〜3〜 まるで夢の中にいるみたい。 ……昨日の朝に始まり今までの私の人生ではあり得なかったようなイベントが、次々とエスカレートしながら襲いかかってきている。度が過ぎてしまったのか、どうにも現実感を持つことができない。でも、持って行くのを忘れてしまった白薔薇さまのロザリオは確かに私が持っているのだから……現実の話なのだ。 先生の声がまるで頭に入ってこなかった授業も終わって掃除の時間になった。授業には全然集中できなかったけれど、掃除くらいはしないと…… 「祐巳さん、ちょっとよろしいかしら?」 ほうきで教室の床を掃いていたら、同じ掃除班の人が声をかけてきた。 「はい、なんですか?」 「昼休み、新聞部が祐巳さんを訪ねて来ていましたけれど、どういうことか教えていただけません?」 あ……そうだ。蔦子さんのおかげで新聞部の突撃取材を回避して薔薇の館に行けたのだけれど、私のところに新聞部が来たのはみんなにわかってしまっていたのだ。あのかわら版の記事との関連だってわかっているかもしれない。 どう答えればいいのか困っていると「祐巳ー」と私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。 私を呼び捨てで呼ぶ人はこのリリアンにいないはずだから、気のせいだろうか? そう思っても気のせいと切り捨ててしまうのはなんなので、声が聞こえてきたような気がした方を振り向くと……白薔薇さまが窓から顔を出して私に向かって手を振っていた。 「祐巳借りて良い?」 さっき私を呼んだのは白薔薇さまだったようだ。ああ、そうだ。昼に姉妹体験をしないかと言われたのだった。お姉さまが妹を呼ぶときは普通呼び捨て……だからか。 山百合会幹部、それも白薔薇さまに言われて断れるような生徒は私のクラスにはもちろんいない。よって……即OK。私は白薔薇さまに貸し出されてしまった。 「あ、あのロサ・ギガ」 「お姉さま」 私の言葉を遮る……私に白薔薇さまを『お姉さま』と呼べと? いや、体験をするならそうかもしれないが、やっぱり恐れ多すぎる。 「え、えっと……」 「お・ね・え・さ・ま」 「……お姉さま……」 「はい、良くできましたー」 白薔薇さまは私の頭をなでなでと撫でてくた。なんだか子供扱いされているみたいで、クラスのみんなの前で恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかった。 「さ、荷物持ってらっしゃい」 「は、はい……」 荷物を取りに自分の席に戻ろうとした時、白薔薇さまをじっと見ている志摩子さんの視線に気付いた。ただ見つめているだけなのに、何かいつもの志摩子さんの目とは違うような気がする。もちろん、他のクラスメイトと違って昼の出来事を知っているわけで、目を白黒させていないけれど…… 「祐巳ー」 「は、はい」 白薔薇さまからせかされたので、志摩子さんのことを置いておいて急いで席に戻った。 そして、鞄を持って教室を出たとたん、わっと騒がしくなった。 ああ……みんな妹体験のことは知らないわけだし、さっきのシーンはどう映っていたのだろうか? それがどうあれ、明日の朝にはみんなから根掘り葉掘り聞かれてしまうことになりそうで気が重い。 「みんなこっち見てるね」 「そ、そうですね」 あんなかわら版が出回っているから、こうして白薔薇さまと一緒に歩いているだけで廊下を行き交う人の視線をことごとく集めてしまう。 「まあ、昨日の今日じゃ仕方ないかな」 このままだと明日にはもっとすごいことになってしまう気がする……そんなことになる前に、ここは! ロザリオを返してこんな大それたことはお断りしよう。そう思いきって、くっと白薔薇さまの方を向くと、白薔薇さまは何かいいことを思いついたとばかりに得意そうな顔をしていた。 「そうだ。今、佐藤聖の妹の体験期間中だけど、いっそ白薔薇さまの妹も一緒に体験する?」 「へ?」 「私は白薔薇さましているから、本当に妹になったときには白薔薇のつぼみにもなっちゃうんだよね」 妹体験って、限定的だったんだ。 「私なんかじゃ、と、とても……」 「そっか、ま、いいや。佐藤聖の妹になっても良いけど、白薔薇さまの妹にはなりたくないってこともあるかもしれないしね。と、いうことでしばらくは薔薇の館のお客さんね」 「で、でも」 「大丈夫、紅薔薇さまには話をつけてあるから」 軽くぽんぽんって私の背中を叩く……それだけで私の反論は封じ込まれてしまった。いくら、相手が白薔薇さまだからって、どうしてここまで自分のことが言えないのか、少し情けなくなってしまった。 「お、御邪魔します……」 二回目に入る薔薇の館は前回以上に緊張する場所だった。 昼休みにはいなかった黄薔薇のつぼみとその妹もいるから、山百合会幹部がここに勢揃いしていることになる。それだけでも私なんかが緊張するには十分すぎるほどなのに……もう正直逃げ出してしまいたいくらい。 「はい」 「あ、ありがとうございます」 黄薔薇のつぼみの妹の島津由乃さんに用意してもらったコーヒーのお礼を言って頭を下げる。でも、緊張してこわばった声になってしまい、くすっと笑われてしまった。 「……少し詳しく話して欲しいんですけど」 昼休みにいなかった黄薔薇のつぼみの支倉令さまが軽く手を挙げて、白薔薇さまに尋ねた。 「祐巳には、この私、佐藤聖の妹を体験してもらうことにしたってことよ」 「あの、令ちゃ……お姉さまはそうなった経緯を聞いてらっしゃるのだと思います」 「ああ、経緯ね。私がぼんやりとしてて祐巳にロザリオ渡しちゃったのよ。で、わざわざ返しに来てくれたんだけど、持ってくるの忘れちゃったのよね。それでせっかくだから、しばらくそのまま預かったままにして私の妹を体験してみないかって持ちかけたのよ」 あ、沈黙。令さまは少し考えて、白薔薇さまの説明を理解して……信じられないと言いたげな表情になった。私だって信じられないんだから当たり前の反応だと思う。 「知ってのとおり私って色々とあるし、妹を体験してみてそれで良かったらってことでね」 「……白薔薇さまはそれで良いのですか?」 「一緒に私も姉の体験をさせてもらうんだから良いでしょ?」 コメントに困った令さまは、視線で紅薔薇さまに答えを求めた。そして紅薔薇さまは一つ息をついて私の方を見てから答えた。 「ええ、一つの方法だと思っているわ」 「そうですか」 紅薔薇さまの答えで令さまは納得したみたい。 「それと、ホントになったときは白薔薇のつぼみになるわけだけど、まずは佐藤聖の妹を体験ってことで、祐巳の気が向くまでは、みんなお客さんとして扱ってね」 いや、私なんかが本当に白薔薇さまの妹、白薔薇のつぼみになるなんてとんでもない話ですってば…… 「それはわかりました。けれど、誰かに祐巳さんのことを聞かれたときはどう説明します?」 「そうね。そのまま体験だって言ってあげれば良いんじゃない?」 祥子さまの質問に白薔薇さまが答えて、それから「あえてこっちから教えてあげる必要もないけどね」って黄薔薇さまの方を見ながら付け加えた。それって黄薔薇さまが一番喋りそうだからなのだろうか? 「わかっているわよ。面白い話は好きだけど、わざわざこちらから提供してあげるほど物好きじゃないわよ」 こういうやりとりを見て、山百合会の中での三薔薇さまの関係が何となくわかってきた気がする。 「顔合わせは上手く行ったね」 薔薇の館の階段を下りているときに白薔薇さまがそう言ってきた。 「そうでしょうか?」 「そうでしょ、最後なんか由乃ちゃんと一緒に笑ってたし」 確かに、この薔薇の館に入ったときのガッチガチの緊張はどこかへと行ってしまっていた。それも、皆さんが私の緊張をほぐそうと積極的に話しかけてきてくれたからだと思う。 「でも……」 「どうしたの?」 一人だけ、志摩子さんはほとんど話に加わってこなかったことに、ずいぶんたってから気づいた。元々教室でもおしゃべりをしているといった雰囲気はなかったのでそんなものかとも思ったけれど、何か違うような気がして気になっていたのだ。 志摩子さんの名前を出すと白薔薇さまは「……志摩子とは色々とあるからね」と答えて薔薇の館の扉を開けた。 薔薇の館を出て、そのいろいろについて聞いてみた。 「志摩子って、祥子の妹になる前から山百合会の仕事を色々と手伝ってたんだけど知らなかった?」 「聞いたことはあります」 「そっか。まあ、その間志摩子とは色々とあったのよ。話すときが来たら全部話すね」 今は話すつもりはないようなので、あきらめて「はい」と答えた。 すごく気が重い登校……新聞部のことを思い出したら、気分はまさにどん底に沈み込んでしまったのだ。 それに、昨日あんな感じで教室を出てきたのだから、きっと私が登校したとたんみんなに囲まれて、質問攻めになってしまうに違いない。休んでしまおうかとも思ったけれど、休んだりしたらますます話を大きくしてしまうだろうから、そうもいかない。 それで、どうしたものかと考えた結果は、昨日とは反対に遅刻ぎりぎりの登校……ぎりぎりに滑り込めば質問攻めにされる時間もないだろうし、新聞部だって授業があるんだから、人のクラスにいるわけにはいかないはず。 「ごきげんよう」 「え? あ、ごきげんよう」 昇降口の前で声をかけられて驚いた。しかも、その相手はなんと志摩子さんだったのだ。こんなぎりぎりの時間に昇降口でなんて、まさか、私を待っていたのだろうか? ……そう思ったけれど、志摩子さんは一声かけてきただけでさっさと教室に向かって行ってしまったから、たまたまだったのかな? 鈴が鳴り響き始める。拙い! 本当に遅刻してしまったら目も当てられない。 教室に入ると一斉に教室中の視線が私に集まってきた。こんなことはもちろん初めてで、クラスメイトが私を見る目が怖い。時間が時間だからみんな席についたままで取り囲まれたりはしないけれど、聞きたいこと山盛りなのは手にとるようにわかる。 昨日の志摩子さんみたいに、これを軽く流すなんてことは私にはとてもできない…… 「祐巳さんごきげんよう」 「あ、ごきげんよう」 「はい、これ」 桂さんからメモと小さく折り畳まれたリリアンかわら版を渡された。そして、放送朝拝の学園長先生の話を左から右に聞き流しながらメモを見ると、メモには、朝新聞部が来ていたけど予鈴の少し前に帰っていったって書いてあった。次にかわら版を机の陰に隠しながら読む……朝拝の途中なのに思わず声を上げそうになってしまった。 なんと昨日の薔薇の館でのやり取りが載っていたのだ。しかも載り方が……大事なことがぼかされてしまっている。これじゃみんな色々と勝手なことを想像してしまう。 (私どうなっちゃうんだろう……) 休み時間になったらすぐに逃げ出すつもりでいたけれど、そんなことは許されないかもしれない……また涙が出てきそう。 休み時間になって先生が教室を出て行ったとたん、一斉にクラス中の視線が私に集中してきた。そして、みんなが立ち上がって、私を取り囲む環が作られてしまうまでは本当に一瞬の出来事だった。 (な、なに!?) 「ごきげんよう」 「朝、時間がなかったのでお聞きできなかったのですが、みんな祐巳さんのお噂をしていましたのよ」 「ね、この際だからはっきりと教えて頂けないかしら?」 「かわら版のこと、本当?」 「妹体験って、どうしてそんな風になったのか教えて頂けません?」 「白薔薇さまってお姉さまとしてどう?」 「白薔薇さまの妹ってことは白薔薇のつぼみよね。ゆくゆくは白薔薇さまになられるのかしら?」 堰を切ったように一気に色々言われて誰が何を言っているのかさっぱりわからない。 「え、えっと……」 答えに困って口ごもっているとじりじりと私を取り囲んでいる環が縮まってきた。しかも、質問が次から次へと飛び出してきて、もうどんな質問が出たのかすらほとんどわからなくなってしまった。 (え、えっと、こういうときはどうすれば良いんだろう) 確か志摩子さんはにっこりと笑ってやり過ごしていたけど、私にはとても無理だ。 「祐巳さん、お答えになって」 そ、そう言われてもいったい何をどうやって答えたらいいのやら…… 「どうなさったの?」 「私たち、是非教えて頂きたいのよ」 質問について考える余裕さえ許してくれないらしい。次々に飛んでくる言葉の矢に、頭の中が白くなってきてしまった。そもそも、何を聞かれていたんだっけ? 「え、えっと……」 私が答えないのがもどかしくなってきたのか、勢いが激しくなってきた。もう何を言っているのかもわからない。……いったいどうすればいいの? 「ひょっとして、何か答えられないような事情でも?」 「ここだけの話ということで、話して頂けないかしら?」 「いったい何があったのかしら?」 みんな私を置いてきぼりにして勝手に妄想を膨らましていっている。勝手な答えを導いてそれについての質問をしてくるんだから、もうどうしようもない。 マリア様、どうして私がこんな目に会わなくちゃいけないんでしょうか? 「ちょっと待った」 環の中に蔦子さんが飛び込んできてくれた。 「そんなに大勢で取り囲むなんて知らない人が見たら虐めにしか見えないですわよ」 今度は桂さん。二人が中に割り込んできてくれたとたん怒濤の質問が止まった。二人が助けてくれたんだ…… 「別に私たちは、そんなつもりじゃ……」 助けてもらえたことがホントに嬉しい。私の危機に舞い降り助けに来てくれた二人の天使……あ、あんまりにも嬉しくて涙が出てきちゃった。 「ま、まあ、どうしましょう。ごめんなさい。私たち泣かせるつもりで聞いたんじゃないのよ。もう良いわ。言いたくないのだったらそれで」 涙の意味を勘違いされたわけだけど、やぶ蛇は嫌だからそのままにしておく。 私を取り囲んでいた環が開けていく……その時、ふと志摩子さんの姿が目に入った。志摩子さんは自分の席からこちらを見ていた。でも、どんな表情をしているのかは涙のせいでわからなかった。 そして、ハンカチで涙を拭った時にはもうこっちを見ていなかった。 〜4〜 お昼休み、祐巳ちゃんの様子を見に行くために一年生の教室に向かった。 祐巳ちゃんがクラスメイトに囲まれて質問攻めになっていたあのとき、ドアを少しだけ開けて中の様子をうかがっていた。 私が出て行くと変に話が大きくなるかもしれなかったけれど、それでもさすがに放っておけなくなって乗り込もうとしたまさにその時、二人が祐巳ちゃんを助けてくれた。 (友達ってありがたいもんだね) 祐巳ちゃんホントに感激してたな……と、ちょうどその友達と一緒に祐巳ちゃんがこっちに歩いてくるのを見つけた。そして、その後ろに志摩子の姿も…… ……あのとき志摩子は『こんな所かしら』といった感じの顔をしていた。新聞部に情報を流したのは志摩子に違いない。ほかに候補はいないし、何よりあの顔が物語っていた。ああなるとわかってのことだったのだから、なかなか陰険なことをするものだと思う。 そんなことを考えていたら、胸の中で何かがうずいてきた。 「祐巳ー!」 こちらに気づいた様子がまるでない祐巳ちゃんを廊下の端でやり過ごして、後ろから祐巳ちゃんの名前を呼びながら飛びついてぎゅって抱きしめた。 そしたら「ぎゃう!」なんて怪獣の子供が鳴くような声を出したものだから、こっちが少しびっくりしてしまった。 「ぎゃう! はないんじゃない? リリアンの生徒だったら、せめてきゃっ位にしときなさいよ」 どうやら自分でも思っていたらしく、少しうつむいて恥ずかしそうにしている。 「で、でも、ロサ・ギガ」 「お姉さま」 志摩子の前だから訂正させた。 「お、おねえ、さま……その、い、いきなり飛びつくなんて」 「あー、ごめんごめん。祐巳があんまりにも可愛かったから思わずやっちゃったのよ」 あの声にはびっくりしたわけだが、かわいかったのも事実だからそういうことにしておこう。そんな無茶な理由に何か言いたげだったけれど、言っても無駄だと悟ったようであきらめのため息を一つついた。 「祐巳はお昼お弁当?」 「あ、えっと、はい」 三人揃ってお弁当か……姉妹ならお弁当を一緒になんてこともよくあることだろう。 「ちぇっ、じゃあ私も明日からお弁当にするね。二人は私も一緒になっても良いかな?」 「あ、は、はい、それはもちろん」 「もちろんですわ」 一人は戸惑い緊張しながら、で、カメラちゃんの方は待ってましたとばかりにうれしそうに答えてきた。これは単にお弁当を一緒にという以上に何かありそうだな。 ともかくここで話は終わったので「じゃ、またねぇ」と手を振りながら三人の前から去ることにした。終始様子を見ていた志摩子に目を向けると……やはり不満そうにこっちを鋭い目で見ていた。 …… …… 一年生の教室の前の廊下から足を向けたのは屋上に続く階段、そして屋上に出てさらに給水塔の上に上がって腰をかけた。ここなら一人の世界に入ることができる。 こんなところを蓉子が見たら、白薔薇さまがなんてことをしているの! って言うだろうな。でも、さっきのを見られていたとしたら、そんなものじゃすまないだろう。 朝、やはり蓉子も祐巳ちゃんの様子を見に来た。自分がしたことでもないのに様子を見に来る蓉子、それに比べて私は…… 「何やってんだろ……」 さっきなんか祐巳ちゃんの様子が心配でそれを見に行くつもりだけだったのに、志摩子を見たら体が勝手に動き出していた。志摩子の目があると冷静に動けない……そう考えるとあの時飛び込まなかったのは正解だったかもしれない。 『これがあなたの選んだ道よ?』 あのとき新聞部に手は打ったけれど志摩子のことが……と言った私に蓉子が言った言葉がよみがえる。 (どんどん駄目になっていくな) わかっていても自分で止めることができない。……蓉子が私を軽蔑するようになるのも近いのかもしれない。 ふと銀杏並木道を志摩子が歩いているのを見つけた。 結局お昼を食べる気にはなれなくて、銀杏の木の下に座ってお弁当を広げている志摩子をずっと見ていただけだった。 「そういうわけで、お願いできないかしら?」 「そう、言われましても……」 祐巳ちゃんが答えに困っているのは、蓉子が学園祭の劇に出演要請をしたこと。 目下最大の課題の学園祭の劇についての話が出てきたところで、蓉子がちょうど私が連れてきていた祐巳ちゃんに目をつけたというわけだ。 お客様に何を言っているのかとは思うけれど、実際のところお客様にも手を貸してもらわなくてはならないほど人手が足りてないのが何より大きな問題。 大きな原因は私……三薔薇の中で唯一妹がいないのだ。紅薔薇と黄薔薇は三人揃っているのに、白薔薇は私だけ……志摩子を白薔薇のつぼみにしていれば、紅薔薇と白薔薇が二人ずつで、責任は等分だったんだけどな。 「お姉さま、せっかく来ていただいているお客様に仕事を頼むのは失礼ではありません?」 「実際問題人手不足なのは事実でしょ。それに、私たちは代表というだけであって、全生徒で山百合会を支えるのが本来の姿じゃない?」 「そうですね」 祥子が助け船を出してくれたことで表情がパッと明るくなったのが、すぐに引っ込めてしまったからあっさりと元の劇になんか絶対に出たくないというのがありありと伝わってくる顔に戻ってしまった。 祐巳ちゃんはずいぶん表情に出る子のようで、何を考えているのか簡単にわかってしまう。志摩子とはずいぶん反対な人間だと思う。 「でも、確かに来てすぐにというのは失礼だったわね。祐巳ちゃんごめんなさい。今日のところは良いわ」 そして蓉子が引いたことで本当にほっとしたって表情に……くるくる表情が変わっておもしろいかもしれない。 「百面相」 一緒に帰ることにして、銀杏の並木道を歩いているときに今日祐巳ちゃんを見ていて思った言葉を言うと、祐巳ちゃんは何のことを言われたのかわからなくてきょとんとした顔を見せてくれた。これでまた一つ表情のパターンが増えたな。 「祐巳って百面相だね。うん、面白くてよろしい」 軽く頭を撫でてあげる。で、その祐巳ちゃんは、何のことを言われたのか気づいたようで不満そうな顔をしてるけれど、頭を撫でられることの方については恥ずかしくても嫌がってるわけじゃない。ホント分かりやすい。 そして、祐巳ちゃんの頭を撫でるのをやめて歩き始めてすぐ、ちょっと強めの風が吹いてなにかの紙が飛んできてちょうど私の足元に落ちた。 (なんだろ?) 拾って見てみると、リリアンかわら版だった。リリアン生が外でポイ捨てってこともないだろうし、誰かが風に盗られてしまったのだろう。 「あ、リリアンかわら版」 「うん。そうだね」 見た覚えがないものだったから、内容に軽く目を通してみる。 朝、私が新聞部に答えてあげたインタビューの記事が含まれていた。だから、志摩子の悪意ある中途半端な情報を元にした朝の号外とは違って妄想記事や変に曖昧な所はない。 「読む?」 「あ、はい」 祐巳ちゃんに渡してあげる。 「あ、これ、白薔薇さまが」 軽く「まね」と言ったのだけれど、祐巳ちゃんはぺこりって頭を下げて「ありがとうございました」とお礼を言ってきた。 表情に出やすい祐巳ちゃんだからこそ、本当に感謝をしているってことが分かった。私にとってはそのくらいはしなければいけないだろう程度のものでも、祐巳ちゃんにとっては違ったらしい。 祐巳ちゃんは本当に人が良いのかもしれない。今日だけでも教室での一件や蓉子からの出演要請とか、迷惑千万な目に遭っているのだから、ホントだったら愚痴の一つくらい言っても良いくらいなのに。 そう思っても私から言い出すわけにもいかないし、「良い子だね」と言って祐巳ちゃんの頭を撫でてあげることにした。 祐巳ちゃんがこんな子だからこそ私は何も言われないわけだけれど、そんな良い子を巻き込んでしまったのは罪深いことかもしれない。そして、祐巳ちゃんはこれからもいっそう巻き込んでいってしまう…… 「どうかしました?」 頭を撫でながら突然深刻な表情で考え込み始めてしまった私に心配そうに声をかけてくれた。ごまかして話を変えつつ、そんな祐巳ちゃんにせめてものお詫びをすることにした。 「帰りどっかの店に寄っていこうか?」 「へ?」 「祐巳ちゃん甘党でしょ、ケーキとか好きじゃない?」 突然そんな話をされたのに驚き、そしてズバリ当てられたことについてもまたびっくり。コーヒーや紅茶に入れる砂糖の量からそうじゃないかと思っていたとおりだったようだ。 「じゃ、そういうことで決定。よし、ここは一つおごってあげよう」 「え? そんないいって、ちょ、ちょっと待って下さい!」 さっさと歩き出した私をあわてて追いかけてくる。さて、甘いものをおごるとしてもどこへ行こうか? ……前に江利子が食べてたあの大きいパフェなんかが良いかな。 「お待たせしましたー!」 デンと祐巳ちゃんの前に置かれた大きなパフェ……アイスクリームにイチゴ、バナナ、チョコレート、マンゴー、メロン、キウイ、パイナップル。そしててんこ盛りの生クリーム。うむ、やはりかなりのボリュームだ。 「……本当に、良いんですか?」 「良いって言ってるでしょ」 だいぶ気が引けているのは、私のおごりでという他に、私の目の前にあるのはコーヒーと普通のショートケーキだということもあるかもしれないな……よし。 「祐巳が良い子だからそのご褒美なんだから」 「私が良い子だなんて……」 「私がそう思ったんだから良いのよ。でも、そうだね、おいしそうだし少しちょうだいね」 「は、はい! それはもちろん!」 と言って、これでおごってもらうことを受け入れてしまったと気づいたみたいで、今の祐巳ちゃんの顔はあうぅとか言いそうな感じだ。 しばらく迷った後、観念してパフェにスプーンを差し入れて生クリームとパイナップルをすくって口に運んだとたんうれしそうな顔に変わった。 「おいしい!」 「そりゃよかった」 うん、この祐巳ちゃんの顔を見ているだけでも十分におもしろいな。 お詫びのつもりだったのだのに、私も楽しんでしまった気がする……祐巳ちゃんが喜んでくれたのは間違いないし、まあいいか。 〜5〜 あの次の日から続けている三人と一緒のお弁当。今日もそうしようと、お弁当を手に祐巳ちゃんのクラスにやってくると、丁度教室から出て来た……逃げ出そうとしていた志摩子と出くわしてしまった。 無言で向き合う。 当然今日も志摩子はロザリオを首からかけている。私のではなく祥子のロザリオを…… 沈黙を破ったのは私の方だった。 「ごきげんよう。紅薔薇のつぼみの妹」 「ごきげんよう。白薔薇さま」 私の嫌味・皮肉に対する志摩子の言葉も同じ……どっちも自分自身への皮肉の言葉にもなるものだった。私達の間で交わされた言葉はその一言ずつだけ。 志摩子が立ち去った後、そのまま祐巳ちゃんに会う気にはなれなかった。だから特に意味もなく校舎を一回りして来ることにした。 放課後、またお昼に誘った祐巳ちゃんと一緒に薔薇の館にやってきた。 しばらくしても祥子の姿が見えないから、どうしたのか聞いてみると家の用事で帰ったのだという。だとすると、今日はあの話を進めておくチャンスだろうか? 「黄薔薇さまは?」 もう一人姿が見えない人間について令に聞いてみたけれど、こちらは特に聞いていないとのこと。何か用事ができて遅れているって感じかなと思っていると、江利子が階段を上る音が聞こえてきた。 「ごきげんよう。遅れてごめんなさいね。……あら? 祥子はまだなの?」 「祥子なら家の用事で帰ったわ」 「あら、それはちょうどいいわね」 「ええ。せっかくだから、今日は残りの配役も決めてしまいましょう」 「そうね」 私たちの間で飛び交っている話がわからないのだろう、祐巳ちゃんが「配役ってなんですか?」と聞いてきた。 「前に、学園祭の劇について出て欲しいって言ったでしょう。それよ」 「シンデレラでしたっけ?」 「そう。丁度祥子もいないしね」 なぜせっかくだったり丁度だったりするのかわからないって顔をしている。きっとこれが漫画だったなら頭の上には大きなはてなマークが浮かんでいることだろう。 「祐巳ちゃんはどうする?」 早速祐巳ちゃんに再度の勧誘をかける蓉子。蓉子がしつこいのは知っているけれど、ついこの前でとはなかなか気が早い。 「え? ど、どうするって言われましても…」 「今なら特別に好きな役を選べるわよ」 配役が書かれた一覧表を祐巳ちゃんの前に置いて、どれでもどうぞと勧めてから、一つ思い出したように「あ、シンデレラと王子様は駄目だけれどね」と付け加えた。 配役表とにらめっこしながら困っている祐巳ちゃんの顔を見ていたら、そのままにしておけなくて口を出すことにした。 「何?」 「紅薔薇さまが言ってることはそのとおりだと思う。でも、祐巳ちゃんって劇とか苦手そうだし、あんまり無理強いするのは良くないとも思う」 まあ、半分以上言い負けそうだと思っていても放置することはできなかった。蓉子からどう反論が飛んでくるかと身構えていたら、意外な方向から「白薔薇さま」と声がかかった。 (志摩子?) 「もし、祐巳さんが正式に白薔薇のつぼみになったとしたら当然参加しなければいけません。そのことを考えるのなら、苦手ならなおさら練習量を稼ぐべきではないでしょうか?」 志摩子の言ったことは正論だった。私の妹になるということは白薔薇のつぼみになるということ。そうなったら参加しないわけにはいかなくなる。 「でも、そういう理由での参加だと祐巳ちゃんが未確定な以上、誰かが同じ役の練習をすることになるんじゃない?」 令が疑問を口にすると、また今度は別の方向から答えが返ってきた。 「人手不足の責任は白薔薇ファミリーが大きいのだから、白薔薇ファミリーにその責任をとってもらえばいい。祐巳ちゃんが一員になるのならその責任を分かち合うべきだし、だめなら白薔薇さま一人でとってもらえばいい。違うかしら?」 まあ、そうなんだけど……江利子楽しそうだな。 相手が正論だけにここは反論することもできないし、さっさと降参して祐巳ちゃんに目で謝ることにした。 とはいえ、たぶん志摩子は正論を言いたかったわけじゃない。蓉子の方に目を向けると、視線があって……同じことを考えていたのだろうことがわかった 志摩子の言葉は正論だし、蓉子もさっきまで自分がやってきたことを否定するわけもいかず、こほんと軽く咳払いをしてから、祐巳ちゃんに「それで、どの役にする?」と話の続きを始めた。 もうどうにもならないことがわかったのか、祐巳ちゃんはあきらめ顔になってしまった。 「今決めておいた方が良いわよ。今なら楽な役だって選べるんだから。私のお薦めは義母役かなぁ、祐巳ちゃんが祥子をいびるなんて楽しそうじゃない」 江利子の言葉に今度はなにか想像し始めたのか、焦点がどっかに行ってしまった。そしてなにやらうっとりしたような……何を考えているのだろうか? さすがに想像がつかない。 「おーい、祐巳ちゃん人の話聞いてる?」 「はへ? あ、す、すみません!」 「それで、どの役にする?」 その後色々と悩んだ結果、祐巳ちゃんの配役は姉Bに決まった。 今日は祐巳ちゃんを先に帰らせて、私達三人だけが残った。 「志摩子が言ったこと、どう思う?」 目があったときにたぶん同じことを考えていたとわかったけれど、改めて確認。 「聖と同じでしょうね」 「……そっか」 新聞部へのリークも含めて志摩子の行動は、私が志摩子の前でやってしまうのと同じ……見事なまでの悪循環。そうわかっていても、抜け出す道はまるで見えない。深みにはまって行く道しかないような気がしてしまう。 「でも、これで期限の目安ができたわね」 江利子の言葉で気づかされた……今日のことで絶対的なものではなくても期限付きになったのだ。 「このまま中途半端な関係を続けるよりは良いんじゃないかしら? ねぇ」 志摩子と中途半端な関係のままだったからこそ、こんなことになったのだから……そのとおりかもしれない。 「でも、あんまり自信ないな」 「そんな弱気になってどうするの? 正直、今の祐巳ちゃんの中途半端度は志摩子の時以上よ。お客様で仮の白薔薇のつぼみなんてね」 やっぱりどこか楽しんでいる様子なのが気になるけれど、何も言い返せない。 「……もし、期限までそのままだった場合でも、祐巳ちゃんを白薔薇のつぼみとして扱う人は増えるでしょうね」 劇に出た場合、白薔薇のつぼみとして出たとみんなにとられる。だから祐巳ちゃんは白薔薇のつぼみとして扱われるようになってしまうのか。 「佐藤聖の妹としてじゃなくてもか」 「ええ、そうなるでしょうね」 蓉子の顔は江利子とは対照的にどこかつらそうに見える。蓉子にしてみれば、祥子と私の間で板挟みになってるわけだし本当にすまないと思う。 「あの子、向いてるようには見えないな」 祐巳ちゃんが白薔薇のつぼみ……私みたいなのが言うのもなんだけれど、ここのところ見てきた姿からすると白薔薇さまをつとめるのはかなり難しい気がする。 「別にそれはそれでかまわないでしょ? 決めるのは私たちじゃないのだし」 薔薇さまを最終的に決めるのは本人とリリアン高等部のみんなだから……か。 「……紅薔薇さまの目から見て、次期白薔薇にはどう思う?」 「……何とも言えないわね。でも私の経験上、来年は祥子、再来年は志摩子という二人がいれば、それほど大きな問題にはならないかもしれないわね。むしろ、一般の生徒にとって親しみやすくなって良いかもしれない」 さらっときついことを混ぜてくるあたり蓉子らしいが、実際そのとおりかもしれない。 「でも、そんなことを今考える必要はないわよ。重要なのは白薔薇のつぼみではなくて佐藤聖の妹なのだから」 「私の妹か……」 私のつぶやきに江利子がさらに核心を突く言葉をぶつけてきた。 「曖昧な関係を続けていって、三度目の失敗をするようなことだけはしないでね」 三度目の失敗……栞、志摩子、そして祐巳ちゃんか。 私は二度目の失敗を引きずっている……いや引きずっているなんてものじゃない。志摩子の前で暴走するのを抑えられる自信なんてない。私はまだまだ志摩子のことを諦められていないから…… もし私の妹ができれば……祐巳ちゃんを妹にできれば、志摩子のことを諦められるんだろうか? 妹にするということは、私が姉になるということ……こんな私でも姉になれるのだろうか?