だまされた! 卒業式の日の朝、今日ここを巣立って行かれる皆さまが最後の登校をしているなか、私は三年藤組へ向けて黙々と歩いていた。 お姉さまにだまされてしまったのだ。しかも……しかも! あ〜! もうどうしてくれようか! ごきげんよう、と声をかけようとして思いとどまった方がいるくらいだから私にしては怖い顔をしているのだろう。せっかくの卒業式の日に後輩にそんな接せられ方をされてしまったその方には悪いけど、このやるせない気持ちを我慢していられるだろうか、いやない! 思わず反語にしたくなるくらい腹立たしい。 閉まっていた教室の扉を開けるのももどかしい。いっそのこと蹴破れることなら蹴破ってやりたいところだけれどそういうわけにはいくまい。 「お姉さまっ!」 扉をガラリと開けて教室の中央にいたお姉さまに向かって叫んだ。一斉に振り向く卒業生。いつもの小心者の私だったらひるんでしまうだろうその視線も今日の私には効かない。 「あら、聖さん。かわいらしい白薔薇さまを怒らせるようなことをしたのかしら?」 「う〜ん、何かしら? あの件、それともアレ……いやいやあのときの……」 「まぁたくさん。いけないお姉さまね」 教室内が笑いに包まれる中、お姉さまがニコニコと近づいてきた。 「祐巳、ずいぶん怖い顔してるね。せっかくのかわいい顔が台無しだよ」 そんなこといいながらほっぺたをつつくお姉さま。まるでこれっぽっちもわかっていないその様子とこの態度にこのまま爆発してやろうかとも思ったけれど、さすがに人前ということで考え直す。 「……ごきげんよう、お姉さま。本日はご卒業おめでとうございます」 「はい、ありがとう」 まぁ一応決まり文句を言っておくことにして、すぐさま教室から連れだすことにした。 「ちょ、ちょっと祐巳」 行ってらっしゃい〜と手を振りながら見守っているギャラリーの皆さんにぺこりと一礼してそのまま廊下へ。さて、どこがいいか。 考えてみれば今日は告白日和といっても良いくらい想いを伝えるのにもってこいの日なのだ。普段人気が無くてこぎれいな場所などはどこも満員御礼だろう。 さっきから何を言っても返事を返さない私に黙って付いてきたお姉さまが急に私を引き留めた。 「ここにしよ、あんまり良い場所じゃないけどさ」 階段脇か。確かにいいかもしれない。……話す内容もロマンティックとはほど遠いし。 「で、何?」 本当に不思議そうに私の顔をのぞき込んでくる。 「……紅薔薇さまから聞きました」 「蓉子から? 蓉子が何か言ってた?」 むぅ、まだしらを切るつもりかこの姉は。 「まだとぼけるつもりですか?」 そうとうきつく言ったつもりだけどお姉さまは困惑するだけだ。全く思い当たらないようだ……それともまさか、さっき教室で言っていたように心当たりが多すぎてわからないとか? 「……大学の件です」 「大学? ……あっ」 あっ、だぁ? まさかと思いたいけど嫌な予感。 コミックなら顔に縦筋入れているの間違いなし! ってぐらいお姉さまが狼狽してる。 「……まさか本当に忘れていたんですか?」 「ごめんっ! 本当にごめん!」 「……」 そりゃないだろう。前聞いたときもはぐらかされてこのまま遠いところへ行っちゃうのかもって不安にさえなったっていうのに。昨日のことだってしばらく会えないからこそ、なのかもしれないとすごく嬉しかったけどすごく寂しかったのだ。 で、今朝紅薔薇さまにお会いしたときにお姉さまの大学について話したらリリアンだという。紅薔薇さまはお姉さまにあきれて気づかなかったようだけれど、もう悔しいやら恥ずかしいやらで頭のなかで餅つき大会が繰り広げられたくらいだ。ウサギじゃなくて狸だったけど。 で、その結果が単なるお姉さまのど忘れ、と。あーもう! どうしてくれようか。 「祐巳にお守りもらったでしょ。あのときもう受験が終わってたって言えなくて。それにせっかく仲直りしたばっかりだったしさ……」 ずいぶんとションボリしながらそう言われてしまうともういいかなぁ、という気もしてくる。大学とはいえリリアンにお姉さまがいるってのはやっぱり嬉しいし、仲違いしたから渡すのも遅くなっちゃったっていうのもあるし……? ……ん? リリアン大学の受験日? 確か臨時バスが出てた日だったような。その日は…… 「薔薇の館でお昼ご飯食べてたじゃないですか!」 そう、それで私はどこを受けるのか聞いたのだ……お姉さまは否定しない。 「……落ちたら恥ずかしいって秘密にしていましたよね?」 私の目はそうとう冷ややかなものになっているだろう。お姉さまの実力なら試験で落ちなんてことはあり得ないはずだ。それこそ一科目受けなかったりでもしない限りは……何でエスカレーターじゃなかったのかは知らないけど。 で、私の視線を受けて冷や汗をかき始めているお姉さまがのたまったのは…… 「そ、それは……秘密にしていたら楽しいなって。うそ、うそです!」 「じゃぁなんですか?」 変な理由だったらだいぶ伸びてきてしまっている堪忍袋の緒が切れる。きっと切れる。いやむしろ切る。 「実は……実はね、私が大学に行こうって思えたのは祐巳のおかげなんだ」 「えっ!?」 気恥ずかしいのか顔を赤く染め目線をそらしほおをぽりぽりとかきながら話しだすお姉さま。 私と出会い、私と過ごしたからこそこのリリアンにもっといたいと思えるようになったというのだ。 そんなこと聞いたらもう怒れないじゃないか。 いまさら考えなくてもお姉さまのこういう性格は今に始まった訳じゃないし、そんなお姉さまが私は好きなのだから。何よりお姉さまがこのままリリアンにいるっていうのは普通に聞いていたらとても嬉しかったことなわけで。 一息つく。顔はいつものご機嫌子狸だ。 「なら、もういいです。言い過ぎてごめんなさい」 「私こそ。ごめんね、祐巳」 これで気持ちよく卒業式を迎えられそうだ。今日は予鈴が鳴らないけれどそろそろ集合時間かも。 「そろそろ時間かな?」 「そうですね」 自然と二人が離れる、と思ったらお姉さまが何かを思いだしたように振り返った。 「あ、そうそう、確かにリリアンに通うわけだけど、だからって高等部に遊びには来ないからね」 「えっ?」 「ま、その辺は蓉子や江利子と一緒ってこと」 そう言って手をぱたぱた振りながら去っていくお姉さま。 そりゃそうか。ちょっと残念。でも近くにお姉さまがいるって安堵の気持ちが上かも。藤組に向かったときの気持ちが嘘みたい。ちょっと駆け足で教室に戻ることにした。 卒業おめでとうございます。お姉さま。 〜1〜 「あっつ……」 まだ七月も始まったばかりだというのになんて暑さだろう。今の時期からこれだと真夏はいったいどうなってしまうやら……四十度だって記録してしまうかもしれない。 あまりの暑さで一瞬意識がどこかへ飛んでいた気がする。あれは卒業式直前だったっけ。何で今頃思いだしたのだろう。 それより! それよりも今は薔薇の館にたどり着くことが大事だ。あぁ、あともう少し。 もちろんエアコンなんてないから中も暑いけれどそれでも扇風機とつめたい飲み物があるだけずっといい。そうして扉を開けて中に入る。 階段を上がって二階のビスケット扉を開けると私よりも先に来て一人でお茶を飲んでいた人を見つけた。 「やあ、ごきげんよう」 右も左も黒が基調の制服ばかりの学園の中で薄い黄色のサマーセーターとジーンズというラフな私服の方。 彫りの深い彫刻のような顔に色素の薄い髪。通りを歩けばモデルさんと勘違いする人も多いだろう格好いい人。誰がどう見ても佐藤聖さま、私のお姉さまである。 そう、リリアンに行くけど高等部には遊びに来ないといった張本人である。 なるほど。さっきのトリップはこれを予感していたからか。 お姉さまのあの言葉を真に受けたものだから春休みが終わってはじめてリリアンの敷地に入ったときは何ともいえない寂しさにおそわれたものだった。もちろんそんな遠くにいるわけじゃない。会おうと思えばすぐに会える距離。だからこそ寂しかったのだ。……その日の放課後まで。 心細いけれどこれからは白薔薇さまとして一生懸命やっていこうと自分を奮い立たせながら扉を開けたらのんきにお茶を飲みながらやっ、と手を振るお姉さまの姿である。私は掃除を終えてやってきた由乃さんが来るまでずっと固まっていたらしい。 結局そのあといろいろ(本当にいろいろだ)あったのだけど、お姉さまはちょくちょく遊びに来ている、というわけだ。それを隠したくても隠しきれないほど喜んでしまっている私もいるわけで。 「ごきげんようお姉さま」 「うん? 何かあった?」 「お姉さまが卒業後初めてこられた日を思いだしていただけですよ」 触らぬ祐巳に祟りなしとみたか、今の質問はなかったかのようにスルーして、飲み物の話をしだすお姉さま。まあ私の方ももう蒸し返すつもりもないけどね。 「先にいただいたけど、確かに絶品だね、こりゃ」 「そうでしょう」 「あー、これに令の作ったわらび餅でしょ……試験勉強なんてしてる場合じゃなかったね。失敗、失敗」 ものすごく悔しそうに大学生失格の台詞をのたまうお姉さま。いつもならあきれた視線でも送るところだけど、こればっかりはお姉さまの気持ちがよく分かる。くすくす笑いながらお姉さまの横の席に座る。 机には大学生に試験勉強を放棄させたくなるほどの罪深き円筒がある。そう、その正体はこの緑茶である。この前、祥子さまがたくさん持ってきてくれたのだ。 その日早速みんなでいただいたのだけど、縁台でお団子をぱくつきながら一息入れている光景が自然と浮かんでくるようなおいしさなのである。 こんなにすばらしいお茶が駄目になっていくのがもったいない、というより純粋につい手が出てしまうのだろう、その日から薔薇の館内の緑茶の比率がうなぎ登りになった。 先日には令さまが夏で緑茶と来たらこれだよね、と手作りのわらび餅を持ってこられたくらいである。つめたく冷やした一杯の緑茶にわらび餅、本当に絶品だった。 一昨日の帰りにたまたまバスで一緒になってその話をしたところ、今日前期試験が終わったばかりのお姉さまが早速来られたのだった。 「今入れるからちょっと待ってね」 自分で入れますからと言おうとしたのだけれど、部外者が遊びに来させてもらっているんだからこのくらいはねって笑顔なお姉さま。でも部外者というにはちょっと無理があると思います、お姉さま。 「はい、おまたせ」 「ありがとうございます」 氷がたっぷり入ったグラスに濃いめのお茶が一気に注がれていく。透明感のあるきれいなグリーンのなかに氷がぷかぷかと浮く光景は見ているだけでも涼しくなってくる。そろそろいいかな? やっぱりおいしい! 窓の外を眺めると雲一つ無い澄み切った青空が広がっていて、合唱というにはもの足りないセミの鳴き声と部活動のかけ声も聞こえてくる。 「平和だねぇ……」 「ですねぇ……」 「世は事もなし、か。結構結構」 「なんかずいぶん年寄り臭くないですか?」 緑茶飲んでまったりしているからかもしれないけど。 「むむっ。祐巳ったらこんなピチピチの女子大生を捕まえてなんということを」 おい、ピチピチの女子大生って……。以前から思うのだがこの中年親父っぷりはどうにかならないものだろうか。 「お姉さまがピチピチの女子大生なら私はとってもピチピチな女子高生ですね」 そんなこと言うのはこの口かぁといきなり両頬をつままれてしまった。痛い、痛いですってば! 「反省した?」 「ふぁい」 「それならよろしい」 あー痛かった。下手なことは言うものじゃないな。私の百面相を読んでお姉さまが首振ってるし。はぁ。 しかし、ちょっと暴れただけでせっかく冷茶で涼んでいたのに一気に暑くなってしまった。こうも暑いと少し動くだけでも汗だくになってしまう。それはお姉さまもいっしょのようで。 「もう一杯飲む?」 「はい、お願いします」 目の前には二杯目の冷茶。お茶で溶けた氷がグラスにあたりいい音で響く。もうそろそろか。 何杯飲んでもおいしい! あー生き返る。 「平和だねぇ……」 「ですねぇ……」 って、また同じ会話になるのか! と思ったところで令さま、志摩子さん、由乃さん、乃梨子ちゃんと、一気にやってきた。 「皆さまごきげんよう」 それからもう一人、お姉さま曰く電動ドリルな縦ロールのかわいい瞳子ちゃんが来た。 彼女は祥子さまの又従姉妹で、いろいろと山百合会の仕事を手伝ってもらっている。彼女がいなかったら今でも結局お姉さまに頼ってしまっていたかもしれない。 実際、春先のころはお姉さまが暇だからといって手伝ってくれていたのだ。もちろん私や現山百合会がいまだに先代に頼っているなんて思われないようにごくさりげなく。 お姉さまのさりげないサポートはすごくありがたかったのだけれど、やはりいつまでも山百合会のことでお姉さまに頼ってしまうわけにもいかない。そんなことはわかっていたけれど、わかっていたって人手不足という事実はどうしようもなく、妹がぱっと登場するものでもないからほとほと困り果てていたのだ。 そんなときに現れたのが瞳子ちゃんだったというわけだ。彼女は来訪早々にお手伝いを買って出てくれた。 最初は以前の出会いが出会いだったので苦手だったのだけど、乃梨子ちゃんが志摩子さんの妹になるときやそのあともいろいろとあって、つきあい方も少しわかってきたというか世間話くらいは気構えることなく交わせる間柄になった。 何にせよ今順調に行事や作業が進むのも瞳子ちゃんが手伝ってくれているおかげといっても過言ではない。彼女が祥子さまを慕っていなければそんなことも起こりようがなかったわけで、そういう意味でも祥子さまに感謝感激雨あられである。 そんなことを考えている間にご本人がいらっしゃった。 「ごきげんよう。あら聖さま、いらしていたのですね」 「うん、お邪魔してるね。このお茶、祥子が持ってきてくれたんだって? 美味しいね」 「どういたしまして」 今日は定例の報告だけなので会議というほどのこともなく話し合いは済んだ。それからまったりとした空気の中みんな冷茶を飲みつつ思い思いにおしゃべりをしていたのだけれど、突然お姉さまが「ねぇ、祐巳」って何か思いついたように声をかけてきた。 「はい?」 「休みに入ったら二人でどっか行こうか?」 「わあ、いいですね」 二人でどこかへ出かける……わざわざ休みに入ったらというからには泊まりがけでということだろう。そんなことは今までになかったから、冗談交じりの話にあわせている私の声も弾んだものになっていた。 「いいですね、二人で旅行なんて」 由乃さんの体が体だったからそう多くはないだろうけれど、それでもたぶんこの中では一番経験が多いと思われる令さまが私たちの話に入ってきた。 「ね、ね、由乃はどこか行きたいとこある?」 そして早速ニコニコしながら由乃さんに聞いてみる。令さまにしても今年は由乃さんが元気になってから初の夏休みだからうれしくてしかたがないのだろう。何処へでも私が連れて行ってあげるって顔が言っている。 しかしさすが由乃さん。浮かれて舞い上がっている令さまの頭に冷や水をぶっかけるようなとんでもない言葉を口にした。 「富士山」 「ふ、ふじさん?」 突然出てきた言葉にびっくりしたのだろう令さまは聞き直したのだけれど、一富士、二鷹、三茄子の富士って答えが返ってきた。由乃さんのことだから、麓から眺めるとかそんなのじゃなくて、やっぱり登るということなのだろう。そして、令さまが焦っているような感じがあるのは由乃さんが冗談で言っているのではなくて本気で言っているから、目も輝かしているし…… 「そう、登山」 由乃さんは体が体だったから今までに登山なんてしたことがあるはずがない。にもかかわらず、いきなり日本一。標高三千七百七十六メートル霊峰富士……由乃さんらしいともいえるかもしれないけれど、令さまにとっては気が気でないだろう。自分から言いだしたこととはいえ、相手は富士山。ただ登るだけではなく由乃さんの心配をしなければいけない令さまもたまったものじゃない。 「祥子はどうするの?」 いきなり祥子さまに話を振るお姉さま。令さまを助けたというより祥子さまのスケジュールに興味があったとみた。 お姉さまの思惑はともかく、話がそれて令さま露骨にほっとしている。その顔を由乃さんに見せているのはまずいんじゃないでしょうか。 「私は毎年夏は避暑地の別荘へ行くことにしています」 「あぁ、そういえばそうか。確か軽井沢だっけ?」 「ええ」 あら。てっきりスイスとかカナダ、はたまた南半球のオーストラリアやニュージーランド。そういったところで優雅な休暇を過ごすと思ったのに。もちろん福沢家のような庶民には軽井沢の別荘でも手が出ないけどなんといっても祥子さまの家なのだから……?? ツンツンとお姉さまが私の太ももをつついていた。何だろう……あ。みんなの視線が私に集中している。お姉さまはやれやれとでも言いたげだ。反省。 「祐巳ちゃん、私は別荘といっても観光地に行くわけではないのよ」 はて? 別荘の代名詞、軽井沢とはいえ観光地には変わらないと思うのだけど。私が疑問符をとばしていると祥子さまはさらに言い換えてくれた。 「そうね、家族だけでただ静かに過ごすための場所といった方がよいのかしら」 なるほど、祥子さまにとって別荘はそういう所なんだ。 「ふ〜む。志摩子と乃梨子ちゃんは?」 「お盆は家のことがありますけれど、後はまだ……」 志摩子さんの家はお寺だからお盆の時期は法事とかでいそがしいのだろう。 「私もお盆は帰省しますけれど後は特に決まっていません」 それを聞いた祥子さまが志摩子さんと乃梨子ちゃんに声をかけた。 「来る?」 「よろしいのですか?」 「ええ」 何が来るのだろうか? ……そうか、別荘に誘ったんだ。 志摩子さんも誘われるとは思っていなかったようで、驚きながら確認していた。だってさっき私に説明してくれたように祥子さまにとって軽井沢の別荘はプライベートスクウェア、自分とご家族だけの空間といってもいいのだから。それに誘われたってことは……志摩子さん、本当に幸せそう。乃梨子ちゃんもいつになく嬉しそうな顔をしている。 「楽しみです」 「私も本当に良いんですか?」 「ええ、もちろんよ」 あとは瞳子ちゃんだけど、なんかお姉さまが考え込んじゃっているみたいだから私が聞くことにしよう。 ……いつぞやのように名前を思いだせなくて私に任せたってわけじゃないと思う、たぶん。 「瞳子ちゃんは?」 「……祥子お姉さま、別荘はいつもの場所でしょう?」 私の質問に対して直接答えを返さずに祥子さまに話を振ることで回答とすることにしたようだ。 前に注意されてから『祥子さま』に呼び方を改めていたから、親戚としての質問だろうか? 「ええ」 「なら向こうでご一緒できますね」 「そうね」 そうほほえみあう又従姉妹同士。どうやらもともと予定は同じだったようだ。親戚なのだからそんなものなのかもしれない。 こうしてみんなの予定は着々と決まっていってしまった。 この話は、お姉さまの冗談交じりの提案から始まったのだけれど、結局私たちだけは予定が決まらなかった。 〜2〜 週明けの月曜日、掃除を終えて薔薇の館に行くとお姉さまが来ていて、机の上に雑誌などを広げていた。 「ごきげんよう。何を見てるんですか?」 そう言いながら机の上に広げられているものをのぞき込むと、海、山、おいしそうな料理の数々、遊園地……いろんな写真が大きく載っていた。これって旅行のパンフレットやガイドブックだ。 「うん、旅行のパンフとか。どこ行きたい?」 「え?」 「だから先週言ったでしょ?」 「ほんとうですか!?」 思わずお姉さまに詰め寄ってしまった。けれど、その反応は想定の範囲内だったのか、詰め寄られたお姉さまにびっくりした感じはなく、「うん、ほんとう」と笑顔で答えてくれた。 先週話を出したときから本気だったのか、他の人たちがみんな決まってしまったからなのかはわからないけれど、どちらにせようれしい。 すぐにパンフレットを取って見てみる。海や山に始まり、温泉や遊園地、いろいろとあるけれど、せっかく夏休みに行くのだから、海なんか良いんじゃないだろうか? あ、でも山に行くのも良さそうだし、このパンフレットの各種フルーツ食べ放題も捨てがたいかも…… そんな感じでたくさんのパンフレットを前に目移りしていると、お姉さまが一冊の旅行ガイドを開けて私の前に出してきた。 「ちなみに私はこことか良いんじゃないかなって思うんだけど」 そのページにはホテルのすぐ近くの青い海とパラソルがいくつも並んでいる白い砂浜の写真や豪華なお風呂や露天風呂の写真が載っていた。書いてある文章を斜め読みしたところ、このホテルは海岸線近くの温泉街にあって、載っているお風呂は温泉のようだ。つまり、海と温泉が一緒に楽しめる一粒で二度おいしいというわけか。 「いいですね」 「でしょう」 階段を上ってくる足音が聞こえてきた。 「ごきげんよう、楽しそうですね」 扉を開けて入ってきたのは祥子さまだった。 「ごきげんよう。ああ、散らかしちゃってごめんね。すぐに片づけるから」 「別にまだかまいませんよ」 「いやいや、部外者が仕事をじゃましてしまうわけにはいかないしね」 「そうですか」 お姉さまは手早くパンフレットや雑誌を集めてトントンと端をそろえて手提げ袋にしまった。 「じゃ、私は下にいるわ。他にもいいところがあるかもしれないから待ってる間に探してみるわ」 楽しみだからってお仕事さぼっちゃだめだよと笑いながらデコピンして出て行った。 「旅行の打ち合わせ?」 「はい」 「そう。祐巳ちゃん良かったわね」 「はい!」 それからまもなくみんながそろい、今日の打ち合わせが始まった。期末試験の後はそのまま試験休みに入ってしまうから、仕事というような仕事をするのは夏休み前では今日が最後だろう。 チラリ。目の前の書類にチェックしながらも目はついつい腕時計に向かってしまう。 打ち合わせが終わって仕事を分担してから一時間弱。このペースなら六時前には終わるだろうか。 「うひゃ……」 いきなり脇を突っつかれたものだから叫びそうになってしまった。由乃さんがごめんごめんってポーズを取って小声で話しかけてきた。 「いやぁ、あんまり祐巳さんがそわそわしているものだから何かあったのかなと思ってね」 「……そわそわしているように見える?」 「そりゃぁもう」 誰が見てもそう思うと太鼓判まで押されてしまった。さっきのお姉さまの言葉が浮かんだけれど、別にさぼっているわけじゃないから良いよね? 「聞いてくれますか由乃さん?」 「はいはい聞いてあげますよ。祐巳さん」 あ、由乃さんやぶ蛇つついちゃったかもって顔をしてる。でもいつもお二人にあてられちゃっているんだからたまにはのろけさせてもらうとしよう。ムフフフフフ。 「実はですね、私もお姉さまと……」 結局お開きになる直前まで旅行について話してしまった。祥子さまは特に何も言われなかったし、志摩子さんはよかったわねと言ってくれたけれど、瞳子ちゃんには薔薇さまとしての自覚についてチクリと嫌みを言われてしまった。とほほ。 ちなみに由乃さんの富士登山はお医者さんの了承をもぎ取って週末には押し切ったらしい。令さま一週間持たずにKOか。なんというかご愁傷さまです。 お開きになってすぐに、手早く荷物をまとめ、みんなにあいさつをすませて下に向かった。 瞳子ちゃんに釘を刺されたばかりだったからプリーツが乱れたり、セーラーカラーが翻ったりはしないよう気を遣いつつも全速前進! 「お姉さま、お待たせしました!」 「ん、じゃぁ帰りながら話そうか。ところでちゃんと仕事はしただろうね?」 と、ニヤニヤしながら聞いてくるお姉さま。もう意地が悪いんだから! 「ちゃんとやりましたよ」 「本当に?」 「……ちょこっとだけ由乃さんと雑談を」 だってあんな話を聞かされたら少しくらい浮かれたってしょうがないじゃないですかぁ! 馬だってにんじんを目の前にたらされたら必死で走っちゃうものでしょう! 「ハハ、ごめんごめん。じゃぁ帰ろう」 そしていっしょに歩く帰り道。早速旅行についての話を始める。 並木道を歩きながらお姉さまがガイドブックを開けて、さっきのホテルを指さして「ここで良い?」って改めて確認してきた。あれからも調べたけどやっぱりここが一押しとのこと。 お姉さまからガイドブックを借りてさっきはさっとしか見られなかった紹介文をじっくりと見てみることにする。 海と温泉が二ついっぺんに楽しめるのはさっき見たけれど。おいしそうな料理の写真もふんだんに載っていて、解説にもここの料理はおいしいと書いてある。お値段だってちょっと高いかなくらいで、他のホテルや旅館と比べてものすごく高いというわけではないから、お得といってしまっても差し支えないだろう。 「ここいいですね。海と温泉いっしょに楽しめるなんてお得ですよね」 「そりゃ良かった。じゃあ、予約とか準備しとくね」 「お願いします」 お姉さまと一緒に旅行。海に温泉。そしておいしい海の幸に山も近いから山の幸まで味わえる。その光景を思い浮かべるだけでわくわくしてきてしまう。 〜3〜 「聞きました?」 「ええ、聞きました」 背の余り高くない茂みに身を隠しながら横にいるもう一人の同じ体勢の彼女と言葉を交わしながら、楽しそうに話をしながら去っていく二人を最大望遠でもう一枚二枚とカメラに収めた。 どうやら二人はまるで私たちのことに気づかなかったようだ。祐巳さんはともかく勘が鋭い聖さまがまるで気づかなかったのは、聖さまも初めての二人っきりの旅行が楽しみで浮かれているのかもしれない。 「白薔薇の姉妹は温泉と海のようですわね」 「良い旅行先ですね」 「けれど、聖さまは車をお持ちだから……尾行は難しいというよりも無理ですね」 残念そうな真美さん。免許も車もない私たちが車をつけるにはタクシーをとばすくらいしかないけれど、近所ならともかくそうでなければ、そんなことできるはずもない。けれど、実は手はあるのだ。 「それについては先回りをするという手がありますわよ」 「先回り?」 「先ほど祐巳さんが開いていたページをコレにおさめましたから、あの旅行ガイドを手に入れれば目的地がわかりますわ」 「なるほど」 手に持っているカメラのボディをコツンと一たたきする。幸いなことに今日の相棒はデジタルカメラ。この場で確認できる。 早速さっきの写真を拡大表示すると、さすがに文字を読んだりすることはできないけれど、ページのデザインや配色からオリジナルの本が手に入れば十分わかるくらいのものだった。 「早速帰りに書店に寄りますけれど……?」 「ええ、同行させていただきますわ」 これで共犯成立。まあ、もともと同じ目的で動いていたからこうして同じ場所で同じ格好をしていたわけだけれど。 二人が完全に見えなくなったので茂みから出てう〜んと腰を伸ばす。 「ちなみに他の方々についてはご存じですか?」 ふと気になったのでストレッチをしながら聞いてみると、真美さんは手帳を取りだして取材の結果を確認して、「黄薔薇姉妹は富士山登山ですね。紅薔薇姉妹のほうはまだ取材中です」とのこと。真美さんの手帳を覗いてみると、びっしりと山百合会関連のことが書き込まれていた。さすがというかなんというか、とにかくかなりの情報収集能力だと思う。情報収集能力は高いという自信があったのだけれど……とても歯が立ちそうにない。さすがは新聞部のエースだ。 「富士山登山とはまた一筋縄では行かない目的地ですね」 「ええ、けれど、完璧な記事には完璧な取材がモットーの私としては、尾行しながら登頂しなければならないわけで……」 気づかれないように尾行しながら登山なんてとても無理だし、たとえできたとしても相手は富士山だから半端ではないバイタリティが必要になってしまうだろう。 「いっそのこと、尾行ではなく同行を考えては?」 「残念ながら私、体力には自信がないんです」 「あらら、新聞記者としては致命的」 「ええ……」 「なら、代わりの方を派遣されるのですか?」 「普通の山ならば……けれど、相手が日本一ですから、できそうなのは不肖の姉くらいしかおりませんの」 不肖の姉とは……用法としてはどうなのだろうかと思うところがある。気持ちはわかるけれど…… 「向かないでしょうね」 「ええ、能力と才能、そして意欲は素晴らしいのですけれど……だいぶ嫌われてしまっていますからね」 リリアンのトラブルメーカー筆頭の築山三奈子さま。彼女の行くところに事件が起きる、というか作る。山百合会にブラックリストがあったとしたら一番上にさんさんとその名前が輝いていることは間違いないだろう。もしそんな人物をついて行かせてしまったら……。 ただでさえ黄薔薇関係では二度も大きなスキャンダルを引き起こしてしまっているのだ。おもしろければ容認してくださったあの方がいた頃ならともかく、今では新聞部自体の活動停止にだってなりかねないし、下手すれば廃部だ。 「紅薔薇ファミリーのほうはまだよく分かりませんけれど、白薔薇姉妹に焦点を合わせますか」 「ええ、そのつもりです」 そうして行動方針が決まった私たちがまずするべきことは、書店に行ってあのガイドブックを手に入れることだ。 空調が効いている涼しい喫茶店で早速入手したガイドブックを開いた。 ページをめくっていくと、さっき見たようなページが出てきた。海のそばに白い建物が建っている写真や湯気を立てている温泉、パラソルの花が咲いている浜辺。こんな感じのページではなかっただろうか。 「これでしょうか?」 デジカメを再生モードにしてさっき撮った写真を映す……色合いや構成などのデザインは一致しているようだ。 「おそらく」 他のページも念のために確かめてみたけれど、該当しそうなページは見あたらなかった。それに、二人がしていた会話から海と温泉がいっしょに楽しめるという条件を考えるとここしかない。 「これに、まちがいありませんね」 「ええ、後は日付ですね」 これで、目的地はわかった。あとは日付がわかれば、先回りして待ちかまえることができる。 「そのあたりはそれとなく話を振ってみることにしましょう」 「なるほど。幸い私たちは祐巳さんとクラスメイトですからね」 「ええ」 まだ夏休みまでは日があるし、機会はいくらでもあるだろう。 「お得な立場ですね」 「ええ、本当に」 「そうでなかったら、もどかしい思いを抱くだけだったでしょうけれど」 去年は祐巳さん、志摩子さんと同じクラス。今年は祐巳さん、由乃さんと同じクラス。改めて考えてみるとなんと運がいいのだろうか。もし去年祐巳さんと違うクラスであったなら、今ほど山百合会のメンバーに近い立場にいることはできず、遠い存在の方々のままだったことだろう。 ガイドブックのページを目的地のホテルが載っているページに戻す。 「海に温泉。温泉のほうは撮ることは難しいですけれど、それでもすばらしいおまけですね」 「そうですね。ちなみにどういう風に行くんでしょうか?」 「アクセスは……電車とバスで行くようですね。ちょっと遠いですが、途中まで新幹線を使えば早いですね」 「なるほど、新幹線が使えるのはありがたいですね」 「そうですね。そうでないと先回りするには前の日から動かなくてはいけなくなってしまいますからね」 「ええ」 店内の時計が八時を伝える。何とか今日中に当たりをつけようとしていたらずいぶん遅くなってしまった。外も暗くなってしまっているし……さて、どうしたものか。 「真美さん、お時間の方は大丈夫ですか?」 「ええ、家には先に連絡しておきました」 「蔦子さんはいかがですか?」 「答えるまでもないでしょう、真美さん」 二人で低い声で笑いあう。 せっかく白薔薇姉妹の休暇を押さえられるかもしれないチャンスを手に入れたのだ。報道に向けるスマイルとは異なる、プライベートで見せる何気ない表情。薔薇さまから姉を慕う一人の少女へ戻る瞬間。 それは何をおいておいてでも見るだけのものであるということをこの二人はわかっているのだ。 「ならば少々気が早いですが祝杯といきませんか?」 目処が付いて安心したせいか、調べるのに夢中で忘れていた食欲も戻ってきたようだ。 「そうですね、友人として祐巳さんのすてきな夏休みを祈って」 どちらからともなくくすくすと笑い出した。 さてさて、メニューを決めるとしますか。 テーブルの端に立てられていたメニューを手にとって開く。 何がいいかと見ていると、「ミルフィーユセットお待たせしました」ってトレイに二人分のケーキセットを乗せてウェイトレスさんがやってきた。 「「はい?」」 「あの、まだ頼んでないんですけど……」 今ちょうど頼もうとしていたところなのに、なぜ来る? 「いえ、あちらの方から」 「あちら?」 そのあちらには……先代黄薔薇さまである鳥居江利子さまがにっこりと笑みを浮かべて手を振っていた。