第三話 

マリアと子狸 前編

〜1〜
 紅薔薇のつぼみこと藤堂志摩子さんとの驚きの再開から数分後……私たちは二人だけで部屋に残されたものの、いったい何を話したらいいのかさっぱりわからず黙り込んでしまった。
 それは彼女も似たようなもののようで、さっきから二人とも口を開かない。
 このままではいつまで経っても話が進まない。そう思って「あ、あの!」と声をかけると、「あ、弥勒だったわね。ごめんなさいね」と手に持っていた木箱を卓の上に置いた。そして、幽快の弥勒の由縁について説明しながら組紐を解いていく。
 そうだった。彼女の存在があまりに意外だったせいで忘れてしまっていた。しかし、それも今、このときまでのこと。
「どうぞ」
 その言葉とともに、さきほどまでの驚きと興味は隅に追いやられる。
 夢にまで見た幽快の弥勒が目の前に、ついにご対面することができたのだ。どうして他のことなど考えられよう。私のすべてが見ることに費やされる。
「きれい……。心が洗われるみたい……」
「そう。それは乃梨子さんの心が純粋な証拠よ」
 紅薔薇のつぼみは澄んだ水のように、静かに笑みをたたえて言った。
「観ていただいて、よかったわ」


 幽快の弥勒をたっぷりとたんのうさせていただいた後、バス停まで送ってもらえることになった。
 最初はお気遣いなくと断ろうとしたのだけれど、来たときとは違うバス停だからという……そういえば小寓寺・北回りとか小寓寺・中央だの路線自体が複数あったっけ。
 せっかく申し出てくれたのだし、むげに断れるものでもない。それではと頭を下げて、道案内をお願いすることにした。
 そうして寺を出て、バス停に続く細い道に入ろうとした辺りだろうか。このままお互い黙ったまま停留所に着くのかなと何となく思ったそのとき、声をかけられたのだった。
「今日は驚いたわ……父から弥勒を見に来るお客様の話は聞いていたけれど、それがまさか乃梨子さんだったなんて」
「驚かせてしまってすみません」
 謝るが、たぶん意外度では私の方が上だったと思う。この方はシスター志望だと祐巳さんから聞いていたから……確かに雰囲気はまさにそんな感じだし、今もどこか清楚な雰囲気を感じさせる白いワンピースを着ている……けれど、それがお寺の住職の娘だなんて。
 少しして「私のことは聞かないのね?」と聞かれた。
「え?」
「私がお寺の娘で、それなのにカトリックのリリアン女学園に通っているという矛盾について」
 今まさに考えていたことだったので、少しどきっとした。まああり得る話の流れではあったけれど。
 それはさておき、確かに気になったことではある……しかし、これは聞いても良いことなんだろうか?
 しばし悩んだ後決心した。よし、聞いてみよう。沈黙のまま別れることだってできたはずなんだし、何か思うところがあるのかもしれない。
「……あの、祐巳さんから聞いたんですけれど、えっと……紅薔薇のつぼみはシスター志望なんですよね?」
「そう、祐巳さんから……なら、ますます不思議に思ったでしょう?」
「はい……紅薔薇のつぼみ。実のところかなり……」
 しかし、頭に思い浮かべるのもさることながら、口に出すのはますます面倒な称号である。かなり深い話をしているのだと分かってはいるのだが、この単語を出すと頭が一瞬固まるから困りものだ。
「確か乃梨子さんは外部入学だったわよね?」
 何で突然その話にと思いつつ、うなずいて肯定した。すると「紅薔薇のつぼみと無理に言わなくていいわよ。言いにくそうだし」と言ってくれた。どうやら呼びにくそうにしていたのが伝わったようだ。
 山百合会の人に声をかけるときはそう呼ぶものだ(親しかったり姉妹だったなら別)と聞いた上、実際みんなもそうしていたのであわせてはみたわけだが、ほんとのところ、すこぶる呼びにくいと思っていたしそれは大助かり。
「助かります志摩子さん、正直呼称を思い出し思い出ししながら話していたくらいなので……ありがとうございます」
 すると志摩子さんは少し驚いたような表情を浮かべた後ふっとほほえみを浮かべた。
 何かおもしろいことでもあったのか? 別に何かしたつもりもないのだけど。
 そんなことを思っている間に、志摩子さんは少し伏し目がちにしつつことばを続けた。
「話を戻して……そこまで知っていたならなおさら変に思えたでしょうね。寺の娘がシスターを目指しているだなんて」
 信仰も職業選択も自由が憲法でも保障されている……そんなことをわかっていないような人ではないだろうが、現実はそうもいかないものなのだろう。私に限らず直接関係ない人にとってはどうってことのない話としか思えないけれど、人に仏の教えを説かれている親御さんとしてはなかなか……という気はしなくもない。
「……小さい頃は無邪気だったけれど、物心がついてくるとこの将来の夢は言ってはいけないことのように思えてきてね……でもだめ。抑えれば抑えるだけ、カトリックへのあこがれは募っていったの。それで、小学校六年生の時、ついに父に言ったわ」
 おそらく、リリアンに通うことになった理由につながっている話。どう言ったのか気になって「なんて?」と続きを促した。
 そしてその答えには思わず驚きの声を上げてしまった。修道院に入るから勘当してほしいだなんて……おまけに十二歳の時ときた。この志摩子さん、見かけによらずとんでもない人なのかもしれない。しかも私のたまげように「そんなに変?」とか小首をかしげているし、まるでその自覚はないようだ。
「ともかく、それで両親が慌ててね。説得されたわけ。父はこう言ったわ。お前はまだ宗教のなんたるかを知らない。カトリックの学校に行ってちゃんと勉強してから決めるべきだって」
「それで、リリアンに通うことに?」
 志摩子さんは小さくうなずいて肯定した。
 そして、説得されて折れてしまう程度の決心では受け入れる側にとっても失礼、自分に強さがなかっただけだとかそう言った話をされたが、情熱や強さの問題ではないと思う。ただ、この人はまじめで孝行者……優しさの表れなのだと思えた。
 大通りに出て、どれほどもないところにバスの停留所はあった。
 バス停のベンチに腰掛ける……他にバスを待っている人はおらず、ちらりと時刻表と腕時計をみた。定刻通りならもうどれほどもなく来るだろう。
「父との約束で、私が小寓寺住職の娘であることやカトリックの学校に通っていることは隠すことになっているの」
「知っている人はほとんどいない、と」
「そうね……リリアンでは卒業してしまった先輩に一人と、乃梨子さんを含めて極限られた何人かだけ」
「そうなんですか……」
 わずか数人のみに明かされていた事実を私は知ってしまった。もちろんそれは、志摩子さんがこの人になら知られても、話してもいいと思ったわけではない。
「あ、あの! 私言いませんから、誰にも絶対に!」
 このことを言わないといけない。そう気づいて、つい大声になってしまったけど、志摩子さんに宣言した。
「……ありがとう。なんだか、すっきりとしたわ。罪を告白して許しを得ようとしているみたいで」
「でも、私なんかに……」
「いいのよ、聞いてもらえただけで。それに、乃梨子さんのことばがとてもうれしかったし」
 そのほほえみはとても優しく、きれいだった。
「でも……乃梨子さんに秘密を背負わせてしまうことになって……ごめんなさい」
 志摩子さんは済まなさそうに目を伏せた。
 つい、全然大したことじゃないですからとか言いそうになってしまい慌てて口をつぐむ。これだけ重く思っていることを大したことじゃないとか言ってしまうのは侮辱のようなものだ。でもどう言えば……
「そんな……私が来たせいなのに、全然謝られるようなことじゃないです。それに……そう! 私だって志摩子さんに秘密を抱えてもらうことになったようなものですし」
「え、そうなの?」
「ええ、もうおわかりでしょうが実は……」
 このまま別れてしまってはいけない! そんな気持ちもあったのだと思う。
 自分が仏像愛好家であることとか、ここか浪人かの選択で、方向性がまったく異なるのに入ってきたこと。入る前(下見の時のことだ)も、そして入ってからも憂うつ極まりなかった私の相談に乗ってくれたのが祐巳さんであったこと。気づけば祐巳さんと姉妹体験するまでのことをすべて話していた。
「そんなわけでキリスト教に関心が無いどころかまったく方向性が異なるにも関わらず、高校浪人が嫌だっただけで入学したんです。入ってからだって学園の雰囲気になじめなくて、ため息ばかりついていて。そんな不届き者な私の方がよっぽど罪深い悪人で……」
 あぁ、どう言えばいいのだろう。ああでもない、こうでもないと考えばかりが巡り、言葉が出ないうちにバスが姿をあらわした。遅れているためか、とばし気味にぐんぐん迫ってくる。
「……だから、志摩子さんが私のせいで思い悩むことなんか全然無くて、その……」
 時間切れ。そう宣告するかのように、バスは停車し扉を開いた。
 このままバスに乗ってしまうわけには……そんなためらいから立ち上がれない私を促すように、志摩子さんが立ち上がり優しく微笑んだ。
「言いづらいことを話してくれてありがとう、乃梨子さん。さ、乗って」
 運転手さんを待たせては悪いわ、そう言って志摩子さんに急かされるままバスのステップに足をかけてしまう。
 でも、本当にそれでいいのだろうか? 今、このままここで志摩子さんとお別れしてしまって、私は後悔しないと思えるだろうか?
 ……そうだ、最初から迷う必要なんて無かった。二十年に一度のために人生で一回の高校受験を捨ててしまった人間が今更何をしているのか。よし。
 今までうじうじ考えていたのが嘘のように、決断した後の行動は迅速だった。


 バスがあっという間に豆粒になっていく。いくらガラガラに空いているといっても、バスであのスピードはちょっと危ない気がしないでもない……もっとも運転手さんも、さらに遅らせる原因となった私だけには交通安全を説かれたくない気がするが。
 そう。結局私はバスに乗らなかったのだ。ステップから大声で運転手さんにやっぱり乗らないことを謝りつつ告げて、飛び降りたのだった。
 さて。
 さすがに全く想定外だったのか、目を丸くしたまま立っている志摩子さんに、はっきりと自分の想いを伝えることにする。大丈夫、バスを見送った時にもう決心は固まってる。大きく息を一つ吸って……
「志摩子さん。私、志摩子さんが学校をやめないって言ってくれるまで帰りませんから」


〜2〜
 土曜日……志摩子さんと小寓寺で偶然の再会をしてから二日目の朝。普段の私からすると、ずいぶんと早い登校になる。なぜかと言われたらやっぱり確認したいからなんだと思う。なにをって、志摩子さんの登校をだ。
 一大決心でバスから降りた後、我に返った志摩子さんの答えというと「まだ、やめる気はないわ」
これである。
 なんとしても勝ち取ろうとしていた回答がいきなり降ってわいたようなもので、棚からぼた餅とその幸運を喜ぶ……という感じにはなれず、どっちかというと出過ぎたというか一人で勝手に志摩子さんが学校をやめると思い込んだあげく、痛々しい行動を取ってしまった!?という思いから頬を真っ赤に染める私であった。
 ……とまあそんなこともあって、あの場の話が嘘だなんて夢にも思っていないものの、やはりこの目でしっかり確認したい!となったわけだ。気持ち的には、レタックスやらネットやらで既に合格を確認しているけれども、学校の掲示板に自分の受験番号が掲載されているのをこの目で見てみたい……そんな感じだろうか? 私自身はそんなことしなかった(リリアンの合否はどうでも良かった、そして本命は見るまでもなく……)から想像に過ぎないけれども。
「それにしてもなぁ……」
 正門をくぐり、マリア像へと続く並木道を歩きながら自然にため息がこぼれる。志摩子さんが今日学校に来ること自体は心配していないが、ため息の元は他にある。
 あの時、自爆してしまった!?という恥ずかしさから逃れるべく、ある意味軽い気持ちで「まだ」の部分について聞いてしまったわけだが、幸か不幸かそんな気持ちはすっ飛ぶほどやっぱり深刻な話だった。
 祐巳さんのおかげでどうにか過ごしやすくなったような私と違って、この学校に日々愛着を募らせていっている人が、生まれ持ったどうしようもない環境のせいで否応なく引き離されるかもしれないだなんて。
「ほんと理不尽だよなぁ……」
 誰かに迷惑をかけてまでリリアンに残ってはいけないと志摩子さんは言うけれど、キリスト教を深く信仰していて学校が大好きであるという、たったそれだけのことが誰かの迷惑になるなんて。
「あら。ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
 おっと。考えごとしていた上に視界にまったく入っていない方向からの声だったので、声が上ずってしまった。
 慌てて声がした方を振り向けば、そこには体操着姿の髪を後ろで結わえている絶世の美女一人。ああ美人は何を着ても、どんな髪型でも似合うというのはこういうことか。
 そう、そこにいたのは志摩子さんだったのである。
「ごきげんよう。いつもこんなに早く来るの?」
「あ、今日はたまたま……いえ、志摩子さんが学校に来てくれるのをこの目で見たくて」
「そう……心配かけたわね。ありがとう」
 そう言って志摩子さんはほほえみかけてくれる。
「そんな。勝手にしたことですし、もとはといえば私が……」
 お寺におじゃましなければ……と言いかけたのだけど。
「ごらんのとおり、よ。少しは安心してもらえたかしら?」
 私の自責の言葉を遮りながら、志摩子さんは目の前の花壇に抜いた雑草、そして自分自身を指し示した。その行為をむげにするのも申し訳ないので、感謝しつつ話題に乗らせてもらうことにする。
「ひょっとして、この作業も生徒会のお仕事ですか?」
「いえ、これは環境整備委員会のお仕事よ」
「志摩子さんって環境整備委員会にも入っていたんですか、たいへんですね」
 生徒会の仕事だけでもかなりだろうに、その上委員会活動までなんて……
「そうでもないわよ。どちらも適当にお休みさせてもらっているし」
「そうなんですか? それでもすごいと思いますけど」
「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわ」
「どうも……ところで、他の方は?」
 まさか一人委員会だなんてこともないだろうが、辺りを見回しても花壇の手入れをしているのは志摩子さん一人しかいない。そんな疑問から聞いてみたら、他のところをしているとのこと。
 それにしても、だ。
 環境整備委員会にどのくらい所属しているのか分からないが、リリアンの広さを考えると人手不足であろうことは分かる。受け持ち範囲がそれなりであれば、近くにもう一人くらい見えるはずだし。
 少なくともこの花壇一列の手入れをすべて志摩子さん一人でやらなければいけないのは間違いないのだろう。……これはそうとうにたいへんそうだ。
「あの、よかったら手伝いましょうか?」
 そう申し出ると志摩子さんは結構驚いた後「ほんとうにいいの?」と聞いてきた。
「はい。教室に行ってもすることもないですから」
「ありがとう」
「それじゃ、何からすればいいですか?」
 腕まくりをして少しやる気を態度で見せてみると志摩子さんはクスクスと笑った。
 
 
「まさか朝だけで終えられるなんて思いもしなかったわ。本当にありがとう、乃梨子さんのおかげよ」
「どういたしまして。志摩子さんのお役に立てて何よりです。それに、いろいろお話もできてうれしかったです」
「私も」
 今から制服に着替え直しても予鈴には十分間に合う……そんな時間に私たちは花壇の手入れをすませることができた。
 手入れをしている間、どちらからともなく口を開き始めた。それでも手は止まらない当たり、二人とも優等生気質?なのだろう。話題も最初こそやっぱり家のことになったものの、うちの家族のこととか話している内にそういえば……とか、あんな事も……と話に花が咲いていったのだった。
 こんなふうにリリアンで世間話を楽しめる相手は祐巳さんしかいなかったので、本当に幸せなひとときだった。それはそうとして、登校時の不安が今では嘘のように吹き飛んでいるのは、志摩子さんがそれだけすごい人と見るべきか、私が目先の幸せにほいほい飛びつくお馬鹿と見るべきか。
 ……やっぱり後者なんだろうか?
「私は道具を返しに行って着替えをしてくるけれど、乃梨子さんはどうする?」
「志摩子さんがよければ一緒に行っていいですか?」
「ええ、もちろん」
 ほら、やっぱり。
 我が身の現金ぶりについてどんなもんだろうと、今まさに考えていたというのに、志摩子さんに聞かれた瞬間にこの答えである。
 なんだかパブロフの犬のように思えてきた。しかし、ついて行ってあと少し話をするか、このまま教室に向かうか。その二つで後者が選べる体じゃないから仕方がない……やっぱり条件反射?
 そんな犬耳としっぽをはやした状態!?で志摩子さんとおしゃべりしつつ歩いていたところ「ごきげんよう」と今登校途中の生徒が志摩子さんに声をかけてきた。
「ごきげんよう、桂さん」
 志摩子さんは笑顔でそれに答える。
「環境整備委員会? 紅薔薇のつぼみだってだけでもなのに、志摩子さんって本当にいつも大変よね」
 『志摩子さん』ああ、この人はたぶん二年生の人だ。
「そんなこともないわよ。それに今日は乃梨子さんが手伝ってくれたし」
「乃梨子さん?」
 その人の目が私に向いたので「ごきげんよう」と言ってぺこりと頭を下げる。
「そうなの。ご苦労様」
「ありがとうございます」
「乃梨子さんは志摩子さんとも仲いいの?」
「はい、仲良くしていただいています」
「それはよかったわね」
 そして「それじゃ、志摩子さんまた教室で」と言って一足先に昇降口へと向かっていった。
「ええ」
 あの方は志摩子さんのクラスメイトだったのか。
「今、登校のピークですね」
 周りを見ると登校してる人の数ずいぶん増えている。
「そうね。急ぎましょうか」
「はい」
 そして、倉庫に道具をしまったところでまた志摩子さんからお礼を言われた。
「乃梨子さんのおかげで放課後は山百合会の方の仕事ができるわ」
「そこまで言われることじゃないですよ。お仕事って言うとマリア祭関係ですか? 祐巳さんがいよいよ忙しくなってきたと言ってましたし」
「ええ」
「マリア祭自体の話は瞳子さんからまあいろいろと聞きましたけれど、志摩子さんはどんなことをするんですか?
「そうね。基本はお姉さまの補助と式自体の準備だけれど、乃梨子さんたち一年生への歓迎としてお聖堂のオルガンを演奏することになっているわ」
「志摩子さんがオルガンを? すごいですね」
 ここではまだ見たことがないが、どこかの番組で見たことがあるお聖堂の中で厳かにオルガンの演奏が響き渡り……ってやつを志摩子さんがやるのか。うん、すごく似合いそう。
「ピアノはそれなりにひけるのだけれど、正直に言うとオルガンは初めてでね……お姉さまから鍵盤の重さが結構違う物だって聞いているし少し不安なの。だから下手だったらごめんなさいね」
 志摩子さんの言うそれなりとか不安とかは、ご本人がどうであれ端から見たら謙遜みたいなものだろうし、結構楽しみかもしれない。
「志摩子さんの演奏ってだけでとっても楽しみですから、がんばってください」
「ありがとう。がんばってみるわね」
 授業の方がましと思っていたマリア祭……一つ楽しみができたかもしれない。


〜3〜
「さて、どこへ行きましょうかねっと」
 月曜日のお昼休み、廊下をてくてく歩きながら考える。
 このところ祐巳さんといつもいっしょにお弁当を食べていたのだけれど、今日は山百合会の仕事があるから無理……ということで、とりあえずさも祐巳さんと合流するかのように教室を出てきた。
 以前よりはるかに落ち着いたとはいえ、昼休みまで祐巳さんとどう過ごしているだのなんだの云々言われながら食べるのはちょっと……と先週ぼやいていたら、あらかじめ分かるかぎりお昼に入っているスケジュールを教えてくれたのだ。そのおかげで、いつものように昼食に行くふりをして脱出成功。
 まあそんなわけで、久しぶりの一人での昼食となるわけだけど、どこで食べることにしようか。一度出てしまえば、クラスメイトに見られたとしても、急に祐巳さんに予定が入った(実際忙しい人だ)といえば大丈夫だと思うし。
 うーん。どこでも良いとは思うのだが、あんまり目立つのもやっぱり面倒だし……
 そんなふうに考えをぐるぐる巡らせながら廊下を曲がったとき、思わずばったり志摩子さんに出会った。
「ごきげんよう」
「あ、ごきげんよう」
 志摩子さんも同じようにお弁当の包みを持っている。
「乃梨子さんも外でお弁当?」
「はい。祐巳さんは用事があるそうですし、かといって教室の中で食べるのはちょっと……そうなると目立たないところの方がいいのだろうか、とも思いまして」
 すると志摩子さんはクスリと笑って、教室の皆とも仲よくしなきゃだめよ?と優しく言って、少し首をかしげた後にさらに続けた。
「でもそういうことなら……よかったらお弁当をいっしょに食べる? ちょっといい場所を知っているのだけど」
「え、本当ですか!? ありがとうございます。よろこんで!」
 いい場所を教えてもらえるだけでなく、志摩子さんと一緒の昼ご飯なんて、なんて好都合なのだろう。
「あ、ここは……」
「あら、知っていたの?」
 ちょっとだけ残念ね……そう付け加えて志摩子さんが案内してくれた場所は、講堂の裏にある桜の木だった。入学式の日、校舎に向かう途中で見かけたのだが、周りはすべて銀杏なのにこの一本だけ、それも大きく枝を広げた立派な桜の木だったから印象に残っていた。
「春と秋はちょくちょく来ているの。秋はともかく、春はどの桜もため息が出るほど見事なのに、それでもここに誘われてしまうの。初めてこの木と桜を咲かせている様子を見たその時の印象が強すぎたのかしらね?」
「何となくですけど分かります。私も祐巳さんと姉妹体験を始めるまで、ちょくちょくここに来てお昼を取っていましたし」
 まあ私の場合は人のいないところでというのも大きかったけれど、それでもこの木が印象に残っていたのは間違いない。
「あら。それなら一日でもずれていれば、私たちと出会っていたかもしれないわね。仕事がたまっていない日はお姉さまとここでお昼にしていたし」
「そうなんですか? 紅薔薇さまと志摩子さん、そろって桜の下での食事なんてすごく優雅ですね。お二方ともすごく桜が似合っていますし」
「そう思う?」
「はい……何か変ですか?」
 謙遜で否定しているのとは異なる響きだったので、少し気になった。
 だって、はらはらと散りゆく桜をアクセサリーにして上品に、そして楽しそうに食事している美女二人である。誰がどう見ても似合うとしか言いようがない。
「実はお姉さまって桜が苦手だったのよ。そう、見るだけでなく、そばを歩くのも嫌がるくらいに」
「えぇ!? あの方がですか?」
 苦手なものなんかこの世には存在しないわ! とでも言わんばかりの存在感があるあの紅薔薇さまが、よもやそこまで桜を苦手だとは……
「驚くわよね、やっぱり。私も最初は知らなかったのだけど」
「でも、それならどうして……あ、苦手だったって、過去形?」
 すると満足げに笑みを浮かべながら志摩子さんは口を開いた。その余りにも幸せそうな微笑みに、同性であることを忘れてドキッとしてしまう。
「志摩子が好きなものを私が苦手なわけがないでしょうって……ごめんなさい、どう考えてものろけね」
 そういって頬を少し赤く染める志摩子さんがまた素敵すぎる。
「いやいや、でもすごいですね。それって苦手だったものを克服したってことですよね?」
 そもそも桜が苦手っていうのがよく分からないけれど(儚くて見ているのがつらいとか?)それにしたって妹が好きだから自分も好きに、少なくとも苦手ではなくなるってのがなんとも。
「そう、本当に素敵で……大事な人」
 桜の木を見上げながらそうつぶやく志摩子さんは、すごくきれいで、だけどちょっと遠くに感じて……自分でも気づかないうちに口を開いていた。
「姉妹関係って何なんでしょう」
「え?」
「あ、すみません。突然変な話をして……」
 この場でするような話じゃ無い。そう考え直しシートを広げてお弁当を……と思ったのだけど、黙ったまま私のことを心配そうに見つめる志摩子さんの視線に耐えきれず、率直に思ったことを話す事にした。
「実は今の志摩子さんの話を聞いて改めて考えてしまったんです」
「……」
「志摩子さんと紅薔薇さまの関係って、今聞かせてもらったお話だけでも、すごく深いつながりだって分かります。そしてそれは祐巳さんも同じなんですよね。祐巳さんが先代の白薔薇さま……でいいですよね?のことを話す様子も、やっぱり今の志摩子さんの様子に似ていて……」
「……たとえ体験であっても、自分が妹になっていいのか……ね?」
「あ、はい、そのとおりです」
「大丈夫、心配ないわ」
 きっぱりと言い切った後、笑いながら「お互い素晴らしい姉をもつと大変ね」と続けた。
「そうなんですか?」
「ええ、何なら祐巳さんに同じ質問をぶつけてみるといいわ。きっと慌てふためいた後に喜ぶから」
 そう言ってなおも笑いながら話す志摩子さん。何が志摩子さんの笑いの琴線に引っかかったのかさっぱり分からないのだけど、こんなに楽しそうに志摩子さんが笑っているのだからそういうものなのだろう、きっと。


「ごめんなさいね。私のせいでずいぶん長い立ち話をさせてしまって」
「いえ、とんでもないです!」
 志摩子さんの笑いが治まり、まずは座りましょうと、そのまま地面に腰掛けようとしたので、慌てて持ち歩いているシートを広げた。
「用意がいいのね」
「祐巳さんといっしょの時はよく使っていますから」
「そうなの」
 二人でシートに並んで座る。
 お弁当を食べ始めて、志摩子さんのお弁当の中身があまり女子高生らしくない品揃えであることに気づいた。和風というか伝統的料理というか……薫子さんの方が私たちに近い感じに違いない。志摩子さんの家がお寺だからかな? でも、とってもおいしそうに食べている。雰囲気に合わない気がするけれど好物なのだろうか?
「どうかしたの?」
「あ、……志摩子さんのお弁当に入っているおかずって、好きなのかなって思って」
「ああ……乃梨子さんにもそう思われてしまったのね」
 とクスクスと笑った。も、ということは何度か今の私のように思ったり、聞いたりした人がいたってことなのだろう。
「ええ、好物なのよ。みんな意外そうな顔をするのだけれど、そんなにかしら?」
 ちょっと迷ったけれど、素直に結構意外だって答えた。
「自分ではそんなつもりはないのだけれど、確かにこれはあまり若い子が好むものにあがるようなものではないわね……でも、おいしいのよ、一つどう?」
「え? いいんですか?」
「ええ」
 志摩子さんはほほえんでお弁当箱を私の目の前に差し出してくれた。
 どれにしよう……よし、このがんもどきにしよう。
 箸でがんもどきをつまんで口に運ぶ……ふわふわに柔らかくて、かんだ瞬間ジュッておいしい汁が口の中にあふれる。
「おいしい」
「それはよかったわ」
「うん、ほんとうにおいしいです。あ、そうだ。せっかくだし志摩子さんも何かどうですか?」
 そう言って今度は私のお弁当箱を差し出す。
「ありがとう……ではこれをいただくわ」
 ミニハンバーグをつまんで口に運ぶ……うーん、上品だ。
「おいしいわ。ありがとう」
 にっこりと笑った笑顔。うん、志摩子さんのこの顔が見られたことがいっそううれしい。ほんとうにマリア様や聖女様の生き写しといったような感じで、シスター志望というのはもう思いっきり納得するところがある。
 それなのにこんな好物だというアンバランスさは、志摩子さんの事情の複雑さがそのまま出ているような気もする。
 志摩子さんの家か……小寓寺……この前幽快の弥勒を見せて頂きに行き、志摩子さんと驚きの再会をすることになった。……ふと、あの小寓寺の本尊の阿弥陀三尊像も見事で見入ってしまっていたものの、何も聞くことができなかったことを思い出した。
「あ、そうだ。志摩子さん……聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
「何かしら?」
 小声で阿弥陀さまについて何ですけど……と言うと、そもそもそんなに人が来るところではないが、それでも念のためとばかりに一度だけ辺りを見回した後、「うちの阿弥陀如来?」と聞いてきた。
「はい」
「ええ、いいわよ」
「ありがとうございます!」
 思わず大きな声になってしまい慌ててことばを飲み込む。
 この前祐巳さん相手に大失態を演じた上、さっきまで全然違う話をしていたというのにこれだ。ほんとうに仏像バカだな私って。まあでもどうにもならないから仕方がない。
 せめてもう少し落ち着いてって事で、一度深呼吸をして胸の中のどきどきを抑えてつつ、話し始めることにした。
「この前、本堂で住職さんを待っているときに見せてもらっていたんですけど」
「ああ、そう言えば父が乃梨子さんをずいぶん待たせてしまったと言っていたわね。ごめんなさい」
「先客がいたそうですし、そんな謝られるようなことじゃ」
「その先客というのはお姉さまなのよ」
 申し訳なさげに少し目を伏せた。志摩子さんのお姉さま……つまり紅薔薇さまなわけで。そしてあの方の名前は小笠原祥子。すごく納得である。
 天下の小笠原グループ創業家一族のご令嬢だと以前祐巳さんに聞いていたし、そんな方なら運転手付きの超高級車で小寓寺に乗り付けるというのになんの不思議もない。
「三日にお姉さまに展覧会に連れて行ってもらって、乃梨子さんが来る少し前に送ってもらったところで、父とお姉さまが挨拶をしていたの」
 そうか、あの時志摩子さんもあの車に乗っていたのか。
「あ、すみません。でもその分しっかりと阿弥陀さまを見せていただけたわけだし、私にとってはよかったですから」
「そう。ありがとう……それで阿弥陀如来のことだったわね」
「はい」
 志摩子さんはあの弥勒を説明してくれたときのように、阿弥陀三尊像の由来などについていろいろと教えてくれた。せっかくの機会ではあるが、現物を目の前にしてでないのが残念だと思う。もちろん目を閉じて思い浮かべればあの阿弥陀如来の姿がよみがえる……しかし、今ここがあの本堂であれば、もっと造形について突っ込んだ話ができるだろうに。
「どうかしたの?」
「あ、ごめんなさい」
 少し迷ったけれど、考えていたことを正直に話すことにした。すると志摩子さんはクスクスと上品に笑った。
「ほんとうに乃梨子さんは仏像が好きなのね」
 思わず笑ってしまうほどおもしろいか……そうかもしれない。
「自分でも仏像バカであるとは思ってます……でも、だからこそ志摩子さんとこうして話ができるようになったのだから悪いことばかりではないと思います」
「ありがとう」
「それに、そもそもリリアンに通うことになったのも玉虫観音を見に行ったためだけれど、祐巳さんとも出会えたし」
「祐巳さんね……もしかして、祐巳さんとも仏像についてお話をしたことがあったのではない?」
 聞き方が何か妙だった。あの時の大失態を見られたことがあったとかそんなわけではないだろうが……
「やっぱり祐巳さんなのね」
「どういうことですか?」
 私の反応で答えがわかってしまったようだが、志摩子さん一人は納得しているようでも私にはちんぷんかんぷんである。
「なんだか、かなり無理して興奮を抑えつつ聞いているような気がしたのがひとつ。もうひとつは乃梨子さんほどの人が体験であっても妹になっていいのか……と考えるくらいだから、祐巳さんが乃梨子さんのために何かしたんじゃないかなと思って」
 ああ、私の心の中の様子は丸わかりだったようだ。それはともかく……
「乃梨子さんほどのとか言ってもらうほどたいした人間じゃないですけれども……おみそれしました。私がそこまで興味を持つ仏教美術や仏像とは何だろうって調べて、それをネタに話しかけてくれたんです……あの時は本当に嬉しかった」
「祐巳さんと出会えて、ほんとうに幸運だったわね」
「はい、そう思います」
 そうしてその後もいろいろおしゃべりしつつ、志摩子さんとの初めてのランチは過ぎていった。


〜4〜
 火曜日のお昼休み、今日は特に祐巳さんに予定が入っているということや場所を変えようという話も聞いていないので、最近の定番である屋上へ向かう。
 ドアを開けて外に出ると、シートを広げている祐巳さんの姿が見えた。どうやら今日は私の方が遅かったようだ。
「遅れてすみません」
「いやいや、私も今日はぜひ乃梨子ちゃんに話したい土産話もあって、急いで来ちゃってさ。ささ、食べよう? あ、もちろん話だけでなく本当のお土産もあるからね」
「え、何なんでしょう? それはどちらも楽しみですね」
 そうして今日も楽しいひとときが始まった。


「あ、思い出した」
「どうかしました?」
 函館でお姉さまと見てきたという三十三観音像の話とか女子高生らしからぬ、でも私にとっては大満足な土産話で大いに盛り上がったお昼ご飯も終わり、お茶を飲みつつ残り時間は普通の世間話でも……と思っていた時に祐巳さんがポンと手を叩いた。
「そういえば昨日のお昼は志摩子さんと一緒に取ったんだって?」
「あ、そうなんです。教室を出た後、どこへ行こうかと思っていたら誘っていただいて」
「昨日午後から志摩子さん達にお土産を渡しに行った時、ちょっと話題になってさ。どうだった? 美人過ぎるから最初だけはちょっと近づきがたかったかもしれないけれど……」
「はい、とてもすてきな方でした! それに……」
 おっと。一応念のため周りをちらりと見渡す。
 祐巳さんが言うところの良くも悪くも一般生徒との距離感ってやつなのか、この周囲は屋上の他の場所と違って一回り以上余分に空いている。とはいえ、講堂裏の桜の木と違って人はいるわけだから用心に越したことはない。
 聞き耳を立てている人もいないことを確認したし、念には念を入れて少し声を潜めつつ続けることにする。
「……それに阿弥陀三尊像について説明してくれたりもしたんです。祐巳さんには以前興奮してお見苦しいところを見せちゃいましたから、同じ醜態は繰り返すまいと気をつけてはみたんですけど、志摩子さんにはばればれでした」
「ばればれ……」
「ええ、さすがですね。聞く私も私なんですけど、ご自分の家のこととはいえ、由来からなにからしっかりご存じで」
「由来……阿弥陀三尊像の由来……志摩子さんの家」
「あれ、祐巳さんって志摩子さんのところの本堂はご覧になったことがなかったんですか……って、そうか、最近私のせいで興味を持ってくださったばっかりだし、これだけ忙しいのにそれから志摩子さんの家におじゃましている余裕なんて無いですよね? 失礼しました」
「志摩子さんの家……本堂……」
 祐巳さんは首をかしげながらつぶやいている。
 いかんいかん。
 興奮を隠したつもりでばれたなんて話をしたばっかりなのに、その話自体で既に興奮して先走りしすぎ、祐巳さんを混乱させてしまうとは。身近に仏像のことを話せる人が一気に増えて浮かれすぎだな、私。
 というわけで、反省して丁寧に説明する。
「ほら、志摩子さんの家は小寓寺じゃないですか。そこのご本尊が阿弥陀如来像でして、左右に観世音・勢至菩薩が脇侍しているから阿弥陀三尊像……と、こちらの部分はもう祐巳さんならばっちりご存じでしたね」
「志摩子さんの家が小寓寺で、本尊が阿弥陀如来像……」
「ええ、そうです。あれ? 今度は順を追って説明したつもりなんですけど、何か考え込むような箇所ってありました?」
「考え込むというか……志摩子さんって小寓寺、つまりお寺の娘なんだ?」
 ……え。ちょっと待て。
 嫌な予感がむくむくとふくれあがる。視界が真っ暗になりそうなのをこらえ、冷静に、冷静にと繰り返し心の中で唱えて考える。
 先ほどからの祐巳さんの様子と今の言葉から、唯一導き出すことのできる解は……


 祐巳さんは志摩子さんがお寺の娘であることを知らない。


「ええー!?」



 中編へつづく