〜6〜 薔薇の館に行った帰り道、今日は薔薇さま方で話すことがあるということで、一人で帰ろうとしたら由乃さんが送っていってくれると言ってくれた。 確かにお客様として扱ってと白薔薇さまは言っていたけれど、そこまでしてもらうのもと思って遠慮すると、途中まで一緒に帰るだけだし遠慮することなんかないと言われた。確かにそうかもしれないし、せっかく言ってくれるのだしと由乃さん、そして令さまと一緒に帰ることにした。 「祐巳さんって、お芝居ってしたことある?」 「え? ううん、少なくともこんな大きなのは」 初等部の時の学芸会でクラスの劇には参加したことはあっても端役も良いところだった。そんな私がいくら主役ではないとはいえ、山百合会主催の劇に参加することになるだなんて…… 「そう、それは不安よね」 思いっきり不安。人前で演じるのが恥ずかしいとかそういうこと以上に、私がへまをしてしまったら恥ずかしいだけでは到底すまない。 「でも、大丈夫。劇は一人でするものじゃないんだから」 みんながフォローをしてくれるということだろう。そのことはうれしいけれど、それは迷惑をかけてしまうということだ。 「そういうのは気にしなくて良いわよ」 白薔薇さまに何を考えているかわかりやすいと言われてしまったように、どうやら由乃さんも私の表情から考えを読んだようだ。 「うん、祐巳ちゃんが心配しているようなことになってしまったとしても、それは人選ミスで私たちや紅薔薇さまに責任があるだけだからね」 令さまにも読まれていたみたい。 「だから祐巳さんはあくまでできる範囲で精一杯してくれればいいの。まあ、参加すること自体確かに負担になるだろうから申し訳ないけれどね」 由乃さんと令さまはそんな風に考えていたんだ。そういえば、最初に紅薔薇さまが話を持ちかけてきたときも人手が足りないとか言っていたっけ。 「劇のことよりも、白薔薇さまとのことを聞いても良い?」 「え? うん」 そうして白薔薇さまとの妹体験であったことについて話をしながら歩いた。 「何か困ったことがあったら遠慮なく相談してね」 二人は徒歩通学なのにわざわざバス停で私が乗るバスがやってくるのを一緒に待って、見送ってくれ、最後にそう言ってくれた。 いつもどおりの登校、そしていつもどおりマリア様にお祈りをして、さて教室に向かおうとしたところで「祐巳ちゃん」と名前を呼ばれた。 「はい?」 振り返ったそこには、祥子さまがいらっしゃった。 こ、これは、まさかいつぞやの繰り返しだろうか? タイを見てみる……乱れているとかそういうことはない。では、どこがまずかったのか、髪がすごいことになっているとか? いやバスのガラスに映った髪は普通だったように思う。それでは何か変なものがついているとか? 「ごきげんよう。どうかしたのかしら?」 「え? あ、いえ。あっ、ご、ごきげんよう!」 「くす」 私の慌てぶりがあまりにおもしろかったのか、祥子さまに笑われてしまった。ああ、穴を掘って隠れてしまいたい。 「あ、あの、私に何かご用でしょうか?」 「見知った顔を見つけたから声をかけただけよ。何かまずかったかしら?」 「そ、そんなことはまったく!」 「そう、それはよかった。お祈りをしてしまうから少し待っていてちょうだい」 そう言ってマリア様にお祈りをする祥子さま。 ……いま、祥子さまはなんとおっしゃっていた? 見知った顔を見つけたから声をかけただけ……祥子さまに覚えてもらえただけでなく、特に用がなくても声をかけてもらえる関係になれたのか。間違いなく白薔薇さまとの妹体験がそのきっかけ。 あこがれの祥子さまとのつながりをもてるようになるだなんて、白薔薇さまに感謝しなければ。 「お待たせ、行きましょうか」 「え、あ、はい」 そうして祥子さまと一緒に校舎に続く銀杏並木道を歩くことになった。 「何か良いことでもあったのかしら?」 「え? どうしてですか?」 「ずいぶんうれしそうだったから」 祥子さまとこうして一緒に歩くことができていることがうれしいのだけれど、それをそのまま口にするのははばかられて。別に何でもありませんと答えて、話を学園祭の劇の話に移させてもらった。 「そう、祐巳さんも参加することになったのね。協力してくれてありがとう」 笑顔でお礼を言ってもらえた……なんだか、これだけでも得した気分。 「祥子さまのシンデレラ、私も楽しみにしてますから」 「ありがとう。一緒にがんばりましょうね」 「はい!」 昨日の薔薇の館での話し合いの結果、私も練習に参加することになったので、今日も薔薇の館に顔を出した。祥子さまにああ言ってもらったのだし、がんばろうと思いながら。それと、祥子さまにお会いできたら朝言いそびれてしまったあの写真の話をしようと思ったのに、今日も祥子さまはお休みだった。 そして、今は白薔薇さまと一緒に帰り道を歩いている…… 「紅薔薇さまはああ言ってくださいましたけど、本当にいいんでしょうか?」 白薔薇さまに聞いたのは、意気込んで来たは良いけれど、今日は特に練習をするというわけでもなくて、私は会議や仕事の様子を横で見ていておしゃべりくらいしかしないというか、できないので、ひょっとしてじゃまをしているだけなんじゃないかと心配になってしまったこと。紅薔薇さまが遊びに来てくれるだけでも歓迎だと言ってくれはしたけれど、それでも申し訳なくて気になっていたのだ。 「もちろん。紅薔薇さまは日頃からもっとみんなが遊びに来てくれるようにできればなんて言っているしね」 「そうだったんですか」 三薔薇さまの内の二人がこう言っているのなら……たぶんいいのだろう。 「それに、一般生徒がどう思うか聞きたい話がある時もあるしね」 「私なんかでいいんですか?」 「むしろその方がいいのよ」 そんな話をしながら銀杏並木を歩いていると猫の鳴き声が聞こえてきた。……そっちを向むくと、あの猫が走り寄ってきて白薔薇さまの足にすり寄ってきた。みんなはランチって呼んでいる猫。全然人になつかなくてお弁当のウインナーを一口分ちぎって投げてやっても、一メートル以内に人がいると食べに来ない猫なのに、白薔薇さまにはなついてるようだ。 「ランチ!」 「らんち? これはゴロンタだよ」 白薔薇さまはランチを抱き上げて頬ずりする。 「一年生はランチって呼んでいますよ、この猫。お昼時になると現れるから」 「なるほどね。私はゴロンタって呼んでるけど、メスなのにちょっと失礼だったかもね」 いや、ちょっとじゃないでしょうとは思うけれど、ランチは抱かれて嬉しそうにゴロゴロ喉を鳴らしている。このなつき方はちょっと信じられないかも。 「こいつはね。私のこと信じているんだな。だから甘えるのよ」 ランチがここでこうしていられるのは、白薔薇さまがカラスに襲われているランチを助けたことがきっかけだったらしい。そういった出会いの話から、弱肉強食とかタイムマシーンとかの話になったけれど、白薔薇さまの話はいけないことをしてしまったって、そんな風にもとれた。 「でも、助けちゃったんですよね?」 「まあね」 白薔薇さまは首をすくめる。 「なんでだろうね。浦島太郎も、そんなに好きな話ではなかったはずなのに……テレビと違って、現物がそこにいるわけだから手を出せちゃうわけだな」 考える前にカラスを追っ払っていたと、そういうことだ。 「前に、助けるのはかえって残酷だって言われたこともあるんだよね」 誰がそんなことを言ったのだろう? 白薔薇さまが助けていなければ、この子はこうしてここにいられなかっただろうに。 「助けて、餌をやって、優しくしてやったところで、私はいつかこの場所からいなくなってしまうでしょ? その後のことを考えたことはあるのかって言うのよ。まあ、一理あるけど……」 そう言って何か考え込んだ後、「人も同じなのかな?」ってポツリと呟いた。 人の場合……誰かと親しくなっても、いつかは別れが来てしまうってことだろうか? 「そんなことないと思います」 だって、いくらいつかは別れてしまうからっていっても、誰とも関わりを持とうとしない。持ちたくないなんて……そんなのってすごく淋しいことだから。 「そっか、うん、そうだよね。私もお姉さまにはずいぶん良くしてもらったし、本当に良かったと思ってる。すごく感謝してる」 まだ別れてないけれど蓉子にもねって、紅薔薇さまも付け加えた。 「お前も同じだよね」 ランチは問いかけに答えたのか「にゃー」と一つ高く鳴いた。 それからまたランチの話に戻って、白薔薇さまが夏休みにも何度か餌をやりに足を運んだ話を聞いた。 また頬ずりをしてから地面に下ろす。それから、ポケットに手を突っ込んで小さなビスケットみたいなものをわしづかみにしてランチの前に置いた。 「そういえば、あの時約束してたね。今まで忘れてて、ごめん」 どんな約束をしたのだろう? ランチは小気味いい音を立てながらそれを美味しそうに食べている。こんな人の側でものを食べるなんて初めて見た。 「猫のドライフード。食べたかったら上げるよ?」 「いえ、遠慮しておきます」 確かに美味しそうに食べているとは思ったけれど、そんなに物欲しげに見えたのだろうか? その後、ランチが満足するまで二人でランチの食事を見守っていた。今日は白薔薇さまの新しい一面を知る事ができた気がする。 四人でお昼を屋上で食べながら楽しくおしゃべりをしながら話をしている内に、学園祭の話になって山百合会の劇の話が出た。 「今年は何をするんですか?」 「今年はシンデレラ。主役は祥子ね」 「それは盛り上がりそうですね」 「うん。あと、祐巳もね」 「え? 祐巳さんも参加するんですか」 「あ、うん……一応そういう話になってます」 相手が二人だから良いけれど、こんな事を教室で話していたらまた質問攻めにあってしまいそうだ。 「蓉子もちょっと強引過ぎた気もするし、ごめんね」 「いえ。祥子さまと令さまの共演が早く見れるのは良いことですし」 「ん? あ、そっか、言ってなかったか」 白薔薇さまは何か言い忘れていたことを思い出した様子。なんだろう。 「令の王子様役は代役、本番は花寺の生徒会長に来てもらうってこと、言い忘れてた」 「え? 花寺の生徒会長ですか?」 「そ、まあキザでいけ好かない奴なんだけど。ま、お互いの生徒会の役員がお手伝いに行く伝統があってそれでね」 そんな話があったんだ。じゃあ二人の共演が見られるのは練習に参加する者だけの特典になるわけか。 「本番、二人とも見に来てよ」 「はい、もちろん」 「ええ、行かせてもらいます」 桂さんは普通に楽しみって感じ。蔦子さんは……最高の被写体を撮ることができるのだから小躍りしてしまいたいってところだろうか? 二人とも弾んだ声で返した。 そして、今日も楽しくお昼の時間を過ごして校舎に戻るとき、白薔薇さまは思いだしたように私に用事を告げた。 「祐巳。悪いんだけど、今日は少し遅れるから先に薔薇の館に行っててくれないかな?」 「あ、わかりました」 劇の練習に参加することになったわけだし一人でもきちんと行かないと。 で、一人で来たは良いのだけれど……一人で入る薔薇の館は今までになく緊張する空間だった。白薔薇さまにつれられてというのとではまるで違う。やっぱり、私みたいな平々凡々な生徒には敷居が高い空間だっていうのが身に染みてしまう。 かといって、今更帰る選択肢もなく……あきらめて階段を軋ませて二階に上がった。 そして、ビスケット扉を開けると、そこには祥子さま一人だけがいらっしゃって、上品にカップを傾けられていた。 「あら、今日は一人?」 「あ、はい。白薔薇さまは少し遅れるって」 「そう、何が良いかしら?」 何がって何? ちょっと考えて、飲み物のことだって気付いた。 「祥子さまと同じ物が」 「分かったわ」 って言ってから気付いた、祥子さましかいないのに聞いてくるってことは、祥子さまが私のために入れてくださるってこと!? 「座っていて良いわよ」 そんなことは恐れ多いと、慌てて自分で入れようとしたらそう言われて……言われたとおりに私は椅子に座って待つことにした。 程なくして祥子さまが私の前に、紅茶が入ったカップを差し出して下さった。 「あ、ありがとうございます」 お礼を言ってから祥子さまが私の為に入れて下さった紅茶に口を付ける。 「美味しいです」 「口にあったようでよかったわ」 祥子さまにこうして入れていただいた紅茶を飲めるなんて本当に幸せ。 ……うっとりしてしまったけれど、祥子さまの前で惚けているわけにはいかない。 とりあえずほかに誰もいないので「……皆さまは?」と聞いてみた。 「お姉さまはクラスの用事で遅くなるわ。由乃ちゃんは体調を崩して欠席だから令も今日はお休み。志摩子は委員会よ。黄薔薇さまの理由は知らないわ」 「そうなんですか……黄薔薇さまか、白薔薇さまが来るまでは、二人っきりなんですね」 そう、今ここには祥子さまと私の二人っきりしかいない。憧れの祥子さまと私しか………それだけじゃなくて、祥子さまに紅茶をいれて頂いたりまで…… (ああ、なんて幸せなんだろう) 「嬉しそうね」 「え?」 「祐巳さんの顔がそう言っていてよ」 あぅ……百面相。『目は口ほどに物を言う』なんて言葉があるが、私の場合は顔が言いたい放題らしい。 祥子さまにくすっと笑われてしまった。恥ずかしさで顔から火が出てしまいそうで、思わず唸ってしまったら一層おかしかったらしく、更に笑われてしまった。 「あなたって楽しい子ね」 それって良い意味に聞こえないんですけど…… 祥子さまの前で醜態をさらしてしまったことで、少し落ち込んでしまったけれど、恥ずかしいつながりであの写真の事を思い出した。 確か、鞄に入っていたはず。あの写真は祥子さまと一緒に写っているだけでもすごいのに、祥子さまが私のタイを直してくださった、まさにその瞬間のもの。是非ともほしい…… ほしいが、祥子さまにあの写真を見せて学園祭で飾る許可を取るなんて、やっぱり恥ずかしすぎた。イザって段階になったら、どうにも踏み出せなかった。あのときのことを祥子さまが覚えているのかどうかわからないが、どちらにせよだらしない女だって告白するようなものなわけだし…… 「今度はどうしたのかしら?」 ……またやってしまった。祥子さまは楽しそうに笑っている。 これだけ連続で恥ずかしいところを晒してしまったんだし、思い切って開き直ることにした。 「実は、この写真なんですが……」 鞄からあの写真を取り出して祥子さまの前に置いた。 「写真?」 祥子さまは写真を手にとって、ちょっと驚いたような顔をしてから、眉間に少し皺を寄せてじっと写真を見つめている。不快というわけじゃないけれど、このとらえどころのない表情は、やっぱり覚えてらっしゃらなかったか……ここでは桂さんが正しかったようだ。 あのとき色々と悩んだり恥ずかしがったりしていたのは意味のないことだったのかと力が抜けて、ため息をつきそうになった時、祥子さまが驚く言葉を口にされた。 「ああ、志摩子にロザリオを渡した日の朝ね。そう、祐巳さんはあの時の子だったの」 「は、はい!」 なんと祥子さまはあのときのことを思い出されたのだ。そのことはうれしくて、舞い上がってしまいそう。でも、話が話だから一緒に恥ずかしさもかなりのもの……今鏡を見たら私の顔はトマトみたいに真っ赤になっている気がする。 「すごく良く撮れているわ、この写真」 「その写真、写真部の蔦子さんが撮ったものなんです」 「ああ、それで」 さすがは写真部のエース。その一言で祥子さまも納得させてしまうとは、恐るべし。 「それで、その写真を学園祭に展示したいから、祥子さまから許可を取ってきて欲しいって、前に言われたんです……」 タイトルが決まっているのだしそれも伝えないといけない。そう思ったものの、私にとっては恥ずかしいものだったから、「タイトルは『躾』だそうです」とささやくような声で付け加えるのが精一杯だった。それでも祥子さまには聞こえたようで、ぷって吹き出されてしまった。 「ふふふ、余りにもピッタリ過ぎるわね。くすくす」 祥子さまにこんなに笑われてしまうなんて、また唸ってしまいそう。 そうしてしばらく笑われた後、今度はまじめな顔で写真のことを考えている様子になった。 「この展示って大きなパネルとかになるのかしら?」 「あ、そう言っていました」 「そう……良いわ。蔦子さんにそう伝えておいて」 「はい、ありがとうございます」 これで、この写真は私のものになったわけだ。ああ、いったいどこに飾ろう……って御本人の前でそんな妄想をするのはあんまりなので、すぐにその考えを横に置いた。 「でも、面白い偶然ね」 「面白い?」 「こんなことは滅多にしないのだけれど、あの日は私の決戦だったから」 決戦ですか? とまた半分オウム返しに私が聞くと、志摩子さんにロザリオを渡すつもりだったからと答えだった。そうか、確かにあの日だったわけで、しかも一度断られてしまったわけだから、祥子さまにとってはリベンジだったわけだ。 「朝家を出るときに鏡を見たらこれが少し曲がっていたのよ。それで、決戦に望むのにこんなのじゃいけないって、念を入れてきっちり結び直してきたのよね。多分、そういうことがあったからこんな『躾』をしたのかもしれないわね」 自分のタイをちょっとつまみながら楽しそうに言われて、また唸ってしまって笑われてしまうのを繰り返してしまった。もういったい何度目だか。 「本当に楽しいわ」 ため息が出ちゃう。 (でも、本当にあの時のことがきっかけだったんだなぁ) あのシーンを蔦子さんに撮られて、薔薇の館に行く途中に白薔薇さまからロザリオを渡されて、それで妹体験みたいな話になってしまった。あのときは大変だったけれど、そのおかげで今こうして祥子さまと二人っきりで居る時間が持てたわけで、今は本当に夢みたい。 「何か嬉しいことでもあったのかしら?」 あ、また顔に出ていたようだ……今日はいくら何でもちょっと顔に出すぎてるかも。まあ、この話は恥ずかしい話でもないし正直に話すことにした。 「そうなの? なら、あの時の子が祐巳さんなのではなく、あの時の子だから今ここにいるのね」 「そういうことになりますね」 〜7〜 祐巳ちゃんが一人でも来てるかどうか、少し心配しながら薔薇の館に入ると、上から祥子と祐巳ちゃんの楽しそうな話し声が聞こえてきた。ちゃんと来ていたようだ。 今回のことは祥子にとってはかなり不快だっただろうに、それが今みたいに楽しそうに話せるようになったのなら万々歳だ。 「あーえらいえらい、ちゃんと来てくれたんだ」 入るなり祐巳ちゃんの頭をなでなでってすると、祐巳ちゃんは私そこまで子供じゃありませんよーとでも言いたいのか、軽く手をばたばたさせて抗議してきた。でも、嫌がってはいないっていうのもわかってしまうから放してあげない。 「祐巳さんがいなかったら、どうされるおつもりだったんですか?」 「うーん、ショック。ショックで寝込んじゃうかも」 といった冗談のやり取りをするのは良いとして、思っていた以上に遅く来たはずなのに二人以外誰もいないのはどうしてか祥子に聞いてみる。 「で、祥子みんなは?」 「お姉さまはクラスの用事で遅れています。由乃ちゃんは体調を崩して欠席です。黄薔薇さまの理由は存じません」 「そっか」 「白薔薇さまは何になさいます?」 二人は紅茶を飲んでいたみたいだし、私も同じ紅茶で良いかな。そう伝えるとすぐに祥子が用意を始めた。 祐巳ちゃんを解放して、席について紅茶が入るのを待つことにしようとして机の上に一枚写真が置かれているのに気づいた。祥子と祐巳ちゃんの写真か。 「その写真見て良い?」 「あ、はい」 手に取って、驚いた。 二人がこんなに親しかったとは全然思いもしなかった。さっき楽しそうに話してたのも元々知り合いだったからだったのか。しかし、祥子がわざわざタイを結び直してあげるなんて、よっぽど…… 写真の二人の雰囲気は、単なる親しい先輩後輩というよりは『姉妹』のように…… ばかばかしい。祥子の妹は志摩子であって、祐巳ちゃんではない。いくら親しくてもそこまであるはずがない。たぶん何かあったのだろう。 そういえば、なんでこんなシーンの写真があるのだろう? いくら何でもわざわざ写真に収めるためにこんな事をするなんて考えられないし……ふとカメラちゃんが二人をカメラに収めているシーンが思い浮かんだ。納得、まさに決定的瞬間を撮ったって感じか。 しっかしよく撮れてるなぁ、写真部のエースは伊達じゃない……自他共に認めるの他に私も加わったようだ。 「お待たせしました」 祥子に一言お礼を言って紅茶を受け取る。 「これ、良く撮れてるね。カメラちゃんが撮ったんだよね?」 「はい。学園祭で展示するそうです」 「そっか、うん。それだけの写真だよ」 「蔦子さんに伝えておきますね。きっと喜ぶと思います」 「これ、ありがとね」 祐巳ちゃんに写真を返す。 「それにしても、祥子が人のタイを直してあげるなんてね。この日、雨降ったんじゃない?」 「それは、どうとればよろしいのでしょう?」 「意外だったからね。祥子だったら、だらしない子のお姉さまも呼び出して二人まとめて説教とかの方が似合ってるんだけどなぁ」 冗談で言ったのにどうしてそこで固まる? 祐巳ちゃんも固まってるし……まさかズバリやってたの? 祥子は、少し気まずそうに「御存知でしたか……」と認めた。何か不機嫌になるようなことがあったのだろうけど、本当にしていたとは……説教されてしまった子が可哀想だ。 そこで途切れてしまった会話が再開する前に階段が軋む音が聞こえてきた……蓉子と江利子が揃ってやってきたようだ。ややあって二人が扉を開けて入ってくる。 「あら、志摩子はまだなのね」 「はい、お姉さまと黄薔薇さまは何になさいます?」 「祥子が用意してくれるのね。そうね……みんなと同じで良いわ」 「私も」 「わかりました」 祥子がさっと立ち上がって紅茶の準備を始めた。 「ああそういえば、劇の配役、祥子がシンデレラで確定したけれど良かったわよね?」 「ええ、主役を任されたからには、必ず成功させます」 ふと横の祐巳ちゃんを見たら、紅茶の準備をしている祥子の方に視線を向けながら、何かを想像していた。 何を想像していたのか気になって観察していると、他のことに気づいた。祐巳ちゃんの祥子を見る目が輝いていたのだ。私と志摩子は別にして、誰に対しても憧れを伴った目をしていたのだけれど、祥子へ向ける目は特別だった。そして、それは祥子のファンが祥子に向けている目そのものだった。 (祐巳ちゃんって、祥子のファンだったんだ) それもただのファンじゃない。理由があったにしても、祥子がタイを直してあげるほど親しい二人。 ……私、とんでもないことしちゃった。 祐巳ちゃんと祥子の関係に気づいてから、どうするべきなのかずっと考えていた。今日は令と由乃ちゃんもいないし、私がそんなだったからだろう、蓉子が途中で会議を切り上げてくれたので早くに解散になった。 そんな中でも何とか出すことができた答えを行動に移すために、解散になってから祐巳ちゃんと一緒に帰るのではなく、別の場所へ向かった。 「白薔薇さま、どこへ行くんですか?」 「人があんまり来ないとこ、あそこ」 何か話をするのに良い場所というのもあると思う。やってきたのは、あの温室。 ……よかった、誰もいなかった。これで祐巳ちゃんに話せる。 「祐巳ちゃん」 ちゃん付けで呼ぶと今までずっと呼び捨てにしていたのに、どうして突然そんな風に呼ぶのかって疑問が祐巳ちゃんの顔に出た。 「祥子のこと好きだったんだね」 私の確認に少しあたふたする……それは認めているようなもの。しばらくして素直にはいって認めた。 「だよね。私の話、聞いてくれるかな?」 今の空気からそれが軽い話でないのが祐巳ちゃんにも分かったのだろう。ちょっと考えた後「どんな話ですか?」って聞き返してきた。 「前に志摩子とは色々とあったって言ったよね。それと、それよりも前の話。長い話になるけど、いい?」 志摩子への想いを語るには栞のことを話さないわけにはいかない……祐巳ちゃんが良いと言ってくれたから、私の想いを順番にゆっくりと語り始めた。 栞との出会いから別れまでのこと。 その後、お姉さまや蓉子が私を支えてくれたこと。 春、志摩子とあの桜の木の下で出会ってからのこと。 今までにあったことを、その時の想いと一緒に一つ一つ正直に語った。 それは哀しい話だったから、祐巳ちゃんは涙ぐんできて、ついに涙を流し始めてしまった。 「栞は天使だったから私なんかには捕まえておくことはできなかった。だけど志摩子は違う。志摩子は人間だから私にだって……そう思ってた」 志摩子は自分の確かな居場所が欲しかった。私はそれを与えられるのに与えようとしなかった。その結果がこれだ。 「でも、私は志摩子を捕まえていなかった。ただ傍にいただけだった。捕まえようとしていなかった。志摩子も捕まえてもらうことを望んでいたのにね。だから、祥子に捕まえられちゃった」 こうして語って改めて思うけれど、本当に栞と会ってからいろんなことがあった。そのたびにみんなに迷惑かけ続けてきた。そして祐巳ちゃんにも……今度はそのことを謝らなければならない。 「ごめんね。私が志摩子を放っておいたから、祥子を志摩子に取られちゃったね。その上こんなことにまで巻き込んじゃって」 私の話を聞きながら泣いて、ハンカチで涙を拭うばかりだった祐巳ちゃんは、私が謝ると初めて不思議そうな顔になった。 「あれ? 何のことかわからなかったのかな?」 私の言葉に頷いて、ハンカチでまた涙を拭く。続けて鼻水も拭ってしまった。 「だって、祥子は志摩子だけの特別な存在になっちゃったでしょ? 私がちゃんと志摩子を捕まえておけば、祐巳ちゃんが祥子の妹になっていたはずでしょう?」 「ぐず、そんなこと……」 涙を拭こうとして、さっき鼻水まで拭いちゃったことに気付いたようで、ハンカチを見つめたまま固まってしまった。 どうしてこんな時でもそんなことをしてしまうかなぁ。まあ、それが祐巳ちゃんらしいってことなのかもしれないが、苦笑せずにはいられなかった。 今度は祐巳ちゃんの言葉を聞くために、私のハンカチを貸してあげ祐巳ちゃんの涙が完全に止まるまで待つことにした。 外に目を向けると、会議は早く終わったのに、もう空が紅く染まり始めている。ずいぶん長く話していたものだ。……あの時は、雨だったから夕焼けを見ることはできなかったっけ。 「……そんなことないです」 もう大丈夫かな? 意識を今に戻した。 「だって、本当だったら、私なんかが祥子さまと何か関係を持つなんてできたはずないですから。あの写真だって、本当に偶然だったんですから」 「親しかったのは事実でしょ? そうじゃなきゃあの祥子がタイを直したりなんかするはずないし」 祐巳ちゃんは首を横に振った。 「祥子さまに声を掛けてもらったのは、あの写真の時が初めてなんです」 その言葉をにわかに信じることはできなかった。それが本当だったなら、祥子は知りもしない下級生のタイを直したってことになってしまう。あの祥子が? 「祥子さまは、あの日は決戦だったから、念を入れてタイを結び直してきたって言っていました」 顔に出てしまっていた私の疑問に答えてくれた。 その決戦って何なのか聞いたけれど、祐巳ちゃんはなかなか答えてくれなかった。 それで、しばらく祐巳ちゃんの目をじっと見つめていると、根負けして一つため息をついてから答えてくれた。 「その……祥子さまが志摩子さんにロザリオを渡した日の朝なんです」 (え?) 「そうじゃなかったら、名前も顔も知りもしない、ただの一年生の私が祥子さまにタイを直してもらうなんてことはないと思います」 あの日のことだったの? それはかなり驚くべきことだった。でも、祐巳ちゃんの話にはまだ続きがありそうだったから言葉を挟まずにそのまま聞くことにした。 「それで、あの写真のことで祥子さまに会いに行こうとしているときに、白薔薇さまからロザリオを渡されたんです」 すべてつながっていたんだ。 運命なんて信じていない……いないのに、どうしてこう私の周りには思わせぶりな出来事が多いのだろう? 「妹体験。最初はとまどっちゃいましたけれど、そのおかげで、祥子さまとちゃんとお話しできるようになって、今日なんか二人っきりでお話しできたわけですし、むしろお礼を言いたいぐらいです」 クラスメイトに質問攻めにされてしまったり、新聞部に追いかけられそうになったり、劇に半ば無理矢理参加させられることになったりしたというのに……祐巳ちゃんにとって祥子はそこまでの存在であり、そして遠い存在だったのだ。 「それに、白薔薇さまと一緒にいると楽しいですし……今は妹体験を持ちかけてくれた白薔薇さまに感謝しています」 祐巳ちゃんからしてみれば巻き込まれてしまった話だというのに、祐巳ちゃんにとってはそれでも良い出来事になっていたのか。 それに私と一緒にいて楽しいって思ってくれていたなんて…… 私も姉体験ができて良かったのかもしれない。本当に姉として振る舞えていたのかなんかは全然わからない……いや、できていたとは思えないけれど、祐巳ちゃんみたいな子と知り合えて一緒に過ごせたことは、良かったことだと思う。 もしあの時ロザリオを渡したのが祐巳ちゃんでなかったら、いったいどうなっていたのだろう? 妹体験を訴えたのが祐巳ちゃんでなかったら? ……本当に祐巳ちゃんで良かったと思う。 「私の方こそ、ありがとう」 とお礼を言って祐巳ちゃんの頭を撫でる。 (三度目の失敗……か) 祐巳ちゃんの頭を撫でていたら、ふと江利子に言われた言葉が脳裏をよぎった。 一度目の失敗……栞とはあまりに近付きすぎた。栞しか見ていなかった。栞以外は何も見えなくなってしまっていた。だからこそお姉さまに一歩引くように言われた。 二度目の失敗……志摩子とは距離を置いたままもう一歩を踏み出せなかった。私は志摩子と近付く事に酷く怯えていたのかもしれない。私と酷く似ている志摩子に…… 江利子が言った曖昧な関係とは、本来は志摩子との関係のこと……それが、今は祐巳ちゃんとの関係のことになってしまった。 ここに来たのは、これ以上このままの関係を続けてはいけないと思っていたから……でも、曖昧な関係の終わらせ方はもう一つある。志摩子とは結局できなかったし、もうできない。でも祐巳ちゃんとなら…… 私は近い方と遠い方両方を経験してしまったから、今ならその間の距離がわかると思う。それに祐巳ちゃんは天使でも、私に似た人間でもない。だから、祐巳ちゃんとなら上手くやっていける気がする。 祐巳ちゃんは私といて楽しいと言ってくれたし、何より白薔薇のつぼみという祥子と並ぶことができる立場を手に入れることができるのだ。損得で考えるような子じゃないけれど、それでも負担を強いるだけ、なんてことは避けられるだろう。 よし。私は今までとうとう踏み出せなかった一歩を踏み出す…… 「今、ロザリオ持ってる?」 「あ、はい」 鞄から取り出した巾着袋にはちゃんとロザリオが入っていた。 「ホントはね、これを返してもらおうって思ってたんだ。だって、祐巳ちゃんには迷惑ばっかりかけちゃって、何にも良いことなんかなかったはずだったからね」 そんなことはないと言おうとした祐巳ちゃんの言葉を遮って続ける。 「うん、そう。そうだったんだってさっき分かった」 そして、一つゆっくりと息をついてから今聞くべきことを聞いた。 「祐巳ちゃん、私の妹になってくれないかな?」 祐巳ちゃんはすぐには私の言った言葉の意味がわからなかったのだろう。目をぱちくりさせただけで、しばらく経ってからその意味を確認してきた。 それに私が頷くと、祐巳ちゃんは少し迷うような素振りを見せた後、ゆっくりと頷いてくれた。 「じゃあこれからは私がお姉さまね」 祐巳ちゃんの首にロザリオをかけようとして……途中でその手を止めた。 このロザリオ……私も何代前からかは知らないくらいずっと前から白薔薇ファミリーの間で受け継がれてきた。いずれ白薔薇さまになる者に渡されるもの。それだけの重みがあるロザリオ。 でも、今渡そうとしているロザリオはそれだけじゃない。栞、志摩子、二人への私の想い……私が犯してしまった罪の重さも加わっているのだ。……それは、祐巳ちゃんには重すぎるように思う。 「重くなったら、いつでも外して良いから」 だから、ちょうど私がそうしていたようにブレスレットのようにロザリオを手首に巻いた。……私とは違っていつでも外せるように。 「ありがとうございます」 こうして私はついに姉になった。曖昧な関係をこれで終わらせることができた。 三度目の正直……ううん、そうしなければならない。絶対に。