〜1〜 あれからまもなく正式に選挙の公示があった。 立候補の締め切りは立ち会い演説会の一週間前と言うことで、まだあるのだけれど、私を除く三人はそうそうに手続きを済ましたらしい。 けれど、私はまだ出していない。 令さまが立候補した理由は、薔薇の館の雰囲気。私にとってもそれは大切なものだけれど、令さまと比べたら……そんな理由で私なんかが立候補しても良いものだろうか?薔薇さまは、薔薇の館の長というだけでなく、リリアン高等部全体の長なのだ。 確かに、立候補しなければ自動的に私は失ってしまうけれど、だからと言って……そんな感じでどうしても溜息が漏れてしまう。 もし誰かに、……例えば、紅薔薇さまに太鼓判を押して貰えれば、こんな悩みなんて吹き飛ぶだろう。けれど、当然紅薔薇さまも三年生だからいなくなってしまうのだ。そしてもう一つ、逆に押して貰えなかったらと考えると、聞く事自体が怖くなってしまう。 今日何度目かの溜息をつくと、カシャッて音が聞こえてきた。 「タイトル『白薔薇のつぼみの憂鬱』。上手く撮れてたら、学園祭で展示させてもらうからね」 「……勘弁してよ蔦子さん」 いつの間にやらすぐ側にいたカメラ片手の蔦子さん。 それに、いずれ白薔薇さまになるからこその『つぼみ』であって、学園祭の時に私が白薔薇さまでないかも知れないのだからなおさら勘弁してほしい。 「ま、この話は置いておいて、何も収穫無かったの?」 「冗談はこのあたりにして、ではないのですね?」 「何が冗談なものですか、さっきのシーンは結構上のランクに入る絵だったわよ」 やっぱり蔦子さんは蔦子さん。 「……ちゃんと答えてはくれたけれど、それだけじゃ解決はしなかった」 「そう。締め切りまではまだ大分あるんだし、もっと気楽に考えていっても良いと思うけれどなぁ」 「確かにそうかもしれないけれど……」 「そうかもしれないって思うなら、それで良いじゃない。そうしなさいな」 昼休み、図書室の前にやってきた……蔦子さんの助言で、ここは何か別のことをと考え、ロサ・カニーナがどんな花なのか調べてみようと思いついたわけである。 それで足を運んだのだけれど、ここまで来てからロサ・カニーナ……黒薔薇さまのことを思い出した。 静さまとの間で選挙の話がさけられるはずがないけれど、私はまだ迷っている最中だからどう接すればいいのか分からない。そんなわけで、ここまでやってきたは良いけれど、どうしても二の足三の足を踏んでしまう。 一度選挙のことから頭を離してみようと思ってのことだったはずなのに……そもそもいったい何のためにここまでやってきたのだろうか、 「あら、祐巳さんごきげんよう」 「え?」 そんな感じで図書室の入り口の前に突っ立っていたら、後ろから声を掛けられて驚いた。振り向いたそこに立っていたのは静さまだったのだ。 「あ、ご、ごきげんよう」 「図書室に何か御用かしら?……あ、ひょっとして私に会いに来てくれたとか?」 「えっ、い、いえ、そ、そうじゃなくて」 「そう、残念だわ。でも、私の方が祐巳さんに会おうと思っていたところなの。だから、ちょうどよかったわ」 「えっ!」 「くすっ、さっきから「え」ばっかりね」 う…… 「さっ、お入りになって、ここに来たのは薔薇の調べものでしょう?」 ズバリ言い当てられてしまって、何も言うことができなくなり薦められるままに入る私。でも、いったい私に用ってなんなのだろう? はっ、ま、まさか、ライバルは予め消しておこうって、誰も見ていないところでばっさりと………そんなわけない。由乃さんの影響受けすぎかな? 机を叩いて激しく抗議する由乃さんの映像が一瞬脳裏をよぎったけれど、まあ置いておこう。 「ロサ・カニーナ?」 「何かしら?」 ちょうど、入り口の近くにいた図書委員らしき人が私たちの姿を見て声をかけてきた。 「そう言うわけではないけれど……どうして、白薔薇のつぼみと?」 「祐巳さんがここで調べ物があるのよ、図書委員として調べ物がある方のお手伝いをするのは自然なことでしょう」 「え、ええ……なら私が代わりに」 「ありがとう。けれどそれには及ばないわ。さ、祐巳さんこちらよ」 「あ、は、はい」 まだこっちを見ているあの図書委員の人も何なのだろうって思っていることだろう。きっと、 「また祐巳さんが来るかもしれないと思って、私もいくつか図鑑とかを調べてみたのね。それで、良さそうなのを二、三冊、目星をつけておいたんだけど」 歩きながらそう言う。 「熱心なんですね」 「そうでもないのよ。放課後は部活動で出られないことが多いから、その穴埋めみたいなものかしらね。朝とか昼とかだとよくいるのだけれど」 「でも、一生徒の調べ物のサポートまでなさって」 「ああ、それはたまたま。その一生徒が祐巳さんだからよ」 そうだ、白薔薇さまの妹がロサ・ギガンティアを知らなかったことをどう思っているのだろうか?更に言えば、ロサ・カニーナ本人にロサ・カニーナのことを聞いてしまったことも……けれど、改めて聞くのもはばかられた。 「禁帯出本だからここで見てね」 静さまは百科事典や図鑑が詰まっている棚から数冊を抜き取って私に手渡しながらそう言ってきた。 「はい、あの」 「お礼なんか言われたら困るわ、ますます罪悪感を持ってしまう」 「は?」 「そのうち分かるわ」 そう言い残してカウンターの方に歩いていったけれど、なんなのだろう? 「……裏切り者」 椅子を引いて座ると、横にいた生徒が低い声で言ってきて吃驚してしまった。 「え!?」 その生徒は由乃さん。私のことをじとって感じで睨んでいる。 「いつから敵方と仲良くなったのよ、どうして立候補しないのかと思ってたら、何?勝ち目がないって諦めて取り入ろうって言うわけ?」 「ちょ、ちょっと、待ってよ」 そんなに急に言われたって、頭の中が整理できない。 「何よ、申し開きがあるなら聞いてあげようじゃない」 「そ、そう言うのじゃなくて………」 由乃さんの迫力に押されそうになったのだけれど、なんとか、今までの過程を掻い摘んで話した。 「ふ〜ん」 必死の説明のかいあって一応納得はしてくれたようだ。 「向こうの方から接近してきてたわけか、何が目的なのかしら?」 「さぁ……私には全然」 「そう……せっかくだし図鑑見れば?今を逃すと選挙が終わるまで、図書館に出入りするの厳しいよ」 カウンターの方に視線をやりながらそう言ってくれた。 そちらを見てみると……静さま本人は既にそこにいなかったけれど、他の図書委員の人がじと〜〜っと私たちのことを睨んできていた。 (そ、それもそうか、) このタイミングで白薔薇のつぼみがある意味敵陣とも言える図書室に乗り込んできて、今、こうして黄薔薇のつぼみの妹と並んで座っているのだから…… こんな感じの図書室にたびたび出入りしたくなるほど私は物好きじゃない。 「そうだね」と由乃さんに返し図鑑をめくると、ページの中程に白い付箋が貼られていた。そのページは、まさに薔薇の写真満載のページだった。 そして、まさかと半信半疑で付箋をはがしたその下には、白く大きな五枚の花びらをつけた白薔薇の写真があった。 下には『ロサ・ギガンティア [Rosa gigantea] 別名:大花香バラ,ロサ・ギガンテア』の文字が並んでいる。 ロサ・ギガンティア……この花が白薔薇なんだ。 これは、静さまから私へのメッセージに違いないと思い、付箋を頼りに次々にページをめくると、渡された全ての本でロサ・ギガンティアが載っているページに付箋が付けられていた。 そして、最後の本。初めて一冊の本に二つ目の付箋が出てきた。 そのページには黒い薔薇の写真があるはずだった。それなのに……黒いラインが入った付箋の下にあったのはピンク色の五枚の花びらが美しい可憐な花だった。 「どうして……」 混乱して、思わず意味不明の行動を取ってしまったりもしたけれど…… 「……やられた」 先ほど言っていた罪悪感の意味がやっと分かった。 とは言っても、結局の所静さまがいったい何を考えているのかについては、さっぱり分からないままである。 でも、ただ一つだけ確かなことがある。私が静さまに翻弄されっぱなしであるこということ……正直、こんな相手と選挙を戦うなんて、考えただけでも嫌になって来てしまう。 「大丈夫?」 思い切り顔に出ていたのだろう、由乃さんが心配そうに声をかけてきてくれた。けれど「大丈夫」と返すことはできなかった。 祥子さまが溜息をつく。 ひっそりと、宙に、そこにない何かを見つめて 「お姉さま、お代わりはいかがですか?」 「もう結構よ」 そうは言うけれど、さっきから空になったカップの縁を人差し指でなでている。その行動を見たからこそ志摩子さんが声をかけたのだけれど、 「お疲れでしょうか?」 「別に疲れて等いないわ」 自分の肩を揉みながらそう返す。 このところ、祥子さまは変だ。薔薇の館で見かける祥子さまはかなりの頻度でぼんやりとしている。発した言葉とか態度とか、あまり責任を取ってもらえない感じ。心ここにあらず……それが今の祥子さまを表す一番ぴったりの言葉だった。 そんなだから志摩子さんが困り顔でどうしたものかって感じになってしまっている。 さっきから色々と申し出ているけれど反応がまるで芳しくない。ついに、志摩子さんからも溜息が漏れ始めた。 この空気は本当にどうにかならないものか……黄薔薇の二人がいればそうでもなかったのだろうけれど、今頃は二人で仲良くポスターやらなんやらを家で作っているはずである。 演説原稿の上で祥子さまのシャーペンがまた無意味な動きを始めた。いったい何を考えているのだろう? 令さまに相談したように、祥子さまにも相談してみようかと思ったのだけれど、聞きそびれてしまったらいつの間にかこんな状態になってしまった……とても相談なんかできるはずがない。 正直、私も溜息をついてしまいたいくらい…… 〜2〜 「祐巳さんちょっとお時間宜しいかしら?」 放課後、薔薇の館に行こうとしていた私の前に築山三奈子さまが現れた。 「三奈子さま……なんでしょうか?」 「色々と聞きたいことがあるのだけれど、何となくは分かるでしょう?」 にやりって感じの顔をする三奈子さま。 新聞部の部長である三奈子さまが聞きたいことと言えば、静さまが立候補したと言うことに付いてと、私がまだ立候補していないことについてだろう。 「記事にするんですか?」 「そのつもりだけれど、残念ながら、すぐにはできないのよねぇ……」 本当に残念そうにそんな風に言う。 「え?どうしてですか?」 「アナウンス効果を避けるためって言うのと、もう一つ、釘さされてしまっているのよね」 釘……きっとお姉さま達がさしてくれたのだろう。 「でも、来たんですね?」 「選挙が終わった後なら記事にしても良いでしょう?その時の特集号のための下準備よ」 学園祭やクリスマスの時もそうだったけれど、この方のこの性格は何とかならないものだろうか……本当にそう思うが、思っていたところでどうにかなるものではない。ある程度書けるだけのものを話さないと解放してくれないのは間違いないだろう。 もっとも、この人は黄薔薇革命の時のようにそれを元に色々と興味を引くような想像を加えて小説を書くのだろうけれど、 (あ、そっか) そう言えば、あの黄薔薇革命の時、かわら版に載っていた由乃さんがロザリオを返した理由って、結構今の私の状況に近いところもある。静さまのことは置いておいても、そういった風に話せば後はこの方が勝手に記事を考えるだろう。嘘ではないし、記事になるのも選挙の後なら、別にかまわないかもしれない。 そう言うわけで話すと、「白薔薇さまにふさわしいかどうかねぇ……」とつぶやきが返ってきた。 「ええ、ちなみに、三奈子さまはどう思われますか?」 「残念ながら、ジャーナリストはそう言うことに口は出せないの」 「……そうなんですか、」 全く……、黄薔薇革命の時には随分酷いことをしたし、後継者という意味で言えば、つぼみの予想やらなんやらで、盛り上げておきながら、よくそんなことが言えたものだ。 「で、ロサ・カニーナについてはどう思うのかしら?」 「……なんとも、静さまのことをどうと言えるほど存じておりませんので……けれど、静さまは、私よりもふさわしいと思ったからこそ立候補されたのでしょう?その辺りはご本人にお聞きした方が良いと思いますが」 「それはそうなのだけれど……」 曰く、静さまの取り巻きによるガードが堅くてなかなか取材させて貰えていないという。 「それで、特集号できるんですか?」 「難しいわね。でも、色々と方法はあるわよ」 そう言ってにやりってする三奈子さま。危険だ。絶対に何かするつもりだこの人…… 「今日はありがとう、これからもよろしくお願いするわね」 そう言って三奈子さまは私の目の前から去って行った。いったい何をするつもりなのだろう…… なんだか、随分疲れてしまった……最近、薔薇の館に足を運ぶのが気が進まないし、いっそ今日はこのまま帰ってしまおうか、 ……そうして今日は薔薇の館に寄らずに、そのまま帰ろうと並木道を歩いていたら、途中でゴロンタの姿を見つけた。 冬休みにこの子のことを思い出して、一度だけだけれど餌をやりに来た。 やっぱり、お姉さまみたいになついてくれると言うことはなかったけれど、私にお姉さまの臭いでも付いていたのだろうか、あんまり離れていなくても私が持ってきたペットフードを食べてくれた。 「ゴロンタ〜」 駄目元でゴロンタを呼んでみる。 私の声に反応してゴロンタはこちらを見てくる。 今、何か上げられる様なものを持っていたら、上げるのだけれど……と何か持っていないか探す。 けれど、残念なことに今はそう言ったものは持っていなかった。 私が餌を持っていないと言うことが分かったのだろう。暫くしてゴロンタはどこかへ行ってしまった。 お姉さまだったら、持っているか持っていないかなんて関係ないのだけれど、それは仕方ない。 今度から少し持ってくることにしようかな? 我が家に帰った……とは言え、それで問題から逃れることができるわけではないのだ。 投票日まであと○日なんていう日めくりが掲げられているのは、二年藤組ではなく私の家のリビング。 偵察しに行った由乃さんの話では、二年藤組には当然祈願の大だるまはなかったけれど、家にはそれほど大きくはないけれどあります……学内の選挙なのになぜかこのリビングが選挙事務所みたいになってしまっている。 あれからお母さんのノリノリ度は更に上がってきていて、当然私が立候補しているものと思いこんでしまっている。 最初に言い逃してしまったのはとんでもない失敗だったかも知れない。お母さんの様子があまりにあまりで、まだ立候補していないと言うことを話せていない。 あの時はもしこのまま不戦敗になってしまっても、単に落選したと言えばいいかなとか気軽に考えていたのだけれど……とても言えないかも知れない。と、言うか、私が言わなくても、どこからか回り回って耳にはいるのは時間の問題でしかないじゃないか、 妙なところで増えてしまった悩みの種に溜息をつく。 「……俺も、友達家に呼べないよ」 「だろうね。お父さんもお客さんを呼べないって言ってた」 お母さんは今家にいないからこんな話ができるのだけれど、 「でも、ここまで行くような物なの?白薔薇さまってあの佐藤さんだろ?」 「う〜ん」 お姉さまはお姉さまで凄いのだけれど、リリアンの模範となる生徒かと言われると……そう言う行動もとれるけれど、普段は違う。そのあたりを祐麒に説明するのは、なかなか骨になりそうだ。 「まあ色々とあるのよ、花寺にも花寺だけの特別なものってあるでしょ?」 そう言ったら、なんだか気が重そうな顔に変わって「……なんか、凄く納得できた」だそうだ。 花寺の特別なものって何なのだろう? 〜3〜 セットしていた時間はまだだけれど、タイマーを解除する。 「結構、いけそうかな」 実際答え合わせをしてみたら高得点と言えるような点数だった。問題のレベルが過去問と比べて跳ね上がるなんて事はないだろうし大丈夫だろう。 受験勉強自体は世間一般の受験生に比べればしていないのだけれど、結構出来るものだ。 元々大学に行く気はなかったけれど、こうして受験勉強をするようになれたのは祐巳のおかげ、 「……祐巳か、」 あれから何日か経ったけれど、祐巳はどうすることにしたのだろうか? 口は出さないけれど、気にならないなんて事はない。けれど、他のことならともかく、この問題は祐巳自身が選ばなければいけない。 祐巳から見て白薔薇さまになると言うことはどういう意味を持つのだろうか…… 赤ペンをくるくるっと回して、そのまま鉛筆立てにストンと入れる。 「まだ悩んでるなら、気分転換にでも誘ってみるか」 一応授業は行われているけれど、出ていないメンバーも多いし教師も特に何も言わないと言うことで最終時限目は自主休講と言うことにした。 適当に時間をつぶして、掃除時間が終わった頃、昇降口から気が重いって感じの顔をしながら祐巳が姿を現した。 私に気付かずに薔薇の館に向かっていく。 お姉さまに気付かないとはなんと不届きな妹だろうか……とは言っても、その妹の後をそっと距離を詰めていく姉も姉か、 「ゆ〜み」 「はぎゃっう!」 後ろから飛びつくと、今日はまたいっそう盛大な悲鳴を上げてくれた。 「今日はまた凄いねぇ」 「はえ?あ、お、お姉さま。突然何をするんですか、吃驚したじゃないですか」 「姉妹の間のスキンシップと言ったところかな」 「スキンシップって」 「ところで、これから時間ある?」 「え?はい。ありますけれど」 「じゃ、つきあって」 そう言って祐巳を手を引いてその場を後にする。 「あの、お姉さまどこへ?」 「ドライブ」 「え、ええ〜!」 祐巳の抗議を無視して引っ張っていく。 学園を出て少し離れたところに止めておいた車に乗り込む。 「お姉さま……」 「はい、乗って」 「……ひょっとして、今日車で来たんですか?」 「そう、じゃなかったらどうしてこんな所に車が止めてあるというのかな?」 「校則違反じゃ……」 「リリアンの校則に自動車通学禁止なんてあるわけ無いでしょ?あったら祥子とか、何回生活指導室に呼び出されているか、」 「そっか、それもそう……って、そうじゃなくて」 「つべこべ言ってないでしゅっぱ〜つ!」 ブレーキから足を離してアクセルを踏むと……車は後ろに向かって走り出す。 「あちゃ、間違えてた」 「お、おおお、おねえさまぁあ〜〜〜!!」 祐巳って反応が面白いからついついこういう事をしたくなっちゃうなぁ〜 「ごめんごめん。では、改めまして、」 今度はちゃんとドライブに入れて前に走らせた。 「うわ〜おおきい」 と言うのは目の前の大きな水槽をゆっくりと泳いでいるマグロの事。この前、魚屋で熱帯魚を見て楽しんでいたしと言うことで、水族館にやってきたのだ。 「まるまると太ってて美味しそう」 これだけのマグロ、素晴らしいトロがたんまりと取れるだろう。 「お、おいしそうって、お姉さま……」 祐巳の顔にたらりと一筋の汗がうかぶ。 「あ、そっか、この水槽の中しか動けないんじゃ運動不足で身が締まってないか」 「い、いや、そう言う意味じゃなくてですね」 「わかってるって、ちょっと言ってみただけだって」 ぽんぽんと祐巳の背中を軽く叩く。 確かに美味しそうではあるけれど、この魚たちは観るためのものなのだ。 だからこそ凶暴なイメージがある鮫と、海では鮫に食べられてしまうような魚が一緒に泳いでいる事ができるのだろう。しかし、考えてみるとすごいものだ……もしこの魚たちと話ができるなら、ここでの暮らしを幸せと思っているのかどうか聞いてみたいかもしれない。 暫くその水槽の前で、今度は魚について話をしていたけれど、まだまだ他にも見所はある。「じゃ、次行こう次、」と言って祐巳の手を引いて次のフロアへと向かう事にした。 祐巳を家まで送っていく。誘った言葉通りに私は随分楽しませて貰ったかな。 帰り道もまた随分凄い反応をしてたけれど、水族館では魚について楽しく話をしていたし、デコチンや三奈子と迷惑な仲間達のせいでパスすることになってしまった蓉子一押しの洋菓子屋でケーキも買えたし……祐巳にとっても気分転換になっただろう。 「気分転換に付き合って貰ってありがと」 「私の方こそ今日はありがとうございました」 「ん……それじゃ、ごきげんよう」 「ごきげんよう」 ぼけぼけな時が多いけれど、時々凄く鋭いときもある。祐巳は気付いただろうか?……そんな気がしたけれど、まあどちらであったとしても目的は達成出来た。 アクセルを踏み、今度は私の家へ向けて車を走らせた。 〜4〜 昼休み、志摩子さんと一緒にお弁当を食べるために廊下を歩いていたら静さまと出くわした。いや、静さま達だろうか……SPばりのクラスメイトに囲まれながら廊下を歩いている。学園内でいったいどんな危険があるのかって突っ込みたいところだと思っていたら、SPが一斉に私のことをじっと睨んできた……敵は私か!!? 「祐巳さん、ごきげんよう」 思いっきり退きそうになったのだけれど、静さまがにこやかな表情を浮かべながらそう声をかけてきてくれたことで、そうはしなくても済んだ。 「これからお弁当?」 「あ、はい」 「そう、宜しかったら御一緒にいかが?」 「え!?あ、その、折角ですけれど……」 こんなSPと一緒に食事なんか食べたくないです。それに、それはSPも同じだと思います。 「残念ね。それでは失礼するわね」 そうは言いながらもちっとも残念そうには見えない。 「あ、はい、ごきげんよう」 「ごきげんよう」 SPを引き連れて去っていく静さま……ひょっとしてあのSPが私を敵視していたからこそ、あんな事を言ってきたのだろうか? 「祐巳さん」 「あ、うん、行こう」 私たちは薔薇の館にやってきた。 昼は、誰かがいたりいなかったりするのだけれど、今日は誰もいなかった。 「静さま本人は祐巳さんに友好的のようだったけれど、大変ね」 お茶を湯飲みに注ぎながらそう声をかけてきてくれた。 「どうも。志摩子さんもね」 「ありがとう、はい」 「ありがとう」 志摩子さんから湯飲みを受け取りお弁当を広げた。 「でも……ずっと翻弄されてばっかりで、静さまのこと全然分からないの。いっそ、新聞部の三奈子さまみたいな感じだったり、取り巻きのような感じだったら、まだ気は楽なんだけれどね」 その理由の黒薔薇の話とかそのあたりを掻い摘んで話すと、「やっぱり、悪い人ではないようね」とのコメントだった。 「うん、それはそう思う……だからこそ、なかなかイメージ出来なくて」 「祐巳さんはどうしたいの?」 「どうなんだろう?」 私の中にまだはっきりとした答えはない。 「ねぇ、志摩子さんだったらどうする?」 何気なくそんな風に訊いてみたら志摩子さんは、ちょっと考えるような仕草をしてから返してきた。 「それは、私が祐巳さんの立場だったらと言うこと?それとも、私が白薔薇さまの妹になっていたらと言うこと?」 「あ……ごめん」 「かまわないわよ。最近はあんな感じだけれど、祥子さまが私のお姉さまになってくれたからこそ、今私がここにいれるのだから」 本当にリリアンを離れようとしていた志摩子さんが言うとその意味は重く感じる。あの時、それだけの絆を祥子さまとの間に結ぶことができたのだ。 「祥子さま……何を考えているんだろうね」 「さぁ、聞いても、私に言ってもしようのないことだと返されたわ」 すでにばっさり切り捨てられてしまっていたようだ。 二人が揃って溜息をつく。 今日も祥子さまは相変わらず……いや、むしろ少し悪化してきている気もする。 また祥子さまから溜息が漏れる。それが引き金になって、志摩子さん私と三人連続で溜息が漏れた。今日は黄薔薇の二人はいないし、この雰囲気はずっとこのままなのだろうか…… そんなとき、誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。……この音は、ひょっとして、 祥子さまもすぐに反応する。 「お姉さま」 久しぶりに聞いた祥子さまの弾んだ声。 「ごきげんよう、祥子。元気にしていた?」 直ぐに駆け寄る祥子さま。 紅薔薇さまが姿を現してからの展開は一瞬だった。先ほどとは一変して嬉しそうな笑みを浮かべるようになった祥子さま……まさに紅薔薇マジックって感じでびっくり、感心させられてしまった。 けれど、それもそのはずだった。祥子さまが悩んでいたのは、なんと選挙とかそう言った自分のことではなく紅薔薇さまの受験のことだったのだ。そのことを知った志摩子さんにも笑みが戻った。 「あの……」 「何かしら?」 紅薔薇さまが帰られてから声をかけてみた。 「祥子さまは立候補するかどうかとか悩んだりしたことはあったんですか?」 「立候補するかどうかね。それほど深く悩んだことはなかったけれど……」 けれどの後に続く言葉をどう言うのか少し考えている様子。 「正直に言うと、今も不安ね。私がお姉さまのようになれるのかどうか……でも、私はお姉さまのようになりたいし、お姉さまの跡を継いでこの山百合会を支えていきたい。だから、至らない所は努力して行くつもりよ」 きっぱりと言い切った。流石は祥子さま。格好いい。 祥子さまが見ているのは、選挙ではなくその先、現紅薔薇さまである水野蓉子さま……更に高い目標を目指しているのだ。 ……私はどうだろう? お姉さまの事は好きだし、お姉さまのおかげでこの薔薇の館に居場所を手に入れることができた。けれどそうは言っても、お姉さまの跡を継いで行きたいという気はあまりしないし、それにお姉さまだってそうあってほしいとは思っていない。 これは、紅薔薇ファミリーと白薔薇ファミリーの違いなのかも知れないけれど……と思っていたら、「祐巳ちゃんはどうかしら?」と聞かれてしまった。 そのまま正直に答えると、「そう、それも白薔薇さまらしいのかも知れないわね」と返された。 「……いえ、むしろ私が、なのかも知れないわね」 さっきの言葉を直ぐに少し打ち消す。祥子さまと令さまは親友だから、令さまの立候補した理由も当然耳にしていたのだろう。 「令からは聞いたの?」 「あ、はい」 「もちろん。私にとってここのメンバーや雰囲気が大切じゃないと言うことはないのよ。ただ、立候補の一番の理由がそうだったと言うだけ」 勘違いしないようにと、丁寧に説明してくれた。祥子さまにとっても、ここは大切な自分の居場所なのだ 「祐巳ちゃんがどうするのかは、まだ時間もあるしよく考えなさい」 今度は優しい顔を浮かべてそう言ってくれた。 〜5〜 ある日の放課後、音楽室の掃除を終えて帰ろうとしているとドアを開けて静さまが入ってきた。 「祐巳さんごきげんよう」 「ご、ごきげんよう」 「祐巳さん、私たちはお先に失礼させていただきますわね」 この蟹名静さまがロサ・カニーナであることはもうあまりに有名。その彼女が私に声をかけてきたからには……と言うことで、そう言って同じ班の人たちが先に音楽室を出て行き、私と静さまだけが音楽室に残された。 「あの、お早いんですね?」 楽譜を持っているし、合唱部である静さまが部活動に来たのは間違いないけれど……もし私が掃除当番だと言うことを知っていたとしたら、意図的に早く来た気もする。 「ええ、部活の日は掃除が終わったら急いでくるの。誰もいない音楽室が好きだから」 「ああ、そうなんですか」 そう言う理由だったので、どこかほっとしながらそう口にすると、静さまは「……やっぱり」と眉を下げて苦笑を浮かべた。 「祐巳さんも、私が全然目に入っていなかったのね」 「え?」 「そうじゃないかとは思っていたのだけれど……」 だから何なんでしょう?と首をかしげると静さまはすっと目を細くした。 「何度かここで会ったこともあるし……祐巳さんには直接名乗ったこともあるのよ」 「え!?」 そ、そうだったのか……蔦子さんから聞いたときに聞き覚えがあるような気がしたのはそう言う理由からだったのか、でもいつ? 「覚えておいて貰えると嬉しいと言ったのだけれど……少し残念ね」 「す、すみません」 「いいわ、私が教えた偽情報とで相殺と言うことにしましょう。花の方のロサ・カニーナ、見てくれたんでしょう?」 「……はい」 ロサ・カニーナの色のこと、全然黒薔薇なんかじゃなかった。 「あれは、私のことを覚えてくれていなかった祐巳さんにささやかな復讐」 ああ、そうだったのか……と思ったのだけれど、静さまは「でも……」と付け加えた。 「祐巳さんが思った通り白薔薇のつぼみと争うロサ・カニーナには黒薔薇の方がふさわしいとは私も思ったわね」 黒というイメージに、白と黒、反対側の色って事もあるのか、 「私が祐巳さんの名前を知ったのはリリアンかわら版で妹体験のことが報じられた時だったけれど、最初は何かの冗談かと思ったわ。でも、どうやら本当のことらしいと分かって、どうしてなのかって思いが強くなったわね。藤堂志摩子さん、彼女しか考えられなかったのに……」 無理もない。私だって信じられないような事だったのだから、と苦笑で返すしかなかった。 「でも、彼女は小笠原祥子さんの妹になってしまっていたから……ひょっとしたら志摩子さんへの当てつけか何かかも知れないと思い当たった」 その通り。あの時お姉さまが見ていたのは私じゃなくて志摩子さんだった。静さまはそのことに気付いていた……それだけお姉さまのことを見ていた人だったんだ。 「祐巳さんはそのまま白薔薇さまの妹になってしまったけれど、そんな関係ならそう長続きするはずがないと思っていたのだけれど……どうしてそういう風になったのか、何度かここや廊下で会ったこともあったけれど、それほどの何かを見いだすことはできなかった……何があったのか、祐巳さんに教えてほしいものね」 ……、思い出した! お姉さまとのデートをスクープされてしまった後、私に声をかけてきた人。そうだ、あの人が蟹名静さま。名乗ったと言うのはあのときの事だ。 あの時はまだ髪も長かったから、今の今まで結びつかなかったけれど……間違いない。 「髪、どうしてお切りになったんですか?」 「くすっ、やっと思い出してくれたのね。これは、元々あの人を真似てのばしていたのだけれどね……」 肩のあたりに手をやって、もうそこにはない髪をなでるような仕草をしている。お姉さまと同じ二年生の冬休みにばっさりと切った。最初は、お姉さまにあやかってなんて事はあり得ないと思っていたけれど…… 「あの人は私の事なんて目に入ってはいなかった。結局、数多くいる後輩の一人でしかなかったのよね」 少し寂しげに言った言葉は分かる。お姉さまの中では一握りの人以外の扱いはかなりいい加減なのだ。 「思えばあの時だったのね」 「何がですか?」 「選挙に立候補する事よ。最も、まだそこまではっきりとしたものじゃなかったけれど、必ず何かしてやろうって、そんな感じで思っていたの」 「……どうして?」 「いくつか理由はあるけれど……別に、祐巳さんが白薔薇さまとしてふさわしくないと思ったからって言う不信任じゃないというのは分かってくれるわよね?」 もしそんな理由だったら今までみたいな接触の仕方はしないだろう。だから頷くと、理由を口にした。 「あの人は一度も私のことを見てはくれなかったけれど、これだけのことを起こせば、そのチャンスくらいあるでしょう?」 静さまが立候補した理由は吃驚するしかないようなものだった。見ていたのはリリアンの生徒会長である白薔薇さまではなく、佐藤聖……私のお姉さまだったのだ。 「栞さん、志摩子さん、祐巳さんみたいでなくても、一般の生徒とは違う特別な存在として見てもらいたいのよ……」 少し遠い目をしながらそう言う静さま。今、その目にはお姉さまの姿が映っているのだろう。 そして、今度ははっきりと私の姿を捕らえて「もう一つは……」の後に続けて更に吃驚するような言葉を発した。 「……突然特別な存在になってしまった祐巳さんに対する、ずっと見ていたのに目に入れても貰えなかった私の意地と言った所ね」 静さまから突きつけられた言葉にはまた驚かされてしまった。けれどそんな理由だったら、私に退くなんて事出来るはずがないじゃないか、本当にそれで良いのかは分からない。でも、私は退けない。佐藤聖の妹である私は静さまに立ち向かわなければいけない。そう思う。 〜6〜 ふと音楽室の近くを通りかかったら、音楽室のドアの所で祐巳とあの時の子が何か話をしているのが見えた。 あの子は音楽室に入って行って、祐巳はこっちに……私に気付いた。 「お姉さま」 「ごきげんよう。祐巳」 「ごきげんよう」 あの子のことを聞いてみようと、「さっきの子、祐巳のお友達?」と聞いたら「え!?」って吃驚されてしまった。 「そんな声だしてどうかした?」 私があの子のことを知らないと言うことは祐巳にとって意外なこと……知っているはずの子だっただろうか? 「……そうなんですね。場所、変えましょう」 「ん、分かった」 納得顔になった祐巳に連れられて移動した先は、薔薇の館。わざわざこんなところまで来なくてもと思ったけれど、逆に言えばここに来るだけの話があるって事か、 「何が良いですか?」 「いつも通りでお願い」 「はい」 ブラックのブルマンを入れてくれた。祐巳の方はいつも通りミルクと砂糖入り。 「あの人がロサ・カニーナなんです」 さっきの答え……始業式の日に私に声を掛けてきたのは、そう言うことだった訳か、また大きな事を仕掛けてきたものだ。 「ふ〜ん、あの子がロサ・カニーナだったのか。それで、そのロサ・カニーナとあんなところで何を話してたわけ?」 「あそこになったのは、私が掃除当番で静さまが合唱部員だからですけれど……」 「それよりもお姉さま、」 ピシッと背を正す。そんなに改まって今度は何を話すつもりなのだろうか、「何?」と聞くと、「私、立候補します」と宣言をしてきた。 わざわざここまでつれてきたのは、ロサ・カニーナのことじゃなくてそのためだったのか、 「……わかった。自分で選んだからには責任持ちなさいよ」 「はい」 祐巳がロサ・カニーナとどう言う話をしていたのか分からないけれど、たぶんその話が立候補を決意させたのだろう。どんな話だったのか気になるけれど、今は聞くべきじゃないだろうな。 祐巳からの話はそれだけで、私の方からも何か言う様なことはなかったから、そのまま一緒に帰ることにした。 それにしても、あの子がロサ・カニーナだったのか……ふと、閃くものがあった。 そう言えば、祐巳にロザリオを上げて少し経った頃だったっけ、声を掛けてきた子の中になんか気になった子がいた。……まさかあの時の子? 「お姉さま、どうかしました?」 歩きながら彼女のことを考えていたら、祐巳が少し心配そうに私の顔をのぞき込んで来た。 「ううん、何でもない。行こう」 「はい」 確か、髪が長い子だったと思うけれど、髪なんてものはこの髪の様に切れば短くなる。休みの内に切ったのなら、蓉子の名簿に引っかからないのも当然だ。 しかし、二年生の冬休みに長い髪をばっさりと切るか…… あの時は志摩子とどっか似ているような気がして気になったのだけれど、ロサ・カニーナ……静、か、 あとがきへ