第三話

もうひとつの姉妹の形 中編

〜4〜
「祐巳ちゃん」
 週が明けて月曜日の朝、登校している途中、マリア様の前で名前を呼ばれた。「はい」と返事をしながら声の方を振り向くと祥子さまがいらっしゃった。
「ごきげんよう」
「あ、ごきげんよう祥子さま」
 前にこうして呼びかけられたときは、見知った顔を見つけたから声をかけたという感じだったけれど、果たして今回は?
 あのときのように何か注意されてしまうようなことは……少しびくびくしながら祥子さまの言葉を待つ。
「祐巳ちゃんに頼みたいことがあるのよ」
「何でしょうか?」
 注意でなくてほっとした。いや、そもそも笑顔で注意はなかったか。少し離れたところに志摩子さんも立って待っているし、山百合会のお仕事か何かだろうかと思っていると、すっと一つの鞄を差し出してきた。
「これ、土曜日に白薔薇さまが薔薇の館に忘れていったのよ。返しておいてくれるかしら」
 それはまさしく、土曜日に白薔薇さまが薔薇の館に忘れて取りに戻ったのに重いからと置いてきたものだった。それなのに受け取ったその鞄は中身が少ないのか特に重くはなかった。
「それではお願いするわね」
「はい」
「祥子さま」
「ええ、行きましょうか」
「祐巳さんまた後で」
 祥子さまと志摩子さんが一足先に一緒に歩いていき、私もマリア様にお祈りをしてから昇降口を目指して歩き始めた。
 そして、白薔薇さまの教室に行って鞄を渡してきたのだけれど……そのときに、クラスメイトとしていた会話は「ああ、可哀想。とても可哀想。そんな可哀想な天使……私が抱き締めてあげましょうか?」とかなんとか。……まあ、それだけならいい加減「らしい」とか思えてしまったのだけど、最大の問題は白薔薇さまがその相手の方の名前を実は覚えていなかったのではないかと思えてしまったことだ。
「なんだかなぁ……」
 自分の教室を目指す足取りは決して軽くはなかった。


 薔薇の館に行くと、二階には祥子さま一人だけがいらっしゃった。祥子さまは何かを考えていたのか、私が来たことに気づかなかった。もう一度声をかけるかどうか少し迷った後「祥子さま、ごきげんよう」と挨拶をすることにした。
「ああ、祐巳ちゃん。ごきげんよう」
「あ、飲み物を用意しますね。何がよろしいですか?」
 前にこうして二人になったときは祥子さまに紅茶を入れていただいたのを思い出し、今はテーブルの上にはなにも飲み物が出ていなかったのでそう申し出た。
「ありがとう。そうね、紅茶をお願いするわ」
「はい、分かりました」
 祥子さまと私の分で二つカップを出してティーバッグを入れてポットのお湯を注ぐ……十分に色が出るのを待ってからティーバッグを取り出して片付け、紅茶の入ったカップを祥子さまに差し出した。
「ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
 私も自分の分を持っていすに座る。
「祥子さま、先ほど何を考えていらしたんですか?」
 私が聞くと、祥子さまは少し言うか言わないか迷った後「王子様」と短く答えられた。それから「祐巳ちゃんは男性はどうかしら?」と続けてきた。男性はどうといわれてもどういう意味なのだろうか? 少し考えて分かった……なるほど、男嫌いの話か。
「私は平気です。年子の弟がいますし」
「そうなの。私は……」
 途中まで出てきた言葉を飲み込んでかわりにため息をついた。
「もしや会えばと期待もしていたけれど……志摩子に代わってもらったのは正解だったのかもしれないわね」
 なんとなく祥子さまは柏木さんを知っていたように思う。それなのに顔合わせの時に初めましてと言っていたのだから、そのことは隠すつもりなのだろう。……聞いてはいけないことなのだろうか?
「ところで、祐巳ちゃんの弟さんってどんな方なのかしら?」
 祥子さまの方から話を変えてくれたので乗らせてもらう。
「うーん、どんなと言われても難しいんですけれど、よく顔が似た姉弟と言われます」
「祐巳ちゃんに似ているの?」
 何となく祐麒のことに興味を持ってくれた気がする。男男した人間だったら嫌だとか考えていたのかもしれない。だったらあの話もしてみようかな?
「ええ、花寺に通っていて、文化祭で行われたミスコンテストでは準ミスを取ったって白薔薇さまが教えてくれました」
「そうなの。……祐巳ちゃんの弟さんを見れなかったのは少し残念かもしれないわね」
「普通に制服だと思いますけど、学園祭には来ますから、もし気が向いたら声をかけてあげてください」
「一つ、楽しみが増えたわね」
 そんな風に話をしていると、階段を上ってくる音が聞こえて、志摩子さんが部屋に入ってきた。
「あら、祥子さまと祐巳さんだけでしたか」
「ええ、でも劇の練習もあるし、じきにみんな揃うでしょう」
 そして、祥子さまがおっしゃったとおり、それからまもなく続々とやってきて、最後に令さまと由乃さんが柏木さんを連れてきて全員揃った。


 場所は移って第二体育館での舞台稽古が始まった。
 まだ全部の衣装が揃っているわけではないけれど、手芸部の皆さんががんばって仕上げてくれた舞台衣装に身を包んで行うことができた。こう衣装が替わると、モノトーンの制服ばかりだった今までよりもずっと華やかに見える。
 王子様の衣装に身を包んだ柏木さんは、どこからどう見ても王子様って感じで、リリアンに乗馬部があったら白馬を借りてきたいくらいだ。
「今日は時間が少ないからきびきび行くわよ」
 いつものように紅薔薇さまの言葉で練習が始まった。
 全体を通しての劇練習は努力のかい……特に昨日一日かけて白薔薇さまにしてもらった特別レッスンのおかげでダンスまで含めて結構うまくやれたと思う。
 そして、休憩に入ったところで紅薔薇さまが「祐巳ちゃんちょっと」と私を呼んだ。
 自分ではうまくやれたと思ったのだけれど、それはあくまで私基準。紅薔薇さまの目から見れば目につくところがたくさんあったのかもしれない……いろいろと言われることを覚悟して紅薔薇さまの方に行くと、その予想とは反対にお褒めの言葉をいただいた。
「ずいぶんうまくなったわね」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ、えらいわ」
「ありがとうございます!」
 紅薔薇さまからほめられて喜んでいたら、突然後ろから抱きつかれて羽交い締めにされてしまった。
「ぎゃ!!」
「だから、そういう悲鳴はやめておきなさいって」
「そ、そんなこと言われても……」
 冷静に可愛い悲鳴を上げようなんて思えるようなら、そもそも悲鳴を上げることはないと思う。
「昨日も練習につきあっていたの?」
「そう。朝から晩までみっちりと家庭教師をね」
「なるほどね。白薔薇さまもお疲れさま」
「いえいえ、一応でもお姉さまなんだしそのくらいはしないとねー」
 私に体を密着させたまま紅薔薇さまと話を続けていく……どこまでつづけるのだろうか? みんなの前というだけでなく、リリアン生でない柏木さんの前でこんな風にされているのは私が恥ずかしいだけではすまないのではないだろうか?
「白薔薇さま、その……そろそろ離れていただけませんか?」
「ああ、そうね。じゃ、解放してあげますか」
 いつかと違って簡単に離れてくれてちょっと一安心。
 休憩後のダンスの練習の途中で、令さまと由乃さんの様子が少しおかしいことに気づいた。何か気になることでもあるのか、練習に集中できていないように見える。思い出してみれば、今だけでなく劇の練習の時にも台詞で少し詰まったりしていたっけ。
(王子様かな?)
 今までの練習と変わったことといえば、このみんなの服装。柏木さんはまさに王子様って感じだから、白馬の王子様にあこがれる女の子としては冷静ではいられないのかもしれない。そうならない私は祐麒や白薔薇さまから話を聞いているせい?  ……いけない、いけない練習に集中しないと。


 朝、登校途中の並木道で祥子さまの後ろ姿を見つけた。
「ごきげんよう、祥子さま」
 声をかけると祥子さまは私の方を振り返り、なぜか挨拶と一緒に少しだけ険しい表情が返ってきてしまった。
 今朝は何か不快なことがあってご機嫌が悪かったのだろうか? それとも私が何かしてしまったとか?
「持って」
 ふっと表情がゆるんで私に近づき、鞄を差し出してきた。
 よくわからないまま私が鞄を受け取ると、祥子さまはさらに私に近づいてきて、両手を首の後ろに回してきた。
「あ……」
 祥子さまが「タイが曲がっていてよ」と言う前に、これがいつかの焼き直しそのものであることに気づいた。祥子さまは私のタイを直してくれていたのだった。
「これで良いわ。祐巳ちゃん、白薔薇さまはあまり気になさらない方だけれど、つぼみとして身なりもきちんとするようにね」
 また、やってしまった……一度注意を受けたことを繰り返してしまった。恥ずかしさと情けなさで自分が嫌になる。
「ごきげんよう、志摩子」
 私が自己嫌悪に陥っている間に志摩子さんも登校してきたようで、祥子さまは一歩私から離れて声をかけた。
「ごきげんよう。祥子さま」
「あ、ごきげんよう」
 私も志摩子さんの方を向いて挨拶をする。
 そして、三人揃って校舎に向かい……校舎に入ってすぐ途中でトイレに行くふりをして二人と別れた。
 二人の姿が見えなくなってから一つ大きなため息をつく。
 祥子さまにまたタイを直していただけたのは恥ずかしいし、情けないけれど、うれしくもあった。ただ、今回は注意の中に『つぼみとして』という言葉が入っていた。
「白薔薇のつぼみか」
 そう、私は祥子さまと同じつぼみなのだ。確かに、一年生と二年生という差はあっても、志摩子さんや由乃さんを見ていたらわかるようにそれ以上の差があるのは明白。つぼみとしての役目を立派にこなすことが私なんかにできるだろうか? いや、できるとは思えない。
 薔薇の館のみんなはそのことをそれほど気にするような人たちではないと、わかってはいる……しかし、気にされなければいいというものでもない。私が至らない分は他の誰かの負担になっていくのだ。わかってはいたけれど、私はつぼみにふさわしいとはとても言えない。だからといって、どうこうできる話ではない……
「祐巳ちゃん、どうしたの?」
「へ? わ、わっ! ロ、紅薔薇さま!?」
 目の前に心配そうに私の顔をのぞき込んでいる紅薔薇さまの度アップあったのだ。驚きのあまり、飛びはねるように後ずさりしてしまった私の反応がおもしろかったのだろう、くすっと笑った。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう……」
 声をかけられるまで、目の前にいる人のことにもまるで気づかなかったし……やっぱり私ってダメだな。
「それで、どういう悩み事? 良かったら相談に乗るわよ」
「あ、えっと、その……」
 こんなことを紅薔薇さまに話すのは気が引けてしまうから、話すのを渋っていると、悩み事は人に話すだけでも楽になることが多いからと打ち明けるように促してきてくれた。
 ありがたいことに紅薔薇さまは本気で相談に乗ってくれようとしている。つぼみとしての悩みだから、薔薇さまには話しておくべきことかもしれない……場所を空き教室に移して思い切って今朝のことと、さっき悩んできたことを打ち明けることにした。
 紅薔薇さまは真剣な表情で私の話を聞いてくれていたのだけれど……話し終わったとたんくすくすと笑い始めてしまった。
「紅薔薇さま?」
「笑ってしまってごめんなさい。祐巳ちゃんもすごく真面目なのね」
 褒め言葉ではないと思うけれど悪い気はしなかった。も……というのが紅薔薇さまのことを指していたような気がしたからかもしれない。
「祐巳ちゃんがそんなことまで考えて悩んでいたってことを、ぜひとも聖に聞かせてやりたいわ」
「白薔薇さまにですか?」
「ええ、そう。聖がつぼみの時どれだけ不真面目だったことか。祐巳ちゃんみたいに自分が至らないから迷惑や負担をなんて殊勝なことを思うどころか、一人前以上に働く人間がいるから自分はさぼっても良いだろうって考えて実行していたのよ」
 それはひどい。たとえ栞さまのことがあったとしても、それはないだろう。
「江利子は江利子でいつもつまらなそうでやる気がないし、本気で私たちの代で山百合会を崩壊させてしまうんじゃないかって心配したわ」
 紅薔薇さまにそう言われる白薔薇さまと黄薔薇さまも私から見れば雲の上……つぼみの頃はそうではなかったのだろうか?
「それを考えれば祐巳ちゃんはつぼみとしての自覚は十分すぎるくらい。でも、聖には少しくらい見習ってほしいかもしれないわね」
 ……今も含めてらしい。白薔薇さまをそんな風に評する紅薔薇さまがそこまで言うならば、私が考えすぎていたことは間違いないだろう。
「それに、個人的なことだけれど、祐巳ちゃんにつぼみとして期待している役目は前に話したとおり。逆にその役目は祥子には難しいのだし、適材適所。だから、祐巳ちゃんは自分のできる範囲でがんばればいいのよ」
「それで、良いのでしょうか?」
「ええ、祥子だって身の丈以上のことを要求したりはしないわ。今朝のことだって祥子もできる範囲で気をつけるように言いたかっただけでしょう」
 ずいぶん気が楽になった。紅薔薇さまに相談して、紅薔薇さまが相談に乗ってくれて本当に良かった。
「それじゃあ、そろそろ教室に行きなさい。遅刻はだめよ」
「はい! ありがとうございました」
 紅薔薇さまにお礼を言って教室に急ぐ。よし、今日も頑張ろうっと。


 学園祭まで残すところわずかの水曜日、放課後になってから紅薔薇さまの指示を受けて、一年生三人が、各クラスやクラブの準備状況を見て回っていた。
 遅くまで残ったり逆に朝早く来たりするためには申請や交渉を先生としなければいけない。そのときに、薔薇さま方が間に入ったりまとめることで準備を少しでも滞りなくしてもらうためのものだ。
「やっぱり、外を使うところは大変みたいね」
「明日から雨だからね」
 天気予報がそんな感じだから、これまでのところ外で何かをしたり、準備を外でしたりしているところは軒並み今日できる限り残りたいとのことだった。中には、明日明後日と雨の中でも作業できる体育館のような広いスペースを確保したいのに、確保できていないところなんかもあって、もしお願いできるならと頼まれたりもした。
 そんな中、私たちのクラス一年桃組は教室での展示だし、作業も順調で内心だいぶほっとした。
 そうやって一つ一つ回っていって、ついに新聞部の順番がやってきてしまった。
 元々祥子さまの記事以外でさほどの関心がなかった上に、ここのところの数週間の出来事ですっかり悪い印象の方が大きくなってしまった。
 由乃さんも志摩子さんも新聞部には思うところがたくさんあるのだろう、だれも自分から進んでこの部屋には入りたくなくて、新聞部のドアの前で三人が横一列に並んだまましばらく時間がたってしまった。
 このままではらちがあかないし、どうしたものかと思っていると、ドアが開いて髪を七三に分けた新聞部の人が出てきた。
「あら? ごきげんよう。新聞部に何がご用?」
 向こうから声をかけられてしまったし、あきらめて用件を話して部室の中に入った。
 七三に分けた新聞部員……山口真実さんから、新聞部はその活動についてということで過去の傑作集のような展示をするのだという話を聞いた。
「学園祭の展示の方はもう準備もできているし問題ないわね。まあ、うちの場合はその後が決戦だし」
 学園祭の特集号としていろいろとするつもりなのだろう。確かに新聞部としてはそっちの方がずっと大事にちがいない。
「あなたたち、もうあちこち回ったの?」
 話を聞いていた新聞部部長の築山三奈子さまが、私たちに聞いてきた。まさか、ここに来るのが嫌で最後に回したんじゃないかと疑っているとか?
「はい、それなりに回りました。それがどうかしましたか?」
 由乃さんが三奈子さまの質問に答えた。
「それじゃあ、許可を申請しようとしているところはどのくらいあるの?」
 どういう意図なのかわからないけれど、由乃さんが正直に答えると、「それじゃうちも一緒にお願い」とお願いされてしまった。
「え、でも新聞部は問題ないんですよね?」
「学園祭の展示はね。でも、学園祭を総括するにはその準備も大切でしょう?」
 要するに、遅くまで残っているところを取材するために自分たちも残りたいということだ。そんなところに顔を出して、がんばっている人たちともめ事をおこなさないことを願う……
 薔薇さまに伝えておきますと返答して新聞部を出た。
 そして、次は新聞部の隣に部室を構えている写真部。
 ノックをすると蔦子さんの声で「どうぞ」と返ってきたので「おじゃまします」と言って部室に入った。
 写真部の部室にいた人は蔦子さん一人だけだったけれど、部屋には大小様々なパネルがいくつも並んでいた。
「いらっしゃい、三人揃って今日はどうしたの?」
 ここは一番付き合いが深い私が説明することにした。
「学園祭の出し物や展示物の進み具合を聞いて回っているの。遅れているようなら遅くまで残る申請をまとめてしようって感じで」
「そっか、それは御苦労様。うちは全然問題ないよ。このとおりパネルもだいたい出来上がっているから、後は土曜日に展示するだけかな」
「あら? この写真……」
 志摩子さんが並べられていた大きなパネルの一つに目をとめていた。それは私と祥子さまのあの時の写真だった。……こ、こんなに大きなパネルになるとですか。
「あ……その写真、一番良く撮れていると思っている写真。うちのメインの一つになる予定よ」
「もっとよく見せてもらっても良いかしら?」
「……ええ、どうぞ」
 蔦子さんから許可をもらった志摩子さんは、パネルの方に歩いていき手にとってじっくりと眺めた。
「すごく良く撮れているわね……本当に仲がよさそう。まるで姉妹みたい」
「志摩子さん、もしかしてそれは嫉妬? 祥子さまの妹は祐巳さんじゃなくてあなたでしょう」
「ええ、そうね」
 蔦子さんの言葉に志摩子さんはくすっと笑ってパネルを戻した。
「では、これで失礼するわね」
「あ、うん」
 何となくぎこちない蔦子さんの様子に首をかしげながら、志摩子さんについて一緒に写真部の部室を出ようとした。ところが、由乃さんが難しげな顔をしたままついてきていないことに気づいて足を止めた。
「由乃さん、どうかしたの?」
「えっと……いえ、何でもないから、ごめんなさい。行きましょう」
 由乃さんと一緒に写真部の部室を出た。
 それから残りのクラブを回ったのだけれど、由乃さんの様子が変だった。聞いても何でもないと答えられてしまうだけで結局その理由はわからなかった。


 次の日の朝、どんよりとした雲の下を登校していると、昇降口の手前で志摩子さんの姿を見つけた。
「志摩子さん、ごきげんよう」
 声をかけたのに気づかなかったのか志摩子さんがそのまま昇降口に入ろうとしたから、もう一度声をかけた。それで、初めて私のことに気づいたのか、私の方を振り返って少し驚いていた。
「……あ、祐巳さん、ごきげんよう」
「志摩子さん、どうかしたの?」
 ずいぶんぼんやりとしているから理由を聞いてみたのだけれど、何でもない、心配させてごめんなさいとしか答えてくれなかった。
 でも、絶対に志摩子さんの様子はおかしい……
 桂さんや蔦子さんに意見を聞いてみても、同じく絶対に何かあったに違いないと一致した。とはいえ、聞いても話してくれないし、何があったのか想像もつかない、どうしたものか。
 そういえば、昨日は由乃さんの様子が変だった。
学園祭を目前に控えているというのに、今の状況は、窓の外に見える雨が降りそうな空に似ている予感がした。


〜5〜
 昼休みに蓉子と二人で打ち合わせをすべく薔薇の館に向かう。ちなみに江利子はクラス関連の話し合いで欠席。
「さて、お弁当お弁当と」
 無事打ち合わせも終わったので、お弁当の包みをほどいてふたを開ける。
「聖、普段は祐巳ちゃんたちとお弁当を食べているのよね」
「うん。まあ今日みたいにやることがある時はそうはいかないけどね。晴れてる日は屋上で、カメラちゃん……ああ、写真部の武嶋蔦子さんたちと一緒に食べてるよ」
「そう。劇とダンスの家庭教師といい、ずいぶん仲良くしているわね」
 甘辛メンチカツを口に放り込みながら、まあねと答える。
「祐巳ちゃんを妹にできて良かったと思っている?」
 そういえば、今まで蓉子とその話をしたことはなかったな。妹体験の時はさんざん言わせてしまったし、気にしていたのだろう。
「うん。妹体験を持ちかけた相手、私がロザリオを渡してしまった相手が祐巳ちゃんで良かったと思えたから妹になってもらった。それからは本当に楽しいし、祐巳ちゃんのおかげで私も志摩子のことにも区切りがつけられそう」
 それは良かったわね……そんな言葉が返ってくると思ったのに、返ってきたのは蓉子の悩ましげな表情だった。まるで何か言いたいことがあるけれど、それは言ってはいけないことだと自分に言い聞かせているような……ちょうど一年ぐらい前に蓉子はよくこんな顔をしていた気がする。
「蓉子?」
「……いえ、ごめんなさい。わけは聞かないでちょうだい」
 先回りして私の質問を封じ込めてきた。今は話す気はないのだろう。
「わかった」
 それからはぽつりぽつりと言葉のやりとりがあるくらいで、案外早くにお弁当を食べ終わってしまった。
 薔薇の館を出て校舎に戻る。
「学園祭直前のこの雨は痛いよね」
 昼前から降り始めた雨は傘を差すか差さないか迷うくらいで強くはない。それでも、学園祭の準備には大ダメージだ。
「ええ、予報では前日と当日は晴れだったわね。悪い方に外れないことを祈るばかりね」
「ほんとに……と、一人で戻っていて」
「? それはかまわないけれど、どうしたの?」
「ちょっとね。じゃ、また」
 蓉子と別れて、さっき見つけた人間のところに向かう……校舎からは死角になっている木の陰に志摩子を見つけたのだ。確かに、そこならば雨宿りもできるだろうからぬれはしないとはいえ、そもそもどうして雨なのに外にいるのか。
「志摩子、こんなところで何をしているの?」
「……あ、白薔薇さま」
 志摩子は私から声をかけられるまでまったく気づかなかったようで。しかも、ぼんやりとしたままの反応だった。
「こんなところでどうしたの?」
「……みんな、お節介なんですね」
 どうやら私が最初ではなかったようだ。まあ、こんなところで一人でたたずんでいるのを見かけたら誰だって気になる。
「白薔薇さまには関係ありませんからそっとしておいてください」
「そっか、邪魔してごめんね」
「いいえ、でも私の問題ですから」
 拒絶をその言葉の中に感じてしまった。いったい何があったのかわからないけれど、私が無理に聞いても志摩子は迷惑なだけだろう。そう思って志摩子の前から去ることにした。
「黄薔薇さま、志摩子の様子がおかしかったんだけど何か知ってる?」
 放課後、薔薇の館に行く途中で一緒になった江利子に今日のことを聞いてみた。
「志摩子の様子?」
「そう。なんだか、心ここにあらずとでもいうのか、ぼうっとした感じでね。あと紅薔薇さまもなんか言いたいことがあるけれど言えない、みたいな感じだったし」
「教えてあげない」
 江利子の答えはその原因を知っているからこそのものだった。……嘘ではなさそう。
「……ちなみにどっち?」
「まず間違いなく根源は両方同じよ」
「わかっていても、教えてはくれないんだ」
「ええ、私はこの結末を楽しみにしているの。舞台を途中で壊されてはたまらないわ」
 にやりと笑いながらそんなことを言ってきた。
「相変わらずだね」
「ええ、人間そうそう簡単に変わることなんてできないものよ」
 もちろんあなたもね、そう言われているような気がした。


 事態は私が思っていたよりもずっと深刻だということは薔薇の館にみんなが集まってからすぐに分かった。
 机といすを端に寄せての劇の練習もどこかちぐはぐなところが多い……志摩子だけでなく令と由乃ちゃんの様子もおかしくて、それを見ている祐巳ちゃんも心配でたまらなさそうだから、何でもなさそうに見えるのは蓉子、祥子、江利子の三人くらい。それも、蓉子は平静を装っているだけだとわかっているし、江利子は相変わらず。祥子だって蓉子と同じかもしれない。
「ねぇ、このままじゃまずいと思うんだけど」
 休み時間に入って、蓉子の横のいすに座って小声で聞いてみた。
「……わかってはいるのよ」
 けれど、どうすることもできない。か、どうにかしてしまってはいけない。そんな感じの答えだった。なら、私が口を出してはいけないのかもしれない。とはいえ、このままの雰囲気でいるのもなぁ……何か明るい話題でもと考えて、弟君のことと、前に祐巳ちゃんと話をしたことが思い浮かんだ
「紅薔薇さま、福沢祐麒って覚えている?」
「福沢祐麒? ……ええ。ああ、それで、祐麒君がどうかしたの?」
 祐巳ちゃんとの関係に気づいたのだろう祐巳ちゃんの顔を見ながら聞いてきた。
「うん、弟君にシンデレラ、祐巳ちゃんに王子様をやってもらうのも良かったって前に思ったのよ。まあ、思いつくのが遅かったし、ゲストにシンデレラをやらせるのは無理ってものだけれど、せっかく学園祭に来てくれるんだし特別参加させない?」
「祐麒をですか?」
「うん、祐巳ちゃんも見てみたくない?」
 見てみたいと顔に出た。
「でも、練習する時間も何もあったものじゃないですし、そもそもどんな役をさせるんですか?」
「舞踏会に招待された近くの国のお姫様とか、舞踏会に来た人全員がダンスを踊らなくちゃいけないってわけでもないし、見ているだけなら練習もいらないし、飛び入りでもできるでしょ」
「いいわね、楽しそう」
 よしよし、江利子も食いついてきた。
 それから弟君の話題で盛り上がった。令や由乃ちゃんもどうやって参加させるかとか、作戦話に楽しく加わったけれど、志摩子だけは様子が変なままだった。


 帰る前に手芸部に寄ってもう一着ドレスをお願いしにいった。理由を聞かれて、弟君のことを話すと彼女たちも見たいと思ったのだろう。快くもう一着引き受けてもらうことができた。
「さて、これで準備は万端、と。後は当日来てもらうだけだね」
「白薔薇さまが言えば、お母さんが無理矢理でもつれて来ると思いますよ」
「それ良いかもね。……でも、ちょっと悪いことしちゃったかな」
 だしに使ってしまったわけだし、どこかで謝るのと一緒に埋め合わせをしておこう。
「あの雰囲気を変えるために祐麒のことを言ったんですよね?」
「うん、やらせてみたいのは本当だけど、今日みたいな雰囲気じゃなかったら言わなかっただろうね。志摩子の様子が一番変だったけど、何か知ってる?」
「いえ……朝会ったときからなんだかぼうっとした感じで。心当たりは特に」
「そっか。蓉子も江利子も原因わかってるみたいだけど教えてくれないんだよね」
「紅薔薇さまと黄薔薇さまは知っているんですか?」
「みたい。いったい何なんだろうねぇ」
 帰り道二人でいろいろと考えたけれど、これといった答えは一つも思いつかなかった。


〜6〜
 学園祭まで後二日と迫った金曜日も、昨日に引き続きあいにくの雨だった。それも、昨日よりも雨脚が強くなってしまっている。
 そんな中でも、学園祭の準備が一段と忙しくなっていくのは避けられず、傘を差してあちらこちらの建物を行ったり来たりしている。本当に雨が恨めしい。
 準備が遅れているのだろうこんな雨の中でも外で作業をしている人たちや、ぎゅうぎゅうづめの体育館で作業をすることになった人たちはいっそうそう思っているに違いない。
 受け持った仕事を終えて薔薇の館に戻ってくると、他の方はまだ戻ってきていないようで、二階には誰もいなかった。最初に帰ってきたのだから、これから帰ってくる人たちのためにお茶を用意することにしよう。
 しばらくして階段をだれかが上ってくる音が聞こえてきた……この丁寧な歩き方は、祥子さまか志摩子さんあたりだろうか?
「あら? 祐巳ちゃんの方が早かったのね」
 二番手は祥子さまだった。
「はい、あの、お茶でよろしいですか?」
「ええ、ありがとう」
 すぐに祥子さまの分のお茶を入れて湯飲みを差し出した。
 それからすぐに白薔薇さまが戻ってきて、さらに一人一人戻ってきて全員が揃った……ただし、問題発生。由乃さんの気分が悪そうなのだ。
 横で令さまが言い出すかどうか迷っていると、黄薔薇さまが「令、由乃ちゃんを連れて帰宅してくれる?」と言った。それに令さまは即答し、由乃さんは自分たちだけが帰るわけにはいかないと反論した。
「由乃ちゃん。本番は明後日、今無理をして倒れられたらそちらの方がずっと困るのよ。明日のプレも所詮は練習。体調が悪ければそのまま休みを取ってちょうだい」
 紅薔薇さまから諭され、しかも明日のことまで指定された由乃さんは渋々と帰ることを了承した。
 しかし、みんなの様子がおかしいのに加えて、令さまと由乃さんが帰ってしまう……本当に大丈夫なのだろうか? と、いけないいけない。私が不安そうにしていたら責任感が強い由乃さんが帰りづらくなってしまう。
 そう考えて、できるだけ大丈夫そうな顔を作ってみたのだけれど、帰り際由乃さんがじぃっと私の顔を見ていたから、バレバレだったかもしれない。
「私はこれから職員会の方に出なければいけないの。仕事を割り振りたいし、もし都合があったら聞かせてもらえる?」
「すみません。私はもう少ししたら委員会の方の集まりがあるので……」
 志摩子さんが申し訳なさそうに申し出た。志摩子さんは環境整備委員会にも所属しているんだっけ。
「しばらくしたら四人だけになるってことね。そうね、私が外出てくるから、事務処理を三人にお願いできる?」
 黄薔薇さまが雨の中また歩き回る役目に立候補した。
「……そんなにあったっけ?」
「結構あるのよ」
 紅薔薇さまの視線を追っていくと、段ボールがふたつ積まれていた。確かにすごい量だ。
「三人ともお願いね」
「あ、はい」
「わかりました」
「聖、お願いね」
 無言で抵抗しようとした白薔薇さまだったけれど、紅薔薇さまによる笑顔のままのプレッシャーに陥落。うん、あれは勝てない。やっぱり紅薔薇さまはすごい。
 そんなこんなで三人がかりでもって書類の山と格闘し始めてずいぶん経ち、それなりに片付いてきた。
「ここらへんで、一度休憩を入れようか?」
 白薔薇さまが肩をもみもみしながら休憩を提案し、祥子さまはそうですねと同意してボールペンを机に置いた。
「それじゃ、飲み物を用意しますね。何が良いですか?」
 このくらいはしないといけないと、さっと立ち上がって二人にリクエストを尋ねると、白薔薇さまはコーヒー、祥子さまは緑茶との答えが返ってきた。
「分かりました」
 準備をしながら私はどちらにするか考える……今日は緑茶にしておこう。
 手早くコーヒーを一つ、緑茶を二つ用意してお盆にのせて戻ってくる。
「お待たせしました。はい、祥子さま」
「ありがとう」
「はい、白薔薇さま」
「ふーん、今日はおそろいにしてくれなかったんだ」
 なんだかずいぶん不満そうにそんなことを言ってきた。ひょっとして私が祥子さまと同じものを選んでしまったからすねてしまったのだろうか?
「そ、そういうわけじゃなくて、ただ今日はコーヒーよりもお茶の方が良かったので……」
 あわてて弁解するとにぱっと笑って、いくらなんでも飲み物のことぐらいで嫉妬なんかしないから安心しなさいななんて言われてしまった。すねていたのではなくて、私の反応を楽しもうとしていただけだったのだ。
 ちょっと安心したけれど、やっぱりそれよりも不満の方がずっと大きく、本当の仏頂面になって自分の席に戻った。
「あらら、すねちゃった」
「白薔薇さま、少し度が過ぎたのでは?」
 脇から見ていた祥子さまはどこか楽しそうだった。私の反応は、祥子さまから見てもおもしろかったのだろうか。
「そうかも、ごめんね祐巳ちゃん」
 祥子さまに言われて謝られてもなぁ……
「ほんとごめん」
 今度は手を合わせてこのとおりと謝ってきた。いい加減な謝り方では私が許さないと思ったからだろうけれど、進んで許そうという気にはならない。それで、特に答えを返さずに仏頂面のままでいたら、白薔薇さまが軽くうなりながらどうするか考え込み始めた。
「そうだ。お詫びに私がお代わりを入れてあげるから」
「まだ飲み始めたばっかりだし、いりません」
 なるほど、謝るだけではなく態度で示す方法か。でも、その提案は的外れだと思う。
「じゃさ、この後帰りにまたパフェか何かおごってあげるから、それでどう?」
 お茶のお代わりからパフェにランクアップした。真剣に態度で示そうとしてくれているみたいだからもう良いかなと思いつつも、どこまでレートをつり上げられるか試したくて仏頂面を続けてみた。するとレストランでの夕飯、服、休みの日のお出かけ、お出かけかつ服と、どんどんランクアップしていった。
 これ、すごいかもと思っていると、祥子さまが笑いをこらえきれなくなったといった感じで声を漏らして笑い始めた。
「祥子さま?」
「くすくす。二人はとても仲がよろしいですね」
 どういうことなのだろう?
「祐巳ちゃん。白薔薇さまにバレバレよ」
「どこまで行くか試してたのに、じゃましないでよ」
 唇を少しとがらせて祥子さまに文句を言う白薔薇さま……完全にばれていた。いつの間にか試す側が入れ替わってしまっていたのだ。
「ま、心の中ではもう許してくれたみたいだし、帰りにどこかに寄るくらいで手を打たない?」
 完全に読まれてしまっていたし、素直に降参してそれで手を打つことにした。
「白薔薇さまは祐巳ちゃんと出会えて良かったですね」
「私もそう思ってる。ああ、でも、もし祥子が祐巳ちゃんにロザリオ差し出してたら一発だったと思うよ。何たって祐巳ちゃんは祥子のファンだからねぇ」
 祥子さまは白薔薇さまの言葉に特に驚いた様子はなく、私にほほえんできた……そうですか、バレバレでしたか。まあ、そこのことは秘密でもなんでもなかったけれど、こうも考えていることが筒抜けだと少し情けなくなってしまう。
「ちなみに、こんな妹どう?」
「そうですね。祐巳ちゃんみたいな妹だったら、さぞ楽しい日々になるのでしょうね」
 言葉だけならうれしいはずのものだったけれど、そういう結論になった理由を考えてみると、とても喜んだりはできなかった。
「毎日楽しいよ。それに、祐巳ちゃんの家族も楽しいし、本当に私って運が良いよね」
「うらやましいですね」
「良いでしょ……?」
 楽しそうに話をしていた白薔薇さまの表情がとたん険しいものになって、視線がビスケット扉の方に向けられた。
「白薔薇さまどうかしました?」
「今、何か物音がした」
 白薔薇さまが席を立ってビスケット扉の方に歩いていく。私には物音なんか聞こえなかったけれど、あの扉の向こうに誰かいるのだろうか?
 ふと、新聞部の築山三奈子さまの顔が思い浮かんでしまった。もし、さっきの話を三奈子さまに盗み聞きされていたとしたら……背筋に冷たいものが走る。
 白薔薇さまが扉を開けると、そこにいたのは三奈子さまではなく、なんと志摩子さんだった。
「志摩子!」
 祥子さまの声にゆっくりとこっちを振り向いた志摩子さんの目には、なぜかあふれんばかりの涙が浮かんでいた。そして、白薔薇さまが名前を呼ぼうとしたとたん、階段を滑り落ちてしまったのではないかと思うようなすごい勢いで階段を駆け下りていってしまった。
「お待ちなさい!」
 祥子さまが志摩子さんを追って部屋を飛び出していった。