〜1〜 あの出来事はたとえるとしたら何がふさわしいだろうか? えっと……私の貧困な頭の中の辞典にはうまい例が見つからない。 「祐巳さん、大丈夫?」 「ねえ、蔦子さん。たとえるとしたら何が良いかな?」 「……祐巳さん、気持ちはわかるけど落ち着いて」 「え?」 両肩に手を置かれ、じっと見つめられていることに気づいた。 「あ、私、混乱してた?」 「少しね」 「ごめんね、ありがとう」 「気にしなさんな。それより今後のことを考えなきゃね」 そうだ、これからのことを考えないと。ぼんやりしている暇はない。 あの後どこをどう走ったかよく覚えていないけれど、人目につかないところまで逃げてきたのだった。 そして、そんなことをしなければいけなくなった原因をポケットから慎重に取り出す。私なんかが持つなんて恐れ多すぎて、手が少し震えていた。 見かけは年季がかっているこのロザリオ。そんな感じのロザリオ自体は見慣れたものだ。しかし、その持ち主があまりにも…… 「白薔薇さま、上の空だったわね」 「上の空?」 「ええ、さっきの祐巳さん以上だったかも」 「……かえすがえすも失礼いたしました」 「だから気にしなくていいってば」 突然のことで白薔薇さまの様子を確認している余裕なんかちっともなかったけど、そうだったのか。普段からシャッターチャンスを逃さない人は慌てていても見るべきものは見ている。さすがである。 「あんな白薔薇さま初めて見たわ。あの方を茫然自失にさせるような、とんでもないことがあったのかもしれないわね」 とんでもないこと……殺人事件とか? ってそんなわけないか。 「祐巳さんって白薔薇さまと知り合いなんかじゃないわよね?」 「も、もちろん……」 私みたいな平々凡々の生徒にあの白薔薇さまと接点なんかひとつたりともあるはずがない。 「だとすると、白薔薇さまが祐巳さんにロザリオを渡すなんてとても考えられない。つまり、何かの間違いって事ね」 「何かって何?」 「白薔薇さまに聞くしかないでしょう? それは……」 わかるようなら苦労はしない……白薔薇さまに事情を聞くのが最優先の目標。よし、とりあえずしなければいけないことはわかった。 「白薔薇さまはあのまま帰ってしまわれたから……祐巳さんも今日のところはもう帰った方が良いわよ、このままいてもし新聞部に捕まったら大変だから」 よく覚えていないけれど、あの場には何人もいた気がする。 何もわからないのに新聞部に問い詰められておびえる私の姿が脳裏によぎってしまった。うう、明日どうしよう…… 「朝早めに来ることね。休み時間は何とかしてあげるから」 「できるの?」 「私を誰だと思っているの?」 と、ちょっと得意そうに。……蔦子さんから思いつくことといえば? 「写真部のエース?」 「そういうことよ」 あっていたようではあるが、それがどう関係しているのかわからない。まあそれでも、新聞部の猛攻を何とかしてくれるというのだからとにかく嬉しい話だ。 「昼休みにでも薔薇の館を訪れるべきね」 「うん……そうする」 蔦子さんはとても頼もしかった。 「で、一つお願いが増えたんだけれど」 「……え?」 そのお願いとは要するに……祥子さまの場合と同じだった。 やっぱり、蔦子さんは本当に抜け目のない人だった。 次の日の朝、蔦子さんに言われたとおりに早い時間に登校した。 まだ人が少ない教室に入って自分の席に座り、あれからいったい何度目になるのだろうか、またため息をついた。その原因であるロザリオは巾着袋に包んで鞄に入っている。 どうしてこんな物を私が持っているようなことになってしまったんだろう? 昨日から何度考えたことかわからない。それでもこれっぽっちもわからなかった。かといって考えずにいることもできず、またしても頭の中をぐるぐると駆けめぐっているうちに、教室には人が増えていき、だんだん騒がしくなってきた。 けれど、今日はいつもと雰囲気が違うのに気づいた。まさか、昨日のことがみんなに広まっているとでもいうのだろうか? もし、そうだったとしたら、どうなってしまうんだろうか、びくびくしながらみんなの様子をうかがっていると、桂さんが登校してきた。 「ごきげんよう、祐巳さん」 「ご、ごきげんよう、桂さん」 「祐巳さん、疲れてる?」 「え? あ、うん。ちょっと、ね」 「かわら版でも読んだけれど、すごいことになっているみたいね」 ああ、かわら版にまでなっているんだ……そりゃそっか。新聞部が動かないわけがない。ここにいるみんなはかわら版で知ったのか。いったいどんな風に書かれているんだろう? 「どんな風に書かれているの?」 「読む? はい」 桂さんが差し出したリリアンかわら版を受け取って、何が書いてあるのか見てみる。一番上にでかでかと『紅薔薇新姉妹誕生!!』って書かれていた。 「そっか、祥子さまに妹ができたんだ……」 私のあこがれの祥子さまの妹。いったいどんな人なんだろう? 祥子さまに妹にしていただけるなんて、なんて光栄な人だろうか。 「そ、そうなんだけどね……」 「あ」 記事に目を走らせるとすぐに志摩子さんの名前が出てきた。そうか、志摩子さんが祥子さまの妹になったんだ。 「そうだよね。志摩子さんだったら祥子さまの妹に相応しいよね」 そうか、みんなの様子が普段と違うのも、このクラスの志摩子さんが、紅薔薇のつぼみの妹になったからだったんだ。なるほど、とりあえずほっと一息。……あれ? 桂さんが額を押えている。 「祐巳さんってある意味すごいわね……。それとも現実逃避? 肝心なのはその下よ」 「下?」 桂さんの指し示すままに首を下にふり絶句。そこには『白薔薇のつぼみ誕生!?』って文字が躍っていた。 そ、そうだった。白薔薇さまからロザリオを受け取るってことは、白薔薇のつぼみになるということで……そうすると、受け取ってしまった私が白薔薇のつぼみ!? そして、白薔薇さまが御卒業される来年は私が白薔薇さま!? ……ひょっとして、宝くじで一等が当たった時ってこんな感じなのだろうか? とても現実離れしたことが起こって、いったいこれからどうすればいいのかまったくわからなくなってしまったみたいな…… (……私ってバカ?) これは絶対に何かの間違いなんだから、昼休みに返しに行くって昨日蔦子さんと話したではないか。何を血迷っているのやら…… 「私はたまたまあの場所にいたから、これが誰なのか知っているけれど、かわら版には誰なのかは書いてないし、ひとまずは安心しても良いんじゃない?」 「そっか……」 桂さんもあの場所にいたんだ……他にどんな人があの時見ていたんだろう? 記事に目を通してみると、色々と推測で話を膨らませて書いているその中に受け取ったのが私だってことがわかるような言葉は何もなかった。 ほっと一つ息を吐く。 落ち着くことができたからだろう。改めてクラスメイトの様子を見てみると、みんな同じようにリリアンかわら版を片手に色々と話をしていたのに気づいた。 「それで、見ていただけじゃわからないことを……知りたいんですけど?」 う……桂さんの目が輝いていて、思わず少し引いてしまった。 まあ、桂さんにそんな風に言われても、私の方こそ白薔薇さまに聞きたいくらいだし話せることなんかほとんどないけれど……一応私にとって昨日何があったのかを話すことにした。 話し終わると、桂さんはなるほどと一つ大きく頷いた。そして「これはチャンスね」なんて言ってきた。 「チャンス?」 「だって、きっかけはともかく、山百合会幹部、しかも白薔薇さまとお近づきになるチャンスじゃない」 お近づきと言われても…… 「……この私が? 白薔薇さまと?」 「……ま、まあ、ひょっとしたらそういうこともあり得るのではないかと」 目もどこか泳いでいるし、何よその答えはと言いたいところだが、実際のところ私はそんなものだ。 同じきっかけでも、祥子さまとだったら良かったのに。 突然教室の空気が変わった。何事かと思ったのだけれど志摩子さんが登校してきたのだった。私と桂さんも含めて教室中の視線が志摩子さんに集まっている。 もちろんいつもどおりの制服なのだから見た目は変わらない。しかし一つ昨日までとは違うのが、首からかけているロザリオの存在……あれが祥子さまから頂いたロザリオ。祥子さまの妹の証。 やっぱり、良いなぁーって思う。もちろん、うらやましがったところでどうにもならないことはわかっていても。 私だったらどん引きしてしまいそうな注目を一身に浴びた志摩子さんは、軽く視線を教室中に向けた後、きれいに微笑みながら「皆さん、ごきげんよう」と言って自分の席に着いた。 私も含めてみんな色々と聞きたいのに聞けない。そんな独特の雰囲気を志摩子さんはまとっていた。 やっぱり、志摩子さんは住んでいる世界が違う気がする。志摩子さんだったら、このロザリオを私のように受け取ってしまってもうろたえなかっただろうに……ああ、またため息。 〜2〜 目が覚めたら時計の針はとっくに遅刻確定の時間を指していた。 どうせ遅刻するなら急いでも仕方ない。私は開き直ってゆっくり学校に向かうことにした。 「あつっ……」 バスを降りると高いお日様の光がちりちりとした。最近涼しくなってきているけれど、まだ昼は少し暑い。 「聖!!」 お日様を見上げてから校門の方に歩き始めると、今こんなところで聞くはずもない声で呼ばれてびっくりした。 「……蓉子?」 校門の真ん中に仁王立ちして私を待ちかまえているのは間違いない、蓉子だ。 時間的には授業中のはず……いったい何の用事で待っていたのかは知らないけど、優等生が服着て歩いているような蓉子がこんなことをするなんて、今日は雨かな? 傘持ってくれば良かったかもしれない。 「何か用? 紅薔薇さま?」 「良いから来なさい!」 ガシッと腕を捕まれて引きずるように引っ張られる。 「ちょ、痛いって!」 「良いから来なさい!!」 蓉子を怒らせたことは数あれど、今回のそれは過去最大級のものだった。 こんな蓉子に何か言うほど私は無謀じゃないから、少々の腕の痛みは我慢して蓉子に従うことにした。 はたして強制連行された先は薔薇の館。 ちらっと見た校舎の中では確かに授業が行われていた。蓉子が授業をほったらかしにして私にお説教? そこまでのこと、何かしたっけ? さすがに心当たりがないんだけど…… 「コレは何!?」 サロンに入るなり何かの紙を突きつけられた。 見るとリリアンかわら版だった。『紅薔薇新姉妹誕生!!』の文字が踊っていた。……そうだった。昨日、志摩子が祥子からロザリオを受け取ったんだった。私にとっては忘れてしまいたかったことのようで、今の今まですっかり忘れていた。 しかし、これがどうして私が説明を求められることにつながるのだろうか? 志摩子が祥子の妹になるなんてあなたは何をしていたの!? と言いたいとか? 「……蓉子がけしかけたんじゃないの?」 確か、前にそんなことも言っていたと思う。それとも逆にあれは私に向けての言葉だったのだろうか? 「違うわ! その下よ!」 下? えっと……なになに、『白薔薇のつぼみ誕生!?』……?? 「蓉子、白薔薇さまって、私じゃなかったっけ?」 「決まっているでしょ、説明してちょうだい」 「何を?」 そう聞き返すと蓉子は一瞬驚いた後、じっと私の顔を見つめてきた。 「……まさか、覚えてないの?」 「何を?」 私が冗談で言っているわけではないことが分かったのか、さっとかわら版を私から取り上げて椅子に座らせた。 「いつもので良い?」 蓉子がコーヒーを入れてくれるらしい。最近は志摩子か由乃ちゃん、二人ともいないときでも祥子がだいたい入れてくれていたから、蓉子がここでコーヒーを入れてくれるなんてずいぶん久しぶりになる。 「お願い」 インスタントのブルマンのお湯割りがカップに入れられて目の前に差し出される。 「聖、順を追って説明するわ。私の責任も大きいから」 そう言った蓉子の顔には見覚えがあった。今年の初め頃……あの頃によく見た顔。私を気遣ってくれているときの顔だ。なぜ気を遣われているのかわからないが、入れてくれたコーヒーを飲みながら短く了解の意を伝えた。 「志摩子は山百合会に必要な人材、いずれは薔薇さまにと考えていたってことは前に言ったわよね」 やっぱりそうだった。そのことは間違いではなかったようだ……六月頃だっただろうか、志摩子がここに出入りするようになってまだ余り経っていないときのことだったように思う。 「一番良いのは聖の妹になることだったけれど……他にも二つ方法があった。一つ目は誰の妹にもなることがないまま志摩子を選挙に立候補させること」 そう、蓉子はそう考えていると思っていた。だから、わざわざ私が妹にしてもしなくても志摩子には白薔薇さまの椅子が用意されているはずだったのだ。 「そして、もう一つはまだ妹がいない祥子の妹にするということだったわけね。そして、あの子も私とよく似たことを考えていた」 いずれは薔薇さま……なるほど、祥子の妹になれば再来年の紅薔薇さま候補になるわけだ。 「昨日、祥子から話を聞いたわ……志摩子は山百合会の一員のようなものになってきている。でも、正式に薔薇の館に迎え入れられてはいない。所詮ようなものどまり。そんな待遇はお世辞にも良いものとは言えない」 それはわかっている。けれど、それで良いと思っていた。 「それにあの子自身も妹にしたかった。他にもつぼみとしての責任もあったと思う。いろんなことが重なって、祥子はこのままにしておくよりも、自分の妹にする方が良いと考えたわけね……けれど、志摩子は祥子の申し込みを断った」 「え?」 断った? でも、確かに私は見たし、かわら版にだって……。私のそんな表情を見てうなずく蓉子。 「そう、祥子が志摩子に申し込んだのは二度目だったのよ」 そういうことか……あの祥子が一度断られたのにもう一度申し込むだなんて。 「以前に志摩子が断ったとき、いつでも飛び立てるように身軽なままでいたいと言ったそうよ」 ……飛び立てるように、身軽なままでいたい? 「今の居場所がなくなったら、本当に飛び立ってしまうつもりだったのかもしれない。ただ、それは望んでのことじゃないって祥子は思った」 志摩子が受け取ったということは、そのとおりで本当は飛び立ちたくなかったのだろうか…… 「それでも、昨日申し込まれてから受け取るまでにはずいぶん悩んだらしいわ。本当は聖からもらいたかったんでしょうね……」 最初に志摩子を見つけたのは私だったかもしれない。だけど、私は行動を起こさなかった。誰かと親密な関係を持つことを恐れていた。それなのに、常に目の端に入れていたいという、そんなずるい人間なのだ。 私は志摩子のことはまるで考えていなかった。志摩子もそれで良いとばかり勝手に思いこんでいた……一歩私が踏み出すのを望んでいたというのに…… (自業自得だ) 「それが上の部分の裏の話……で、下の話をする前に確認しておくわ。聖、今、ロザリオを持っている?」 ロザリオ? いつも腕に巻いて……あれ? ない。 「おかしいな。ぼうっとしてたから忘れてきたかな?」 「……間違いないわね。祥子がロザリオを渡した後、聖の姿を見かけたと言っていたし。祥子が志摩子にロザリオを渡したところ……違うわね。志摩子が祥子からロザリオを受け取ったところを見たんじゃない?」 そう、あのときのまさに瞬間を見てしまった。 「その後、思い出せない?」 その後? そのまま帰ったような気がするけど、何かあったっけ? 「どうやら偶然通りかかった生徒にロザリオを渡してしまったようなのよ」 「……は?」 蓉子が言った言葉の意味がわからない。何だって? 「今のところ、その相手が誰なのかわかっていないわ。新聞部も動き回っているし、今日中にはわかるでしょうけれど……」 「ちょ、ちょっと蓉子」 「思い出せない?」 そういって私の瞳をじっと見つめる蓉子。 深呼吸をして自分を落ち着かせてから、昨日のことをじっくり思い出してみる。 ……そう言われてみれば、誰かにロザリオをいらないかと言ったような気もする。 「あ……」 「どう?」 「そんな気がする。ああ、どうしよう」 お姉さまから頂いたロザリオ……祥子を阻止するために、私が志摩子に渡そうとしたロザリオ。それが今、ない。 「傷口が広がらない内に塞がなければいけないわ。新聞部が本格的に動く前に返してもらわないといけないのに……」 それが誰なのかわからないのでは手が打てない。下手に動けば火に油を注ぐことにもなりかねない。蓉子をもってしてもどうしたらいいのかわからないというのが顔に表れていた。 私も必死でどんな子だったのか思い出そうとしているのだけど、思い出せない……今の状態、自分がしてしまったこと、その重さが胸に突き刺さってくる。 どうして、こんなとんでもないことをしてしまったのだろう…… 校舎からチャイムの音が響いてくる。あっという間に昼休みになってしまった。 「情報を、待つしかないわね」 情報を集めようとすれば足が付く以上、待つしかない。そうわかっていても歯がゆく、そしてその事態を引き起こしてしまった自分が情けなくて仕方がない。 そうして何もできないまま数分経過した。すると、階段を上ってくる音が複数聞こえてきた。みんな集まってきたのだろうか、結構多い。 「……誰かしらね」 聞き覚えのない足音が混ざっている。新聞部あたりでないことを祈りたいが……はたして。 扉が開くと、祥子、江利子、見知らない二人、そして志摩子が姿を現した。あの二人は新聞部ではなさそうだけれど、何者だろう? 「福沢祐巳さんをお連れしました」 志摩子から紹介されて、髪をリボンで二つに縛った子が頭を下げた……二人連れてきたのに一人だけの紹介。それで、あの子が何者なのかわかった。昨日私がロザリオを渡してしまったのはあの子だったのだろう。 「さ、座って」 蓉子が二人に椅子を薦めて二人が私たちの対面に座る。 それから祥子たちも座り、志摩子が飲み物を用意するために流しに向かった。……志摩子は祥子から受け取ったロザリオを身につけている。 しばらくして紅茶のいい香りが漂ってきた。 最近は由乃ちゃんと志摩子が用意していたから、志摩子が用意をしているのは当たり前の光景なのに、どこか今までとは違って見える。 (そっか。もう、紅薔薇ファミリーの一員なんだ……) 志摩子にとって私が一番……そんな風に思い上がっていた。多分、それは事実だった。 でも、ずっとそのままであるわけじゃなかった。志摩子が求めていたのに、それで良いって勝手に思いこんでいたのだから……志摩子はそんな私をどう思っているんだろう? 祥子という立派な姉ができた今、私は志摩子にとって何なのだろう? 「どうぞ」 まずはお客さんの二人から飲み物を出して「ミルクとお砂糖は?」と棚から出してきたかごに入ったスティックを差し出して聞いた。 志摩子が紹介したのだし、蓉子と二人の話から志摩子とはクラスメイトだったとはわかるし、元々知り合いだったのかもしれないけれど…… 志摩子が誰のロザリオを選ぶかと聞かれれば、私のロザリオを選んだという自信はある。志摩子にとっては一番ほしいロザリオをたまたま手にしてしまったこの祐巳ちゃんに対してごく自然に対応しているように見える。 そして、私の方にも……志摩子は私の前にもコーヒーが入ったカップを淡々と置いた。 祥子の妹になって私の妹になることができなくなったこと、紅薔薇のつぼみの妹として薔薇の館の正式な住人になったこと、私がこの祐巳ちゃんにロザリオを渡してしまったこと……あなたはどう思っているの? もちろんその問いに志摩子が答えることはなく、てきぱきと自分の役目を片付けていくだけだった。 ……カップに注がれた湯気が立ち上る紅い液体の味は、いつもとは違うように思えた。中身は一緒なのに。 志摩子も席に戻るころから蓉子が祐巳ちゃんと話しながら、チラッチラッとこっちを時々睨んでくるようになった。声をかけなくて良いのか? ってところだろうけれど、なんて声をかければいいものやら…… 言葉に困って周りに目をやると、祥子の隣に座って自分の分を飲んでいる志摩子に目がとまった。 無表情ではないけれど表情からは特に何も読みとれなかった。……さっきも自然に対応していたし、別に何も感じていない、思うところはないってことだろうか? まさか、蓉子、祥子っていう立派な二人がいる紅薔薇ファミリーに入ってしまった今となっては、私なんかもうどうでも良いってこと? ……そんな風なことが頭の中に次々と思い浮かんでくる。 考えちゃだめだ、そう思っても止まらない! ついには鼻がつんとして胸の中から何かがこみ上げてきた。 ……かすかに残った理性が制止するのも無視して私は口を開いた。 「えっと、祐巳ちゃんだっけ?」 「あ、はい」 蓉子と話をしていたところに割り込むと、やっとかとでも言いたげな顔をした。でも、これから私が口にしようとしているのは期待している内容とはずいぶん違う。 「昨日渡してしまったロザリオのことなんだけれど」 「あ、は、はい、今ここ……あれ?」 祐巳ちゃんはポケットというポケットに手を突っ込んでロザリオを探している。 これだけ探してもないということは忘れてきたのだろう。制服脱いで探しかねない感じになってきたし、そろそろ止めないといけない。 (丁度良い。あとは、もうひとつ条件がそろえば……) 何を思っているのかちっとも表情に見せない志摩子をちらりと見ながらそんな風に思った。今私の顔には押し隠しきれない嫌な笑みが浮かんでいるかもしれない。 「持ってくるのを忘れちゃったの?」 「も、もうしわけありま! ぎゃっ!!」 頭を下げようとして思い切り机に額をぶつけてしまった……ものすごい音がしたけれど、大丈夫かな? 「大丈夫!?」 付き添いの子と蓉子がすぐに尋ねたのに「大丈夫です」って答えてから、もう一度私に謝りなおした。額に跡が付いていたし目が涙ぐんでた……あれは相当痛かっただろう。 「祐巳ちゃんって、お姉さまはいる?」 「え?……そ、その、いませんけれど?」 そろった。 「そう、だったら丁度良いわ」 私の言葉をすぐに理解できた人間はいない。あの蓉子でさえも反応できていない。ただ、江利子だけが何が始まるのかって目を爛々とさせてるだけ。 「しばらく、あのロザリオ預かっててもらえない?」 「聖!?」 「私ってまだ妹がいないのよ。だから、私の妹になっても良いかどうか試してみない?」 蓉子の叫びを無視して最後まで口にする。祐巳ちゃんはびっくりしすぎたのか、口をパクパクとさせるだけで言葉を出すことができないようだ。 「やっぱり、駄目だっていうんだったら、その時返してもらえれば良いだけだし。佐藤聖の妹体験。そうそうできることじゃないわよ、どう?」 そこまで言ってから志摩子に目を向けると、目をまん丸に大きくして驚いていた。でも、それだけじゃなくて怒っていた。 間違いなく怒ってる。他のみんなにはわからないだろうけど、私には分かった。 それは、本当はなりたかったけれど、ついにあきらめてしまった私の妹という立場を、そんなに簡単に他人にやってしまうなんて納得できない……許せないってこと。私の妹のことをキッパリと割り切れたわけじゃなかった。 つまり、志摩子の中で私の存在はまだまだ大きい。さっきはそれを押し隠していただけだったのだ。 うれしい。 私は今、このリリアンにはまったくふさわしくない暗い、とても暗い喜びに満ちていた。 「馬鹿」 二人だけになってから蓉子が私に言った単語は、今の私を一番良く表していると思う。わかっていながら突き進もうとしているのだから、別の言葉を使うにしても五十歩百歩でしかない。 「自分でも心底そう思ってる」 「まったく……本気なの?」 「本気よ」 「だったら、もう止めはしないわ。止めても無駄でしょうから。でもあの子、祐巳ちゃんを泣かすような目に遭わせたら、その時は……その時はあなたを軽蔑するわ」 少しの間の後、蓉子が辛そうな表情をしながら突きつけてきた言葉。 祐巳ちゃんを、関係のない誰かを私の歪んでしまった志摩子への感情の犠牲にしたら許さない。許すわけにはいかない。 私は蓉子にあんな顔でそんな言葉を言わせてしまった。 祐巳ちゃんにはロザリオを預けた。そして私は十字架を背負うことになった……そんな感じなのかもしれない。 でも、一度走り出してしまったものはすぐには止まらない。そう、もう止められないのだ。