超人機エヴァンゲリオン

第16話

死に到る病、そして

 とある日のいつもの朝食。
 ミサトは椅子に胡坐をかき、ビール片手に味噌汁を啜っている。
 「どうですか、お味噌汁?」
 「どうって、いつもと同じで美味しいわよ?」
 「出汁を変えてみたんですけど…わかりません?」
 「えっ、そうなの?」
 「ええ。カツオ出汁です。リツコさんのお土産。」
 しかし、味覚が常人と異なってるらしいミサトに違いがわかる筈も無い。
 その頃、アスカは朝シャンの為にハミングしながら風呂に入ろうとしていた。
 だが、足を入れた途端。
 「あっつうう〜いっ!」
 風呂場で悲鳴が聞えたと思ったら、アスカが怒りの表情でダイニングに現れた。
 「シンジ!何よ、あのお風呂は!全然熱くて入れないじゃない!」
 だが、ミサトは口にしたビールを噴出し、シンジは硬直して動かない。
 「ア、アスカ、あんたそんなカッコで何やってんのよ!」
 「え…キャアアアアーッ!」
 アスカは頭に血が上ってバスタオルを身体に巻かずに飛び出してきたのだ。ミサトの指摘に気付いた全裸のアスカは先程よりも1オクターブ高い悲鳴を上げて脱衣所に逃げ込んだ。
 “み…見られちゃった…シンジに…加持さんにも見せた事なかったのに…。”
 バスタオルを巻いたアスカはショックでへたり込んでいた。
 一方、シンジの硬直はまだ解けていない。取り敢えずミサトはシンジの持っている鍋をキッチンのコンロに戻した。
 「シンジくん。おーい、シンジくーん…シ・ン・ジ・くぅ〜ん。」
 呼びかけても返事が無いので、ミサトはふざけてシンジの耳に熱い息を吹きかけた。
 「うわわっ!」
 ようやくシンジの硬直が解けた。
 「な、何したんですか、ミサトさん!」
 「なるほどぉ〜、シンジくんはそこが感じるのね。」
 「ミサトさん…。」
 シンジの性感帯?を発見したミサトはふざけた口調で言ったが、シンジの低い声に思わずビクッと身を竦めた。何故なら、それはシンジがキレる前兆だったからだ。
 「ご、ゴメン、シンジくん!もう言わないから!」
 ミサトは両手を目の前で合わせてシンジに謝った。

 その日の夕方もシンクロ・テストが行われた。
 『B型ハーモニクス・テスト、問題無し。』
 『プラグ深度数値を全てクリア。』
 「どぉ?サード・チルドレンの調子は?」
 ミサトの言葉に、マヤはモニターに示されるシンジのデータに目を細めながら答えた。
 「見てくださいよ、これ。」
 ミサトがマヤのモニターを見ると、シンクロ率もハーモニクスもアスカを上回る数値になっていた。
 「ほぉ…これが自信に繋がればいいんだけどね。」
 テストが終了すると、シンジはすぐに通信を入れてきた。
 「ミサトさん、今のテストの結果、どうでした?」
 「ハーイ、ゆーあーなんばーわーん。」
 ミサトはサム・アップして結果を教えた。
 「本当ですか!?」
 「ええ。よくやったわ、シンジくん。」
 「ありがとうございます!」
 シンジは心底嬉しそうだった。
 ゲンドウに誉められて以来、シンジは素直に自分の心情を表現できるようになったようだった。

 テスト終了後、ロッカー・ルームでアスカとレイが帰り支度をしていた。
 「参っちゃったわよねー。あ〜っさり抜かれちゃったじゃない。ここまで簡単にやられると、正直ちょ〜っと悔しいわよねー。」
 アスカはぼやいていたが、レイは我関せずといった感じで無言で着替えていた。
 「スゴイ!素晴らしい!強い!強過ぎるっ!あぁ〜、無敵のシンジさま。」
 芝居がかった仕草でシンジの事を褒め称えるアスカ。勿論、本気ではない。
 「私達もこれで少しは楽できるってもんじゃなーい?でも、私達も置いてきぼりされないように頑張らなくっちゃねー。」
 「お先に。」
 着替え終わったレイはさっさと帰ってしまった。
 その途端、ロッカーの扉に拳を叩きつけるアスカ。
 “悔しい…シンジなんかに負けたなんて…。”
 天才少女と賞賛され、プライドも高かったアスカにとって、努力と言う言葉とは程遠いヤツと考えていたシンジに抜かれたことはショックだった。
 だが、天才とは持って生まれた才能の事であり、凡人がそれに追いつく為に努力するのである。初めて乗った時に既にシンクロ率40%を越えていたシンジこそ天才であり、天才が努力すればどうなるかはリツコもマヤもわかっていた事だった。

 帰路のバスの中、最後部にシンジは座っていた。じっと掌を見つめ、今日のテストを思い出していた。ミサトのゆーあーなんばーわ〜ん。≠フ言葉が耳に甦る。
 “でも、テストはテスト…実戦は違うもんな…。”
 三人の中で一番実戦経験が多いシンジにはわかっていた。


 翌朝。
 いかにも真夏といった上天気の第三新東京市にその物体は突如出現した。
 最初は車よりほんの小さな影だった物が、一瞬にして円を描き広がって巨大な影へと変貌したかと思うと、巨大な球体が上空に出来ていたのだ。近くのビルに止まっていた鳥達は一斉に羽ばたき、逃げて行った。
 何をする訳でもなく、ただ空に浮いているだけの巨大な球体。白と黒のストライプという奇妙なフォルムのそれは、明らかにこの世界とは異質なものだった。第12体目の[使徒]だった。

 『西区の住民避難、あと5分かかります。』
 『目標は微速進行中。毎時2.5km。』
 ネルフ本部にけたたましく警報が鳴り響き、突然に現れた[使徒]の対応に大慌て。
 「ごめん!」
 「…遅いわよ。」
 髪を振り乱して発令所に入ってきたミサトに、いつもの遅刻を冷静に指摘するリツコ。
 「どうなってるの!?富士の電波観察所は!?」
 「探知していません!直上にいきなり現れました!」
 「パターン・オレンジ!ATフィールド反応無し!」
 「どういう事!?」
 「新種の使徒!?」
 青葉と日向の報告にミサトとリツコも事態が理解できない。
 「MAGIは判断を保留しています!」
 「くっ!こんな時に碇司令はいないのよね…。」
 メイン・モニターに映る[使徒]を見ながら、判断に迷うミサトは茫然と呟いた。
 だが、ネルフ副司令の冬月が司令席ごとエレベーターで上がってきた。

 [使徒]は攻撃をしてくるわけでもなく、静かにゆっくりと第三新東京市上空を進んで行く。
 冬月の命令で出撃したEVA各機はビルの隙間から[使徒]の様子を伺っていた。
 「みんな、聞こえる?目標のデータは送ったとおり、今はそれだけしかわからないわ。慎重に接近して反応を伺い、可能であれば市街地上空外へ誘導を行う。先行する一機を残り二機が援護。いいわね?」
 ミサトにより作戦内容がパイロットに伝えられた。
 「先行するのは…。」
 『私が行くわっ!』
 ミサトが言う前にアスカが名乗りをあげた。
 『シンジとファーストはバック・アップよ。』
 『大丈夫なの?アスカ。』
 『何よ、不満でもあるの?』
 『いや、別に無いけど慎重に頼むよ。前だって慌てて攻撃して逆襲されたんだから…。』
 第七番目の[使徒]イスラフェルと戦った時の事を持ち出してシンジはアスカを冷静にしようと思ったが、逆効果だった。
 『う、うるさいわねっ!たかがテストで一番になったからって威張るんじゃないわよ!』
 『別に威張ってないだろ!』
 『とにかく、あんた達は黙って私の戦い方を見ておけばいいの!』
 『わかったよ。お手本ってのを見せて貰おうじゃないか!』
 『いいわね、ミサト。』
 「ちょっとあんた達、私を無視して話を進めて…。」
 「いいじゃないの、何事もやる気が一番大事よ。」
 リツコも同意したのを聞いてアスカはますます自信を持った。
 『決まりね。』
 『零号機、バック・アップにまわります。』
 『初号機もバック・アップにまわります。』

 特別非常事態が発令され、一般車両が走行禁止となった道路。EVA弐号機は[使徒]の様子を窺いつつ進み、かなりの近距離まで迫っていた。
 EVAに電源を供給するアンビリカル・ケーブルが、路上に長く伸びている。
 「…シンジ、そっちはどう?」
 EVA弐号機はビルの影で待ち伏せする様にソニック・グレイブを構えて隠れ、アスカは後続の二人に話しかけた。
 「八時方向距離100mって所だ。」
 「ファーストは?」
 「ちょっと待って…電源交換中。」
 EVA零号機はアンビリカル・ケーブルがビルに引っ掛かって動けなくなり、近くの電源ソケットを探していた。
 今までの戦闘と違い今回はゆっくり進む[使徒]に合わせての作戦であり、[使徒]が進めば当然のごとくEVAも進む。それ故に第三新東京市の入り組む街並みが、EVAの命綱のアンビリカル・ケーブルが引っかかったり、足りなかったりで移動の邪魔をしていた。
 “…まだ?…。”
 既に[使徒]が至近距離に迫っていた。
 “ここまで近づけば一撃で…。”
 アスカは握っていたレバーをギュッと強く握って意を決した。EVA弐号機がビルの影から出て、猛然と走り出し、ジャンプ。
 「でぃえええーいっ!」
 ソニック・グレイブが[使徒]を一刀両断…するかと思ったが、その直前で[使徒]は忽然と姿を消した。
 「消えたっ!?」
 リツコが思わず声に出した。
 そこに、解析終了を知らすアラーム音が鳴った。
 「何っ!?」
 ミサトの問いに日向が答えた。
 「パターン青!使徒発見!弐号機の直下です!」
 EVA弐号機の足元に突然影が現れ、広がった。だが、上空には影を落とすような物体は何も無い。と、影が一瞬にして真っ黒になった。そしてその直後、何とEVA弐号機は地面の中にゆっくりと沈み始めた。
 「な、何よこれえぇーっ!」
 まさかこの影が?と思ったアスカはソニック・グレイブを突き刺すが、それも地面に沈み込んでいった。
 ふと見上げると、上空に先程の[使徒]が突然出現していた。
 「ど…どうなってるのよ、これっ!?」
 「アスカ!逃げるのよ、早く!」
 だが、EVA弐号機は既に腰まで沈み込んでおり、最早身動きが取れない状態だった。
 『シンジくん!レイ!アスカの救出急いで!』
 「了解!」
 ミサトの命令にEVA零号機とEVA初号機が影に接近し、手にしていたパレット・ライフルの弾丸を撃ち込むが、やはり何の効果も無い。
 「た、助けて、シンジっ!」
 「アスカっ!」
 『シンジくん、待ちなさいっ!』
 助けを求めるアスカの声にシンジはミサトの制止の声を無視して、躊躇う事無く影に踊り込んだ。EVA弐号機のすぐ傍に着地し、一気に膝まで沈み込んだものの、沈み行くEVA弐号機の背中から両脇に手を入れて、一気に引き抜いて後方に投げ飛ばす。
 そこにはEVA零号機が待っていた。が、落ちてくるEVA弐号機を受け止めるかと思ったEVA零号機は横に移動してそれをかわしてしまった。
 EVA弐号機は地面に激突した。
 「こらああぁ〜っ!何避けてるのよファーストっ!」
 だが、その時、EVA弐号機を投げ飛ばしてバランスを崩したEVA初号機が影の中に倒れ込み、あっという間に影の中に没してしまった。
 「シンジくん!」
 ミサトの悲鳴が発令所に響いた。
 「碇くん!」
 EVA零号機が慌てて駆け出そうとしたが、お返しとばかりにEVA弐号機が足を出し、引っ掛かったEVA零号機はスっ転んだ。
 『何やってるのよ、あんた達はっ!!』
 ミサトの怒声にアスカとレイははっと気付いて醜いいがみ合いをやめる。
 広がる影が目の前に迫ってきている。
 EVA零号機は後方に逃げ、EVA弐号機は慌ててビルによじ登った。ところが、今度はビルまでも影の中に沈み始めた。
 「嘘おぉ〜っ!」
 慌ててさらにビルの屋上まで上ると、驚愕の光景がアスカの目に飛び込んできた。街が広大な影に飲み込まれていこうとしているのだ。
 『アスカ、レイ、後退しなさい。』
 「でも…。」
 「待って!まだ碇くんが!」
 アスカがミサトに反論するより先にレイが声をあげていた。
 だが、ミサトは顔を伏せたまま言った。
 「命令よ…後退しなさい。」
 シンジを残したままの後退は決してミサトの本意ではなかった。だが、それが軍人としてのミサトの役割だった。
 「シンジ…シンジいぃーっ!」
 アスカの悲鳴が響き渡った。
 EVA初号機のアンビリカル・ケーブルはさらにどんどん飲み込まれていった。

 ミサトと日向の乗ったネルフのヘリコプターが球体のすぐ近くを飛行していた。だが、[使徒]には何の変化も現れなかった。

 第三新東京市郊外にある、[使徒]を一望出来る公園にネルフの臨時作戦本部が設営された。
 「葛城三佐、辛いでしょうね…。」
 [使徒]観測室のマヤも辛そうな口調でリツコに話を振った。
 リツコは冷静に科学者らしく分析を続けている。
 「さっき、アンビリカル・ケーブルを引き上げてみたら、先は無くなっていたそうよ。」
 「そ、それじゃ…。」
 「内蔵電源に残された量はわずかだけど…。シンジくんが闇雲にEVAを動かさず、生命維持モードに切り換えれば16時間生きられるわ。」
 その16時間でなんとかシンジとEVA初号機を救出するべく、まずは今回の[使徒]の分析を急ぐリツコだった。

 近くの教会の鐘が鳴り響き、夕日が跪くEVA各機を赤く染めている。
 『第2戦車小隊、配置完了。』
 『了解。現在位置のまま待機。』
 『サブレーダー回線開きます。情報送れ。』
 『確認。C回線にて発信。』
 作戦本部にもレーダーのアンテナを装備した車両が何台も停車しているが、ここからの通信ではない。
 「国連軍の包囲、完了しました。」
 青葉が車両の外で双眼鏡で[使徒]を覗いているミサトに報告する。
 「…影は?」
 「動いていません。直径600mを越えたところで、停止したままです。…でも、地上部隊なんて役に立つんですか?」
 「プレッシャー掛けているつもりなのよ…私達に。」
 日向の疑問に、ミサトは双眼鏡を降ろして答えた。攻撃すると上空の球体は一瞬で消える、暗黒の影はどんな攻撃を受けても何の効果も無い。国連軍の通常兵器など役に立つどころかジャマもいいところだ。

 「まったくドンくさいんだから、シンジは。やりようなら他にいくらでもあったのに、身代わりになるなんて。犠牲精神もいいけど、後に残った人の気持ちも考えろってのよ。」
 アスカはシンジに助けられたにも拘らず、シンジにケチをつけていた。
 と、レイがアスカの前に立った。
 「貴女、碇くんに助けられて、よくそんな事が言えるわね。」
 「な、何よ、シンジの悪口言われるのがそんなに不愉快?」
 が、レイはいきなりアスカの頬を張った。
 「な、何すんのよっ!」
 アスカも張り返そうとするが、レイはスウェー・バックでかわした。
 「やめなさい、貴女達。いがみ合ってる場合じゃないという事がわからないの?」
 ミサトの冷たい声がレイとアスカの睨み合いをとめた。
 「アスカ…一人になりたければ、構わないわ。」
 ミサトにはわかっていた。アスカは周囲に人がいるから自分の心に嘘をついていただけだという事に。
 「ごめんなさい…。」
 アスカは素直にミサトに謝り、一人になれる場所を探しに行った。
 「葛城三佐…碇くんはどうなったんでしょうか?」
 レイの質問にミサトは首を振った。
 「わからないわ…今はただ、信じるだけよ。」

 第三新東京市に出現した平面状のブラックホール。ビルの中にいてそこに飲み込まれた人はどうなったのだろうか?



EXTRA HUMANOIDELIC MACHINARY EVANGELION

EPISODE:16 Splitting of the Breast



 薄暗いエントリー・プラグ内。
 シンジは目を開いて呟く。
 「眠る事がこんなに辛いなんて知らなかったな…。」
 レバーにあるスイッチを押すとプラグの壁が七色に変わっていき、最後はプラグのフレーム以外が真っ白になった。
 「やっぱり、真っ白か。レーダーやソナーは返ってこない…空間が広すぎるんだ…。」
 再びスイッチを押して生命維持モードに戻し、プラグ・スーツに備え付けられている腕時計を見る。
 「生命維持モードに切り換えてから12時間…僕の命もあと残り4、5時間か…お腹空いたな…。」
 シンジは再び目を閉じた。
 暗黒の影に飲み込まれたのに、何も無い白い空間の中にいるEVA初号機。
 いや、何も無いわけではなかった。何かがEVA初号機に近づいてくる。それは人間サイズの巨大な水晶のような物体だった。そしてその中に人影が見えた。その人影は、ネルフ諜報部によって心臓を打ち抜かれ、谷底に落下した筈のクミだった。

 時刻は既に深夜になっていた。
 [使徒]の解析が終了し、野外で開かれた説明会のホワイト・ボードには赤木リツコ講師による難解な数式とグラフが書かれている。
 「じゃあ、あの影が使徒の本体な訳?」
 「そう。直径680メートル。厚さ3ナノメートルのね。その極薄の空間を内向きのATフィールドで支え、内部はディラックの海と呼ばれる虚数空間…多分、別の宇宙につながっているんじゃないかしら?」
 リツコの推論に、引っかかる物を感じたミサトは挙手して質問する。
 「あの球体は?」
 「本体の虚数回路が閉じれば消えてしまう…上空の球体こそが影にすぎないわ。」
 「初号機を取り込んだ黒い影が目標か…。」
 ミサトは後ろを振り向き、第三新東京市に浮かぶ使徒を睨む。
 “そんなの…どうしようもないじゃない…。”
 俯いたアスカの握られた拳が絶望的状況に震えていた。

 今日は日曜日。ベッドから抜け出したクミは、白のキャミソールとショーツというしどけない姿のまま、髪の毛をブラッシングしていた。しかし、自分のいるビルが暗黒の影に飲み込まれ、いきなりディラックの海が下から迫ってきたのに気付いたクミは慌てて水晶体を使って危機を逃れたのだった。
 全てが無に帰する空間の中で何故か存在しているEVA初号機とその前に浮かぶ水晶体。
 クミはEVA初号機を間近で見て驚いた。
 「これは…超人機…。」
 汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン。だが、クミはそれを違う言葉で呼んだ。超人機とは何か…。

 シンジははっと不快さに気付いて目を開いた。LCLの中を目に見える粒子が幾つも漂っている。
 「水が濁ってきている?浄化能力が落ちてきているんだ!」
 そして、臭いも感じる。
 「ぐっ…生臭い!…血…血の臭いだ!」
 シンジは取り乱し始めた。
 「い、嫌だ!こんな所…。」
 慌ててハッチのレバーを引くが全く動かない。
 「くそっ、何でハッチが開かないんだよ!誰か開けて!ここから出して!ミサトさん!リツコさん!」
 中からハッチを叩いて外に音を出して気付いて貰おうとするが、無意味だという事に気が付かないシンジ。
 「お願い…誰か助けて…。」

 作戦部トップと技術部トップの2人だけによる作戦会議が行われている。
 「EVAの強制サルベージ!?」
 リツコより提案された作戦に、ミサトが驚愕の声を漏らした。
 「現在、可能と思われる唯一の方法よ。992個、現存する全てのN2爆雷を中心部に投下。タイミングを合わせて残存するEVA二機のATフィールドを使い、使徒の虚数回路に1/1000秒だけ干渉するわ。その瞬間に爆発エネルギーを集中させて使徒の形成するディラックの海ごと破壊する。」
 「でも、それじゃあEVAの機体が…いえ、シンジくんがどうなるか!救出作戦とは言えないわ!!」
 あまりに無茶すぎる作戦内容にミサトは反論した。
 「作戦の目的はEVA初号機の回収を最優先とします。」
 「ちょっと待って!」
 「この際、パイロットの生死は問いません。」
 「リツコ!」
 シンジの命よりEVA初号機の方が大事だというリツコの言葉に激昂したミサトは思わずリツコの頬を叩いていた。
 「シンジくんの命を何だと思ってるのよ!」
 「方法はこれしか無いわ!」
 「…碇司令や貴女がそこまで初号機に拘る理由は何!?EVAって何なの!?」
 リツコの襟元を掴んで問い詰めるミサト。リツコは答える。
 「貴女に渡した資料が全てよ。」
 「嘘ね!」
 ミサトは一方的に決め付けて吐き捨てた。
 「…私を信じて、ミサト…。」
 その真剣な眼差しに、自分にはできる事は何も無いとわかっていたミサトはリツコを放した。
 「今回の作戦は私が指揮を取ります。」
 そう言ってリツコは歩きながら電話を掛け始めた。 
 「早速準備に取りかかるわ…ええ、航空管制と空自の戦略輸送団に連絡を。」
 ミサトの横をすり抜け、リツコはテキパキと指示を出しながら自分の仕事場へ向かった。
 “セカンド・インパクト…補完計画…アダムだけじゃない…まだ私の知らない秘密があるのね…。”
 ミサトの心に芽生えていた微かな不信感は大きくなり始めた。

 電車の踏切警告音にシンジははっとした。
 「…誰?」
 見た事も無い、床が板張りの古びた電車の車内のようなところに彼はいた。しかも、プラグ・スーツではなく学生服に着替えて座席に座っていた。窓が夕焼けに赤く染まっている。そのせいでよく見えないが、シンジの前には誰か座っているようだった。
 「…誰?」
 「碇シンジ。」
 「それは僕だ。」
 「僕は君だよ。人は自分の中にもう一人の自分を持っている。自分という物は二人で出来ているものさ。」
 「二人?」
 「実際に見られる自分とそれを見つめている自分だよ。碇シンジという人物だって何人もいるんだ。葛城ミサトの心の中にいる碇シンジ。惣流アスカの中の碇シンジ。綾波レイの中の碇シンジ。みんなそれぞれが違う碇シンジだけど、どれも本物の碇シンジさ。」
 禅問答のような会話が続く。
 … … … … 
 「僕が生きていくには、この世界には辛い事が多すぎるんだ。」
 「例えば、泳げない事?」
 「人間は、水に浮くようにはできていないんだ!」
 「自己欺瞞だね。」
 「呼び方なんてどうでもいいさ。」
 「嫌な事には目を瞑り、耳を塞いできたんじゃないか。」
 シンジがシンジを責める。
 「嫌だ!聞きたくない!!」
 両耳を手で覆うシンジ。
 「ほら、まただ。楽しい事だけを数珠のように紡いで生きていられる筈が無いんだよ。特に僕はね。」
 「…楽しい事を見つけたんだ…楽しい事を見つけて、そればっかりやってて、何が悪いんだよおぉーっ!」

 弱っていくシンジ。
 「…僕は嫌だ…一人はもう…嫌だ…。」 

 作戦準備が着々と進む中、指揮車両に何かの警告音が鳴り響いた。
 「何の音!?日向君!?」
 「エントリー・プラグの予備電源。理論値ではそろそろ限界です。」
 ミサトが日向のモニターを見ると赤いマークが点滅している。
 「プラグ・スーツの生命維持システムも危険域に入ります。」
 「リツコ!」
 マヤの報告に、ミサトはモニターに映る[使徒]を見つめているリツコに視線を向けた。
 「12分予定を早めましょう。シンジくんが生きている可能性がまだある内に。」

 シンジははっと目覚めた。
 「…保温も酸素の循環も切れてる…。」
  既にLCLの温度も下がっており、寒気を感じたシンジは膝を抱えて身体を丸めた。
 「…寒い…だめだ…スーツも限界だ…。」
 プラグ・スーツのバッテリー切れを警告するランプが点滅している。
 「…ここまでか……もう疲れた…何もかも…。」
 全てに絶望し、目を閉じたシンジ。後は死を待つばかりなのか…?
 が、少しして、プラグの下方から光がこぼれてきた。
 光に包まれた手が優しくシンジの頬を撫でた。その暖かさにシンジは目を開いた。
 誰かはわからない、しかし優しく暖かな光に包まれた女性のイマージュがシンジの目の前にあった。
 シンジは何かを感じ、呟いた。
 「…お母さん?…。」
 シンジの脳裏には母との思い出が甦っていた。それは、3歳頃の自分、そして母。
 シンジはあどけない笑顔を見せていた。そのシンジに語りかけてくる母。
 「もういいの?そう、よかったわね。」

 夜は明け、朝になっていた。
 『EVA各機、作戦位置。』
 『ATフィールド発生準備よし。』
 『了解。』
 『N2爆雷投下60秒前。』
 5機編隊を組んでN2爆雷を運ぶ重爆撃機の飛行機雲が、空に幾つもの5本線を描く。
 だが、N2爆雷投下の最終カウント・ダウンが開始されようとした瞬間、激しい地響きと共に大地即ち[使徒]の暗黒の影に亀裂が走った。何故か割れた影の内面は真っ赤で、割れる度に赤い飛沫も上がっていく。
 「何が始まったのっ!?」
 アスカが眉を震わせ怯えた声を出した。
 [使徒]の影は悶え苦しむかのようにうねり蠢いている。
 「状況はっ!?」
 焦り声で情報を求めるミサト。だが。
 「わかりません!」
 「全てのメーターが振り切られています!」
 返ってきた日向とマヤの報告は役に立たない。
 「まだ、何もしていないのに!」
 「まさかシンジくんが!?」
 [使徒]を茫然と眺めながら呟いたリツコにミサトが問うが、リツコは信じられないという表情をミサトに向けた。
 「有り得ないわ!初号機のエネルギーはゼロなのよ!!」
 少し遅れて上空に浮かぶ[使徒]も脈打ち始めた。白と黒のストライプ模様が消え、影と同じ真っ黒の球体に変貌する。
 突如、球体をその中から突き破って腕が現れ、突き破られた部分からは真っ赤な血の様な液体が吹き出した。
 その光景を息を飲んで見つめるミサト達。
 《グフゥゥゥゥゥゥ・・・。》
 突き破った位置を起点にして球体を強引に引き裂き、低い唸り声を漏らしながらEVA初号機の頭が出てきた。
 《グフゥゥゥゥゥゥ・・・。》
 遂にEVA初号機の上半身の全てが現れ、出来た亀裂が球体全体に広がってゆく。
 《ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンっ!!》
 全身を[使徒]の血で真っ赤に染め、EVA初号機は空に向かって獣の様な雄叫びをあげた。
 「私…こんなのに乗っているの?…。」
 怯えながらEVA初号機を見つめるアスカ。対照的にレイは無言のまま表情を引き締めて初号機を見つめていた。
 「何て物を…何て物をコピーしたの?私達は…。」
 あまりの光景にリツコですら怯えていた。その隣でミサトは俯いて厳しい表情で思案していた。
 “EVAがただの第一使徒のコピーなんかじゃないのはわかる。でもネルフは、使徒全てを倒した後、EVAをどうするつもりなの?”
 《ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンっ!!》
 完全に球体=[使徒]を引き裂き、ひび割れた大地に着地するEVA初号機。衝撃で[使徒]の真っ赤な液体に塗れた破片が飛び散った。
 《グフゥゥゥゥゥゥ・・・。》
 朝日を浴びながらEVA初号機は、低い唸り声をあげていた。

 「*****…****ん…***くん…**ジくん…*ンジくん…シンジくん…シンジくんっ!」
 自分を呼ぶ声に気付き、シンジはゆっくりと目を開けた。
 それを見たミサトは瞳から涙をこぼし、エントリー・プラグ内に残るLCLに服が濡れるのも厭わず、シートに座るシンジを抱きしめた。
 「…ただ…会いたかったんだ…もう一度…母さん…。」
 焦点の定まらない目のまま、ただそれだけ呟いてシンジは再び意識を失った。

 回収され、ケージで洗浄されているEVA初号機。
 その前にオレンジのレイン・コートを来たゲンドウとリツコが立ってEVA初号機を見上げていた。
 「葛城三佐、何か気付いているようです。」
 リツコはゲンドウに報告した。
 「そうか…。」
 ゲンドウはそう呟いただけだった。
 「…レイやシンジ君がEVAの秘密を知ったら、許して貰えないでしょうね、私達…。」
 リツコはゲンドウに呟いた。

 ふと目覚めると、シンジはやはり病室にいた。これで何度目だろう、等と思ったシンジは、自分の胸に何か重いものが乗っているのに気付いた。
 それは、ずっとシンジの傍に付いていたが、とうとう睡魔に襲われてシンジの胸の上で眠ってしまったアスカだった。
 「…アスカ…アスカ…アスカ…。」
 声を掛けてもアスカは作戦の疲れで寝入っているようでなかなか起きなかった。
 「…アスカ…重いんだ…起きてよ…。」
 シンジは空いてる方の手でアスカの肩を揺すった。
 「…うぅ〜ん…今、何時〜…。」
 「多分、お昼近いんじゃないかな?」
 「嘘っ!?完全に遅刻じゃ…。」
 アスカは跳ね起きて意味不明の事を口走ったかと思うと、はっと気付いた。
 「シ、シンジ…。」
 「お早う、アスカ。」
 「シンジ…シンジいぃ〜っ!」
 いきなり涙を溢れさせながらシンジに抱きついたアスカ。予想外の展開にシンジは慌てた。
 「な…ど、どうしたの、アスカ?」
 「…ごめん…ごめんね、シンジ…。」
 アスカは泣きながらシンジに謝った。
 「…私を助ける為に…危ない目に遭って…。」
 アスカは愚図りながら涙声で言葉を繋ぐ。
 「…アスカ…どうしたの?いつもと違うよ?」
 シンジの知ってるアスカはいつも自信満々でプライドが高くて勝気で我儘なお姫様だったのだが、今のアスカは全然正反対だった。
 「私…わかったの…人を認めなきゃ…わかり合わなきゃいけないって事に…。」
 人は完全にはわかり合えない。
 誰かがそう言った。でも、今アスカは自分とわかり合おうとしている。
 時と場所と状況によって物事は全て変化する。
 クミの言葉の意味がシンジにもなんとなくわかってきた。
 「アスカ…もう泣き止んで…僕は、アスカが助けを求めたから、助けに行ったんだ。」
 「シンジ…。」
 アスカは涙に濡れた顔を上げた。
 「僕達はパートナー。助けるのは当然だよ。」
 アスカは涙を拭って肯いた。
 「ありがとう…シンジ…。」
 アスカはそれきり黙ってしまった。
 そして、何を思ったか、いきなり目を閉じてシンジに顔を寄せた。
 “!”
 キスを求めているのは明白だった。
 「…キスの反対は?」
 シンジはいきなりアスカに問い掛けた。
 「…何?」
 アスカは目を開けた。キスの反対なんて言葉、あっただろうか?
 「スキだよ、アスカ。」
 そう言ってシンジはアスカにキスした。
 アスカはシンジの不意打ちに驚いたが、元々自分が求めた事だしすぐに目を閉じてシンジの背中に手を回した。
 “私も…シンジの事、スキ…。”



超人機エヴァンゲリオン

第16話「死に到る病、そして」―――水晶

完
あとがき