〜1〜 朝食をすませた後、小笠原の別荘に行こうと思っていたけれど、その予定はキャンセルすることになった。 「橘のお嬢さまがお見えです」 「香織さん? お通しして」 橘香織……私よりも一つ下で、ここにいるメンバーの中では仲が良い方。遊びに来たのだろうか? そうならば、私が来た次の日の朝から遊びに来てくれるなんてうれしい話かもしれない。 「瞳子さま、朝早くからおじゃまして申し訳ありません」 「いいえ、これからお茶にしようとしていたところですからちょうどよかったわ」 よろしかったらご一緒にとほほえんでお茶の用意を頼む。 そうして、紅茶を飲みながら二人で話をすることになったけれど、私や香織さんの話は少ししただけで、気になる話を持ち出してきた。 「ところで、祥子さまの妹の方についてなのですけれど……」 「……志摩子さま?」 「はい、昨日京極の別荘におじゃましたときに、貴恵子さまからお聞きしたのですけれど、その志摩子さまは、希代の親不孝者だとか……」 「志摩子さまが親不孝者?」 悪い噂はあまりしたくないのだろう、後ろめたさを感じながら話してくれた。きっと、あまり口に出したくはないけれど、それでも噂の内容が気になって私のところにやってきたのだろう。 いわく、お寺の娘なのにシスター希望で親に反抗してリリアンに飛び込んだという話に始まって志摩子さまの話をいろいろと聞いたのだという。さらに、志摩子さまの家の話のように事前に調べてきただろうものではないけれど、乃梨子さんのことについても、来客に対してあり得ないひどい態度を取ったなどといろいろと……。 「それで……」 「もちろん大嘘。志摩子さまも乃梨子さんも話にあるような人間ではないし、あの祥子お姉さまがそんな品性のない人間を妹にしたりするはずがないわ」 「ですよね。……でもどうして貴恵子さまはそんなほら話を私にしたんでしょう?」 ほっとした様子で強くうなずいた後、香織さんは疑問を口にした。 「私は彼女ではないからわかりかねるけれど、何か腹に据えかねることがあったのでしょうね。大丈夫だとは思うけれど、誤解してしまう人もいるかもしれないし、気づいたときは誤解を解いてあげてくれる?」 「はい、そうします」 香織さんが帰った後、自然とため息をついていた。 まさか二人のことをわざわざ調べた上で仕掛けてくるとは思わなかった。いや、考えてみればマリア祭の時のことは、公の場での事件だったのだから回り回って耳に入っていたとしてもおかしくはない。もちろん二人のことについても。むしろ、志摩子さまや乃梨子さんを相手にするとわかっていたからこそ、用意周到にしていたのかもしれない。 どうやら前から思っていた以上に陰険だったというべきか、私が甘く見ていたと言うべきか……どちらにせよ、いくら彼女たちでも嫉妬心だけであそこまでひどい話をすることはないだろうし、すでに何か起こっている気がする。乃梨子さんたちは大丈夫だろうか? 乃梨子さんたちのところに急ごう。 小笠原の別荘に着くとキヨさんが出迎えてくれた。 「いらっしゃいませ。お嬢さま方はお茶を楽しんでおられますよ。どうぞ、こちらへ」 「おじゃまします」 そうしてキヨさんに案内されてテラスに向かうと、三人の話し声が聞こえてきた。 「瞳子ちゃんいらっしゃい」 私に気づいた祥子さまが話をやめて声をかけてくれた。 「おじゃまいたします」 「瞳子さまの分もご用意いたしますね」 「ありがとうございます」 挨拶は手短にすませて、急いでここにやってきた理由。香織さんから聞いた話を始めることにする。 「今朝、志摩子さまと乃梨子さんの悪い噂を耳にしたのですが、何かありましたか?」 「悪い噂……ああ、あの三人か」 乃梨子さんはため息とともにそんな風につぶやいた。やはり何かあったようだ。 「昨日、西園寺、京極、綾小路の三人が来たんだけど、お姉さまの傷をいじるようなまねをしたから、やり返しちゃった」 「そういうことでしたか」 乃梨子さんにやりこめられた逆恨みもあったからだったのか、これですべて合点がいった。 「それで、どんな噂を流してたの?」 「ええ……私が耳にしているのは」 そうして私が聞いた話を三人に話す。 …… …… 「あの三人……なんてことを」 「逆恨みをして、あることないこと言いふらすなんて思っていた以上に陰険でしたわ」 私と乃梨子さんは話している内にヒートアップしてきたけれど、志摩子さまはやはりというか、困ったわね……と言って難しげな顔をしているだけだった。 そして祥子お姉さまはじっと黙っていたのが意外だった。 祥子お姉さまはこんな陰険なやり口をお認めになるはずがないし、自分の妹と孫のひどい噂を流されているのだから、祥子お姉さまの性格なら怒りをあらわにしてもおかしくないのに。どうしてそんな感じなのだろう? 私の視線に気づいたようだ。 「……別に、私はあの子たちのしたことを認めたりしているわけではないわよ。腹立たしいことこの上ないけれど、あの子たちも噂を流すなら流すで、もう少し考えるべきだったかもしれないと思って」 「どういうことですか?」 「私がそんな人間を妹にするはずがないし、直に接すれば、そんな噂は嘘だとすぐにわかってしまう。そうなれば、あの子たちが信用をなくしてしまうだけでしょう」 そうだった。香織さんも、そんな人が祥子お姉さまの妹になったなんてにわかには信じられなくて私のところに確認しに来たのだし、そもそも私自身香織さんにそう言ったのだった。……そうなのだけれど、どうして祥子お姉さまはそんな腹立たしいことをしたもののことを考えているのかがわからない。 「過ぎたるは及ばざるがごとし、ですか」 「そういうことね。とはいえ、変な噂を流させてしまってごめんなさいね」 そうか、三人がこんなまねをしでかした理由の一つに祥子お姉さまへのあこがれと、そこからくる嫉妬があるのだから、祥子お姉さまにしてみれば難しい話になっていたのか。 「お姉さまが謝るようなことではないですよ」 「私も別にかまわないですけれど、これからどうしましょう?」 「そうね……とりあえず今のところそれほど特別なことをする必要はないでしょう。いつも通りに振る舞っていれば、自然と噂も消えてしまうでしょう」 祥子お姉さまの言葉にみんな納得してうなずき、この話は一段落した。 気が重くなりそうな話が終わったことだし、次は楽しい話をと思ったけれど、いつの間にかずいぶん時間が経っていたようで、「そろそろお昼の時間ね。瞳子ちゃんも一緒にどうかしら?」と祥子お姉さまがお昼を誘ってくれた。 部屋の時計の針は確かにお昼頃をさしている。狙ったわけではないけれど、昨日考えていたとおりになった。祥子お姉さまのお誘いに笑顔でお礼を言って答えた。 四人で昼食をとった後、食後の紅茶を飲みながら話をしているとキヨさんが少し困った様に表情を曇らせながらテラスにやってきた。 「お嬢さま、京極のお嬢さまがお見えです」 「京極……朝も綾小路が来て祥子さまを引っ張り回したし、その口か」 「噂のことについては特に言う必要はないわよ」 「はい」 そうして貴恵子さんがテラスにやってきた。 「祥子お姉さまおじゃまします。あら、瞳子さまもお見えでしたか」 「いらっしゃい」 「ええ、お茶をごちそうになっていましたの」 「貴恵子ちゃんも、いかが?」 そう祥子お姉さまが誘ったのにお礼を言いつつも、実は逆に祥子さまをお茶に誘いに来たのだという。なんでも京極の小母さまが体調を崩されて、お見舞いがてら遊びに来てほしいのだとのことだ。 「京極の小母さまにはずいぶんご無沙汰しているけれど……」 やはり貴恵子さまのお誘いだから気は進まないようだけれど、京極の小母さまには関係ない話だしどうしたものかと志摩子さまと乃梨子さんの方に視線をやる。 「どうぞ、私たちのことはお気になさらずに」 「せっかく瞳子も来ていますし」 「そう……」 二人は祥子さまの背中を押したのだけれど、香織さんの話にそんな話はこれっぽっちも出てこなかったから気になった。私がここに来る少し前に菊代さんがわがままを言って祥子さまがつきっきりになってしまったと言っていたし……まさかとは思うけれど、嘘をついている様な気もして聞いてみることにした。 「貴恵子さま、その話本当ですの?」 「え?」 「耳にした話では特に京極の小母さまが体調を崩されているとか、そういった話はなくお元気だったようですけれど?」 「……」 それは昨日の話で今朝になってというのはあったから確信はなかったけれど、そのあたりをぼかして聞いてみると貴恵子さんの表情がきまずそうに変わり、目が泳いだ。 「貴恵子ちゃん……嘘はよくないわよ」 祥子さまから指摘された貴恵子さんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。 「私は……その……」 よく聞き取れないような小さな声で何かをつぶやいたあと「失礼します!」と大きな声で言って、逃げるように帰って行ってしまった。 そんな貴恵子さんを見て祥子お姉さまは一つため息をついた。 いくらあこがれや嫉妬からがあるとしても、いや、そうだからこそ祥子お姉さまにとってはいっそう悩ましいことになっているようだ。 「ともかく……瞳子ちゃんありがとう」 「いえ、大したことをしたわけではありませんし。当然のことをしただけです」 貴恵子さんが逃げ帰ってからはとくに誰かくることもなく、四人でお話を楽しむことができた。 けれど、楽しい時間は早く過ぎてしまうもので、じきに内に夕飯が近くなり、あまり長く居すぎるのもと思って帰ることにし、そのことを言うと乃梨子さんが私を送っていってくれることになった。 小笠原の別荘を出て二人で並んで道を歩く。 「さっきはありがとう」 「どういたしまして……それにしても、貴恵子さまもあんな嘘をついて祥子お姉さまを連れ出そうとするなんて、祥子お姉さまが言われたとおりにあまり考えていなかったのでしょうね」 「そうだね。瞳子が見破らなかったとしても、祥子さまが行けばわかってしまうんだし。印象悪くするだけだよね」 「志摩子さまへの嫉妬と乃梨子さんへの逆恨みで、祥子お姉さまがどう思うかを考えていなかったのでしょうね……本当ならそれが一番大切なことでしょうに」 祥子お姉さまのことを完全にあきらめてしまっているなら話は別だろうけれど、そうではないと思うし……いや、あるいはそうなのだろうか? 「あともう一つ、あの三人のことを注意するように言ってくれてありがとう。何も知らずにいきなり出くわしてたら、どうなってたかわからない。もっとややこしいことにならずによかった」 「乃梨子さんなら私が言わなかったとしても何とでもできたように思いますけれど、そう言っていただけてうれしいですわ。けれど、あんな三人の話よりもこちらに来た感想なんかを聞きたいですわ」 「さっきもさんざん話したじゃない。別に二人の前だと話せないこととかあったわけじゃないよ」 「あら、それは残念。期待してましたのに」 「何を期待されていたのやら。私としてはむしろほとんど話してなかった瞳子の方の話を聞きたいかな」 「やぶ蛇でしたか、まあ良いです。別に隠し立てするようなことはありませんから」 今回については昨日来たばかりで大した話があるわけでもないので、前に来たときの話なんかを中心に話しながら歩いている内に私の家の別荘に着いた。 「わざわざ送っていただいてありがとう」 「ううん、別にかまわないけど、あがっていっても良いかな? 瞳子の別荘も見てみたいし」 「ああ、そうでした。わざわざ送っていただいたのにそのまま帰すなんて失礼をしてしまうところでしたわ。さ、どうぞ」 玄関のドアを開けて乃梨子さんを招き入れる。 「お嬢さまお帰りなさいませ。ご友人もご一緒でしたか」 「ええ、和子さんただいま。この方は二条乃梨子さん。リリアンでの友人よ」 「ここの管理をさせていただいている斉藤和子です。よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします」 「乃梨子さんに案内をするからお茶の用意をしていて」 「はい」 …… …… 一通り別荘を案内し終えると、乃梨子さんは「瞳子の家の人は今いないの?」と案内している途中で気になったことを聞いてきた。 「今はというか、今回は来ていませんのよ」 「え? 瞳子って一人で来ているの?」 「ええ、まあ本当に一人っきりというわけではないですけれど」 和子さんがいてくれているからこそ、一人で来ても特に不便はないし二人もOKが出せたのだろう。 乃梨子さんはその理由を少し考えた後、「そんなに祥子さまと一緒にいたかったの?」なんてことを言ってきた。 「まぁ、なんて失礼なことを。乃梨子さんのことが心配で心配でカナダ行きをキャンセルしたというのに、そんなことを言われるのだったら来なければ良かったですわ!」 「ごめんごめん。瞳子のおかげで助かったのは本当だし、ありがとうね」 「わかってくださればいいです。用意しているお茶が冷める前に飲むことにしましょうか?」 「うん、そうだね」 そうしてお茶が用意されているリビングに向かうことにした。 一人で夕食を食べる……どうして私は一人で夕食を食べているのだろうか? ここに来なければカナダで家族でそろって食べていただろう。 昨日小笠原の別荘におじゃましてご一緒させてもらおうとか考えてもいたとおり、今日はお昼をご一緒させてもらった。けれど、やはり紅薔薇ファミリーがそろっての旅行にいつもおじゃまするのは気が引けるし、今日もそれで夕食前に帰ることにした。 これからも、まあ一度二度ならともかく毎回食事のたびにおじゃまするなんてことできるはずもないし、たいていはこうして一人で食べなければいけない。 正直寂しいけれど、こうなることはわかっていたのに軽井沢にわざわざやってきた。 結局どうして来てしまったのか未だによくわからない。……さっきは乃梨子さんにあんな風に言ったけれど、まさか本当に心配だったから来たというのだろうか? 「お嬢さま、食が進んでいらっしゃらないようですが……?」 「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていたの」 「そうでしたか」 体調が悪いとでも思われてしまうのもよくない。寝る前に一人になる時なり、なんなり考える時間はいくらでもあるのだし、さっさと食べてしまうことにした。 〜2〜 「乃梨子さんいらっしゃい」 「おじゃまします」 昼下がりに瞳子の家の別荘に遊びにやって来た。 「わざわざ遊びに来ていただけてうれしいですわ。紅茶でよろしいですか?」 「うん、ありがとう」 そうして、出された紅茶を飲みながら話した話題はやっぱり今直面しているトラブルについてのことだった。 「それで、あの後どうですの?」 「うん、今日の午前中は祥子さまに連れられて、挨拶まわりというほどではなかったけれどいくつかの家の別荘に顔を出してた。昨日言ってたことを積極的にこっちからやろうってことだったけど、たぶん成功だったと思うよ」 「まあ、志摩子さまも乃梨子さんも、とうてい噂にあるような人間には思えませんから当然ですね」 「祥子さまも言っていたけれど、もっと抑えたあり得そうな噂だったら大変だったんだろうけどね」 「ええ、でしょうね。彼女たちも乃梨子さん憎しであまり考えが回っていなかったのでしょうね」 そうして二人で話を始めてまもなく、管理人の斉藤さんがやってきた。 「お嬢さま、西園寺、綾小路、京極のお嬢さま方がお見えです」 「三人が? ……お通しして」 「はい」 なんてタイミング……この話をしていたのが悪かったのかもしれない。それにしても、あの三人がそろって瞳子のところにやってくるなんて、いったい何の目的だろうか? 「おじゃましますわ」 「あら、乃梨子さまもいらしていたんですか」 「ええ」 「三人にもお茶をお出しして」 「はい」 そうして、三人にもお茶が出されてテーブルを囲んで座ることになった。 三人が紅茶を飲むのを見ながら、ふとその紅茶が雑巾を絞った水でいれたものとかそんな感じだったらおもしろいのになんてことを考えていた。まあそんなことはあり得ないけど。 「それで、三人がそろってどんなご用件でしょうか?」 「ええ、この土曜日に家でパーティーを開くことになっていて、こうしてその招待状を持ってきましたの」 西園寺が瞳子に招待状を手渡す。 「こちらにいらしているとは存じ上げませんでしたから、乃梨子さまの分は小笠原の方に送らせていただきました」 「そうですか」 「それで、瞳子さまは来ていただけます?」 瞳子は招待状をじっと見ながら考え込んでいるようだ。 「そうですわね……西園寺のお婆様にご挨拶もしたいところですし、行かせていただきますわ」 「それはありがとうございます。曾お祖母様もきっと喜んでくださいますわ」 とりあえず、その話は特に何事もなく終わった。けれど、それだけのことにわざわざ三人がそろってやってくるはずがない。 内心身構えた私たちに彼女たちが話し始めたのは、今このあたりで流れている噂についての話だった。 「よくない噂を流されてしまうなんて、人気者はつらいですわね」 その噂を流している人間がどの口で言うのかと言ってやりたいところだけれど、『一応』でも瞳子のお客様なのと、言っている話が軽いものばかりでまだ前振りのようなものでしかないような気がするので黙っている。 「そうそう、瞳子さまの噂も流れていましたのよ」 「……瞳子の?」 話が切り替わった。昨日の一件で瞳子も標的になってしまっていたということだろうか。 「ええ、私たちは以前に耳にしていたので、今更的な話ではありましたけれど。話を聞いて瞳子さまがご両親とうまくやっているのかどうか心配になってしまいましたのよ」 いったい何なのだろう? 瞳子の目が鋭くなっている。 前に瞳子の家に行ったときどちらも瞳子と仲がよさそうに思えた。瞳子と、そんな瞳子の親の間で何かあるような話って何だろうか? 「ほら、今回瞳子さまはお一人で来ていらっしゃるし、ご両親との間で何かあったのではないかと思いまして」 「心配させてしまっていたとは申し訳ありませんでしたわ。けれど、今回は祥子お姉さまに志摩子さまと乃梨子さんが同行されることを聞いて、私も来ることにしたものですからご心配なく」 「そうでしたか、てっきり瞳子さまの出生のことで何か衝突してしまったのではないかと思っていましたけれど、思い過ごしでしたか」 出生? 「あら……ひょっとして乃梨子さまはご存じなかったのですか? まずいことを口にしてしまったかもしれませんね」 そう言った西園寺の口元には嫌らしい笑みを浮かんでいた。そして瞳子はきゅっと唇を固く結んで、三人をにらんでいる。出生……両親とのトラブル。何となくその意味するところがわかった。 この連中はそんな話におもしろおかしくあることないことを付け加えて吹聴している。なんて下劣な連中なのか! 「瞳子さま、何かおっしゃりたいことでもおありで?」 「帰りなさい!」 わざと大きな音が出るように机をたたきながら立ち上がって三人に叫んだ。 「あら? 確かに失言でしたけれど、そこまで言われるほどのことはないと思いますけれど?」 「何が失言よ! 一度ならず二度三度も、どう考えてもわざとでしょう!」 「たとえそうだとしても、同じお客様の乃梨子さまにそんなことを言われる筋合いはないのではなくて?」 「私は瞳子の親友。だから、その瞳子の代わりに言ってあげてるの! 今すぐ出て行きなさい!」 三人を追い払ってドアをしめて一つ深く息を吐いた。 あの三人の顔が見えなくなってようやく冷静になれた……かなり頭に血が上ってしまっていたようだ。 追い返せはしたけれど、前の時と違って今は他に誰もいないし、そもそも追い返されるのも想定の範囲内だったのか特に悔しそうな顔を浮かべたりせずに、むしろ私が腹を立てたことを楽しんでいたかのような顔をしていた。それがいっそう頭にきたのだけれど…… 「……お礼を言いますわ」 「いいって。むしろ、前に助けられた分をかえせてよかったよ」 「そう言っていただけるとありがたいですわ」 それにしても…… 「……はっきりしないままなのは気持ち悪いでしょうし。私の口から言いますわ。私は松平にもらわれたんですのよ」 「そうだったんだ」 「ええ、と言っても、もらわれたのは生まれてすぐでしたし、彼女たちから言われるまでもなく知っていたし、両親ともうまくいっていましたから特にどうということはないんですけれどね」 瞳子が養女だったことは驚いたと言えば驚いた。そのことは、まあそういうこともあるだろうけれど、それが特にどうということはないというのは、そのまま受け取れない。もしそうなら今のように深刻な表情はしていないはずだ。 (そうか) あのとき瞳子は子供っぽいいたずらをされたと言っていたけれど、表情を作るのがうまい瞳子が隠しきれなかったから嘘だとわかった。きっとこの話だったのだろう。 そういうことを考えると、どうして瞳子は彼女たちに顔を合わすことになる軽井沢に一人で来たのだろうか? それも、カナダへ家族旅行で行く予定をキャンセルしてまで。あげく会わなくてもすんだあんな連中に…… 祥子さまと一緒にいたかったから? 学校にかぎらず、それこそ休日にだって瞳子は会おうと思えば会えるのだ。それだけじゃあまりに割に合わないじゃないか。 「乃梨子さん?」 「ああ、ごめん。考え事してた……」 「そうですか」 「ねぇ、瞳子。瞳子がここに来た理由って、本当に私のことが心配だったからなの?」 瞳子は私の言葉に驚いたように目を丸くした。 そう言っているのに信じていなかったんですかって驚きではないようだし……まさか、私からそう言われて本当にそうだったって自分でも気づいたとでも? 「そんなこと……どうでも良いことではありません?」 私から目をそらしながらそう言った瞳子に「かもね。でも、ありがとう」ってお礼の言葉を送った。 前……私がリリアンにまるで慣れていないどころか、『逆隠れキリシタン』なんて自分のことを考えていたとき、みんな親切に世話を焼いてくれた。けれど、私のためだけではないとはいえマリア祭を舞台に大立ち回りまでしてのけた瞳子は一番親切で世話焼きだと思う。 今の私があるのも瞳子のおかげ……心の中でもう一度瞳子にお礼を言った。 その後、瞳子と二人で改めて話をしていると「やぁ」という声とともに男の人が部屋に入ってきた。 「お兄さま!」 「思ったより元気そうで安心したよ」 瞳子は『お兄さま』と呼んだけれど、瞳子は一人っ子のはず。いや、そういう意味なのだろうか? ちなみに、正直かなり格好いいのだけれどこの人誰? って瞳子に目で聞いてみる。 「ああ、私の従兄の柏木優。祥子お姉さまの従兄でもあるのよ」 なるほど、祥子さまと瞳子の親戚関係のちょうど真ん中にいるひとなのか。祥子さまの従兄と言われると、この格好良さも何となく納得してしまえる。 「お兄さま、彼女が二条乃梨子さんです」 「ああ、志摩子ちゃんの妹か。なるほど、話に聞いてたとおりみたいだ。よろしく」 「はい、こちらこそよろしくお願いします」 どんな話を聞いていたのか多少気になったけれど、そのあたりを聞く前に柏木さんが話を始めた。 「早速だが、瞳子。今、西園寺あたりともめているのか?」 「話は早いものですね。ええ、ついさっきも菊代さまと貴恵子さまをつれてここに来ていましたけれど、乃梨子さんが追い返してくれました」 「そうか、それは僕からもお礼を言うよ」 「いえ、私の方こそ瞳子に助けられたこともありましたから」 「そうか。乃梨子ちゃんたちの話は、あそこまで誇張された話なら良いと思っていたんだけれど、話が瞳子のことにまで広まっているのを耳にしてね」 瞳子の噂、あの三人のことだからさっきのだけでもないだろう。 「心配させてしまってごめんなさい」 「いや、瞳子が気にすることじゃない。まあでも、せっかく来たんだし何か役に立てることがあると良いな」 「そう言っても……ああ、土曜日のパーティーがありましたか」 「土曜日のパーティー……ああ、西園寺の大奥方の誕生会か」 「誕生会?」 「ああ、西園寺の大奥方の米寿を祝うパーティーだ。知らなかったのか?」 瞳子は机の上の招待状を手にとってじっと見つめる。その招待状を横目でのぞいて見ると、日時や場所などは書かれているけれどその目的は特に書いていない。 なるほど……何となくわかった。きっとパーティーが誕生会だということを知らせずに、誕生会にプレゼントとかを全く用意してこないなんて……そんな感じの仕返しを企んでいたのだろう。 「そう言えば、この時期でしたね。すっかり忘れていました。何もないとは思っていませんでしたけれど、お兄さまがいらっしゃらなかったら、まんまと術中にはまってしまうところでしたわ」 柏木さんは机の上に置いた招待状を見て「なるほどな」ってつぶやいた。 「早速役に立ててよかったよ」 それにしても、この柏木さんのおかげで企みをつぶすことができそうだけれど、私が知っても同じだから、 きっと小笠原の別荘に送られた招待状も同じようにそのパーティーの目的についてはふれられていないだろう。 そのことを祥子さまが知ったらどう思うだろうか? さらに言えば柏木さんからの情報がなくて、瞳子と私がパーティーでそろって恥をかくことになったとしたらどう思うだろうか? どう思うかなんて決まっている。いくらなんでもそこまで考えが至らないほど愚かとも思えないのだけれどどういうことなのか…… 「あの……聞きたいことがあるんですけれど、よろしいですか?」 「ん、なんだい?」 「あの三人も祥子さまにあこがれていたって聞いたんですけれど、こんなことばっかりしていたら祥子さまに軽蔑されてしまうだけだと思うんですけれど、そこまで短絡的なんでしょうか?」 どうやら私の質問の答えを柏木さんは持っているようで、どういう風に言うか考えている様子。 その考えがまとまったのだろう驚くような答えを教えてくれた。 資産はあっても伝統や格式が大したことがない家の彼女たちは小笠原家自体に嫉妬している。妹のような特別な存在がいない間は、自分が祥子さまのお気に入りになって上に上がろうとしていたけれど、それが不可能になったいまは逆に引きずり下ろそうとしているのだという。 柏木さんの答えに私は言葉を失ってしまった。そこまでとは想像の斜め上をいっていたのだ。 「さっちゃんにどう伝えるのかは任せる。見事撃退してきているし、裏も知ったなら大丈夫だとは思うけど、何かあったら助けになるよ」 そう言って携帯電話の番号を書いた紙を私に渡して柏木さんは帰っていった。この番号を使うことにならないことを祈るばかり。 「驚いていなかったみたいだけど瞳子は知ってた?」 「今年の三人の行動はひどすぎましたから、あるいはそうかもしれないとは思ってました」 「そっか……誕生会で何があると思う?」 「前に誕生会があったときは、たしか音楽のプレゼントをというのがあった気がします」 「音楽のプレゼント?」 「西園寺のお婆さまは、音楽好きなんですの」 「そうなんだ。それは準備も何もしてなかったら大変だ」 いきなりプレゼントの曲を演奏しろと言われても困る。 「ええ、わかった以上は、と言いたいところですけれど、乃梨子さんは何か心得があったりします?」 「……残念ながら」 小さな時に少し習ったりしたことはあったけれど、結局は学校の音楽の授業のレベルを超えていないと思う。学校レベルで成績がよくても通用する話ではない。 「参りましたわね……」 お姉さまはピアノがうまいし。祥子さまも……ああいったのこそまさにたしなむってものかもしれない。 「簡単な曲を今から練習するにしても、厳しいでしょうね」 「うん。見劣りしすぎだからね」 絶対に私を指名してくるだろうし……ここは逃げるしかないか? あんな連中に逃げを打つのはしゃくなことこの上ないし、きっと欠席すればドタキャンをしたということでいろいろと言いふらされてしまうことだろう。けれど、あの連中の信用は急降下中なのだし、負け戦をわざわざ挑む必要もないと思う。 「……そうですわ!」 「何か思いついた?」 「西園寺のお婆さまはリリアン出身だったはず、なら簡単だけれど特別な曲がありますわ!」 リリアン? 特別な曲? 「『マリア様の心』はご存じですよね?」 「ああ、うん。校歌みたいな感じだからね」 「高等部からの中途入学の乃梨子さんにはそれほどではないでしょうけれど、ずっとリリアンだったものには特別な曲なんですの」 なるほど。他の校歌よろしく曲は簡単。なら行けるかもしれない。 そして現役リリアン生だからこそのプレゼント、そんな意味でも良さそう。瞳子のおかげでしゃくな逃げを打たずにすすむかもしれない。 後は練習をするだけ……今日はもう遅いし、お姉さまや祥子さまにも知らせなければいけない。明日、二人で一緒に練習する約束をした。 〜3〜 私経由の情報で誕生会のことを知った祥子さまとお姉さまはピアノの練習をしている。 予想通りここに来た招待状にはその目的については一言も書かれていなかった。それで祥子さまには、私たちを陥れようとしていることだけを伝えた。 柏木さんはああ言っていたけれど、さすがに小笠原が対象になっているということは話して良いものかどうかわからなかったから伏せておくことにした。 そんなことで二人とも西園寺の曾お祖母様に曲のプレゼントをする機会があればといった感じで始めたのだけれど、やっぱりかなりうまい。みんながみんなのこんなレベルだとは思わないけれど、こんな高いレベルの中で私が下手な演奏をしようものなら大恥間違いなしだった。 昨日一日かけてひたすら練習していて、瞳子がオルガンで演奏、私が歌うことに落ち着いて、まあまあ行けるかなと思っている。私たちの曲は特別な曲だから、ある程度以上なら良いと思うし。 「お嬢さま、お姉さまがいらっしゃいましたよ」 キヨさんの言葉に祥子さまの手が止まる。来客があれば演奏を止めるのは当然だろうけれど、少し違った。 キヨさんがわざわざ『お姉さま』と伝えるような相手は……部屋に入ってきたその方は祥子さまのお姉さま。先代の紅薔薇さまの水野蓉子さまだった。 「お姉さま、いらしてくださったんですか」 「ええ、祥子たちの様子を見てみたくてね」 「ありがとうございます」 祥子さまはここのところの妙な来客に向けた笑顔ではなく、本当にうれしそうな笑顔を浮かべている。祥子さまも蓉子さまの前では一人の妹ということなのだろう。 蓉子さまに飲み物のリクエストを伺うと、冷たいものが良いとおっしゃられたので、冷たい麦茶が出されることになった。 「さっきキヨさんから聞いたけれど、楽しく平穏に過ごせているというだけではないらしいわね」 蓉子さまの言葉に祥子さまは少し目を伏せながら申し訳なさそうに「はい」と答えた。 「今日の夕方から、西園寺の別荘で催されるパーティーがあるのですけれど……」 祥子さまから事情を説明された蓉子さまは……「私も行くことにするわ」と私に向かってほほえんでくださった。さっきの説明でだいたいのことをつかまれたのだろう。 柏木さんもだけれど、いざというの時に頼れそうな方がもう一人。ものすごく心強い味方が増えた。 それから出発の時間まで四人で過ごすことになったけれど、蓉子さまの前の祥子さまは、私たちが悩んでいたり困っていたりしたときに道筋を示してくれたり、的確な指示を飛ばしたりする格好いい姿とは違ってずいぶんかわいく思えたのが印象的だった。 途中で瞳子と合流してパーティー会場の西園寺の別荘に歩いて向かう。 「蓉子さまもいらっしゃったとは驚きましたわ」 「うん、私も。でも、何かあったときに頼れそうな方が増えたって意味ではいい話だとって思う」 「たしかに、そうですわね」 「あと、蓉子さまと一緒にいる祥子さまを見てて思ったんだけど、蓉子さまの前だと祥子さまってかわいいんだよね」 「まあ。これから決戦場に行こうとしているのにずいぶん余裕があるのですね」 「それも瞳子のおかげ。そうじゃなかったら、逃げてたと思う」 「そう言っていただけるとうれしいですわ」 木々の間に白い大きな建物が見えてきた。あれが西園寺の別荘だという。 ずいぶん大きそうだとは思ったけれど、門の前に立つと直感以上に大きいというのがよくわかった。小笠原や松平の別荘とは違う豪華で大きな別荘。これは出席者もかなりの数になりそうだ。 緊張しているのが伝わったのか瞳子が「大丈夫、参りましょう」と私の手を引いてくれた。 瞳子もいるし、いざとなったら助けを求められる人もいるのに何を恐れているのか。 絶対に大丈夫、自信を持て!……そう自分に言って瞳子と一緒に西園寺の別荘の門をくぐった。 〜4〜 ここに来たときとは逆方向に門をくぐって、本当の意味でほっと息をつくことができた。 無事に西園寺の曾お祖母様の誕生会を切り抜けることができたのだ。 「ほっとしました?」 「うん……ほんとにね」 それなりに自信を持ってやってきたものの、みんなのうまい演奏を目の当たりにしているうちに、不安になってしまったのだ。それでも、瞳子という仲間がいたし、蓉子さまや柏木さんのような味方も居るんだからと不安を抱えながらも思い切って歌った。 ……歌のレベルは明らかに見劣りしていたけれど、どんなうまい演奏にも心を動かさなかった主賓の西園寺の曾お祖母さまが、私たちの『マリア様の心』に「なつかしいわね」と短い一言だけれど感想を言ってくれた。 「瞳子のおかげで助かったよ。ありがとう」 そういう展開になったのも、瞳子が思いついてくれたから、瞳子が手を引いてくれたから……そうでなければ、どういう風になったにせよあの三人を喜ばせてしまうことになっていただろう。仕掛けた三人はすました顔をしていたけれど、企みが失敗して悔しそうにしているのが透けて見えた。 「どういたしまして」 「それにしても……西園寺の曾お祖母様から言葉をいただけたのはよかったけれど、リリアン歴四ヶ月の私でよかったのかなぁとは少し思っちゃうかな」 「何を今更。山百合会幹部のお言葉とは思えませんわね」 「それもそっか」 一応リリアン高等部を代表する生徒の一人ということになっているのだ。さらに言えば名実ともに一年生の代表らしい。西園寺の曾お祖母様の言葉は歴史故のことだったからだったんだけれど、今はそういうことにしておこう。懐かしさを感じてもらえたのは本当だろうから。 「それに、祥子お姉さまからもお褒めの言葉をいただいたじゃありませんか」 「うん。でもあれは瞳子のチョイスの方が大きいと思うよ。考えてみると、リリアンに入って以来、瞳子には何度も助けられてるよね」 「そうでしたっけ?」 「うん。『逆隠れキリシタン』なんて自分のこと呼んでた頃からね」 「『逆隠れキリシタン』?……ああ、なるほど。そう言われればそうだったかもしれませんけれど、またおもしろい呼び方を考えたものですわね」 「お姉さまみたいなんじゃなくて、皮肉が強かったけどね」 それが今や一年生の代表らしいのだからおもしろいものだと思う。 「……私、乃梨子さんに嫉妬したことあるんですのよ」 突然話が飛んで驚くようなことを言ってきた。……話のつながりを埋めて「私がお姉さまと仲良くしていたから?」と聞いてみると、うなずいた。 「私は親戚である祥子お姉さまから学園では『祥子さま』か『紅薔薇さま』って呼ぶように言われてしまうのに、乃梨子さんは親戚でも何でもないのに志摩子さまのことを『志摩子さん』と呼べるような仲だなんてってね」 「あれって全部が演技だった訳じゃなかったんだ」 「考えれば、祥子お姉さまは規律をただそうとしただけだし、乃梨子さんは姉妹制のことも知らないくらいリリアンになじんでいなかっただけの差ですのにね」 「でも、瞳子があんな大舞台をぶちたてたのは、私のためでもあるのは間違いないよね?」 「ええ、乃梨子さんは瞳子の大事なお友達ですから」 「ありがとう。大事なお友達……か。特別で大事な友達なんだよね」 だからこそ、瞳子はここまでのことをしてくれた。そこまでの友達だと思ってもらえるなんてなんて光栄なことだろう。 「だ、だから最初から、そう言っているじゃないですか」 ちゃかした答えにかなりまじめに反応されて焦っているみたいだし、恥ずかしそうにもしている。 「ねぇ、瞳子。次、瞳子のことを人に紹介する機会があったら、『親友』って紹介してもいい?」 わざわざそんなことを言い出すのは小恥ずかしかったけれど、今以上に瞳子が恥ずかしがったりあわてたりするのが見たかった。 けど、なんでか瞳子には楽しそうにくすくすって笑われてしまった。 「この前私の目の前で、しかもあんな大声でそう言っていましたのに、今更そんなことを言うんですの?」 「あ゛」 あの連中に啖呵を切ったとき……確かにそう言っていた。 「あ、あれは、そう言わないと!」 「いいえ、いいんです。乃梨子さんが瞳子のことを大切に思ってくださっているのはしっかりと伝わっていますから」 ほほえみを浮かべ、胸に手を当てながらゆっくりとそんなことを言ってきた。ねらいとは反対にこっちが恥ずかしくて、穴を掘って埋まりたい気分にさせられてしまった。 「くすくす、企みは失敗でしたね」 「……そのようです」 「でも、うれしかったです。ありがとう」 「あ、いや、べつにお礼を言われるようなことじゃ……」 「私が言いたかっただけですから。さ、行きましょう、乃梨子」 「! うん、そうだね。行こう」 『乃梨子さん』ではなく『乃梨子』と呼んで、手を差し出してきてくれた。瞳子の手を取る。 二人で手をつないで歩く帰り道……私は、この軽井沢でかけがえのないものを得たのだ。