卒業式……正しくは卒業証書授与式という。リリアンの高等部で三年間立派に学び成長したことを示す証書を渡される式典。 その日がやってきた。 私たち在校生も卒業生の皆さまを、そしてお姉さまを送り出すために登校している。今日は気持ちの良い青空が広がり、この時期にしては少し暖かい。実に天候の良い日だ。 娘の門出を見守ろうと私たちといっしょにリリアンに向かっているPTAも着物の裾を気にしたりする必要もない。 バスを降りる。 お姉さまにとっては今日が最後の登校……幼稚舎からあわせて14年過ごしたこのリリアンを去る日。どんな思いで登校したのだろうか? 私は……やっぱり、寂しい。 この想いは、どんなに考えを切り替えてもすぐにわき出てくるから始末に負えない。 あー、もう。 「ごきげんよう」 それからすぐ、校門の前で紅薔薇さまに声をかけられた。 「あ、ごきげんよう、紅薔薇さま。ご卒業おめでとうございます」 「ありがとう」 今日限定の特別なあいさつを交わして、いっしょに並んで歩きだす。 「紅薔薇さまって呼ばれるのも、今日が最後になるかもしれないわね」 「……それは、だからですか?」 紅薔薇さまは、胸に紅いビーズでできた薔薇をつけている。 「ああ、これ? これは祥子とおそろいなのよ」 「おそろいって送辞と答辞をされるからですか?」 「そう、記念にね……許可は取っているのだけれど、家からしてくるのは目立ったかしら?」 「いえ、とってもお似合いですよ」 それはよかったと紅薔薇さまは少し笑った。 「ところで、今度会ったとき祐巳ちゃんは私のことをなんて呼んでくれるのかしら?」 「え? えっと……」 紅薔薇さまは私の中でずっと紅薔薇さまだったわけで、他の呼び方なんてこれっぽっちも考えてなかったから、言われて慌てて考える。 ……紅薔薇さまはリリアン生ではなくなってしまうけれど、やっぱり蓉子さまだろうか。 「蓉子さま……でしょうか?」 「やっぱりリリアン生ね」 「そうですね」 紅薔薇さまは中等部からリリアンだから元に戻るだけかもしれないけれど、私の場合は幼稚舎からの根っからのリリアン生だから、水野さんだとか、水野先輩だとか名字で呼ぶ習慣が私の方にまるでないし、指定されてもなかなかかもしれない。 「身につけているものといえば、そのリボン久しぶりに見るわね」 紅薔薇さまが言ったのは私がしている白いリボン。このリボンはお姉さまに買ってもらった特別で、それ相応の時にだけつけるようにしているものなのだ。 「はい。お姉さまに買ってもらったものなんですけれど、特別なときにだけつけるようにしてるんです」 「そう、今日は聖にとっても一応卒業式だからね」 ん? ちょっと待て。紅薔薇さまの台詞変じゃないか? 何で一応なんて単語が付く? 「……どうかしたの?」 「えっと……どうして、一応なんですか? お姉さまも普通に卒業式ですよね?」 私がそう言うと紅薔薇さまは少し首をかしげてなにやら考え事をしている。何かものすごい認識のずれがあったりするのだろうか。 暫くしていったい何に気付いたというのか、紅薔薇さまは目を丸くしてしまった。紅薔薇さまがこんな顔をするだなんて…… 「……まさかとは思うけれど、まだ知らなかったの?」 「何がですか?」 「聖はリリアンなのよ」 「えっ!? え〜〜!!」 「お姉さま!!!!」 三年藤組に怒鳴り込む。私のはらわたは完璧に煮えくりかえっている。 「あ〜祐巳ぃ、どうしたの?」 下手人がのんきな声で笑顔を浮かべながらこっちにやってきた。 「……良いから来てください!」 お姉さまの腕をむんずとつかんで連行する。藤組の方々が興味深げにこちらを見ているけれど、今はそんな人の目を気にしている場合ではない。 「強引だなぁ」 教室を出て人気がなさそうな方に進む。 「何の話かわらないけど、今日はどこに行っても人がいるしここで良いんじゃない?」 階段の上の踊り場でお姉さまがそんなことを言った。確かに、今日はクリスマスやバレンタインデーと並んでみんなが様々な想いを語り合っている日だ。 ここには雰囲気のかけらもありはしないけれど、私にとっては人気がなければいいのだから十分。 「……じゃあ、ここで良いです」 「ホントにどうしたわけ、そんな怖い顔して」 本当に全くこれっぽちも心当たりがないようだ。 「……お姉さま、お姉さまの進学先の大学ってどこでしたっけ?」 「え? あっ………」 絶句した。やっと気付いたか…… 「いったいどういうことですか!? 外部受験して受かったんじゃなかったんですか?」 「え、えっとねぇ……」 詰め寄った私に対して恥ずかしそうに顔をそらせるお姉さま。なぜ恥ずかしそうに? 「いや、優先入試の願書締め切りすぎてたと思いこんでて、出さなかったから」 「……はい?」 顔が恥ずかしいんだから聞かないでよぉと言っているけれど、さっぱり訳がわからない。 「……私が大学に行こうって思ったのは学園祭の後……十一月だったから本当はまだ間に合ったんだけどね。十月に一応締め切りみたいなのがあったのが、本当の締め切りだと思いこんでてね」 顔を本当に紅くしながら、きちんと理由を聞かせてくれた。それで普通に願書を出してリリアンを外部受験をしたわけか。 「でも、お姉さま、落ちたりしたら恥ずかしいじゃないって言いましたよね?」 お姉さまの成績で落ちるわけがない。むしろTOP合格をしてもおかしくないはずだ。 「恥ずかしいじゃない! 優先入試だしておけばいいだけのものを、締め切りすぎてるって思いこんで出さずに、現役でただ一人受験して、それでもって落ちたりなんかしたら……」 なるほど。その上お姉さまは白薔薇さまなのだから、もし新聞部にばれようものなら『白薔薇さまのご乱心?』ってかわら版で特集くまれて歴史に名前を刻んでしまいかねない。そんなことになったら恥ずかしいなんてものじゃないけれど…… 「でも、どうして私にも話してくれなかったんですか?」 いったいどんな恥ずかしい理由があるのかと思ったけれど、リリアンの受験日覚えてる?って質問で返ってきた。 「リリアンの受験日ですか?」 リリアン大学の受験日……そうだ。あの臨時バスが出てて、たくさんの受験生が来ていた日…………ちょっとマテ!! 「あの日、お姉さま薔薇の館でお弁当いっしょに食べてたじゃないですか!」 「う、うん、そう」 「……」 「いや、一人だけリリアンの制服で浮いた中お弁当食べるよりいつも食べ慣れてるホームグランドで食べた方がいいかなってね」 そりゃそうかもしれないけれど。誰が、あんな受験生がいると思う。その後、確か私にFAXの使い方を教えてくれていたし。絶対にあり得ない。 「で、それがどうしたんですか?」 「ちょっとまってね……」 ごそごそとポケットを探って、お守りを取り出して「これ、覚えてる?」って聞いてきた。覚えてるも何も、合格祈願と刺繍が入ったそれは私が贈ったものだ。 そのお守りがどうかしたというのだろうか? そもそも、何で合格祈願のお守りを未だに……あれ? 「あっ」 あの恥ずかしい仲直りしたあと渡したのだけれど、あのときにはすでに受験は終わっていた。 そのことを私にわからないように、隠していたのか。 「なるほど……そういうことだったんですね」 「うん、ごめんね」 「でも……今の今までというよりも、最後の最後まで隠している必要はなかったですよね?」 紅薔薇さまから話を聞かなかったら、本当に気付かなかったはずだ。この人は、卒業してからもずっとごまかし続けるつもりだったんだろうか? 「……え、えっとね……その、そんなに睨まなくても良いじゃない」 「睨みたくもなります」 「ごめん、ホントごめん……どうにも言い出しにくくて」 一つ大きくため息をつく。 言い出せないまま月日は過ぎ去り、『自分と勝負』になってしまって、話すどころではなくなり……ってわけか。 「それにしても……どうしてそんなことになってしまったんですか?」 お姉さまほどの人が大学に行かないなんて思いもしなかったから気づかなかったけど、先ほどまでの話をまとめるにどうやら最初は大学に進むつもりがなかった、ということになる。 「……うん。もともと、私が大学に進むことにしたのは、祐巳のおかげ。いっしょにいてもっと学生でいたくなったから。それがリリアンだったのは自分の中で気持ちの折り合いをつけるため……あ、祐巳から離れられなくてリリアンを選んだわけじゃないよ」 少なくても、大学に行こうと考えたときはよい距離感で付き合えていると思っていた、と。 「……」 お姉さまはずるい。 私がいたから大学にも進む気になれた、そんなことを言われたら今日も怒れないじゃないか。 それに、お姉さまが最後の最後まで教えなかったのは、結果から見れば私にとってもよかったのかもしれない。 おかげで?私はお姉さまがリリアンを巣立っていくものとして心の整理ができた。お姉さまがそんな想いで進学するのなら私は妹として立派にお姉さまを送り出さなければいけないのだから。 「ほんとにごめんね」 でも、しゃくなことはまちがいない。 ……そうだ。 ここはひとつ、お姉さまの十八番といこうじゃないか。 「……そうですね。言葉だけじゃなくて、行動で示してください」 「行動?」 目をつぶって口を突き出す。 「え、ええ〜〜!!」 うんうん、焦ってる焦ってる。あ、今度は真っ赤になってもじもじし始めた。 いつもなら私が薄目でちらちら様子をうかがっていることぐらい気づきそうなものだが、恥ずかしさだけでなく少しは罪悪感もあるのか微塵も気づいていないっぽい。 結構結構。たまにはお姉さまもからかわれる側に回ると良いのだ。 さて、そろそろ冗談だと……え? ちょ、ちょっと。 どうやら一足早くお姉さまは決心を固めてしまったらしい。 優しく、それでいて動きがとれない形で壁際に押しつけられる私。 「祐巳……」 「お姉さま……」 ……もう、冗談じゃなくても良いかな。 「あっ」 二人の影は一つに……ならなかった。 踊り場に響く第三者の声に、二人してブリキのロボットのようにカクカクと首が動く。 なんとそこには紅薔薇さまが。 視線が合う……一秒、二秒、三秒……紅薔薇さまがくすっと笑った。 ぎゃぁああ〜〜〜!!! 「よよよよ、蓉子!!」 「そ、そそその!!」 「くすくす。おじゃましちゃったみたいで、本当にごめんなさい。それじゃ、ね」 「あ、あの、蓉子様……」 神様、仏様、マリア様、蓉子様。 このことはどうかご内密にとばかりに、冷や汗をダラダラ流しながら頭を下げる私たち。 楽しそうな笑顔を浮かべたままくるっと回れ右をしていた紅薔薇さまが再回転。 「あ、そうそう。もちろん、まだかまだかと熊のような方を待ちわびている、おもしろいものばかり好むような知り合いには教えないから安心して」 あの。その「ふふふっ」っていう微笑みを浮かべたまま、そんなことをおっしゃっても説得力が……。 「蓉子、カムバック!!」 お姉さまの引き留めも聞こえてないかのように、そのままスタスタと三年生の教室の方に歩いていってしまった。 「……お姉さま」 「……なに?」 私もお姉さまも半泣きに近いかもしれない。 「一生。忘れられない卒業式になりそうですね」 「……そうかもね」 そんなこんなで卒業式は終わり、マリア様の前で記念写真を撮った。ちょうど通りかかった静さまにも声をかけて、みんなで撮った。 結局、蓉子さまは江利子さまにも黙っていてくれたようだった。 あれは蓉子さまのお茶目ないたずらだったのだろう。……ものすごく心臓に悪かったけど。 そのあとそれぞれのファミリーに別れ、私はお姉さまと二人で大学の方に歩いてきた。 「来月からこっちに通うわけだけど、前に言ったとおり、祐巳と一緒にいたいからリリアンを選んだ訳じゃないからね」 「でも……遊びには来てくださいね?」 「うん、歓迎してくれるならね」 「絶対に歓迎します!」 「そっか、じゃあ遊びに行くね」 「それじゃ、遅くなると心配するだろうし、祐巳の家に行きますか」 「はい!」 南よりの風が吹く。 春は、もうそこまで来ていた。 そして……