HORRIBLE FANTASIA

CHAPTER4 THE DARKNESS ANGEL

 西暦1996年3月。
 碇ユイは高校の卒業パーティーに出席していた。
 クラスメートの全員が大学あるいは短大に一発合格を決めたという事もあって、それは楽しいパーティーとなっていた。
 中でも、ドイツの大学に入学する事になった惣流キョウコの周りには多くのクラスメートが集まって賑やかに談笑していた。
 彼女はユイとは中学一年から六年間、ずっとクラスメートであり、常にテストで学年一位・二位を競い合ってきた親友でもあった。
 彼女の優秀さはユイも知っている。自分と同じ京都大学にも合格できたであろう。だが、そんな彼女が何故ドイツに行く事になったのか?
 それには、ユイやキョウコをスポンサードしてくれてきたある組織の意向が関係していた。
 その組織はゲヒルンと呼ばれ、ユイの父親も研究者として勤めており、ユイ自身も将来はそこで働こうと考えていた。
 「ユイとは六年間競い合ってきたけど、どうやら引き分けで終わる事になったわね。」
 「あら、大学を卒業した後でも競えるのではなくて?キョウコもゲヒルンに入るつもりなんでしょう?」
 「でも、ユイと同じ部署になるかどうかわからないし…そうだ、別の事で競争しない?」
 「別の事?」
 「どっちが先に結婚できるか?なんてね。」
 そんな、冗談とも本気ともわからない勝負事の約束をして、二人は将来の再会を誓ったのだが…。


 西暦1996年5月。
 京都大学に入学して既に一ヶ月が過ぎ、大学生としての生活にも慣れてきたこの頃、穏やかな陽春の中で昼食を取ろうと弁当箱を片手にユイは中庭を目指してキャンパス内を歩いていた。
 入学当初はいたる所でサークルへの勧誘が行われていたが、今はもうその頃の喧騒はなく、中庭は談笑する者やユイと同じ目的の者がいるぐらいで静かなものだった。
 …その筈だったが、ユイが昼食を食べ終えようとしていた頃、何やら騒ぎが起きた。
 「ちょっと、やめてよ!あんた達に何の権利があって私の活動を妨害するのよ!」
 「うるさい!お前みたいないいかげんな宗教活動されたらこっちが迷惑なんだよ!」
 「そうだ!俺達まで同じ目で見られたらどうしてくれるんだ!」
 …どうやら、何処の大学でもある、よくわからない宗教の布教活動を巡っていろんな宗派の活動家達が揉めているらしい。
 でも、よく見ると、どうやら一人の女性を数人の男性が取り囲んでいるようだ。
 ユイは宗教活動には全然興味は無かったが、この状況は黙って見過ごせる訳ではなかった。
 「あの、失礼ですが、何を揉めてるんですか?」
 「何ですか、貴女は?」
 「こいつの知り合いですか?」
 「いえ、違いますが…。」
 「では、関係ないのなら引っ込んでいてください。」
 「そういう訳にもいきません。どうやら貴方達はそちらの方を非難してるようですが、女性一人を数人の男性が取り囲むと言うのはあまりいい事ではないでしょう?」
 ユイの言葉に痛い所を突かれたのか、女性を取り囲んでいた数人の男性は無言で立ち去っていった。
 「ありがとう。助かったわ。」
 「あ、いえ…。」
 「私、横末リョウコ。貴女の名前、何て言うの?」
 「あ、いえ、別に名乗るほどでも…。」
 「あれ、警戒してるの?勧誘されるかもしれないって?」
 「そういう訳じゃないけど…。」
 「来る者は拒まず、去る者は追わず。それが私のポリシーだけど。」
 「あの、ちなみに何て活動をしているの?」
 「悪魔教の布教。」
 「…悪魔教?」
 ユイはその言葉が何か心に引っ掛かった。
 悪魔…ふと、何かのイメージが脳裏に浮かんだ。何か、黒い禍々しい巨大な影が…。
 「どうかした?」
 “…横末…リョウコ…どこかで聞いたような…。”
 「…デジャビューかな?何となく、貴女とは前に会ったような気がするんだけど…。」
 彼女の言葉にユイは反応した。
 「本当に?私、碇ユイって言うんだけど…。」
 「碇…ユイ………あれ、どこかで聞いた事あるわよ?えーと…。」
 しばし彼女はこめかみに指を当てて思案していたが。
 「もしかして、中二の時に一緒じゃなかった?私が転入してきた時に貴女、クラス委員長だったでしょ?」
 そこまで言われてようやくユイは思い出した。
 「ああ、思い出したわ!確か、一ヶ月ぐらいでまたすぐに転校していっちゃったわね、貴女。」
 「そのとおりよ。こんな所で再会するとは思わなかったわ。」
 「横末さんは何学部?」
 「文学部。碇さんは?」
 「理学部よ。」
 「そっか、学部が違うのなら入学式で顔を合わす事が無かったのも当然ね。」
 「あら、顔を合わせたら思い出していた?」
 「さあ?まあ、それはともかく、碇さんは今日は4コマまであるの?」
 「ええ。」
 「じゃあ、夕食、どこかで一緒に食べない?昔の事とか、今までの経緯とか話しながら。」
 「いいわよ。待ち合わせはここにする?」
 「そうね。じゃあ、17:30にここで。」
 二人は約束してそれぞれの講義を受講する為に別れた。
 ここにはユイの同窓生は一人もいなく、リョウコはユイにとってただ一人の旧友だった。
 中学二年の時の、それもたった一ヶ月だけのクラスメート。
 でも、彼女はユイの初恋を後押ししてくれた、唯一の友人でもあった。


 西暦1991年5月。
 碇ユイ、中学二年生、14歳。成績優秀でクラス委員も務めている。
 六分儀ゲンドウ、中学二年生、14歳。無口で粗暴でいつもケンカばかりしている。
 そんな二人の前に一人の少女が現われたのは、新学期が始まって僅か一ヶ月が過ぎた日の事だった。

 “俺はこの世界が嫌で嫌で堪らない。”
 それは、鉄の味と鈍い痛みと痺れた拳しかないから。
 “一体何の為の世界なんだ。”
 母親の再婚で祖母の家に預けられたゲンドウ。それは、母親から捨てられたも同然だった。父親は既に鬼籍。
 「六分儀くん…またケンカしてる…。」
 「相手、三年生だよ。あんまり見ない方がいいよ。」
 と、三年生の一人がユイ達に気づいて睨んできた。ユイは友人に引っ張られてその場を立ち去ってしまった。
 帰宅時。
 沈み行く夕陽に何か苛立ちを覚え、ゲンドウは吼えた。
 “こんな世界…なくなってしまえばいいのに…。”
 そう思った時、ゲンドウは見た。夕陽を隠すように立つ、黒い巨大な影を。
 “な…なんだ、あれ…人の形なのか?”
 その黒い影…いや、巨人は何をするでもなく、ゲンドウの方を見ていた。
 “俺を…見てるのか?”
 そう思った時、それは音も無くかき消えた。
 「…消えた…。」
 だが、ゲンドウの知らぬ間に、長い黒髪の少女が斜め前に背を向けて立っていた。
 「…いつの間に…。」
 「…それが貴方の本心なの?」
 そう言って少女は振り向いた。前髪で片目を隠し、無表情なままでゲンドウを見つめていた。
 ゲンドウは思わず駆け出していた。
 ゲンドウは帰宅するや自分の部屋に駆け込み、布団の上に身を投げ出した。
 どんなに暴れても、心の闇はちっとも晴れない。
 “俺…なんでここにいるんだろう…こんな世界に…。”
 …それが貴方の本心なの?
 その言葉を思い出してゲンドウは起き上がった。
 “あいつ…誰だ…?”
 同い年ぐらいに見えたが、初めて見る顔だった。

 翌日。
 ゲンドウが登校してきたのに気づいたユイは挨拶しようとしたが、ゲンドウは無視して教室に入った。
 「何あれ…感じ悪い。」
 だがユイは別の事に気づいた。
 「六分儀くん…口の端、怪我してた…昨日のかな?」
 「碇さんもあんな奴放っておけばいいのに…。」
 その日、一人の少女が転入してきた。
 「横末リョウコです。よろしくお願いします。」
 それは、ゲンドウが前日に会った少女だった。
 「席は…ああ、ちょうど碇の横が空いてるな。彼女、クラス委員だから何かあったら相談するといい。」
 ゲンドウはユイの隣に座るリョウコをずっと見ていた。だが、ユイがその視線に気づくとすぐに顔を背けた。
 そして昼休み。
 ゲンドウが一人で本を読んでいると、誰かが前に座った。リョウコだった。
 「ねえ、昨日どうして逃げたの?」
 「何の事だ?」
 「とぼけないで。貴方、逃げ出したじゃない。」
 「何が言いたいんだ、お前?」
 「貴方の本心を聞かせてよ。」
 それに気づいたのはユイだった。
 「…横末さんが六分儀くんと喋ってる…。」
 「本当だ…。」
 「ねえ、碇さん。横末さんにあまりあいつに関わらない方がいいって教えてあげたら?」
 「何で?」
 「だって、あいつのせいで誰かにインネンつけられたら可哀想じゃない。」
 「…でも、六分儀くん、別に悪い人じゃないと思う。」
 「何言ってるの?素行悪いよ、あいつ。」
 だが、ユイは思う。確かにゲンドウは乱暴な所はあるが、真っ直ぐな目をしている、と。それが羨ましい、と。
 それに対し、自分はすぐに下を向いてしまう…人と目を合わせるのが怖くて…。
 放課後。
 「ゴメンネ、碇さん。付き合ってもらって。」
 「ううん、いいの。」
 ユイはリョウコに校内を案内していた。
 「あ…ケンカ…。」
 リョウコの呟きにユイが目を向けると、そこにはゲンドウが三人の三年生相手にケンカしていた。それも、かなり分が悪そうだった。
 “ど…どうしよう…どうしたら…。”
 何とか助けに入りたい…だが、ゲンドウが殴られるのを見て足がすくみ、動けない。
 “み…見なかった事に…。”
 そんな事を考えた時だった。
 「碇さん…見なかった事にする?」
 リョウコの言葉を聞いてはっとしたユイは気づいた。それではいけない、と。
 「生意気なんだよ、お前!!」
 ゲンドウを殴ろうとした三年生のその手をユイはすがり付いて止めた。
 「やめてください!!」
 「何だ、お前!」
 「ケンカはやめてください!一人相手によってたかって卑怯です!!」
 「こいつのクラスの女子だろ。」
 「出しゃばるんじゃねえよ!」
 三年生の拳がユイを襲った。だが、それを受け止めたのはゲンドウの頬だった。
 「六分儀くん!」
 「…おせっかいなんだよ!」
 ゲンドウはぶっきらぼうにユイを押し戻した。
 「嫌いなんだよ、お前の事。」
 その時、騒ぎを聞きつけた教師がやってきた。
 「そこで何をやっている!」
 「げ、先公だ。」
 「やべぇ。」
 三年生達は慌てて逃げていった。
 「六分儀、またお前か。全くお前はどれだけ暴れたら気が済むんだ!」
 自分をつかもうとした教師の手をゲンドウは叩き落とした。
 「六分儀!どこへ行く気だ!」
 「うるさい!俺に命令するな!」
 そう言い残してゲンドウも走り去ってしまった。
 ユイとリョウコは職員室で目撃者として話をする事になった。
 「…それで、碇は止めに入ろうとしただけなんだな。」
 「はい…あの、横末さんに学校の中を案内してて、偶然…。」
 「碇さん、ケガしなかった?」
 「うん…でも、六分儀くんが…。」
 「明日、指導室に来るよう、碇からも言っておいてくれ。それとな、碇…。」
 「はい。」
 「優しいのはいいが、時と場所は選んだ方がいいぞ。お前は成績もいいしクラス委員もしてるんだ。お前に何かあったら大変だろう?危ない事はするんじゃないぞ。」
 「はい…。」
 だが、ユイは肯きながらも違和感を感じていた。
 “何かって、何だろう?…ケンカを止めに入っただけなのに…それは悪い事なの?”

 翌日の国語の授業は手紙の書き方だった。
 授業の最後では実際に便箋に手紙を書く事になった。
 ユイは誰に書くのか…。
 《六分儀ゲンドウ様
  陽射もまぶしく、緑萌える季節です。お変わりありませんでしょうか。》
 “…何か変…。”
 《昨日は助けてくれてありがとう。》
 そこまで書いてユイは消した。
 そんな事を手紙で書く必要は無い。
 《手の怪我、大丈夫ですか?あの後、ちゃんと手当はしましたか?》
 そんな事、話して訊けばいいだけの事だ。でも、同じ教室にいるのに訊けない。何だか空しかった。
 手紙でしか書けない事…それを考えて、ユイが記したのは…。
 《あなたが好きです。》
 一方のゲンドウは…。
 “くだらねえ…。”
 書く相手がいない、何も綴られない手紙など、あったってしょうがない。
 紙飛行機にして窓から飛ばしてしまおうかと思っても、こんなもの誰に届くというのか。
 やがて授業は終了し、手紙は宿題となった。
 手紙を教科書に挟んで鞄に入れ、誰にも見られないようにしてほっとしたユイ。
 が、ふとゲンドウを見ると教師が何か話していた。
 “昨日の…ケンカの事かな…。”
 何かがユイの胸を締め付けた。
 「昨日のケンカの事かしら?」
 「横末さん…。」
 「指導室に来るように伝えろって言われていたものね。」
 「うん…でも、まだ…。」
 でも、言う勇気が無い。それを言って、もし…もしも…また、嫌いだと言われたら…。
 「碇さんは…六分儀くんに嫌われたくない?」
 「横末さん…?」
 これで三回目だ。リョウコがユイの心を言い当てたのは。
 「六分儀くんはきっとみんな嫌いなのよ。」
 “…嫌われるのは…嫌だ…でも…。”
 放課後、帰ろうとしたゲンドウにユイは思い切って声を掛けた。
 「六分儀くん…先生が指導室に来るようにって言ってたわ。」
 だが、ゲンドウは無視して帰ろうとしたので、ユイは思わずその手を引きとめた。
 「あ…ご、ごめんなさい…でも、行った方がいいと思う。」
 「…お前、大人達の言いなりなんだな。」
 ゲンドウはそう言ってユイの手を振り解き、帰っていってしまった。
 ゲンドウの言葉にユイは思わず顔を両手で覆ってしゃがみこんだ。
 “ああ…私、やっぱり…こんな自分が嫌いだ…。”
 先生から危ない事をするなと言われて違和感を感じたのに、結局言われたままの事をしてしまっている…。
 何だか涙が出そうだった。
 と、そこにリョウコが入ってきた。
 「どうしたの、碇さん?」
 「ううん、何でも…。」
 ユイは慌てて立ち上がって平静を装った。
 「さっき、廊下で六分儀くんとすれ違ったわ。」
 「あのね…さっき六分儀くんに指導室に行った方がいいって言ったんだけど…何か嫌われちゃったみたい…。」
 「…ふぅん…。」
 「あっ、聞きたくないよね、私の話なんか…。」
 「…碇さん、自分の事嫌いなの?」
 「え?」
 “まただ…私の事、見透かされてるみたいで…何か苦手だな、横末さん…。”
 「引き留めなかったのね。どうして?」
 「どうしてって…。」
 「碇さんがどうしたいのか、よくわからないわ。」
 「わ、私は…。」
 リョウコに真っ直ぐ見据えられたユイは、自分の気持ちを打ち明ける事にした。
 「私、六分儀くんとお喋りしたい…いつもどんな本読んでるのか、どんなTV見てるのか、いろいろ…でも…。」
 「すぐ、でも、って言うのね、貴女。自分で可能性を切り捨てるのは趣味なの?」
 「!そ、そんな言い方…。」
 「碇さんは六分儀くんが好きなんだと思ったけど…。」
 「好きよ!!」
 思わず言ってしまって、ユイはハッと気づいた。
 「ち、違うの、あの、その…。」
 誤魔化そうとして思わずしどろもどろ。
 「いいのよ、隠さなくても。」
 「やだ、私ったら…お願い、誰にも言わないで。」
 「大丈夫よ。転校してきたばかりだし、言う相手なんかいないから。」
 リョウコは優しく微笑んだ。
 「でも、私…人に好きになってもらえる人間じゃないから…。」
 “あ…また、でも、って言っちゃった…でも、とまらない…。”
 「嫌いだって言われると、ああやっぱりって思っちゃうの…理由、わかるから…。」
 “人の顔色ばかり気にして、自分の気持ち何も言わないで、ただ笑って言う事聞いてへばりついた笑顔…。”
 「だから六分儀くんに嫌いだって言われて、何か納得しちゃって…何も言えなくなって…。」
 「貴女、嘘つきね。」
 「え?」
 「だったら何で誰かを好きになるの?そんな風に彼の一挙手一投足に振り回されて、何かを期待しているからじゃないの?」
 「期待…してる?」
 「貴女が六分儀くんの言葉に傷つくのは期待を裏切られたからじゃないの?」
 「私の…期待…。」
 「彼の思考をわかったつもりでいて、貴女は一体何を知っているというの?貴女の知っている世界と彼の世界はイコールで結べるのかしら?」
 その時、二人の気配を感じたのか、教師が入ってきた。
 「何してるんだ、二人とも。下校時間は過ぎているぞ。早く帰りなさい。」
 「は、はい。」
 「それじゃあね、碇さん。」
 「う、うん…。」
 何を知ってるというの?
 リョウコの言葉はユイの心にずっと響いていた…。
 その夜、ユイは疑問を感じていた。
 TVは20:00までだとか、ちゃんと寝る前に予習復習をしろとか、今のうちに基礎をしっかり作らないと後で辛くなるのは自分だとか…そんな事を母親は言ってきた。
 でもそれは本当だろうか?今のこの状態を、大人になってからよかったと思えるのだろうか?
 “私の事なんて、私にもわからないのに…大人になった私なんて、今の私とどう違うのかしら?…六分儀くんに…。”
 「嫌われたままかな…。」
 ユイは鏡に向かって呟いた。
 “今のままじゃきっとそうだ…私だって今の自分が嫌いだもの…。”
 好きです。
 “言いたい事も言えない…そうね、期待してるんだわ、何もしないでも自分の思い通りになる事を…。
 ―私、何もしてない、何も知らない…なのに、嫌いだって言われて傷ついてる…。
 ―私が何かしたら…今と違う何かをしたら…私はこんな自分を変えられるのかしら?”

 翌朝。
 教室でユイはゲンドウに挨拶した。
 「お早う、六分儀くん!」
 一瞬、教室が静まり返った。勇気を出すあまり、ユイの声は大きくなり過ぎたのだ。
 恥かしくなって自分の席に逃げ帰るユイを、挨拶された当のゲンドウも唖然として見送った。
 「ちょっと、どうしたの碇さん?急にあいつに声なんかかけて…。」
 クラスの女子はユイの行動が信じられない。
 「いいの、私が声を掛けたかったの。」
 “変わるんだ…少しでもいいから、私は彼に近づくんだ…。”
 「碇さんは‘変化’を選択したようね。」
 リョウコがゲンドウに教えてやった。そして問い掛ける。
 「それで、貴方はどうするの?彼女は貴方の嫌いな‘世界’の一部よ?」
 「…。」
 ゲンドウの思いは揺れていた。
 放課後。
 帰るまでにユイはメモ帳に話題を書き出してみた。ゲンドウとの会話に詰まった時のレジュメである。
 “結局、教室じゃお早うが精一杯だったし…でも、校門ならきっと通るから…。”
 そうこうしているうちに、ゲンドウがやってきた。
 「ろっ、六分儀くん。」
 「…何だよ、待ち伏せかよ。何度言われても、指導室には行かないからな。」
 「違…。」
 「あっそ、じゃあな。」
 ゲンドウは帰路に就いた。だが、その後をユイが付いて来る。
 いい加減、鬱陶しくなったゲンドウはついに振り向いた。
 「何なんだよお前、さっきからついてきて!」
 「やっとこっち向いてくれた!」
 「何か用かよ?」
 「用っていうか…。」
 「はっきりしろ!イライラすんだよ。」
 「あの、は、話がしたいの!」
 「…何の話すんだよ…嫌いだって言っただろう。」
 話題のメモをポケットから出そうとしていたユイの動きが止まった。
 「お前の事、嫌いなんだよ。話す事なんかねえよ。」
 「うん…ちゃんと聞こえてる…それでも私、六分儀くんと話がしたい…。」
 「からかってんのか?わざわざ嫌われてる相手と何話したいんだ?」
 「からかってない!私はもっと貴方の事を知りたいと思ってる。」
 「知ってどうするんだよ。」
 「わかんない…どうしたいのかとかは…でも、六分儀くんがどんな人か知りたい…どんな事思ってるのか、とか…。」
 「ほっとけよ、俺なんか!」
 “俺の世界は…汚いんだ…ちっとも俺に優しくないから…だから手当たり次第殴ってみた…でも、血が出て拳が痛いだけだった…それを…。”
 「六分儀くんは…私の何処が嫌い?」
 “!!”
 ユイは両目に涙を溜めて…それでも微笑んでゲンドウに訊いてきた。
 思わずゲンドウはユイの前から逃げ出していた。
 “せいせいした…嫌いだって言ってやった!何も話してやるもんか!”
 ―もう泣きそうだった…瞳に涙を一杯溜めて…ほっときゃいいのに俺にかまうから…ざまあ見ろ、今頃きっと泣き出してる。
 ―嫌いだ!大嫌いだ!あいつも大人も世界も全部、俺が嫌いなんだから…。”
 どんなに自分の心を誤魔化しても、さっきのユイの表情は脳裏からは消えてくれなかった。
 “…何で笑うんだ…ギリギリのツラして…みんな、俺を嫌いになればいいんだ!”
 精一杯駆けてきて、ゲンドウは一息ついた。そしてふと思った。
 “どっちが先だったんだろう?嫌いになったのは…俺か?…世界か?”
 気が付くと、ゲンドウの前には無言のリョウコがいた。
 “なんでいつも、こいつは俺の前に現われるんだ?”
 ゲンドウがその横を通り過ぎた時、リョウコは口を開いた。
 「だから貴方は孤独なのよ。」
 思わずゲンドウは振り向いた。
 ゲンドウに背を向けたまま、リョウコは言葉を続けた。
 「嫌われるから嫌いだなんて、哀しい話ね。」
 そう言い残してリョウコは去っていった。
 その夜。
 “独りでいいんだ…独りがいいんだ…そしたら、残される事も無いんだ…置いていかれて誰かを恨む事も無い…嫌われてイヤな気持ちにもならない…失望されても、悔やむ事は無いじゃないか…俺の世界は、俺だけでいい…独りでいいんだ…。”
 ゲンドウは心の中で繰り返していた…。

 翌日。
 「お早う。」
 ゲンドウが靴を履き替えていると、ユイが笑顔で挨拶してきた。
 「よかった、今日は普通に挨拶できた。」
 ゲンドウはまだ信じられない。昨日、自分の言葉で泣きそうになっていたというのに…。
 「やっぱり私、六分儀くんの事をもっとよく知りたいの。話してほしいの、いろんな事。」
 恋する乙女の一途な純情とでも言うのか、ユイはちっともへこたれていなかった。
 「ねえ、碇くんっていつも本を読んでるの見かけるんだけど、いつも何を読んでるの?」
 「…図書室の本。」
 「…えーと、ジャンルとかは?」
 「別に。何か面白そうだと思ったものだけ。」
 「最近読んだのは?」
 「地獄の季節。」
 「えーと、作者誰だったっけ?」
 「ジャン・ランボー。」
 「ランボー?えーと、ベトナム帰りのグリーン・ベレーの人だっけ?」
 「それはスタローンの映画だろうが!お前、スタローン好きなのか?」
 「いや、先週の土曜日にTVで見たから…。」
 「俺の言ってるのは詩人のランボーの事だ。」
 「そっか、今度私も借りて読んでみようっと。」
 自分は周りを拒否するバリアーを張っているのに、いつの間にかユイは侵入してくる。それも無理やりではなく、穏やかに…。
 何だかユイのペースに巻き込まれていくようで、ゲンドウは不思議な感じがした。
 そして放課後。
 「また明日。」
 ユイはゲンドウに挨拶し、二人は校門で別れた。
 “また明日、か…。”
 何の気無しに、ゲンドウは空を見上げた。
 “空って…こんなに青かったっけ?”
 「もうすぐ夏だからよ。」
 “また、こいつか…。”
 何の前触れも無く、ゲンドウの前に現われるリョウコ。
 「六分儀くん、最近楽しそうね。幸せ?」
 「…何言ってるんだ、お前?」
 「貴方は…何だか自分の居場所を見つけたようだから…それはいい事だと思うわ。でも、気をつけて。入り口が広がれば、貴方の見たくないものまで見えてしまうのよ。」
 ゲンドウの見たくないものとは…。
 「…ちょっとイジワルだったかしら?」
 「お前も…独りなのか?」
 「どうかしらね。」
 曖昧な答えでリョウコは去っていった。

 その日は梅雨が近づき始めて天気が不安定だった。
 「お早う、惣流さん。」
 「お早う、碇さん。何?」
 「今から職員室にプリント取りに行かなきゃ行けないんだけど、一人じゃ運ぶの大変だから…。」
 「…ゴメン、私ちょっと今、手が空いてないから…。」
 「あ…うん、こっちこそごめんね。」
 「碇さん、六分儀くんに手伝ってもらったら?」
 「えっ、あ、そうだね、頼んでみる。ありがと。」
 ユイがゲンドウに頼み込んでいるのを見た他の女子達の言葉は…。
 「うわぁ、碇さん本当にあいつに頼んでる。」
 「真に受けちゃってるよ。」
 「よくあんなのと一緒にいるよね。」
 「ん?どっちが?」
 「どっちもどっちよ。」
 さて、ユイが職員室に取りに行ったプリントは、校庭の草むしりの日程表だった。毎年、クラス毎に放課後に校庭の草むしりをする事になっていたのだ。
 ゲンドウはそれを知らなかった。何故なら、去年サボったからである。
 「ところで、指導室、行った?」
 「いや…。」
 「あのね、ケンカするのって良くないと思う。相手に嫌な思いさせるし、痛いし…。」
 「もう嫌われているからいい。」
 「そういう考え方、良くないよ。嫌われているからケンカしていいだなんて…そんなのまかり通っていたら、今こんなふうに一緒に歩いていたりしてないと思う。」
 そのユイの言葉でゲンドウは確かに感じた。
 “世界が…広がった…。”
 だが…。
 放課後、ゲンドウが指導室へ向かった後だった。
 「あれ?何でみんな帰る準備してるの?ホームルームで今日の放課後、校庭の草むしり当番だってお知らせしたでしょ。」
 「期末近いし…く、草むしりなんてやってられないわよ。」
 「でも、やんないと…。」
 「じゃあ、碇さん一人でやれば。頭いいんだし、ちょっと勉強しなくたって大丈夫でしょ。」
 そう言って女子の数人が帰り始めると他の生徒達も帰り始めた。
 「ちょっと!みんな…。」
 そして、クラスにはユイ一人だけが残された。
 さて、ゲンドウが指導室から解放された頃、空からは既に小雨が降っていた。
 「ちくしょう、とうとう降って来たじゃねえか。」
 だが、ふと校庭の片隅を見ると…何とユイが一人で草むしりしていた。
 「碇!」
 「え?」
 「何でお前一人で草むしりしてんだよ!?」
 「六分儀くんは先生のお説教終わったの?」
 「俺の事はいいんだよ!他の奴等はどうしたんだよ!」
 「あ…帰っちゃった。」
 「帰ったって、お前…。」
 「でも、一人でもできない事はないし…。」
 「バカか、お前!雨も降って来てんのに、律儀に一人でやる事ねぇよ!お前だって帰ればいいんだ!」
 「でも、やらなきゃいけない事はやらないと…夏休みになったらもっと生えるし、運動部も校庭使うし、危ないじゃない。」
 ゲンドウはすぐに傘を持ってユイの元に駆けつけた。
 「六分儀くん。」
 「今日、終わらなかったら、また明日続きをやればいい。俺も手伝うから。それに、こんな雨の中にいたらカゼ引いちまうぞ。」
 「…うん、わかった。」
 実は、責任感で頑張ってきたが、ユイも実は雨に濡らされて少々寒気を感じていたのだ。
 結局、ゲンドウはそのままユイを送っていった。
 「ごめんね、遠回りさせてしまって。」
 「いいって。」
 その時、玄関のドアが開いてユイの母親が出てきた。
 「遅かったじゃないの、ユイ。心配して探しに…。」
 母親はゲンドウの姿を見て口を閉ざした。
 「ごめんなさい、草むしりで遅くなって…それで、クラスメートの六分儀くんに送ってもらったの。」
 「いいから、ホラ早く入りなさい。」
 母親はゲンドウには何の声も掛けずにユイを玄関に引っ張り入れた。
 「また、明日ね。」
 ユイは別れの挨拶をしたが、ゲンドウは無言だった。
 帰ろうとしたゲンドウだったが、すぐにユイと母親の声が聞こえてきた。
 「もうすぐ期末テストでしょ?」
 「でも、クラスのお仕事で…。」
 「何であなただけ遅くなるの!それにあんな子と一緒だなんて、あなたまで悪く思われるでしょ!」
 「違うもん!六分儀くんは悪い人じゃないもん!」
 ユイは何も悪い事はしていない。なのに何故咎められているのか。
 ゲンドウの心は空しさで一杯になった。

 翌日、ユイの姿はなかった。結局、前日の雨のせいでカゼを引いて休む事になったのだ。
 でも、それでよかったのかもしれない。荒れ狂うゲンドウを見なくて済んだのだから。
 「昨日、最初に帰った奴、誰だ。」
 ゲンドウは黒板を力任せに殴りつけてクラスメート全員を威圧した。
 「草むしりだったんだろうが…それを碇一人に押し付けやがって…誰だ!」
 「多分、女子だったな。誰かはわかんねえけど。」
 その発言で一部の女子の表情が青くなった。
 「で、それがわかったらどうするんだ?まさか女子を殴る気かよ?」
 ゲンドウはいきなりその男子を殴りつけた。
 女子の間から悲鳴が上がり、すぐに教師がやってきた。
 「おい、何をやってるんだ!」
 “ちくしょう…こんな事って…。”
 「やめろ、六分儀!落ち着け!」
 「放せよ!こいつら全員殴ってやる!全員殴らねえと気が済まねえんだよ!!」
 “今度は俺だけじゃなく…あいつまで…。”
 貴方の見たくないものまで見えてしまうのよ。
 リョウコの言葉を思い出した時、それは現われた。
 禍々しい黒さの巨大な影。全ての光を覆い隠し、闇に包み込もうとする暗黒の巨人。
 「やっぱり、貴方はこの世界を壊したいのね?」
 ふと気づくと、ゲンドウの傍にリョウコがいた。
 “!!”
 振り向くと、クラスメートの姿が黒く染まって影になっていく。
 “みんなが…闇に飲まれていく…。”
 「これは貴方よ…貴方の心の中に渦巻いていた心の闇…貴方が一番下に隠していた大事なもの…。」
 染まりようがない、だから塗り潰すしかない。
 ゲンドウの世界は闇に包まれていく…。
 だがその時、ユイは胸騒ぎを感じて身を起こした。窓の外を見れば何か黒い巨大な球体が遠くに見える。
 その方向は…。
 “学校に何が…六分儀くん!”
 そしてその頃、既にゲンドウの周囲は何も無い、ただの暗闇になってしまっていた。
 「な…何だこれは…おい、何が一体どうなってるんだ!?」
 ゲンドウはリョウコに喚いた。
 「これはお前の仕業か!?」
 「でも、貴方が望んだ事なのよ。」
 「俺が…望んだ?」
 「孤独への恐怖…焦り、怒り…現状を打破する筈だった暴力、そして同時に現状に追い込んだ、自分を取り巻く世界と人々への憎しみと拒絶…でも、最初に拒絶したのはどっちだったかしら?」
 「それ…は…。」
 ゲンドウは答えられない。
 一方、ユイは微熱はあるものの、母親の制止を振り切って学校へと駆け出していた。
 “六分儀くん…無事でいて…。”
 「じゃあ、お前は一体何なんだ!?」
 ゲンドウはリョウコに問うた。全てが闇に包まれた中に、ゲンドウと同様、明確な姿形を以って存在しているリョウコ。
 「私は使者。」
 「使者?」
 「そう。この世の破滅を願う者の為に遣わされた者。貴方がこの世界にいなければ、私もこの世界に来る事は無かった。」
 「この世の破滅…俺がいたから…俺が望んだから世界は破滅するのか…そんな…。」
 その時。
 「六分儀くん!!」
 どこからか、ユイの声が聞こえてきた。
 「どこにいるの、六分儀くん!!」
 「碇!!」
 ゲンドウがユイに向かって差し伸べようとした手をリョウコがつかみ止めた。
 「連れて行くの?彼女を?でもそんな事したらどうなるかわかってる?見てみなさい、彼女の足元を。」
 ユイが走ったその後にはひび割れが走り、そこから空間が裂け、街が見えている。
 「彼女を受け入れたら、彼女の世界から貴方が否定した世界がまた甦るわ。貴方をさんざん傷つけた世界が…それでもいいの?」
 「六分儀くん、どこにいるの!?無事なの!?」
 ユイは泣きながら走っていた。
 “あいつを泣かせるぐらいなら…俺は…俺は…。”
 ゲンドウはリョウコの手を振り切り、ユイの手をつかんだ。
 「碇!!」
 「六分儀くん!!」
 その途端、二人を激しく強い風が襲った。
 それは、ゲンドウの心の中に吹き荒れていた哀しみの嵐。
 ユイはすぐにわかった。
 それは、母親に捨てられ、傷つけられてきた、ゲンドウの哀しい思い出だという事に。
 だから、ユイは心に強く思った。
 “私は…一人にしない…六分儀くんを…絶対に!”
 「碇…。」
 「六分儀くん…。」
 二人は抱きしめあっていた。
 すると、あれほど荒れ狂っていた嵐はあっけなく治まった。
 そして今、ゲンドウ、ユイ、リョウコがいるのは白い闇の中。
 「…碇さん、貴女は強いのね。あれほど荒れ狂っていた六分儀くんの哀しみの嵐を全て消し去ってしまった。」
 「横末さん…。」
 「後悔しないのね?六分儀くん。」
 「ああ。もし、誰かが碇を傷つけようとするのなら、俺が守ってやる。」
 「そう…それならいいわ。」
 リョウコは微笑んだ。
 その瞬間、黒い闇も、白い闇も消え、二人は教室の中に戻ってきていた。
 ユイはゲンドウの手を握っていた。それにはっと気付いたユイは慌てて手を離した。
 だが、すぐにユイの手をゲンドウが握った。
 「六分儀くん…。」
 ゲンドウの表情は、いつもの険しさが消えた穏やかなものになっていた。
 「…さっきのは…夢?」
 「…わからない…。」
 でも、はっきり言えるのは、世界はちゃんとそこにあり、そして二人が絆を結んだという事。
 「こら、いつまで騒いでるんだ?ホームルーム始めるから全員席に着け。」
 担任の教師が入ってきて、ゲンドウとユイは慌てて自分の席に着いた。
 欠席者はただ一人、リョウコのみ。
 「あー、横末だが、彼女は昨日付けでまた別の学校に転校した。急な話なのでみんなには連絡できなかったが…。」


 再び、西暦1996年5月。
 とあるファミレスでユイとリョウコは再会を祝し、昔話に花を咲かせていた。
 「やっぱり、横末さんって私と六分儀くんの仲を取り持ってくれた、キューピッドみたいな存在だったのよ。」
 「そんな、大袈裟な…で、その後彼とはどうなったの?」
 「彼も中三の時に転校する事になっちゃって、だからそれ以降は手紙や電話でコンタクトしていたんだけど…今は外国を放浪中らしくて、向こうからの便りは届くけど、こちらからは出せない状況。」
 「あらら、貴女を守ってやるとか言ってたくせに…。」
 その時、リョウコのポケットベルが鳴った。
 「ごめん、ちょっと電話してくる。」
 そして、戻ってきたリョウコは済まなさそうに切り出した。
 「あのね、予定が変わって今からミサに出なくちゃならなくなったの。」
 「ミサって…ああ、悪魔教とかの。」
 「悪いわね、碇さんの話を一方的に聞くだけで、私の事話さなくて…。」
 「気にしないで。また今度にすればいいし。あ、そうだ。私時間はまだあるし、そのミサを見学してもいいかな?」
 「残念だけど、それは無理よ。ミサは信者しか参加できないから、見学なんて許されないの。」
 「あら、そう…。」
 「じゃあ、行くわね。それじゃ。」
 リョウコは自分の分のオーダーを持って会計へ行くと、カードで払って足早に出て行った。
 だが、その後、ユイがリョウコと会う事は無かった。

 果たして、リョウコとは何者だったのか?
 ゲンドウが見た黒い巨人と同様、青春の幻影だったのだろうか…?



超人機エヴァンゲリオン3

「妖夢幻想譚」第四章 ダークネス・エンジェル

 完

あとがき