もうひとつの姉妹の形 -another story-

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 森の奥に入ったら、もちろん街灯なんてあるはずもないし、月も雲に隠れてしまっているから今は本当に真っ暗。
 けれど、このライトがあるから大丈夫。問題なく道を歩くことができる……のだけれど、裏返せば今このライトが消えたら本当に真っ暗闇になってしまう。蛍を見るには良いかもしれないけれど、ただでさえ小石が転がっているような道なのに、歩くのが危なっかしくてしょうがなくなってしまうところだ。
 もし、ライトをお姉さまが持ったままだったら、わざと消すいたずらとかしてきそう……私が持っている以上その心配がないし、取りあげて正解だったかな?
 そうして小川から離れて森の奥へ道なりに進んでいくと、確かにあの大勢の出している音や声も小さくなってきたけれど、蛍もいなくなってきてしまった。
 むぅ……とお姉さまがうなった。
 ポツリポツリと蛍はいるのだけれど、本当にポツリポツリ。さっきみたいに至る所に蛍がいる訳じゃない。贅沢なのかもしれないけれど、わざわざ蛍がたくさんいた場所から離れたのだから、それより少なくなるのは仕方ないとしても、ここまで少なくなってしまっては何のためにわざわざ奥に入ってきたのかということになる。
「もう少し奥に行けば、また蛍がいっぱいいるかもしれないからもう少し行こうか」
 もっと森の奥、簡単には行きにくいような場所なら、蛍がいっぱいいても人は全然いない場所。秘密の穴場みたいなところがあってもおかしくはないはず……きっとそんなところの一つや二つくらいある。あると思う……で、お姉さまの提案に「はい」と答えてもっと奥へと足を進めた。
 …………
 …………
 けれど、奥に行くにつれて蛍がポツリポツリから時々見かけるくらいにさらに減ってしまった。
 そして蛍の数と一緒に二人の口数も減ってしまい、さっきから無言で歩いている。これだけ一方的に減っていくだけだと、このままもっと奥に行っても蛍がいっぱいなんてことはなさそう……それはわかっているけれど、ある意味意地というか、せっかく来たのに全力で空振りなんてのは認めるわけにはいかない。
「あっ!」
 転がっていた大きめの石に躓きそうになってしまった。なんとか転ばずにはすんだけれど、私が突然大きな声を出したから、お姉さまは私を心配そうに見て「大丈夫?」と聞いてくれた。
 私が大丈夫ですと答えると、何か少し言いたげだったけれど、結局何も言わずにそのまま道を進み直した。
 このライトを暗いモードじゃなくて明るいモードに切り替えれば、もっと歩きやすくなることもわかっているけれど、それをしてしまうと蛍が見れないことを認めてしまうような気がするから暗いままにしている。お姉さまも同じような気持ちだから、明るくすればいいのにとか、そういうことを言ったりしなかったのだろう。


 蛍がたくさんいた小川を離れて、森の奥に向かって進み始めてからどれだけ歩いたか……ついに蛍の影も形もなくなってしまった。
「……」
「……」
 どっちのため息が先に出たのかはわからないけれど、二人ともため息を出すまいと我慢していた堰が崩れてしまって、結局二つのため息が重なることになった。
「参ったなぁ……やっぱり戻る?」
「……しかたないですよね。このまま進んでもいなさそうですし」
 蛍がまるでいないのではどうしようもない。選択肢は他になかった。
 もう一度大きなため息をついてから、くるっと回れ右をして重い足取りで戻り始めた。
 それから少しして辺りが急に明るくなった。
「あ、月が……」
 空を見上げると雲の切れ間から月が顔をのぞかせて月の淡い光を降り注いできていた。
「月か……蛍がいまいちなら、いっそお月見……っていうほど良い月じゃないなぁ」
 満月ではなくて欠けているし、雲の間から顔をのぞかせているだけだし、月見をと思うような月ではないけれど、月の光のおかげで道が照らし出されてずいぶん歩きやすくなった。
 どうしようか? ライトを明るくすればもっと歩きやすくなるけれど……そうしよう。ライトを明るくすると辺りがいっそう明るくなって、さっき躓いた石よりも小さいものでも道に落ちているのがくっきり見えるようになった。やっとこのライトが真価を発揮したのだけれど、全然嬉しくはない。
 さっきとは違って明るい道を戻る。
「これから、どうします?」
「そうだね……蛍をまともに見ずに帰るなんていくら何でもしたくないし、お仲間入りしようか」
 さっき、二人っきりになれないのが嫌であの小川を避けたけれど、それしかないようだししかたない。こんなことなら……と少し後悔。
 元の小川を目指して歩いていると、しばらくしたところで、一緒に横を歩いていたはずのゴロンタが後ろの方で一つ高い鳴き声で鳴いた。
 何事かと二人とも立ち止まってゴロンタを振り返って見る。
 ゴロンタは、少し離れたところで横を向いていた……その先には見落としていたけれど、微妙に草が薄くなっているところがあった。
「にゃ〜」
「付いて来いって?」
 ゴロンタのメッセージをお姉さまが読み取った。でも、草をかき分けながら進まなければいけなそうだし、せっかくの浴衣が汚れてしまいそうだから、お姉さまから「……行ってみる?」と聞かれてもすぐには答えられなかった。
 何かを見つけたのは間違いないだろう。単にこの道を見つけただけということなのかもしれないけれど……お姉さまによるとゴロンタが付いてこいって言っているから、それ以上の何かなのだろうか? 何かがあるのならこのまま本当に何もなしで戻るよりは、多少大変でも万倍良いかもしれない。
「そうですね。行ってみましょう」
 そうして本当に草と草の間をかき分けながらゴロンタを先頭に、私、お姉さまの順で進んでいくことになった。この先にいったい何があるのだろうか?
「つっ!」
 目の前の邪魔な草をかき分けた時に指を切ってしまった。人差し指から血が出ている。
「どうしたの?」
「草で、指を切っちゃって」
 そう言うと、お姉さまは私の手を取って指の切ってしまったところを見る。
「ん〜、大丈夫。これならなめときゃ直るから」
 そうですかと思ったら、パクって言いながら私の指をくわえて来た! お姉さまが! お姉さまの舌が私の指をなめている!
「うん、これでよしと」
「あうぅ……」
 恥ずかしくて顔を紅くしている私に、まさに『にんまり』って感じの笑い顔でどうかしたの? とか聞いてきた。
「わかっててやってるでしょう」
「なにがかな〜? ああ、また血が出てきた。ちゅうちゅう」
 また、今度は吸っている……うぅ。
「あれ? なにかまずかった? ひょっとしてまだ痛い?」
 この人は……
「にゃ〜」
「あ」
 ゴロンタがこっちをじ〜っと見ている。
「ごめん。いや、ついね」
 道案内をしようとしていたのに、あんなことをしていたからすねてしまったみたいだったけれど、お姉さまが謝るとくるっと前を向いて歩き始めた。
「行こうか、はい、バンドエイド。祐巳がけがしないように私が先に行くね」
 どこに持っていたのかわからないけれど、バンドエイドをもらった。台紙からはがして指のけがをしたところに貼った。
 そうして順番をお姉さまと変わって、また草をかき分けながら歩くとすぐに細い獣道に出た。
「ありゃ、最初だけだったか。うん、これなら楽そうだ」
 両脇には背の高い草が茂っていて、人が好んで通るような道ではないことには変わりないけれど、草をかき分け進むみたいなことしなくてもよさそうな道が続いている。
「でも、これだと祐巳に指をなめてもらえなくなっちゃったかなぁ」
「何を言ってるんですか、先行きますよ」
 そのままだとまたいろいろと言われたり、からかわれたりしてしまいそうだったから、お姉さまの脇を通って私が先に行くことにした。祐巳はせっかちだとかなんとか言いながら付いて来ているけれど、聞き流しておくことにする。
「あっ!」
 しばらく歩いていたら突然あたりが暗くなって、離れたところが見えなくなってしまった。あわてて空を見上げると、木と木の間に見える空にさっきまで顔を出していた月が雲の向こうに隠れてしまった。近くはライトのおかげで明るいけれど、背の高い草が多いからそんなに遠くまでは照らせない。
「お姉さま……このライト大丈夫ですよね?」
「え? 大丈夫って何が?」
「ほら、電池切れとか故障とか……今このライトが消えちゃったら私たち絶対に遭難ですよ」
「う……、確かにライトなしでさっきの道に戻る自信はないな」
 私に言われてお姉さまも心配になったのだろう、後ろを振り返る……私もライトをそちらに向けるけれど。背の高い草の陰になってしまっているからあの道は全然見えない。
「電池は新しいのを入れてきたばっかりだから問題ないはず。故障については……いくら新しいものだっていっても、製品になってるんだし、落としたり、ぬらしたりしなければ大丈夫じゃないかな?」
「そ、そうですよね。大丈夫ですよね」
 絶対に落としたりしないように、ぎゅっと両手でライトを握りしめる。
「ああっ! そんなに強く握ったりしたら逆に壊れちゃうって!」
「あっ、ひっぃっ!!」
 お姉さまに言われて慌てて力を抜いたら、今度は力が抜けすぎてぽろりってライトが私の手から落ちてしまった。ゆっくりとスローモーションのように地面に向かって落ちていくライトが見える。ああ、私のせいで遭難してしまうのか……お父さん、お母さん、祐麒、山百合会のみんな、そしてお姉さま、テレビに出てしまう愚かな祐巳で申し訳ありません。
 思わず瞑ってしまった目を開けると、そこは暗闇に閉ざされた世界……ではなかった。
「あ〜危なかった。気をつけてよね」
 お姉さまが私が落としたライトをすんでの所で拾ったのだった。ああ、お姉さまの反射神経に大感謝。
「まあ、元々外で使うためのものなんだし、一応防水にもなっているから、崖から落とすとか川に落とすとかじゃなければ少々落ちたくらいだったら大丈夫なんだけどね」
 立ち上がって、パンパンと浴衣に付いた小さなものを払い落とす。それでも、お姉さまのライトを落としてしまったのだし、ごめんなさいと、謝ると……
「まあ、祐巳がずいぶん雰囲気出してたし、せっかくだしちょっと怖がらせてみようと思った私も悪かったし、ごめんね」
 なんて答えが返ってきてしまった。
 どう言ったら良いだろうか? とにかくわかっていての行動だったのだ。……またはめられた。
「ほらほら、祐巳が最初に言いだしたことなんだから、そんな顔しない」
 笑いながら少しふくれていた私のほっぺたをつんつんってつついてきた。そんなことするなら、もっとふくらませてやる。
「つんつくつん、つんつくつん」
「て、いうか、そんなにつつかれたら痛いですって!」
「だから、そんないたずらしたくてしたくてうずうずしてくるような態度とっていたら、私が我慢できるわけないって祐巳もわかってるでしょ?」
「そう来ましたか……でも、一番悪いのはいたずらする本人だってわかってますよね?」
 ううってうめいた。少しは効いているのだろうか?
「まあ、それはそうなんだけどね。私がこんな人間だってずっと前からわかってたよね?」
 ええ、わかっていますよ。姉妹になりたての頃はそんな人間だとは思っていませんでしたけれど。
 と、何だろう? ライトからは陰になっているからお姉さまの表情がよくは見えないけれど、少し遠い目をしているような気がする。
「どうかしました?」
「ううん……ちょっとね。私がそんないたずらしたくなってしまうような人間だってわかっても……っていうのは祐巳くらいかもしれないなって思ってね」
 もう少しいうなら、そのいたずらをされてすら……ってところだろうか。
 でも、お姉さまがいたずらをしようと思うなんて、そもそもよっぽど関係が深い必要がある。そして友達の枠を越えそうなところでは、志摩子さん、静さま、栞さま、蓉子さま、そしてお姉さまのお姉さまあたりか。……栞さまのことは直接知っているわけではないけれど、お姉さまの話ではお姉さまがいたずらをしようと思うはずもないし、見事に私みたいにお姉さまがうずうずしてきそうな相手がいない。
 今のところはないけれど、静さまはいたずら好きだからどちらかといえばお姉さまとタッグを組んで私をからかってきそうな人だし、蓉子さまに至ってはむしろ逆でお姉さまの方が意地悪をされてしまう方だ。
 お姉さまのお姉さまはまだお会いしたことがないけれど、話に聞く限りは私とお姉さまの関係、つまりお姉さまがからかわれるような関係だったのだろう。
 だから、私だけだと言われても……嬉しいような嬉しくないような。ある意味伝統になるのか、これ?
「あれ? 何かまずかった?」
「別にまずいとかじゃないですけど……そうですね。やめてほしいとは常日頃から思ってますけど、それでお姉さまが嫌いになるとかそういうものではないですから」
 お姉さまは私の頭にぽんと手を乗せて撫でてくれた。こうされるのは、ずいぶん久しぶり……
「ありがとね。たぶん、相手が祐巳だからこそ安心してできちゃうんだろうね。それに、妹が祐巳じゃなくちゃ、こんな風に毎日楽しくなんてできなかったと思う」
「お姉さま……」
「だから、ありがとうね」
 お姉さまは私の頭の上に回していた手を肩に下ろしてきた。そして、ライトを帯に挟んでもう一つの手も反対側の肩に……お姉さまとまっすぐ向き合う形になった。
 お姉さまの顔がすぐ目の前にある……これってひょっとして、さっきのリテイク?
「祐巳」
 お姉さまが私の名前を優しく呼び、そっと私のあごを持ち上げゆっくりと顔を近づけてくる。ヒロイン役の私は頬を上気させ目を潤ませながら、ただそのときが来るのを待つのだ……
 あと、もう少し……二……一……
「な〜〜」
「ん?」
 外野から何か声が聞こえてきたのに驚いてそっちを見ると……ゴロンタがこっちを見ていた。しかも、あの顔は明らかに怒っている。
「……えっと」
「ああ、ごめんごめん! つい、ね」
 そういえば、ゴロンタが何を見つけたのかはわからないけれど、私たちを道案内してくれようとしていたのだった。それを二人で足を止めて馬鹿なことをやっていたのだから、あきれてしまってもおかしくない。
 しかも、だ。ついさっきも道案内をそっちのけにしてしまっていたばかりだというのに、馬鹿なことにとどまらずに二人だけの世界に入っていってしまったのだから、腹を立ててしまうのも当然かもしれない。
 私だって……たとえば、令さまと由乃さんを案内している途中に二人だけの世界に入って行かれたら、へそを曲げてしまうだろう。
 いい加減な謝り方だったお姉さまの分も合わせてゴロンタにしっかり謝ると、たぶん許してくれたのだろう一つ鳴き声を上げてまた進み始めた。それじゃあ行こうと、ゴロンタに続いて背の高い草をかき分けながらさらに進んでいく。
 さっきのやりとりのせいでライトはお姉さまが持つことになってしまったけれど、大丈夫だろうか? ……いくらお姉さまでも、あの後すぐにまたいたずらをするなんてことはないと思うのだけれど……。
 きっと大丈夫だ。私相手だけならばともかく、今はゴロンタもいるのだ。今回の旅行では心証をだいぶ落としているような気もするし、これ以上はないだろう。それだから私も安心しても大丈夫……なのだと嬉しいのだけれども。
 そうしてまた歩き始めてからすぐに、小さな光が一つ宙を舞っているのを見つけた。
「あ、蛍?」
 光はすぐ近くの草に止まった。お姉さまがライトをそっちに向けると、蛍の姿がはっきりと見えた。
 奥の方に入ってしまってからずっと見かけなくなってしまっていた蛍が一匹だけだけれど、目の前にいる。蛍がどのくらい飛んで移動するのか知らないけれど、だいぶ歩いているからあの小川から飛んできたってことはないだろう、ということは、ひょっとしたらこの先に……
「お姉さま、ゴロンタが見つけたものって、ひょっとして」
「たぶん、そうじゃないかな? ……行こう!」
 二人の思い当たったことはぴたり一致していた。
 ゴロンタについて残りの道を急いで行くと、蛍がちらほらと見え始め、あちこちにいるようになってきた……それに水が流れる音が聞こえてくる。間違いない!
 …………
 …………
「うわぁ」
「こりゃすごい」
 辺り一面が蛍の光で埋め尽くされていた。
 小さな池とそれにつながる小川があった。水の上や周り、近くの草木……至る所に蛍の光が見える。あのたくさん人がいた小川にも全然負けないくらい。
 思っていたものをずっと越えていた光景にあっけにとられたところもあって、しばらくただその光の洪水を見ていたけれど、私の方から声をかけた。
「本当にすごい。秘密の場所、やっぱりあったんですね!!」
 お姉さまはライトを暗くしながらそうだねって答えた。ライトが暗くなったおかげで、もっとよく見えるようになった蛍を二人で眺める。
 ここには私たちしかいないし、あんな道では誰かが来るなんてことはまずありえない。来る前に思い描いていた蛍がたくさんいるところでお姉さまと二人きり、という夢が現実になった。
「私たちだけでこの景色を独占できるなんて贅沢だよね。完全貸し切り、プライベートビーチの蛍版かな」
 お姉さまはこの光景の立役者ならぬ立役猫のゴロンタを抱き上げ頭を撫でながら、「ここに連れてきてくれてありがとう」ってお礼を言った。
「私もありがとう。ゴロンタのおかげで蛍がみれたよ」
 本当にゴロンタには感謝。もし、ゴロンタがいなかったら、今頃無駄骨をさんざん折ってしまったと思いながらあの人混みの中で蛍を見ることになっていたことだろう。
 二人からお礼を言われたゴロンタはうれしそうに、そして得意そうに鳴いた。
 それから……さっきはいいところで邪魔されたなんて身勝手なこと思ってごめんね、と心の中で謝った。
 うっとりとしながら蛍を二人と一匹でしばらく眺めていると、ゴロンタが何かお姉さまに訴えた。何を言ったのか、私にはわからなかったけれどお姉さまはわかったようで、「ん? そうか、行っておいで」とゴロンタを地面におろした。
 自分の足で動けるようになったゴロンタは嬉しそうに蛍の渦の中に飛び込んでいった。けれど、蛍の方がゴロンタにびっくりしたのだろう一斉にゴロンタから逃げるようにぶわっ〜! て飛んでいく。
 ゴロンタから逃げる蛍の光が一斉に動くのは、ただただすごかった。
「ああ、そうだ。せっかくだしライト消した方がもっと良いよね」
 お姉さまがさっき暗いモードにしたライトを完全に消すと、蛍の光がいっそうよく見えるようになった。月の明かりも星の明かりもない、すべてがぼやっとした蛍の光に照らされるだけの世界。
「あっ、祐巳、それ」
 お姉さまが何かに気づいたようで私の方を見ながら指さしてきた。どこを指しているのだろうか? 何となく自分を見てみると、私の浴衣の袖に蛍がとまっていた。
 あの辺りで蛍を追いかけ回しているゴロンタではないけれど、せっかくすぐ手の届くところに蛍がとまったのだし、捕まえてみたくなって反対側の手をそうっと近づけていく……。
 けれど、蛍に気づかれてしまったのか私が捕まえるよりも早く蛍は飛んで逃げてしまった。
「祐巳、蛍ほしい?」
「え? ま、まあ……別に持って帰るとかじゃないですけど。手に取ってみたいですよね?」
 そう言うと、じゃあちょっと待ってねと言ってお姉さまはゴロンタから逃げた蛍がたくさんとまっている背の高い草の方に歩いていった。
 少しして両手を組みながら戻ってきたお姉さまの指と指の隙間から光が漏れていた。
「蛍、捕まえたんですか?」
 うん、まあねって得意そうに答える。
 私の前まで戻ってきた……お姉さまの手に合わせるように私も手を伸ばす。
「はい、私からのプレゼント」
 そう言ってお姉さまが組んでいた手を開くと私の手に次々に蛍が光りながら転がり込んできた。いったいどうやってそんなに捕まえたのか三匹や四匹なんてものじゃなかった。
 そして解放されたことに気づいた蛍が次々に私とお姉さまの手から空へと舞い上がっていく。
 その蛍を捕まえたりするのはすっかり忘れて、私たちの手の上から光が飛び立っていくのにただ見とれていた。
 …………
 …………
 じきに蛍はみんな逃げてしまって、明るかったら手のひらの上も暗くなって輪郭が見える程度になってしまった。
「どうだった?」
「素敵……でした」
 本当は言葉にできない・したくないほどの光景だった。すごいとか美しいとか……どんな言葉にしてもかえって陳腐になってしまうような。
「うん、そうだ。ここは一つ蛍を呼んでみよう」
 呼ぶ? と首をかしげると、お姉さまはあの有名な歌を歌い始めた。
「ほ〜ほ〜蛍来い、あっちの水は苦いぞ、 こっちの水は甘いぞ〜!」
 当然といえば当然だけれど、蛍はいっこうにこっちにやってこない。そもそもこっちには水がないし、蛍に歌がわかるわけもない。
「……」
 なんで、こんなこと思いついちゃったんだろうか。お姉さまの歌を聴いて思いついたことは、口に出したらそれだけで赤面すること請け合いなものだ。
 きっとさっきのあまりに非現実的で幻想的な光景に私の心のたががゆるんでしまったのだろう。そうでなかったら、たとえ思いついたって決心できるようなものではないから。
 よし!
「お姉さま」
 もちろん最初は冗談のつもりだったのだろうけれど、あまりにも全く反応しないからか、ちょっとむきになって歌っていたお姉さまは歌うのをやめて私の方をむいた。
「そ、その……蛍が寄ってくるような……もっと甘いことしませんか!?」
「もっと甘いこと?」
「は、はい……歌よりもずっと」
 この暗さならどうせ顔だってはっきりとは見えないんだし、旅の恥はかき捨て。
 ええい、ままよ!
 思い切って一歩近づいた。それで、ちょっと背伸びしながらお姉さまの首に腕を絡めてそのまま……
 ……あれ? あれ?
  思ったのと少し違う感触が。
 ちょっとねらいがそれて唇のすぐそばのほっぺたになってしまったのだった。
 キスはキスだけれど……気が抜けてしまい唇をふっと離し、そのまま絡めていた腕も外そうと……
 え?
 お姉さまが外そうとしていた私の腕をつかみそのままさらに引き寄せた。お姉さまの鼓動が聞こえてくるくらい近い距離。
「あ、あの……ねらい通り限りなく唇に近い位置に、みたいな?」
 いくら何でもこんな言い方じゃ失敗したのがばればれだろうなあ……。恥ずかしいことをやろうとして失敗するのはもっと恥ずかしい。抱きしめられているうれしさと羞恥心から心臓がバクバクと音を立てている。
 こんなにくっついていたらこの胸のドキドキがもれなく伝わっちゃう。
「ふふ。祐巳も大胆になってきたよね。でもまあ、この暗さじゃ仕方ないね」
 いつも私をからかう時のような笑い方はせず、とても温かい笑い方だった。
 そして、この距離なら大丈夫と、強く抱きしめ合ったまま唇を近づけてきた。三度目の正直、今度こそ……
 
 ……私は目を閉じて待つ。
 そして、ゆっくりと二人の唇が重なった。
 


 蛍と一匹の猫だけが二人を見ていた。