春休みももうすぐ終わり、つまりもうすぐ新学期・新学年が始まる。 私たちは新薔薇さまとしての初仕事である入学式の準備のために学校に来ているのだけれど、今日は思わぬお客様があった。 私が用意した紅茶を優雅に飲んでいるその方は、水野蓉子さま……お姉さまのお姉さまで二代前の紅薔薇さま。Miss. Perfectの称号を持つお方で、正直去年も姉妹揃ってお世話になってしまった。 「祐巳ちゃんが紅薔薇さまか……」 カップを置きそんな風に呟いたのだけれど。それにどういう意味が込められているのか気になる。これが聖さまや江利子さまだったなら、私みたいなのが紅薔薇さまにだなんて凄く面白そうということになるのだろうけれど…… 「私の在学中に見ることができなかったのが心残りね」 「はぁ……」 「まあ、今日はそんなことを言いに来たのじゃなくて、一つお願いがあるのよ」 「お願い、ですか?」 蓉子さまから私達へのお願いなんていったい何なのだろうか? 隣に並んで座っている由乃さんと志摩子さんにも緊張が走る。 「私の知っている子が今年リリアンに入るの。高校からだから色々と戸惑うことがあるだろうし、他にも事情があるから苦労すると思うのよ。だからできることがあれば、してあげてほしいのよ」 なるほどそういうことか、もっととんでもないことを想像してしまっていたから、なんだそんなことかという思いがないと言えば嘘になってしまうけれど、そういったことで良かったと胸をなで下ろしている自分もいる。 「はい、わかりました。それでどんな子なんですか?」 「ふふ、それはすぐに分かるわ」 蓉子さまは楽しげな表情を浮かべるだけで、その後もその子のことについては何も語ってはくれなかった。情報もなしで一体どうしろと……高校からの新入生を総当たりで調べろとでも言うのだろうか? それにしても、すぐに分かるとは一体どういうことなのだろうか? そんなに何か特徴があるような子なのだろうか? 蓉子さまが帰られてから、二人ともそのことについて話し合ったけれど、結局その答えは出なかった。 ついに入学式の日がやってきた。 桜の花びらが舞う中、新入生が真新しい制服に身を包んで校内を歩いている。 この子達に私達はどう思われているのだろうか? リリアンは一貫性のエスカレーター的な要素が強いから、中等部から上がってくる子がほとんど、そういった子達は高等部の情報が噂やリリアンかわら版などといった形で流れていく。一方、少数ではあるけれど乃梨子ちゃんや可南子ちゃんのように高校からリリアンに入ってきた人たちもいる。そして、蓉子さまにお願いされた子もそんな中の一人……いったいどんな子のだろうか。 「え……?」 「どうしたの?」 一緒に歩いていた由乃さんが聞いてきたのだけれど……「あ、うん、見間違いだと思う」と返した。 今、蓉子さまがいたような気がしたのだ。知り合いが入学すると言うことだし、ひょっとしたら本当に来ているのかもしれないけれど、ただ制服を着ていたのだ。 わざわざ制服を着込んでくるなんてことはしないだろうから、たぶん単なる見間違いだったのだろう。 入学式の会場のチェックをしていたら、蔦子さんが難しい顔をしているのを発見した。 撮影セットを持ってスタンバイしている……今年もこの入学式を皮切りに写真部部長としてバリバリがんばってくれることだろう。けれど、そんなに難しい顔をしてどうしたというのだろうか? 「蔦子さんごきげんよう。何かあったの?」 「あ、祐巳さんごきげんよう。このカメラがデジカメじゃないのが悔しい」 デジカメ……ということは、今見たいか確認したい写真があるということなのだろうか?現像する前からそのできまで大体分かってしまうような蔦子さんにしては珍しい気がする。 「ああ、ごめんなさい。入学生に気になった子がいて……とっさだったからカメラに収めることは収められたのだけれど、それだけでちゃんと見れなかったし……」 「ふ〜ん、そうなんだ」 蔦子さんにそんな風に言われるなんて、いったいどんな子なのやら……去年の一年生も薔薇の館に出入りしている三人を筆頭にずいぶん濃い? 子がいたけれど、今年はどうなのだろうか? 「それよりも祐巳さん。そろそろじゃないの?」 「ああ、そうだね。ありがとう」 もうすぐ入学式が始まる……蔦子さんと別れ紅薔薇さまとして入学生を迎えるために舞台袖に急いだ。 入学式はつつがなく行われ、順調にスケジュールが進んでいっていたのだけれど、始まってから三十分ほどで……とんでもない事が起きた。 『新入生代表、水野佳子』 「はい」 (水野……?) 聞き覚えがある名字の名前が呼ばれ、一人の生徒がすっと立ち上がる。その生徒を見て本当に吃驚してしまった。 蓉子さまそっくり……はっきりと見たら一発で分かった。妹さんだ。 朝のはある意味見間違えじゃなかったんだ。 そして、同時に蓉子さまが言っていた理由が分かった。 このとんでもない出来事に三年生はまさに騒然としている……二年生もかなりざわざわとしていて、同学年である一年生にもざわざわとしている人や集団もいるほど。改めて蓉子様の存在の大きさを知らされた気分だ。 もちろん由乃さんと志摩子さんも驚いていて「……マジ?」「そのようね」なんて汗をかきながら交わしている。 まさか、こんなことになるなんて…… 入学式としては異常としか言いようがないような雰囲気の中、佳子さんが前に出てきて舞台への階段を上り……踏み外した。 「え?」 派手に音を立てて転がり落ちてしまう。 何が起こったのだろうか……さっきまでとは一転して体育館は静寂に包まれてしまった。 少し遅れて先生が何人か駆け寄ったけれど、何とか一人で起きあがった佳子さんはペコペコって感じであっちこっちに頭を下げて、慌てながら改めて舞台に上がった。 そして学園長先生の前に立って、お辞儀を…… 『ゴン!!』 マイクに思い切り頭をぶつけてしまってスピーカーを通して体育館中に凄い音が響いた。 ぶつけた佳子さんは額を抑えて蹲っている。 会場は静まりかえってしまったままだけれど、私たちも同じように言葉が出てこない。 さっきとは全く違う理由で目の前の現実が信じられない。 脳みそがびっくりしたままなのか理解がなかなか追いついてこない。 彼女は、あの蓉子さまの妹ではなかったか? その後更に読み上げる原稿を裏表反対に取り出して白紙なのに慌ててしまったりとポカを連発していた。 そんな光景を見ている内に、ようやく頭の回転が追いついてきた。彼女は蓉子さまそっくりだけれども、蓉子さまと同じように考えてはいけないのだ。当然といえば当然のことだけれども、びっくりしていてすっかり忘れてしまっていた。 けれども、何となく親近感を持ってしまった。本当の姉妹と姉妹制の姉妹の違いはあるけれど、凄すぎる姉を持つ抜けたところがある妹ということでは私も同じなのだ。 『……えっと、在校生代表、福沢祐巳』 先生も固まっていたみたいで、佳子さんが席に戻ってしばらくしてから思い出したように私の名前が呼ばれた。 佳子さんは舞台を下りるとき、本当に暗い顔をしていた。今もやってしまったって感じでうつむいている。 (よし、ここは……) この場で私にできる数少ないことは私もここでポカをすること。そうすれば佳子さんがへこんでしまうのをいくらか軽くできるだろう。 元々立ち会い演説会でもやってしまった私なのだし…… 波乱の入学式もようやく終わった。終わった後、薔薇の館に戻ってきた私たちの話題はもちろん佳子さんのこと一色だった。 「蓉子さまの妹か……」 「ただ……どっちかって言うと祐巳さん見てるみたいだったわね」 「何となく自分でも思った」 正直あそこまでは酷くないと自分では思うのだけれど、妹としては同じだと思ったから、苦笑混じりに由乃さんの言葉に同意を返した。 「そう? 祐巳さんとはまた方向性が違うと思うのだけれど」 志摩子さん、方向性は違うけれど……大きさは似ていると、そう言っているんですか? ……あなたもきついです。 「でも、蓉子さまがわざわざお願いに来たわけが分かったわね」 「うん。よく分かる」 妹さんのことがとても心配なのだろう。リリアンにおける妹であるお姉さまだけでなく、さらにその妹である私のことまで心配して、色々と手を焼いてくれた蓉子さまなのだ…… そして、その蓉子さまが佳子さんのために打った手というのが私たちに頼むということだった。 佳子さんにとってはそうだけれど、私にとって見れば、私が受けた恩を返せる機会が与えられたということになるのかもしれない。何ができるかはまだ分からないけれど、できることがあればこれからもしていこう。 翌日……リリアンかわら版が配られていた。 内容は佳子さんのことだけれど、ただ……ただ、タイトルが『三人目の紅薔薇のつぼみ候補登場か!?』だった。 佳子さんの本当のお姉さまは蓉子さまなのだから、確かに紅薔薇さまの候補、つまりつぼみの候補になるということを連想する人は少なくないかもしれない。けれど、こんな堂々と出すなんて……あるいは、真美さんに気づかれてしまったのだろうか? そして、このかわら版のおかげで困ったことが……私の目の前に座っている瞳子ちゃんと可南子ちゃんがイライラしているのだ。それも特に瞳子ちゃんの方は見るからにイライラのオーラを放ってしまっていて正直怖い。 「まあまあ、勝手に盛り上がってるだけだから……」 「だとしても不愉快です!!」 瞳子ちゃんをなだめようとしたのだけれど、どうもうまくいかなくて、わなわなって手をふるわせている。いったいどうしたらいいものやら…… 「たとえそうでも、本人の方はそうはいかないわね」 「そっか……」 志摩子さんが気づかせてくれたけれど、そう、ずいぶん前の話だけれど私の時だって、みんなの興味が集中してきて、なかなかに凄いことになっていたのだ。佳子さんの場合はあるいはアレをずっと越えるようなものになるのではないだろうか? 「でも私が行くと騒ぎが大きくなりそう……」 だからといっても、私が動けばそれこそ、火に油を注ぐようなものだし、どうしようかと困っていたら、蔦子さんが親指を立てて答えてくれた。 確かに薔薇の館の正規のメンバーでない蔦子さんなら行ってもそれほど大きな騒ぎにはならないだろう。 「ありがとう」 「別にお礼を言われることじゃないわよ」 と言ってどこか楽しそうに首から提げたカメラをなでる蔦子さん……そ、そうか、蔦子さんにしてみれば、凄く良い被写体ということになるのか……さすがだ。 佳子さんはクラスメイトに問いつめられて困り果てていたらしいけれど、無事に蔦子さんが救出することができて、今は写真部の部室にかくまって貰っているのだそうだ。 あんな風に書かれてしまった以上、何がどういう風に転ぶにせよ佳子さんとは話をしないといけないだろうし、と言うことで、良い機会だし早速私の方から出向くことにした。 写真部の部室に入ると佳子さんが疲れた様子で椅子に座っているのが目に入ってきた。 「佳子さん、ごきげんよう」 「え? あ、初めまして……福沢先輩」 福沢先輩……そんな風に呼ばれたの初めてじゃなかろうか? リリアン流ではあり得ない呼び方だけれど、何となく新鮮味もあって良いかもしれない。 「大変だったでしょう?」 「あ、はい……本当に」 「理由は分かっている?」 「はい、おねえ……姉のことですね。正直、あんなになるなんて思っても見ませんでした」 ある程度は覚悟していたけれど、その想像を大きく超えていたと言ったところだろうか?しかし、そんなに緊張されていると話しがしづらい…… 「そんなに畏まらなくて、もっと気楽に話して良いよ。私ってそんなにされるほどの人じゃないし」 そうは言ったのだけれども、表情は緊張したままだった。確かに、私は在校生代表をしていたし、薔薇さまというものについても、もうある程度は耳にしているのだろう。 「う〜ん、今はもっと気楽に話してくれた方が私が嬉しいかな?」 「あ……ありがとうございます」 今度は少し表情を軟らかくしてくれた。まだ、結構残っているけれど、これなら話ができるかな。 「蓉子さまって、本当に凄かったからね……」 「そうですね。しっかり者とうっかり者って……昔からずっと比較されてきました」 しっかり者とうっかり者……今度は何となく私たち姉弟の事が思い浮かんだ。もちろん私達とは色々とレベルが違うけれども、佳子さんって結構似ているのかもしれない。 「でも、良いお姉さんだったんでしょ?」 「ええ、本当にお姉ちゃんの妹に生まれて良かったと思ってます」 本当にそう思っているのだろう笑みを浮かべながらの言葉だった。だから「そっか、良かったね」と声をかけると、佳子さんは蓉子さまとはまた違う、とても可愛い微笑みで答えてくれた。 「佳子さんはどうしてリリアンを?」 蓉子さまに憧れてと言うことなのだろうか? それなら、蓉子さまと同じ中等部から入ってくる気がするのだけれど……まさか、何か凄いポカをして落ちたとか? 試験に間に合わなくなって本命の高校に落ちてしまった人もいるし、ないとは言い切れないかもしれない…… 「お姉ちゃんに勧められたんです。リリアンに入れば佳子も良い意味で変われるって……」 どうやら、中等部を受けたというわけではないと言うことは分かったけれど、そうか、佳子さんがリリアンに来たこと自体蓉子さまが関わってのことだったのか……ひょっとして、ものすご〜く凄いお願いしていきました? 「どうかしました?」 「あ、うん。なんでもないよ、ごめん。蓉子さまがどんな意味で変われるって言ったか分かる?」 佳子さんは首を振った。 「分からないけれど……お姉ちゃんは私には嘘はついたことないから、本当に良い意味なんだと思うけれど……こんなのじゃ変わる前に潰れてしまいそうです」 本心からの言葉なのだろう、言い終わった後深い溜息をついた。 蓉子さまから頼まれていなくたって、こんな佳子さんを放っておくなんて私にはできるわけない。それにそれだけのことだからこそ、私たち姉妹を救ってくれた恩返しになるというもの。 「私は何となく、分かったかな」 「え?」 「正直、私も色々と抜けている人間だから」 「でも、入学式のはわざとですよね?」 「わかってたか」 本人に分かってしまったのでは狙いははずれてしまったかな? けれど何となく感謝を込めたような視線だったから、うまくいったと言えばうまくいったのだろう。でも改めて考えるとすこし気恥ずかしくて……ペロッと舌を出しながら返した。 「ありがとうございます」 「ううん、いいよ。でも、私が抜けているのはホント。リリアンの生徒会は三人の薔薇さま・三人の同格の生徒会長で成り立っているのだけれど、他の二人にはいつもお世話になってばっかり」 本当に私だけだったらいったいどうなっていることやら……想像するのも恐ろしい。 「それに私が見てきた二人の紅薔薇さまは二人とも凄い人。だから、二人の様に立派な紅薔薇さまに……って思った時もあったのだけれど、私なんかがなれるわけないんだよね。だから、自分は自分なりの紅薔薇さまになろうって思って、今やっているの」 「自分なり?」 「そう。自分なり、自分らしさ」 もちろんまだまだだけれど、そんなのを目指している私をみんなは認めてくれた。 「佳子さん、自分のことがあまり好きじゃないでしょ?」 感じ取っていたことを口にしたら、はっとした表情を浮かべた。やっぱりそうだったか、なら間違いないだろう。 佳子さんは少し目を伏せて、しばらくそのままなかなか答えなかったけれど、待っているとゆっくりと頷きを返してくれた。 「蓉子さまが言った良い意味で変われるっていうのは、きっと自分のことを好きになれるように変われるってことだと思うよ」 「福沢先輩も?」 私が佳子さんと似ているところが多かったから分かったのだけれど、その部分は違う。 「うんと、私は元々気楽な人間だからそうでもないんだけれど……きっとそう思うよ」 嘘偽りない、本当にそう思っていると言うことが分かったのだろう。佳子さんは「そうなるといいですね」って期待も込めて呟いた。 あの後、新聞部やクラスやそのほか諸々の対策をしたり、リリアンに早く慣れられるようにって色々と教えてあげる内に、佳子ちゃんも薔薇の館に出入りする人間の一人になってしまった 別にそのことは自体は良いのだけれど……あのかわら版の通り紅薔薇のつぼみ候補の一人とみんなが見るようになってしまっただ。 そして、それは瞳子ちゃん、可南子ちゃんの二人も……最近凄く警戒するようになってきてしまった。 佳子ちゃんはまだ、姉妹制とか殆ど実感を持っていないと思う。けれど、流石なのかもうずいぶんリリアンに適応してきている。そして、姉妹生の意味が分かったとき、どういう行動に出るのか……これから先、色々とやっかいなことが起きそうな予感がしてしまう。 「こう言うつもりはなかったのだけどなぁ……」 「……さすがは、真性の女誑し」 由乃さんの呆れが少し混じった言葉が何となく心に痛かった。 「皆様。ごきげんよう」 今日も佳子ちゃんが遊びにやってきた。