〜2〜 おもしろくない。 最近、どうにもおもしろくなくて良くない。 演劇部は順調、まあ相変わらずたいした実力もないのにねちねちと小言を言う先輩はいたりもするが、こと練習中に関してはこちらもかわいげのない後輩なのだからお互い様だ。 と、なると。 ……いや、そんなもったいぶって考えなくても最初から分かっているのだ。二条乃梨子さん、彼女との関係が私の心を波立たせている。 薔薇さまの妹になって、いずれは自分も……以前に友人に語った話はたわいもない冗談でしかない。このリリアンにいるものなら一度は夢見る話。小さい子供が、大きくなったらお菓子屋さんになる! なんてのと大して変わらない。 まあ祥子お姉さまが紅薔薇のつぼみの妹になられた時、数ヶ月だけであっても薔薇の館で一緒にと他の人より具体的に考えたことは否定しないが、それ以上でも以下でもない。それに山百合会幹部にならなくても堂々と薔薇の館に遊びに行っているのだから、その点に関しては満足しているつもりだ。 にもかかわらず、乃梨子さんが紅薔薇のつぼみ、志摩子さままで「志摩子さん」とさん付けで呼んでいることを知った時、なんとも言えぬ思いが渦巻いてしまった。親身になってお手伝いしているつもりなのに、乃梨子さんがあまり嬉しそうにしていない、そんな風に感じてしまったこともあるかもしれない。 だから、ちょっとくらい……そう思ったが、それにしてはやり過ぎた。やり過ぎになってしまった。 被服室で恭子さんに質問された時、私は乃梨子さんを助けるふり……とまでは言わないが、内心口が滑るのを期待して「乃梨子さんと志摩子さまの関係」と、あえて紅薔薇のつぼみと言わず「志摩子さま」と言ったのだ。 案の定、乃梨子さんはそれにつられる形で、しかも黄薔薇のつぼみは肩書きで呼びながら紅薔薇のつぼみのみ「志摩子さん」と答えてしまった。 そこからはもうひどいものだ。 確かに乃梨子さん自身にも隙はあっただろう。とはいえ、その翌日に紅薔薇のつぼみと楽しげに昼食を共にする姿を目撃されてからの空気の冷え込みぶりは、乃梨子さんも肌で感じ取れるほどであったに違いない。 どうしてこうなってしまったのだろうか。こんなことは望んでいなかったのに。 ……さっさと部室に行こう。お芝居の稽古に励む間はこのことを忘れられる。そう思って廊下を歩いていると、前から見覚えのある2人組がやってきた。白薔薇さまこと福沢祐巳さまと黄薔薇のつぼみこと島津由乃さまだ。 由乃さまは分かりやすい、露骨に会いたくない人間に出くわしたという表情だ。あそこまで潔いといっそ気持ちよい。 それに対して祐巳さまと来たら……なんだあの笑顔は。相変わらずのんきそうな面構えで。体験とはいえご自分の妹がどういうことになっているのかまったく承知していないというのか。 いかに乃梨子さんが外部入学だといっても、一言あれば乃梨子さんが今みたいな状況になってしまうのを防げたかもしれないのに。 自分のことを棚に上げて……いや、自分に対する憤りを祐巳さまにぶつけるというのが正しいのだろう、気づいた時には口を開いていた。 「ごきげんよう、白薔薇さま、黄薔薇のつぼみ……乃梨子さんが困っていらっしゃるというのに、相も変わらずのんきそうなご様子で」 もう何回か遊びに行っているだけあって、だいたいの性格は把握できてきた。私の言葉に真っ先に反応したのは案の定由乃さま、そして祐巳さまも乃梨子さんのことに言及されては黙っていられないのか、由乃さまと別れて私に尋ねてきた。 我ながら大人げないとは思うのだが、いちいち嫌みを交えつつ、乃梨子さんの現状を説明していく。 「……やっぱり。で、それをとがめようともしなかった。私は乃梨子さんがふたまたをかけているなんて思っておりませんけれど、端からそう思われても仕方がない行為を、承知の上で助言できない姉が薔薇さまをやっているのは嘆かわしいというか……」 顔を伏せながら聞く祐巳さまに対して、見下すかのようにやれやれといったポーズを取る……本当に自分のことながら何をやりたいのやら。案外、祐巳さまに「そういうあなただって!」みたいに、反撃されたいのかもしれない。 しかし、これはさすがに何か言い返される、そう思いつつもやってしまったのだが、そこに返ってきたのはあまりに意外な言葉だった。 「ありがとう、瞳子ちゃん」 「何か反……え?」 この方はここまで言われても反論をしないというのか。それどころか私に感謝する、と。 「以前瞳子ちゃんに「なんでこんな人が」って言われた時から少しは頑張ってきたつもりなんだけど、全然だめだね。このまま取り返しの付かなくなる前に教えてくれて、本当にありがとう」 「別に……あなたのためじゃありませんから」 とっさに返せたのは、強がりの言葉だけだった。 「分かってる。乃梨子ちゃんのためでしょう? 乃梨子ちゃんにも私なんかより、よほど頼りになる友達ができて良かった」 「……」 「あ、本当に申し訳ないけど、今の話を志摩子さんにするのは勘弁してもらえない? 私の口からは言えないけれど、二人が仲良くなる理由も十分にあるんだよ。どういう形にしろ、この状況が解決するように努力するから」 薔薇の館で再開した時、祐巳さまに対する偏見は捨てたつもりだった。もちろん祥子お姉さまや令さまほど評価しているわけではないが。 ……どうやら私はまだまだ祐巳さまを見くびっていたらしい。 「お願いをしておきながら理由を話せないってのは、図々しいと思いませんか?」 「うん、思う。でも乃梨子ちゃんのためになるなら、協力してくれるでしょう?」 計算ではなく、これがこの方の素なのだろう。それでありながら、こんなにも人を揺さぶり、動かしてしまうなんて。 本当にこの方と来たら。 さて、不敵な笑みを浮かべていられるうちに、一言残して退散しよう。私にもつまらない意地がある。 「……私も、もう少し何かできないか考えてみます、白薔薇さま」 翌日、予想できたことではあるが、事態はますます悪化している。 祐巳さまとの姉妹体験が噂された時と同じくらいのスピードで広まっているらしく、両天秤の噂についてクラスで知らぬものなど一人もいない。そのことはそのまま乃梨子さんへの冷たい視線となって現れている。 乃梨子さん自身はあまり気にしていないようだが(公立の学校では、たいしたことではないのだろうか?)この状況が続くことは危険である。祐巳さまと志摩子さま、このお二人に限らず山百合会幹部には、普通の憧れというレベルを超えた大変熱心なファンも存在する。彼女たちを刺激し続けるのはいかにもまずい。 何とかしたいし、しなければならないと思うのだが、どうすればいいのかと言われてもその答えを私は持ち合わせていない。この問題で私にできることなど、たかが知れている。 「あら?」 教室から乃梨子さんがものすごい勢いで飛び出してどこかへと駆けていった。 何かが起こった!? すぐに乃梨子さんを追いかけたけれど、追いかけるのが一歩遅かった。乃梨子さんの姿を見失ってしまったのだ。乃梨子さんはどこへ向かっていたのだろうか? あれだけ慌てて廊下を走っていたのだから、目立つことこの上ない。もし生活指導のシスターあたりに見つかれば、お説教を受けていることだろう。そこら中の人に聞いていけば乃梨子さんの行方がつかめるに違いない。 …… …… 「乃梨子さんならさっき、そこで白薔薇さまとお話をしていたわよ」 「祐巳さまと? その後はどうしました?」 「話は聞いていないけれど、白薔薇さまと話した後乃梨子さんはなんだか気落ちした様子で、特別棟の方に歩いて行ったわ」 「ありがとうございます」 「いいえ、役に立てたら幸いよ」 名前を出してからそのうかつさに気づいたが、どうやらこの二年生の方、まだ両天秤の噂を耳にしていないようで、快く教えてくれた。 祐巳さまと話をして、それまでの慌てていた様子から気落ちした様子に変わった……慌てる原因となったことを祐巳さまに打ち明けたものの、祐巳さまの答えが芳しくないものだったというところか? いったい何が起きているのだろうか。 まあいずれにせよ、噂のことに比べれば多少なりとも乃梨子さんの役に立てるかもしれない。 何とかして乃梨子さんの役に立とうとする自分に気づいて苦笑してしまう。 祐巳さまの何気ない言葉のおかげで、以前のように本心から乃梨子さんのことを心配することができるようになったのだから。 いくつかの特別教室を見て回った後、ついに目当てにしていた人を発見した。 「こんなところに入るはずがない! あり得るとすれば……」 場所は社会科準備室。棚に入っていた地図の束だろうか、それを元に戻して部屋を見回している。 「乃梨子さん」 「え!? と、瞳子さん!?」 「こんな場所で何を?」 「え、あ……う、うん、ちょっとね」 「忘れ物とか?」 「そ、そう、そんな感じ」 ほぼ間違いなく嘘である。忘れ物でどうして社会科準備室を探すというのか。乃梨子さんはここ数日、この部屋に入ってなどいないのに。 そのことが意味することは…… 「まあ、それは大変。瞳子にも協力させてくださ」 「あ、いや、そんなたいしたものじゃないから」 「そうですか……もし、私にできることがあれば何でもしますから声をかけてくださいね」 「うん……ありがとう」 「それではごきげんよう」 乃梨子さんを残して社会準備室を出る。 さて、どうしたものか。乃梨子さんの態度からして、恐れていたことが起きてしまったとみて間違いない。何か盗まれたのだ、それも相当大事なものを。とはいえ、残念ながらそれほど信頼されていないであろう私が、乃梨子さんをさらに問い詰めても教えてもらえそうにない。 やはり祐巳さまか。乃梨子さんはさっき相談していたようだし、私ができることについて、話をしてみるとしよう。 思い立ったが吉日、とその足で薔薇の館に行ってみたものの、まだこちらには来ていないという。それならまだ教室かと思えばこちらも外れ。そうなると考えられるのは、乃梨子ちゃんと同様に盗まれた何かを探しているということ……薔薇の館で待たせてもらった方がいいかもしれない。 そう考えて歩き出したところだった。 「……いるし」 探している間は見つからないなんてことはありがちな話だが、まさにそのパターンである。やっぱり探そうと思わないで良かった。まさか古い温室にいるとは。 「祐巳さま」 「あ、瞳子ちゃ……ああー!!」 「なっ! なんですか!?」 「ご、ごめん、思わずね」 かなり驚いた。声をかけたら驚かれたというならともかく、声をかけて驚かされるなんてのはなかなか体験できない。 「……祐巳さま? いったい、どうされたのですか?」 「ねぇ瞳子ちゃん」 「はい?」 「ねぇ、悪役やってみない?」 「……はい?」 今、なんと言った? いきなり驚かされたかと思えば、それきりだんまりを決め込んでしまい、再度口を開いた途端に出てきた言葉が「悪役」である。 おまけにご本人は悪人面をしているつもりらしい……つもりらしいのだが。なんというか良くも悪くも緊張を緩めてくれる方だ。 まあこのままでは話が進まないのも確かなので、続きを促す。 「突然どうしてそんなことを?」 「うん。こっちに来て」 祐巳さまに手を引かれて温室へ入った。目には入っていたが、実際に中に入るのは初めて。温室だけあって外より温かい室内には色とりどりの花が咲いているだけで、他の人の姿は見えなかった。 悪役云々については依然としてさっぱりわからないけれど、何か私にやらせたいことがあり、それは乃梨子さんに、それも捜し物の件に関係している気がする。そう思って「乃梨子さんに関係するお話ですか?」と聞いてみた。 「そう。昨日瞳子ちゃんに乃梨子ちゃんの状況を教えてもらったけど、その後さらに大変なことが起きちゃってさ」 「何か大事なものを盗まれた……合ってますか?」 「え? 乃梨子ちゃんから聞いた?」 「いえ、たまたま現場に居合わせて、教室から飛び出ていった乃梨子さんを追いかける間にだいたいつかめました……ご本人には否定されてしまいましたけど」 「そっか、きっと瞳子ちゃんには心配かけたくなかったんだよ」 「信用されていないだけな気がしますけど」 自嘲気味につぶやく。まあ彼女に信頼されるだけのことをやってきたかと言われたら沈黙せざるを得ないので、仕方なくはあるのだが。 「あー……瞳子ちゃんに嘘をつくのは難しいね。でも勘違いしないで。瞳子ちゃんが言っているようなことが理由で話さなかったわけじゃないから」 「どう違うというのですか?」 「乃梨子ちゃん一人で収まる問題じゃないから、独断で話せなかったということ……と言ってもピンと来ないよね。少し長くなるけど聞いてくれる?」 「はい、お願いします」 「じゃあまず……」 そういうと、祐巳さまはポケットから巾着袋を出された。 「これが私と乃梨子ちゃんが探していたもの」 「え?」 なんと祐巳さまは盗られそしておそらく隠されていただろうものを見つけ出すことができたのだ。しかし、それならなぜ乃梨子さんに知らせようとしないのか。 「ここで、そもそもの話に戻るんだけど、これが盗まれ隠されることになった理由は?」 「それは、その……乃梨子さんが」 「そう。以前瞳子ちゃんが言ってくれたとおり、乃梨子ちゃんが私と志摩子さんを両天秤にかけていると思われたから。事実がどうであれ、ね」 「……」 「その点が変わらないかぎり、結局解決しないんだよね。確かに、これを乃梨子ちゃんに返すのは簡単。だけど今そうしたら、もっと困ったことになりかねないのが怖い」 確かに祐巳さまのおっしゃるとおりだ。盗られてしまったものを返せばそれで終わりという話ではない。それだけなら犯人は同じようなことを続けていくだろう。 仮に、犯人を突き止めることができたとしても、乃梨子さんを取り巻く環境は何ら変わらない。それどころか祐巳さまが手を貸したということで、さらに事態が深刻になることだってあり得る。 「それではどうなさるつもりですか?」 「うん、ここが長くなるって言った部分。乃梨子ちゃんが私と志摩子さんを両天秤にかけているって噂を打ち消すためには、何種類かの方法があると思うのだけど、要は『誰が』『誰から』離れるってパターンが現実的だと思うの」 祐巳さまも今のまま丸く収めるというのは無理だと考えているようだ。私は頷いて続きを促す。 「で、乃梨子ちゃん『が』ってのは没。その場合、端から見ると乃梨子ちゃん『が』私か志摩子さんを振ったってことになっちゃうから。下手すると両天秤をした上で、片方を捨てたなんて言われちゃう」 「確かに」 一番最悪のパターンだろう。両天秤が噂ではなく、確定という扱いを受けるのだから。正式にどちらかの妹となれば、表だって口を出せる人間はいなくなるが、実に憂鬱な三年間となるだろう。 「となると私か志摩子さん『が』乃梨子ちゃんを振るという形式だけど、これも結局志摩子さん『が』ってのはあり得ないんだ」 「振られて当然、いい気味だ……こうなると?」 「そんな感じ。志摩子さんに乃梨子ちゃんとの距離を取ってもらっても、今よりまし程度で乃梨子ちゃんが悪く言われるのに変わりがないよ」 「でも、それは祐巳さまが振るという形でも同じことでは?」 「ほら、私が振るって形の時に限って堂々とリリアンかわら版が使えるじゃない。なんと言っても姉妹体験中だからさ。しかも、その後に私が今より距離を取るのはまったく不思議はないし、そのことを途中で気づいた志摩子さんが見かねて……みたいな話にすれば丸く収まっちゃう」 私に振られたとリリアンかわら版にはっきり書かれることで、乃梨子ちゃんに同情も集まるから大丈夫だろうと付け加えた。 「おっしゃりたいことは分かりました。でも、乃梨子さんの気持ちはどうなるんですか?」 少し意地悪な質問ではある。私も祐巳さまが挙げた作戦は解決策としてベストでなくともベターだと思ったから。それでも聞いてしまったのは、乃梨子さんが心配というのと、祐巳さまがどう考えているのかに興味がわいてしまったからなのだろう。 「うん、乃梨子ちゃんもこんな形で距離を置くのは絶対に嫌だって言っていたよ。となると、こんな人となら離れてもいいかな……そう思ってもらうしかないよね?」 そう言って祐巳さまは寂しげに笑った。 最終話cへ