「ごきげんよう」 後ろから声をかけられて少し驚いた。私に声をかけてくれたのは高等部の生徒二人……私の後輩たちだった。 「ごきげんよう」 二人ともつい先月までは私も着ていた黒い制服に身を包んでいる。今はもう卒業してしまっているから、私服でやってきたけれど、昨日の大学の入学式はスーツを着ていったし、私服というか普段着でリリアンにやってくるなんて、ほとんど初めてかもしれない。 「お花見ですか?」 私がさっき見ていた桜の木は今まさに満開に咲いている。 「うん、まあね」 私が実はリリアンに進学していたことがリリアンかわら版に載っていたこととかを話していたけれど、言葉のやりとりしている内に私の気持ちを感じ取ってくれたのだろう、適当なところで話を切り上げて、失礼しますと二人は去っていってくれた。 また一人になって改めて桜の木を見上げる……去年ここで、志摩子と出会った。 私は志摩子の想いを知っていたけれど、近づくことをおそれて私にとってだけ都合の良い関係にしていた。志摩子にとってはひどく中途半端なまま……結局祥子が手をさしのべて中途半端な立場から解放された。志摩子は祥子に救われたと言っていたし、それでよかったと思う。 けれど、私の方はといえば、いざ志摩子が祥子の妹になったらそのショックでお姉さまからもらったロザリオをたまたまその場を通りかかった生徒にあげてしまったのだ。何度思い返してもあきれた行為としか言いようがない。 しかも、その上二重三重に馬鹿だったから、逆恨みして志摩子をあおったりしたのだ。まるで自分が破滅していくのを望むかのように。 だけど、本当に偶然だったのだけれど、そのロザリオを渡した生徒……祐巳は私を救ってくれるような子だった。 おかげで私は痕を抱えたまま生きていけるようになった。 そして今ではこうしてなんとか大学生をやっている。あの大学なんかどうだって……と思っていた私がだ。 制度上はわずか五ヶ月程度で終わった姉妹関係だけれど、それで二人とも終わりにするつもりはない。 とはいえ、私が今リリアン大生になっているのはそのためではない。姉妹を続けるのに場所なんてものは関係ないのだ。学校という場所に気持ちの折り合いをつけるためにはこのリリアンでなければならなかったというだけ。 だから祐巳にも「別の大学に行く蓉子や江利子と同じ」と言ったのだ。……そう言いつつ早速薔薇の館に向かおうとしているのだが。 いやまあ、せっかく近くにいるのだし顔を見に遊びに行くのも悪くない。そして祐巳がどんな顔をするのかというのも楽しみでならなかったりする。それと、もうひとつ。 桜を見ながらそんなことを考えていたら体育館の方が騒がしくなってきた……今日は高等部の入学式。どうやらその入学式が終わったようだ。 じきにここも人だらけになるし、薔薇の館のメンバーが戻ってくる前にいかないとな。考え事をやめて薔薇の館に向かった。 ………… ………… 薔薇の館の二階で、今の正規のメンバー五人分と私の分、併せて六人分のコーヒーを用意しながらみんなが戻ってくるのを待つ。準備ができあがってすぐに下の方から話し声、そして階段を上る音が聞こえてきて、ドアが開いた。 「おっ、お姉さま!?」 「うん、私。ごきげんよう。みんな入学式お疲れ様〜」 目を丸々と開いてびっくりしたまま固まっている。何でここにいるんですか!? って言葉も出ないほどにびっくりしてしまったかな? 「ごきげんよう、聖さま」 固まったままの祐巳の代わりに祥子が挨拶を返してくれた。顔が笑っているのは私のもうひとつの考えがわかって蓉子のことが思い浮かんだからだろうか? まあ、本当に蓉子だったらそもそもそんな必要はないんだろうけれど。 もちろん祐巳の顔を見に来るっていうのが一番。でも、少し心配ってのもある。それがもうひとつの理由。 確かに祐巳は自分で白薔薇さまになる道を選んだとはいっても、まだ一年生だし、元々そういった仕事をしたこともなかった。その上、山百合会の仕事に関わった時間さえも短かったのだ。 さらに、祐巳には妹もいないから、今山百合会はそもそも五人しか人手がいない。去年は手術が終わるまでさすがにそのまま一人分と数えることはできなかったけれど由乃ちゃんがいたし、二人分以上にカウントできる蓉子もいたから少なくとも事務的な話で人手不足を感じることはなかったのだ。 しかし今はどうだろう? みんながんばりやだからそれなりに何とかしていくのだろう。それでも背負わなくてもいい余計な負担を強いてしまったのは三年生になってから一年生の祐巳を妹にしてしまったこの私なのだ。だったらできる範囲で何かしてもばちは当たらないだろう。 「ど、どうしてお姉さまがここにいるんですか!?」 「お、もう解凍できたか。祐巳が歓迎してくれるなら遊びに来るって言ったときに、いつでも大歓迎だって言ってくれたじゃない。だから、早速遊びに来たついでに、入学式に在校生代表で出たみんなをねぎらいにね」 何を言いたいのかパクパクって口を開けたり閉じたりするけれど、言葉が出てこない。仕草がおもしろくて笑ってしまった。他のみんなもくすくす笑っている。 「どうもありがとうございます。コーヒーもみんなに合わせて作っていただいたのですね」 顔を紅くしてしまった祐巳に代わって祥子が答えて話を進めてくれた。コーヒーはそれぞれの好みにあわせて作ったから、ミルクの量で色がそれぞれ違う。 「せっかく入れたんだし、冷めちゃう前に飲んでよ」 お言葉に甘えてと、みんなそれぞれの席に座る……祐巳はもちろん私の隣。みんな定位置だけれど、それだけに、私には蓉子と江利子が抜けた分少し寂しく見える。五人でいることが多いから五人にはそうではないだろうけれど。 「まさか、入学式の日からだなんて……」 横でコーヒーを飲みながら祐巳が小さな声でぶつぶつ言っている。 「迷惑だった? そうだよね。『蓉子や江利子と同じ』って言ったのも私だもんね。ごめんね、だめな姉で。邪魔をしないように、もうこないように……」 「えっ!? ち、違います! ただびっくりしただけで!」 「そう? じゃあひょっとして嬉しかったりとかした?」 「あ、あたりまえじゃないですか! お姉さまが来てくれたのに、嬉しくないなんてことあるわけないじゃないですか!」 「ふ〜ん、だったらちょくちょく遊びに来てもいいの?」 「も、もちろんです! あ……」 みんな二人とやりとりを笑っているのにやっと気づいた。 「そういうわけで、邪魔をしない程度に遊びに来させてもらうからね」 「はい。ほほえましい姉妹関係を見せていただけるのでしたら、いつでもどうぞ」 「私たちも歓迎します」 で、祐巳はさっき以上に、それこそゆでだこみたいに真っ赤になってうつむいてしまった。 もうひとつの姉妹の形 -another story- fluorite 〜1〜 軽い足取りでリリアン高等部の敷地を歩く。 私の姿を見かけた後輩たちが「ごきげんよう」と声をかけてくれ、いつものように「ごきげんよう」と笑顔で返す。 春からこちら、卒業しても妹の祐巳の顔を見るためにって感じで特に用事なんかなくてもけっこう頻繁に来ている。 もちろん最初は仕事を見守り、手伝うという意味合いもあったのは否定しない。しかし、それもめでたく志摩子に乃梨子ちゃんという妹ができたことでほぼ終わった。だから今は純粋に遊びに来ていることが多い。 そんな調子なので、制服ばかりのマリア様のお庭に私服の人間が一人紛れ込んでいる話はもう有名になっている。 けれど、今日は祐巳の顔を見に来ただけではない。それも何か事件が起こったとか、良くない話ではなく楽しい話だからだろう、自然といつもより足取りが早めのように自分でも思う。 薔薇の館に到着……いつも通りに二階に上がると、まだ誰も来ていなかった。勝手知ったる我が家……というわけではないけれど、コーヒーでも入れて祐巳がやってくるのを待つことにしよう。戸棚からコーヒーカップとインスタントコーヒーを取り出して、ポットからコポコポとカップにお湯をついでコーヒーを作っていく。 祐巳はどんな風に驚いてくれるだろうか? それが、ものすごく楽しみ。 できあがったお手製のインスタントコーヒーのお湯割りを椅子に座って飲みながら祐巳がやってくるのを待つ。 正面に見えるあのドアを開けて祐巳が入ってくるのを今か今かと待ちかまえているのだけれど……なかなかやってこない。コーヒーを半分くらい飲んでしまったけれど、祐巳どころかほかの誰もやってこない。 「う〜ん……」 コーヒーを飲みきってしまったところで落ち着いてよく考えてみれば、今薔薇の館の住人は六人。祐巳が一番初めにやってくる確率は六分の一でしかない。さらにいえば、誰かと一緒にやってくる可能性もあるのだから、祐巳が一人だけで最初にくることはなかなかないだろう。 今の私はわずか五桁分の一を引き当てるほどに幸運の星が味方についているのだから、そのくらいおまけでついてきても良いのだけれど……確率ってそういうものではないし、当たりくじを祐巳に見せてびっくりさせたくて、気持ちがはやりすぎていたかもしれない。 「……でなおすかな?」 逆に祐巳以外の誰かが先に来てしまったら、事情を知らないその誰かはよくても、私の方はいたたまれなくなってしまいそうだ。しかもどう考えてもこれは分の悪い賭だ。ここは出直すべきと、席を立ったその時、階段を上る足音が聞こえてきた。 足音の数は一つ……しかも、祐巳の足音だ。 「おっ、ラッキー」 どうやら私の幸運はまだ続いているようで、おまけが付いてきてくれた。ともかく待ちに待った祐巳が理想の形でやってきてくれたのだし、席に座り直して入ってくるのを待つことにした。 やがて階段を上る音が終わり、扉をあけて祐巳がサロンに入ってきた。 「あ、お姉さまごきげんよう。また今日も来たんですか」 「え〜何その言い方。いつでも大歓迎とか、お姉さまが来てくれて嬉しくないわけがないとか言ってたのに〜」 「もちろん嬉しいですよ。でも、大学の方は大丈夫ですか? お姉さまのことだから友達の名前もほとんど覚えていないんじゃないかって、心配で……」 うっ、ちょっと痛いところを突いてきた。実際のところ、反論できるほど覚えていないし。確信を持って覚えていると言えるのは一人か? まあ覚えてなくても大体問題ないからとか言ったら昔の蓉子みたいなこと言いそうだ。 どうも最近の祐巳は薔薇さまとしての自覚が出てきたのか小姑のようなことを言い出すことがある。あれは蓉子の影響に違いない。祐巳さんや、そんなところまで似なくてもいいんだよ。 「で、今日はどうしたんですか? 何かあったんですよね?」 とはいえ、いつもとどこか違うってわかっていたようで、話を切り替えてくれた。祐巳が部屋に入ってきたときにうれしさというか、楽しさが思いっきり顔に出ていたのだろう。 「うん……実は、祐巳にいいものを見せてあげようって思ってね」 そう言うと「いいものって、何ですか?」と私の話に乗って楽しそうな顔をしながら私の横の席に座った。 「うん。それはね……………………」 「そんなに勿体振って、なんなんですか?」 たっぷりと間を開けてからと思ったのだけれど、開けすぎてしまったようだ。個人的にはもっと引き延ばしてやりたくても……これ以上すると祐巳がへそを曲げてしまいそうだし、しかたない。 あきらめて「じゃ〜ん!」って口で効果音を出しながら、新聞と当たりくじを一枚祐巳の目の前に出した。 「あ、宝くじ……当たったんですか? おめでとうございます!」 「どもども」 そして何等なんですか? と聞いて来た祐巳に「それは見てのお楽しみ、はい」と言って新聞とくじを渡した。 受け取った祐巳は、じゃあ見てみますねと楽しそうに早速当選番号が載っているページをさがしだして、机においた。 「まずは、七等は……ちがいますね」 「三百円は十枚買ったら当たるからねぇ」 「私は三百円しか当たったことないです」 「あら、それはかわいそう。まあ、私も三千円止まりだったんだけどね」 「その六等は……これも違いますね」 「まあ、前にも当たったことあるし、別に自慢するほどのものじゃないから、そのくらいだったらわざわざ持ってこないかな」 十枚くらいならとんとんだけれど、二十枚以上買っていたら六等くらいでは当たっても赤が出てしまう。 「祐麒は一万円が当たったことがあるんですけれどね」 「へぇ、弟君は祐巳よりも三十三点三倍ついていたのか」 「う〜ん、そういう計算で良いんですか?」 「いや、たぶん違う」 適当に言ってみただけなので即否定する。まじめに考えるなら当選確率で割り出す必要があるだろう。 「ちがうって……まあいいか、五等三万円も違いますね」 「うん、そのくらいなら自慢しに来るかもしれないけど、違うね」 視線をその上に移した祐巳の表情に緊張が走る。 「ま、まさか? 四等百万円? ……ちがうか。このくじ……当たっているんですよね?」 「うん、十回も確認したからね」 まあ、私も最初はびっくりしたし、何度も見直したけれど、間違いなかった。ある意味では間違いであってほしいとも思ったけれど。 「……三等も違う」 祐巳の表情がものすごく真剣になものになってきた。 「二等も………」 視線が二等のところで止まったままその上に動かない……額に汗を浮かべて、何か恐ろしいものを見ようとしているかのようにゆっくりゆっくりと視線を上にずらしていく……そして止まった。今度はものすごい勢いで宝くじに移って、また当選番号に戻り……二回ほど繰り返して固まった。 一秒、二秒、三秒……ぷるぷるって、祐巳の体がふるえ始めた。なっ、何この反応!? 「あ、あ、あ、ああ、ああ、あああ!! おおおおおおおお、ねえさまあぁ、こここここ、これ!!」 何が言いたいんだかさっぱりわからない奇声を上げながら私に飛びかかってきたから、思わず「ひぃっ!」って悲鳴を上げて後ずさった。 「おこここ、にに、に、二億ですか!?」 二億って単語でわかった。ああ、やっぱり勘違いしてるのか、きっとそうだとは思っていたし、ある意味こっちのねらい通りだったのだけれど、私の予想を遙かに超えてあんまりにも反応がすごかったから、むしろこっちがびっくりさせられてしまった。 まずは自分を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸をしてから、話すことにした。 「違う違う、よく見てみる」 「へ?」 何を言われたのかすぐにはわからなかったようだけれど、ともかく言われたとおりにしてみようと思ったのか、私から離れて、じ〜っとくじを見つめた。今度は新聞。またくじ……三回ほど見比べて何が違うのか気づいたようだ。へなへなへな〜と音をださんばかりに脱力して崩れて床にぺたりとお尻をつけてしまった。 「残念ながら組違い」 「そ、そ〜でしたか……」 ほっとしたようなものすごく残念そうな声。まあ、私も一瞬当たったと思ってしまったし、その気持ちはすごくよくわかる。 「だから十万円。数は四等より少ないんだし、もっと多くしてよって感じだけどね」 「それでも……すごいです。おめでとうございます」 何とかひねり出したような感じだった。話の続きというか今日の本題は、祐巳が元に戻るのを待ってからにしよう。 その間に祐巳のためにコーヒーを入れてあげることにした。もちろん自分の分も。 「はい、コーヒー。これ飲んで落ち着きなさい」 「どうも、ありがとうございます」 コーヒーを入れ終わっても、まだ床にへたり込んだままだったから、椅子に座り直すのに手を貸してやる。 う〜ん、ここまでだとちょっと罪の意識を感じてしまう……本当に一等前後賞併せて三億円とか当たってしまったらショック死しちゃうんじゃないだろうか? 良いんだかよくないんだか………いや、全然よくないなそれ。 しばらくして祐巳が落ち着いたように見えてから、話を再開した。 「これ、結構大きなお小遣いだよね。で、この幸せを祐巳にも分けてあげようって思ってね」 「……どういう意味ですか?」 「夏にどっかに一緒に行ったりするためにも、かわいい妹に浴衣の一つでも買ってあげようと思っているわけよ」 本当ですか!? って大きな声を出して私の方に身を乗り出してきた。やっぱり待っていて正解だったかな。もし力が抜けたままだったら、乗り出すのに失敗して机の下に転がり込むとかしてしまったかもしれない。 「はいはい、本当だからそんなにあわてない、あわてない。今度の日曜日あいてる?」 「もちろんです! ありがとうございます!」 「じゃあ、十時にM駅前ね」 「はい!」 逆に私の方が驚かされてしまうというようなちょっと予定外のこともあったけれど、祐巳にはたいそうびっくりしてもらったし、お祝いも言ってもらった上に買い物の約束もして喜んでもらえたし、よかったよかった。 買いに行くのはK駅の近くの百貨店にしようとかそんな話をしていると、ドアが開いて祥子と志摩子、乃梨子ちゃんの紅薔薇ファミリーがそろって部屋に入ってきた。 「ごきげんよう、聖さま」 「ごきげんよう」 「なにか、良いことでもありましたか?」 私たちの表情や雰囲気から読み取ったのだろう。 「うん、でも秘密かな」 祥子から聞かれたことにそう答えて、祐巳と二人で軽く笑いあった。 それからまもなく黄薔薇の二人もやってきて今日の仕事が始まったから、一応部外者の私はじゃまをしないように静かにしながら、買い物のことを考えることにした。 つづく