プロローグ

「どどどど」
「あ、それを聞くのも久しぶりだなあ。祐巳ったら最近ちっとも言わなくなっちゃったし」
 それはもう十二分に気をつけていますから。つぼみならまだともかく薔薇さまがそこら中で道路工事を始めるようではまずかろう……って、そんなことじゃなくて!
「祐巳ちゃん、どうかした!? あれ、聖さまじゃないですか、ごきげんよう」
 自分で自分にツッコミを入れている間に、いつまで経っても扉の前に突っ立っていた私を心配した令さまが後ろから部屋の中をのぞき込んでいたのだった。
「はい、ごきげんよう皆の衆」
「ごきげんよう、聖さま」
「祐巳さん、大丈夫?」
 最後に来た志摩子さんと由乃さんの二人に声をかけられてようやく再起動する。そして二人に促されるままにお姉さまの隣の席に座る。
 落ち着け私。
 確かお姉さまは「祐巳と一緒にいたいからリリアンを選んだ訳じゃないからね」といっていた。でも私がその後に遊びには来て欲しいといったら「うん、歓迎してくれるならね」と言ったはずだ。で、私も歓迎しますと。……なんだ、何も不思議なところは無いじゃないか。歓迎すると言われたから来ただけ。うん、まったくもって問題な
「って、ないわけないでしょうが!」
「祐巳ちゃん!?」
 思わず立ち上がって言い放つ私にまたまた周りはびっくり。お姉さまだけはにこにこ笑っているけど。
「うんうん、そのワンテンポ遅れて突っ込むのも懐かしいよね」
「そういう姿をさらさないようにがんばっていますから……ってそんなことはどうでもいいんです! そりゃ確かに歓迎しますと言いましたけど、だからって初日にいきなり来ますか!? だいいち大学は明日からでしょう?」
「入学式は明日だけど、今日はガイダンスがあったのよ。そうなると帰りの時間も皆一緒じゃない? バス停がそれはもうすごいことになっててさ。そうだ、薔薇の館、行こう! みたいな?」
「そんな京都に行こうなノリで言われても困ります!」
 しまった。あわてて口を押さえようとするも、もう遅い。売り言葉に買い言葉ってほどじゃないけれど、あんまりにもおちゃらけた感じにいうものだから、つい口が滑ってしまった。
「え、祐巳って私が来ると困っちゃうんだ……」
 すると今まであんなに楽しそうに語っていたのに急に顔を曇らせるお姉さま。……ひょっとしてお姉さまも初日から顔を出すのは勇気がいったとか? それなのに私があんなことを言ってしまったから!?
「そんな! 困るなんてこと、あるはずがないじゃないですか! 今だってその、いきなりだったから驚いただけで……お姉さまと会えて、す、すごくうれしいですし」
 慌ててフォローというか少し頬を赤く染めながら本音を告白する。何のかんの言おうとやっぱりお姉さまに、ここ、薔薇の館で会えるというのはとても幸せなことなのだ。
 しかし、新年度は薔薇さまらしく! と考えていた計画?は、初日にしてものの見事に崩れ去った。救いがあるとすれば今ここにいるのは気心の知れたメンバーだけということだろうか。
 と、そこに入るパンパン、と手が叩かれる音。
「はいはい、そこまで。聖さま、新年度早々祐巳ちゃんをからかうのはやめましょうよ」
 私たちにストップをかけたのは令さまだった。こういう仕切りは祥子さまがやりそうなものだけど、やっぱり桜のせいで憂鬱……なんですと!?
「あれ、ばれちゃった?」
 舌をぺろりと出して笑うお姉さま。つまり早速やられた、と。
「ごめん、ごめん。もっと歓迎してくれるかなーと思ってたのに、祐巳ったらいきなり怒りだすんだもん」
「……怒られたくないなら前日とか、せめて今朝連絡くださいよ」
「うーん……私がそんなまめなことをすると本気で思っているの? そういうのは今も昔も紅薔薇さんちのお仕事だよ?」
 眉をひそめたかと思えばその発言。あぁ、何という開き直りなのだろう。しかし思わず首を縦に振りたくなってしまうあたり私も毒されているのかもしれない。
「なら、今年度一年かけてしっかり直してもらいますから」
 せっかくの新年度、気分を一新するには良い機会だし、妹として私がみっちりしごいてあげることにしよう。
「ええー。そんな蓉子みたいなことを言わなくても」
「いちいち、私たちを引き合いに出すのを止めていただけないかしら」
 と、そこに今度はそれまで沈黙を保っていた祥子さまが口を出す。テーブルを叩いたりはしないものの、お姉さまをじっとにらむ眼差しはそれはそれで怖いものがある。どれくらいの怖さかと言えば思わず床に跪きたくなってしまうくらいの。
「おお怖い、怖い。春の憂鬱祥子もそれはそれで恐ろしい」
 ひぃ。なんてことを言いますかね、このお姉さまは。しかもわざわざ怖そうに頭を抱えるそぶりまでしてるし。
 私も由乃さんも令さまだって退いているよ。それでも、志摩子さんが退かなかったのはさすが姉妹と言うべきか。で、おそるおそる祥子さまの様子をうかがうと。
「志摩子、紅茶のおかわりをお願い」
「はい、お姉さま」
 ……あれ? 何事もなかったかのように志摩子さんに話しかけているし。
 これはお姉さまにとっても想定外だったのか、「へ?」って表情を浮かべている。
 しかしそれは驚きの序章にすぎなかったのだ。なぜなら、祥子さまが「今日の天気はどうかしら?」と変わらないくらいの軽い口調で続けた発言はとんでもないものだったから。
「そうそう志摩子、先週のお花見は楽しかったわね」
 それを聞くと、流しに向かうべく立ち上がった志摩子さんはくるりと振り返ってニッコリ。
「ええ、お姉さま。お庭の桜がとても見事で……ため息が出るほど美しかったです」
「実は幼い頃、私が桜を見てむっとしていたらね、お祖父さまが全て切ってしまいそうになったんだけど、そんなことにならなくて本当に良かったわ。ふふ、あの桜たちはきっと、志摩子に見てもらうためにあったのね」
「まぁ」
 そうして二人で楽しそうに笑っている、そのあまりに予想外な出来事に退いていた三名+一名はぽかーんと口を開けてしまっている。
「あら聖さま、お口が開いたままですわ」
 祥子さまが「ほほほ」と高笑いしながらそう言ったのだけど、さすがのお姉さまも口を閉じるのが精一杯だった。
「う、うーん、今日ばかりは祥子に一本とられたなぁ。あ、志摩子、私の分もお願い」
「あ、じゃあ私も手伝います」
「Sit down. Sit down. 流しに三人も立てないでしょうが、座って待っててくださいな、白薔薇さま」
 そのような雑事は我らつぼみの役目にございます、なんて言って私を座らせる由乃さん。……今度はいったい何に感化されたのだろうか、この友は。
「よし、ここはひとつ祥子の桜嫌い克服と美しい姉妹愛を祝してプレゼントをあげよう」
 私が由乃さんがはまったモノは何だろうかと、ちょっと考え込んでいた間に話は進んでいたみたいで、お姉さまがじゃじゃーんと言いながら椅子の下から箱を取り出して、そのまま開いた。
「わぁ、ケーキだ!」
 ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン……色とりどりのケーキが目に飛び込んでくる。
「ガイダンスの時、前隣の子たちが喫茶室の手作りケーキは絶品ですぐになくなるなんて話をしていたから、帰りに買ってみたわけよ。まあ祥子の武勇伝でも聞きながら、みんなで食べようよ」
「他人様にお話しできるようなものはなにもありませんわ」
 そう言いながらもまんざらでもなさそうな顔をする祥子さまが失礼かもしれないけど可愛いなと思えた。


「明日も八時集合なので遅れないように、以上」
「はい」
 皆でケーキを突っつきながら、ワイワイ楽しくおしゃべりした後、最後に祥子さまが締めてお開きということになった。明日は始業式なので、今日と同じくちょっと早めの集合となる。
 まあ入学式、始業式ともに当たり前といえば当たり前だけど学校が開催するものであって、山百合会が主催するものではない。とはいえ、そこはそれ、先生方にとっても山百合会は便利な戦力というわけで、いろいろと頼まれたりすることがあるのだ。
 ……よし、準備完了。窓閉め、流しもOK。指さし確認して部屋を出る。
「祐巳、支度できた?」
 ちょうど一階からお姉さまの声が聞こえてきた。ナイスタイミング。
「はい。お待たせしました、お姉さま」
「じゃ、帰ろうか」
 館の扉を開けると風が吹き抜けていく。四月の昼間とはいえ、こうして風が吹くと肌寒い。コートだと汗をかく、されどカーディガンが無かったら厳しいといったところか。
「昼間だっていうのにまだちょっと寒いですね」
「そうだね。でもやっぱり私服は楽でいいね。温度調節も簡単だし」
 制服にプラスしてどうこう……という生活から解放されたお姉さまはそんなことを言う。
 決して制服が嫌いではないというか、わりと気に入ってはいるのだけど私服の気楽さを見るとちょっとうらやましくはある。
「うらやましい? 祐巳も早く大学生になるといいね」
「まだ丸二年ありますってば……」
 雑談しながらだと早いもので、もうマリア様の前だった。
「お姉さまはどうします?」
「せっかくだからお祈りしていこうかな」
「へぇ」
「なに、意外?」
「……ええ、ちょっと」
「おおむね外れちゃ無いけどね。ま、私だってそんな気分になったりするわけよ」
 とにかく、お姉さまもお祈りするということなので、二人して手を合わせ目を閉じた。
「さ、行こう」
「はい! ……あ」
「なに? 何か忘れ物でもした?」
「ある意味忘れ物といえば忘れ物なんですけど……」
 お祈りも済んだし、心おきなくバス停へってところで思い出した。お姉さまがいたことにびっくりして乃梨子ちゃんのこと忘れてた。それともうひとつ。
 乃梨子ちゃんのことは、私自身まだあれから会ったわけじゃないから置いておくとして、これは聞いてみたい。
「由乃さんに呼ばれて気づいたんですけど、祥子さまや令さまを紅薔薇さま、黄薔薇さまとお呼びしたほうがいいんでしょうか?」
「何でまたそんなことを考えたの?」
「お姉さま方がお互いにそう呼び合っていたことが多かった気がしたので」
 さっき由乃さんに冗談っぽく白薔薇さまと言われた時でも少々むずがゆかったのに、まして祥子さまや令さまに白薔薇さまと言われたら思わずお姉さまを探してしまうかもしれない。
「……うーん、うちらは蓉子が蓉子だったからねえ。ま、好きにしたらいいんじゃない? 少なくともよそ行きの場だけ薔薇さまと呼び合っていれば問題ないよ」
 蓉子さまが蓉子さま。訳が分からないように見えて、蓉子さまのことを知っている人ならこれほどよく分かる表現もない気がする。
「そんなものですか」
「そんなもんよ。それより、祐巳。そういう質問は祥子たちにしなさい。どっちかというとそっちの方が問題かもね……と、バスが来た。祐巳、ダッシュ!」
「あ、はい!!」
 お姉さまが私の手をとって走り出す。
 何でも私を頼っちゃだめだよ、暗にそう言われたのに、こうして今手と手を取り合って走っているだけで幸せなのだからげんきんなものだ。
 それにしても。
 このときの私は思いもしなかったのだ。まさか自分が手を取る側になるかもしれないなんて。



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