賛成です」 思い出さないように、思い出さないように、と念仏のように頭の中で唱える。ふとしたことですぐに意識しちゃうから気をつけないと。 「うん、では出発。……ところで祐巳」 「はい?」 「聖、って呼びたければ呼んでいいのよ」 そう言ったかと思うと、すたすた歩いていってしまうお姉さま。 ……って、それって、まさか、ひょっとして…… 「え!? ええっ!? ええええええっ!?」 秋晴れというにふさわしい抜けるような青空の中、私の叫び声が吸い込まれていくのであった。 あとがきへ(ミニアンケート有り。よろしければご協力ください)