超人機エヴァンゲリオン

第15話

嘘と沈黙

 芦ノ湖上空を行くネルフのヘリコプター。乗っているのはゲンドウと冬月。
 「第2、第3芦ノ湖か…。これ以上、増えない事を望むよ。」
 [使徒]との戦闘によって出来た新しい湖を眼下に眺めながら、冬月は溜息混じりに呟いた。
 「ところで、昨日キール議長から計画遅延の文句が来たぞ。お前の所ではなく、俺の所に直接。」
 「ADAMは順調だ。EVA計画もダミー・プラグに着手した。ゼーレの老人は何が不満なんだ…。」
 いつものポーズをとるゲンドウ。
 「肝心の人類補完計画が遅れている。」
 「全ての計画はリンクしている。問題無い。」
 「まあいい。…ところであの男はどうする?」
 「好きにさせておくさ。マルドゥック機関と同じだ。」
 「もうしばらくは役に立って貰うか…では、あの小娘は?諜報部も捕縛に失敗したぞ?」
 「致し方ない。敵は排除するのみだ。」
 掌上の男はそのままにしておけるが、手に負えない少女にはより強硬な手段を取るしかないようだ。
 ヘリコプターの前方、箱根の山々の裾に第三新東京市のビル群が見えてきた。

 <京都>
 古都らしく、どこぞの寺社の鐘の音が静かな住宅街に響き渡った。
 「16年前…ここで何が始まったんだ…。」
 野晒しになったままのとある廃屋の入り口に立ち、少し中の気配を伺ってから加持は中へ入って行った。しかし、中はもう何年も使われていないようで、事務机に事務椅子、そして今では全く見なくなった黒いレトロなダイアル電話が机の上に乗っているだけだ。
 注意深く壁を背に机の脇まで来た時、入り口の扉の鍵が静かに回された。すかさず加持は懐の銃に手を添えて備える。
 だが、扉は静かに少し開いただけで何も起こらない。
 加持は懐に手を入れたまま、扉の脇に立って警戒する。
 「私だ…。」
 「ああ、あんたか…。」
 聞き覚えの有る声に加持は警戒を解いた。扉の隙間から外を覗くと、スーパーへの買い物帰りらしき中年女性が座って、野良猫達にネコ缶を与えていた。
 傍に停まっている赤いスクーターの籠にはネギの突き出たスーパーのビニール袋が入っている。
 「シャノン・バイオ。外資系のケミカル会社…。9年前からここにあるが、9年前からこの姿のままだ。マルドゥック機関と繋がる108の会社の内、106がダミーだったよ。」
 「ここが107個目というわけか。」
 先日のクミとの密会時と同様に、お互いにしか聞こえない様な小声で話す二人。
 「この会社の登記簿だ。」
 「取締役の欄を見ろ…だろ?」
 中年女性は情報雑誌を開くが、ページの上には古びたファイルが開かれていた。
 「…もう知っていたか。」
 「知ってる名前ばかりだしな…。マルドゥック機関。エヴァンゲリオン操縦者選出の為に設けられた人類補完委員会直属の諮問機関。組織の実態はいまだ不透明。」
 登記簿には碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、キール・ローレンツその他の名前がある。
 「お前の仕事はネルフの内偵だ。マルドゥックに顔を出すのはまずいぞ。」
 「ま、何事もね…自分の眼で確かめないと気が済まない性質なんでね。」

 焼却炉の近くで電話の呼び出し音を聞いているアスカ。
 『はい、加持です。只今外出しています。ご用件の方はお名前とメッセージをどうぞ…。』
 それを訊いたアスカはいきなりわざとらしい悲鳴を上げる。
 「きゃーっ、加持さん助けてぇ!いやあーっ、何するのよぉーっ!」
 それだけ言って電話を切る。
 「なーんてね…。」
 「どうしたのかな?」
 誰かが背後からいきなりアスカの胸を揉みしだいた。
 「きゃあああーっ!」
 今度こそ本当の悲鳴を上げるアスカ。
 「だっ、誰よっ!?」
 慌てて飛び退いて振り向くと、そこにはにっこり笑顔のクミがいた。
 「ま、真辺先輩…冗談はやめて下さい…。」
 アスカは一気に脱力した。
 「冗談で携帯に嘘の悲鳴を入れてたのはアスカちゃんでしょ。」
 「み…見てたんですか…。」
 アスカは真っ赤になって目を逸らす。
 「どっちかと言えば、私は加持さんよりシンジくんの方がアスカちゃんにお似合いだと思うけどな。」
 クミはゴミを焼却炉に入れながらアスカに言った。
 「それこそ、冗談きついわ。何で私があんなお子様な奴と…。」
 「そういう事で男性を小馬鹿にしているようじゃ、貴女もお子様よ。」
 クミは指を立てて左右に振りながらアスカを諭す。
 「違うもん!私はもう大人だもん!きっといつか加持さんも私の魅力に気付いてくれるわ!」
 アスカはムキになって言い返した。
 「…憧れは、憧れにしか過ぎないのよ…。」
 クミは目線を落としながら静かに言った。
 「…どういう意味ですか?」
 「自分で考えなさい。」
 クミはゴミ入れを持って去っていった。

 その頃、クミとアスカの話題になっていたシンジは、教室である光景を言葉無く見ていた。視線の先には、教室の隅で雑巾を絞るレイがいた。シンジはその姿に見惚れていたのだ。
 「めーん!」
 と、突然羊歯箒の先がシンジの頭を打った。トウジと剣道ごっこの最中だったのだ。
 「真面目にやらんかい!」
 トウジがシンジに怒ると…。
 「真面目にやるのは掃除でしょ!」
 ヒカリの雷がトウジに落ちた。
 「…やっぱりお子様よねぇ…。」
 アスカはぽつりと呟いた。

 『作業終了。』
 『グラフ測定完了。』
 『各パイロット、シンクロ位置に問題無し。』
 今日の放課後もネルフ本部実験室でシンクロ・テスト。ほぼ毎日の様にスケジュールに組み込まれている。
 「それにしても、今日のシンジくん、なんかいつにも増して暗いですけど、どうしたんでしょう?」
 暗く沈んだ表情のシンジを心配したマヤが疑問を口にした。
 「明日、お母さんの命日だそうよ。」
 リツコは簡単に言ったが、シンジの母が死んだ理由を知っている者はネルフにはたった二人しかいない。
 「じゃあ、明日は碇司令と?」
 「多分ね…ところで明日、何着ていく?」
 リツコはモニターから目を離さず、背後の壁際に立つミサトに全然別の事を訊いた。
 「ああ、結婚式ね…うーん…ピンクのスーツはキヨミの時に着たし、紺のドレスはコトコの時に着たばっかだし…。」
 ミサトは脳裏にあれこれと衣装を思い浮かべるが、使えそうな物は無かった。
 「オレンジのは?最近、着てないじゃない。」
 「あ、あれね…。あれはちょっち訳有りで…。」
 ミサトは頭を掻き、笑って誤魔化したが。
 「きついの?」
 「そうよっ!」
 リツコの遠慮の無い一言に、ミサトはムッとしながら正直に認めた。
 「はぁ…帰りに新調するか…。あ〜あ、出費が嵩むなあ…。」
 酒代を減らせば何とかなるのでは…。
 「こう立て続けだとね。ご祝儀もバカにならないわね。」
 「ケッ!三十路前だからって、どいつもこいつも焦りやがって!」
 「お互い、最後の一人にはなりたくないわね。」
 ミサトは愚痴り、リツコはしみじみと呟いた。
 「みんな、上がっていいわよ。お疲れさま。」

 実験帰りのエレベーターでシンジはレイと二人っきり。アスカはトレンディ・ドラマを見る為にそそくさと帰ってしまっていた。
 二人とも無言のまま、エレベーターは上昇を続ける。シンジはその雰囲気に耐え切れなくなったかのように、綾波に話し掛けてみた。
 「明日…父さんに会わなきゃいけないんだ…。」
 「そう…。」
 「ねえ、何を話したらいいと思う?」
 「どうしてそんな事訊くの?」
 「…前に、父さんが綾波と話してた時、二人ともなんとなく楽しそうな顔してたから…。」
 シンジはいつぞやの光景を思い出して言った。が、それまでシンジに背を向けていたレイはいきなり向き直った。
 「私が…楽しそうな…顔をしてた…?」
 「う、うん…父さんは手に火傷しながらも綾波を助けたって聞いた事があったから、それで仲がいいのかなって思ってたんだけど…。」
 “碇くんも…私を助けてくれた…。”
 あの時、シンジは過熱したエントリー・プラグのハッチを開け、中で気絶したままのレイを外に連れ出してやったのだ。
 後からレイはその事を聞いたのだが、今その事を改めて思い出すと、何だかシンジに対して不思議な想いが湧き上がってくるのを感じた。
 「…それが気になって、昼間から私を見ていたの?」
 「う、うん…嫌だった?」
 「いいえ。」
 「そうだ、今日の掃除の時、綾波が雑巾絞ってたの見てさ、なんかお母さんって感じがしたんだ。」
 「…お母さん…。」
 「うん。案外、綾波って主婦とか凄く似合ったりするかも。ハハッ。」
 軽いジョークを言って笑うシンジにレイはまた背を向けて呟いた。
 「…何を言うのよ。」
 少し怒ってるのかな?という口調だが、レイの頬は赤く染まっていた。
 “主婦…私が?…誰の?…碇くん?”

 「ただいまぁ〜。」
 ミサトが帰宅すると、リビングではアスカとペンペンが寝転がってTVを見ていた。アスカは、TVの画面が天地逆様になるような姿勢だった。
 「おかえり〜。」
 アスカは返事したが、TVから目は放さなかった。
 「アスカ、そんな姿勢で見てたら目を悪くするわよ。」
 「だーいじょうぶだって。」
 やはりTVから目を放さずに答えながらポテチに手を伸ばすアスカ。
 「シンジくんは?」
 「知らなーい。部屋にこもりっきり。」
 シンジはベッドに横になっていた。
 すると、シンジの部屋に足音が近づいてきた。
 「シンジくん、開けるわよ。」
 返事は無かったが、ミサトは構わず戸を開けた。
 「どうしたの、シンジくん?明日の事を考えると憂鬱?」
 「………。」
 「でも、お母さんの命日でしょう?避けては通れないのよ。」
 「わかってるよ!」
 「違うわ。これからわかるのよ。とにかく、明日は勇気を出して頑張って。」
 ミサトはそれだけ言って戸を閉めた。
 “勇気、か…。”
 あの時のシンジくんはとってもカッコよかった。
 自分で自分の弱さを曝け出すのは、かなりの勇気が要る事だわ。シンジくんはちゃんと勇気を持ってる。
 シンジはいつぞやのクミとの会話を思い出した。
 “僕には…勇気がある…。”
 リビングではミサトが新調したドレスの品評会が始まっていた。
 「また、ラベンダーの香水?ワンパターンねぇ〜。」
 「一番気に入ってるからいーの!」


 翌日。
 結婚式に出席しているミサトとリツコ。
 式進行はもう日本のどこでも同じといった内容。
 初めての共同作業と題したウェディング・ケーキへの入刀。21世紀にもなってそんな事が初めての共同作業の筈がない。やることはやってる。間違いない。
 新郎上司のつまらない祝辞。三つの袋の話等、使い古されて面白さも有り難味も薄れきってしまっている。
 新婦友人達によるテントウ虫のサンバの合唱。定番ソングになるとは、レコードを出した歌手も思ってもいなかったろう。
 が、そんな事よりも、ミサトは隣の空席が気になって仕方が無かった。席札には‘加持リョウジ様’と書かれている。
 「来ないわね、リョウちゃん。」
 「あのバカが時間通りに来た事なんて一遍も無いわよ。」
 そう言ってミサトが息を吹きかけると、席札はあっさりと吹き飛ばされた。
 と、そこへ加持が愛想笑いと共に現れた。
 「いや、お二人とも、今日は一段とお美しい。」
 「何やってたのよ。普段、暇そうにしてるくせに。」
 「時間までに仕事抜けらんなくてさ。」
 「どーだかねぇ。どうでもいいけど何とかならないの、その不精ヒゲ。ほら、ネクタイ曲がってる。」
 「おっと、こりゃどうも。」
 ミサトが加持のネクタイを甲斐甲斐しく直してやる様を見て、リツコが二人を冷やかす。
 「そうしてると、まるで夫婦みたいよ、あなた達。」
 「いい事言うね、リッちゃん。」
 ふざけてミサトに寄り添う加持。
 「誰がこんなヤツと。」
 つれないミサト。

 広大な土の平原に無数の黒い石碑が等間隔に列んでいる。その間を高原の冷たい風が吹き抜けていった。
 そこは墓地―――といってもその地面の下に遺体がある訳ではなく、ただの墓標が並んでいるに過ぎない。
 その中の1つ、『IKARI.YUI 1977−2004』と刻まれた墓標の前に立つゲンドウとシンジ。
 二人は碇ユイ―――ゲンドウの妻であり、シンジの母であった女性の墓参に来ていた。
 シンジはしゃがんで白百合の花束を母にそっと供え、静かに目を瞑って手を合わせる。
 「3年ぶりだな…二人でここに来るのは。」
 「僕は…あの時、逃げ出して…その後は来てない。…ここに母さんが眠ってるって、ピンとこないんだ…顔も覚えてないのに…。」
 「人は思い出を忘れる事で生きていける…だが、決して忘れてはならない事もある…ユイはそのかけがえのない物を教えてくれた…私はその確認をする為にここへ来ている。」
 珍しく饒舌に語るゲンドウ。
 シンジが訊ねる。
 「写真とか無いの?」
 「残ってはいない…この墓もただの飾りだ。遺体は無い…。」
 「先生の言ってたとおり、全部捨てちゃったんだね。」
 「全ては心の中だ…今はそれでいい…。」
 「…今は?…。」
 シンジはその意味を訊こうと思ったが、ゲンドウはシンジに背を向けた。
 「シンジ…もう私を見るのはやめろ。」
 「え?…。」
 「人は皆、自分独りの力で生き、自分独りの力で成長していくものだ。親を必要とするのは赤ん坊だけだ。そして、お前はもう赤ん坊ではない筈だ。…自分の足で地に立って歩け。私自身もそうしてきた。」
 「でも…僕は…。」
 「私とわかり合おうなどと思うな。人は何故かお互いを理解しようと努力する。しかし、覚えておけ。人と人が完全に理解し合う事は決してできぬ。人とは…そういう悲しい生き物だ。」
 墓参は終わった。
 轟音と共に、ネルフのVTOL機が降下して来る。ゲンドウを迎えに来たのだ。そしてその客員席にはレイの姿があった。
 「時間だ。先に帰る。」
 歩き去ろうとするゲンドウに、それでもシンジは言った。
 「父さん…あの、今日は…嬉しかった。父さんと話せて…。」
 「そうか…。」
 ゲンドウはそう一言だけ答えてVTOL機で去っていった。
 シンジが踵を返して帰ろうと墓地の出口へ足を向けると、入ってきた時にはいなかった人が墓参をしていた。ブラウス、カーディガン、ミニ・キュロットにタイツと全て黒でコーディネートした少女はシンジも知っている人物だった。
 「…真辺先輩?」
 「奇遇ね…こんな所で会うなんて…。」
 「母の墓参です。先輩は?」
 「同じよ。…と言っても、本当の母じゃないけどね。」
 墓標には『MANABE.MACHIKO 1980−2005』と刻まれていた。
 「本当の母じゃないって…?」
 「私を拾って、育ててくれた人よ。」
 「お父さんは?」
 「いないわ…初めから…。」
 「ご、ごめんなさい…。」
 「謝る事は無いわ。別に気にしてないし…ちょっぴり、シンジくんが羨ましいけどね。」
 膝で立って両掌を組んで、西洋風の祈りを捧げていたクミは立ち上がってそう言った。
 「え?…何で父さんの事を?」
 自分と一緒にいた人物を何故、一目で父とわかったのか、シンジには不思議に思えた。
 「シンジくんと一緒に墓参に来て、VTOL機のお迎えが来るネルフの偉い人…。」
 クミが理由を言うとシンジはすぐに納得する。
 「あ、そうか…相変わらず、鋭いですね。」
 「まあね…で、どうだったの?お父さんとお話できた?」
 「…少しは…。」
 「そう、よかったじゃない。」
 「でも…やっぱりダメかもしれない…。」
 「どうして?」
 シンジは先程のゲンドウの言葉をクミに話した。
 「そう…人は独りで生きていく、か…でも、誰も一人では生きられない、というのも真実よ。」
 「?」
 正反対の事でも真実だと言う事が、シンジには理解できない。
 「ヒント。時と場所と状況によって物事は全て変化する。」
 シンジははっとした。それは前にもクミが言っていた言葉だった。



EXTRA HUMANOIDELIC MACHINARY EVANGELION

EPISODE:15 Those women longed for the touch of other's lips, 
                                and thus invited their kisses.



 夕刻。クミに送って貰って葛城邸に帰ってきたシンジは、ドアを開けた途端に聞えてきたヴァイオリンの調べに驚いた。
 足音を立てずにそっと歩きながらダイニングに入ると、アスカが椅子に座ってヴァイオリンを弾いていた。演奏しているのはバッハの‘G線上のアリア’だった。
 アスカの演奏が終わると、シンジは拍手して称えた。
 いきなりの拍手にアスカは吃驚して振り向いた。
 「い、いつからそこに?」
 「ついさっき。でも、驚いたな。アスカがヴァイオリンを弾けるなんて。」
 「な、何よ、私がヴァイオリン弾けたらおかしいの?」
 「いや、おかしくは無いよ。ただ、意外だっただけだよ。何頃から習ってるの?」
 「んーと、五歳の頃からかな?」
 「そうなんだ。僕もそのくらいの頃からチェロを習ってるけど、アスカの足元にも及ばないな。」
 「へぇ〜、シンジもチェロ弾けるんだ。聞いてみたいな。」
 「だ、だめだよ、全然下手だから。」
 シンジはそう言って自分の部屋に逃げ込んだ。
 「あ、こら待ちなさい!」
 アスカはヴァイオリンをケースにしまうとシンジを追いかけた。
 音楽という共通の趣味を見つけた二人の心の距離は以前より少し狭まったようだ。

 第三新東京市の夜景が彼方に見えるスカイ・ラウンジ。ミサト、リツコ、加持は結婚式の二次会を3人だけで開いていた。
 「ちょっち、お手洗い。」
 「…とか言って逃げるなよ?」
 加持のジョークに、席を立ったミサトは振り向き、べぇ〜っと舌を出して応える。
 “ヒールか…。”
 ミサトの履いたヒールが床を鳴らす音を聞き、加持は新たなミサトの一面を感慨深げに感じた。
 「何年ぶりかな…3人で飲むなんて。」
 「ミサト、飲み過ぎじゃない?何だか、はしゃいでいるみたい。」
 「浮かれる自分を抑えようとして、また飲んでいる。…今日は逆か。」
 加持はグラスに入っているバーボンを一口飲んでしみじみと呟いた。
 「やっぱり、一緒に暮らしていた人の言葉は重みが違うわね。」
 「暮らしていたって言っても、葛城がヒールとか履く前の事だからな…。」
 「学生時代には想像できなかったわよね。」
 リツコは左手で髪を手すきしながら、クスリと微笑する。
 「俺もガキだったし…あれは暮らしっていうより、共同生活だな。ままごとだ…現実は甘くないさ。」
 第三新東京市の夜景を遠い目で眺め、加持は数年前の遠き日々を思い出す。
 「そうだ。これ、ネコの土産。」
 加持はズボンのポケットから赤い布の小袋を取りだし、リツコに差し出した。
 「あら、ありがとう。マメね…。」
 「女性にはね。仕事はずぼらさ。」
 袋の中身は猫のブローチだった。
 「どうだか?…ミサトには?」
 「1度、敗戦している。負ける戦はしない主義だ。リっちゃんこそ、どうなんだ?」
 「自分の話はしない主義なの。面白くないもの…。」
 「………遅いな、葛城…。化粧でも直しているのか?」
 少し寂しそうに言ったリツコの言葉に何も返せず、ちょっとした間ができ、加持は後ろに振り向いて話を繋ぐ為に話題を出した。
 だが、リツコからの返事は意味深な言葉だった。
 「京都…何しに行ってきたの?」
 「あれ?松代だよ?その土産。」
 「とぼけても無駄。…あまり深追いすると火傷するわよ?これは友人としての忠告。」
 「真摯に聞いておくよ。…どうせ、火傷するなら君との火遊びを…。」
 「花火でも買ってきましょうか?」
 誤魔化す様に男臭い笑みを加持はリツコに向けるが、ミサトの茶々が入った。
 「おう、お帰り。」
 「変わらないわね。そのお軽いとこ。」
 「いや、変わってるさ。生きるって事は変わるって事さ。」
 「ホメオスタシスとトランジスタシスね。」
 リツコは加持に貰ったブローチをハンドバッグにしまいながら言った。
 「何それ?」
 「今を維持しようとする力と変えようとする力。その矛盾する性質を一緒に共有しているのが生き物なのよ。」
 「男と女だな…。」
 ミサトの疑問にリツコが応えると、加持はバーボンの残り少ないグラスを持って揺らし、氷がグラスにぶつかって心地よい音が鳴った。
 「そろそろ、お暇するわ。仕事も残っているし。」
 「そう?」
 「残念だな。」
 「じゃあね。」

 『ああ〜、シンジくん?私ぃ〜、えへへ♪今、加持くんと飲んでるの。そっ!三次会でね♪』
 「…はい、わかりました。じゃあ。」
 シンジが電話を切ると、ちょうど風呂上りのアスカがタオルで髪の毛を拭きながらダイニングに来た。
 「ミサト?」
 「うん。遅くなるから、先に寝ててって。」
 「えっ!?朝帰りって事じゃないでしょうね?」
 「まさか。加持さんも一緒だから大丈夫だよ。」
 「だからでしょっ!ホントにシンジはお子様なんだから!」

 第三新東京市のどこかのガード下。飲み屋街らしく赤提灯も見える。吐いている女の背中をさする男。それはミサトと加持だった。

 それから少し後、車がまるで通らない静かな道を加持はミサトを背負って歩いていた。夜空には星が輝き、辺りは虫の鳴き声だけが響き渡っている。
 「いい歳してもどすなよ…。」
 「悪かったわねぇ…いい歳で…。」
 ミサトはグッタリとして顔すら上げずに答えた。
 「歳はお互い様か。」
 「そうよぉ…。」
 「葛城がヒール履いているんだからな。時の流れを感じるよ。」
 「無精ヒゲ…剃んなさいよ…。」
 「へ〜、へ〜。」
 加持が歩いて揺れる度に、ミサトは回している腕の素肌に感じるチクチク感にぼやいた。
 「あと、歩く…。ありがと…。」
 ミサトは加持の背中から降り、ヒールは履かずに手に持ったまま、ストッキングだけの素足で歩き出した。
 しばし無言の二人。
 聞えるのは虫の鳴き声だけ。
 …ふと、ミサトが口を開いた。
 「加持君…。私、変わったかな?」
 「き…綺麗になった。」
 「ごめんね、あの時、一方的に別れ話して…。他に好きな人が出来た…って言ったけど、あれ嘘。ばれてた?」
 「いや…。」
 俯いて歩いていたミサトは顔を上げ、加持に顔を向けた。
 「気づいたのよ…加持君が、私の父に似ているって…。」
 加持は視線だけミサトに向けた。
 「自分が男に父親の姿を求めていたって…それに気づいた時…怖かった…どうしようもなく怖かった…。」
 再び、ミサトは前に顔を向け、加持も視線を前に戻した。
 「加持君と一緒にいる事も…自分が女だという事も…何もかもが怖かったわ…。父を憎んでいた私が、父に良く似た人を好きになる…全てを吹っ切る為にネルフを選んだけど、それも父がいた組織…。結局、使徒に復讐する事でみんな誤魔化してきたんだわ…。」
 立ち止まったミサトは、全てを吐き出す様に深い溜息をついた。
 「葛城が自分で選んだ事だ…。俺に謝る事はないよ。」
 加持も立ち止まり、ミサトの前に立って優しくミサトを慰める。
 「違うの!選んだ訳じゃ無いの!ただ、逃げただけ!父親という呪縛から逃げ出しただけ…シンジくんと同じだわ。臆病者なのよ!」
 感情が昂ぶり、泣きそうになったミサトは片手で目を覆って必至に堪える。
 「ごめんね、ほんと…酒の勢いで、今更こんな話…。」
 「もういい。」
 加持が止めるが、ミサトの告白は続く。
 「子供なのね。シンジくんに何も言う資格ない…。」
 「もういい!」
 「その上にこうやって、都合の良い時だけ男にすがろうとする、ずるい女なのよ!」
 ミサトはもう加持の顔が見れないのか、顔を伏せた。
 「あの時だって!加持君を利用してただけかもしれない!嫌になるわ!」
 「もういい!やめろ!」
 語気を荒くする加持。
 「自分に絶望するわよっ!」
 「やめろっ!」
 これ以上の告白は自分で自分を傷付けるだけだった。加持は、ミサトの腕を掴んで引き寄せ、強引にキスをして口を塞いだ。
 ミサトの手からヒールが落ちた。そしてミサトは両手を加持の背中に回した。八年という年月を経て、二人は元の鞘に納まった。
 “憧れは憧れに過ぎない…わかっていた事だけど…。”
 何処からその二人を見ているクミは辛そうに俯いて背を向けた。
 “…お幸せに…。”
 心の中で呟いて、クミはバイクをスタートさせた。

 「…ねえ、シンジ。キスしようか?」
 テーブルにつぶれていたアスカがぽつりと言った。
 「え?何?」
 ウォークマンで音楽を聴きながら雑誌を読んでいたシンジはアスカが何か自分を呼んだように聞こえたので、ウォークマンを外して訊き返した。
 「キスしよう、キス。した事ないでしょ?」
 「ど、どうして?」
 突然のアスカの大胆な誘いに驚くシンジ。
 「退屈だからよ。」
 「…へ?。」
 その理由に今度は呆気に取られるシンジ。
 「お母さんの命日に女のコとキスするの嫌?天国から見てるかもしれないからって。」
 アスカは意地悪く言った。
 「別に。」
 「それとも、怖い?」
 「こ、怖くないよ!キスぐらい…。」
 アスカの挑発にムッとするシンジ。
 「…歯、磨いてるわよね?」
 シンジは無言で肯く。
 「じゃ、行くわよ。」
 アスカは余裕で立ち上がり、シンジに迫った。
 シンジの目の前にアスカの顔が最大接近した。と、その時、玄関のドアが開く音がした。
 思わず飛び離れる二人。
 「ほら、着いたぞ。しっかりしろ。」
 よろけるように入ってくるミサトと加持。
 「あー、加持さーん。」
 アスカは憧れの相手の登場に思わず甘えた声を上げた。
 「おっ、ちょうどいい。二人とも手伝ってくれ。」
 加持はシンジとアスカに手伝って貰って何とかミサトを万年床のような布団に寝かせた。
 「それじゃ、二人とも後は頼むぞ。」
 帰ろうとする加持をアスカは慌てて引き止める。
 「加持さんも泊まっていけば?」
 ここ数日、加持は所在不明だったので、やっと加持の顔を拝めたアスカは嬉しそうだ。
 だが、加持はスーツの襟を摘んで言う。
 「この格好で出勤したら笑われちゃうよ。」
 「えー、大丈夫よー。」
 「今日のところは帰るよ。」
 加持は玄関に歩き出した。
 「ねー、加持さんてばぁ。」
 アスカは慌てて付き従って加持の腕に擦り寄った。
 「ははは、またな。」
 加持はつれない。しかし、アスカはそれ以上、付き従うのをやめて立ち尽くした。
 「ラベンダーの香り…。」
 それは、ミサトの愛用の香水の香りだった。つまり、ミサトの香りが加持に移っていたという事は、二人がそれ程親密な間柄であるという証拠に他ならない。
 アスカは二人が縁りを戻した事に気がついてしまったのだ。
 “…憧れは憧れに過ぎない…こういう事なの…。”
 アスカは呆然として、昨日のクミの言葉を思い出していた。
 「それじゃ、お休み。」
 「お休みなさい。」
 加持を見送ったシンジがリビングに戻ると、アスカが俯いたまま、立っていた。
 「どうしたの?元気無いね。」
 「…じゃあ…慰めてよ…。」
 アスカはポツリと言った。
 「アスカ?」
 「…男だったら…女を慰めるのが当然でしょ?」
 「…どうしたの、アスカ?何か嫌な事あったとは思えないんだけど…。」
 「…シンジ…キスして…。」
 またしてもいきなりの大胆発言、だが先程二人は退屈凌ぎとはいえ、キスをしようとしていたのだ。女のコから求められたからには、据え膳食わぬは何とやら…である。
 「…わ、わかった…。」
 シンジはゆっくりとアスカに歩み寄った。
 「…顔上げて。」
 アスカは目を閉じたまま、顔を上げた。
 「じゃ、行くよ。」
 シンジは目を瞑るとそっとアスカにキスした。唇が触れただけのぎこちないキス。そして、シンジはすぐに唇を離してしまった。精一杯の勇気を出しても、シンジにはそれぐらいしかできなかった。
 「…バカ…。」
 そう呟いて、アスカは自室に駆けて行った。

 深夜、国道を疾走する一台のバイク。それを追う二台の車。
 追手は銃撃してきた。捕獲して情報を得る必要は無く、速やかに消去する命令が出ていたのだ。だが、バイクに乗る少女は左右にコースを変えてその銃弾をかわす。
 カーブを減速無しでクリアした少女は、追跡車が減速して少し遅れた隙を突いて、懐から取り出したワルサーで一台目の車のタイヤを狙い撃った。銃弾は見事に命中し、タイヤがバーストしたその車はスピンしてコンクリートの壁に激突して引っくり返った。
 だが、二台目はクラッシュした一台目を無視して追跡を続けた。
 再び響く銃撃音。少女は先程と同様にバイクを振ってかわすが、もう一つの銃口は彼女ではなく、バイクの後輪を狙っていた。
 ついに追手の銃弾がバイクの後輪に命中した。衝撃でバイクは転倒し、少女は地面に投げ出された。バイクはそのまま滑ってガードレールを突き破って崖下に落ちていった。
 “まだ、チカラが戻らないの?”
 少女はよろめきながらも、ガードレールを支えにして何とか立ち上がった。その背中から銃を突きつけるネルフ諜報部。無言で引鉄が引かれ、少女は背中から心臓を撃ち抜かれて谷へ落下していった。
 “…死ぬのか…僕は…。”
 生命の危機に瀕し、ようやく心のリミッターが外れ、少女の目が輝いた。


 翌日。教室に出席を取る教師の声が響く。
 「綾波、綾波は今日も休みか。」
 シンジはレイの座席を見た。ここ数日、レイは欠席を続けていた。

 セントラル・ドグマ―――ネルフ本部・大深度地下施設中央部にレイはいた。
 天井から巨大な有機的物体に見えるものが宙吊りになっている。その中心から下に向かって大型のチューブが伸びていた。その一番下は、LCLで満たされた巨大な試験管状になっており、その中に全裸のレイが佇んでいた。
 眠るように目を閉じていたレイは、ゆっくりと瞼を開いていった。その視線の先にいるのはゲンドウだった。無言で見つめ合う二人。

 セントラル・ドグマ内、地下2008メートル地点のターミナル・ドグマ、そこで何者かが作業をしていた。
 ドア・ロック解除の許可を知らせる電子音が鳴った。その扉の上には『KEEP OUT』と『立入禁止区域』の文字が赤く光っている。
 何者かが最終ロック解除のカードをセキュリティ・システムのスリットに通そうとした瞬間、その者の後頭部に銃が当てられた。
 振り向かなくても、後ろにいるのが誰なのかすぐにわかった。
 「やあ、二日酔いの調子はどうだ?」
 「おかげでやっと醒めたわ。」
 両手を上げてもふざけた口調の加持に対して、ミサトの表情は真剣そのもの。
 「そりゃよかった。」
 「これが貴方の本当の仕事?それともアルバイトかしら?」
 「どっちかな?」
 加持はあくまでもトボける。
 「特務機関ネルフ特殊監察部所属・加持リョウジ。同時に日本政府内務省中央情報局所属・加持リョウジでもあるわけね。」
 「バレバレか。」
 正体がばれても加持は、全く態度を変えず、体も少しも動かさない。
 「ネルフを甘く見ないで。」
 「碇司令の命令か?」
 「わたしの独断よ。これ以上バイトを続けると…死ぬわ。」
 「碇司令は俺を利用している。まだいけるさ。…だけど、葛城に隠し事をしていた事は謝るよ。」
 「昨日のお礼にチャラにするわ。」
 「そりゃどうも。だが、司令やリッちゃんも君に隠し事をしている。それが…。」
 加持が手を振り上げると同時に、ミサトの銃のセーフティ・ロックが解除される。
 「これさ!」
 加持がカードをスリットに通した。ドア・ロックが解除され、巨大なゲートがゆっくりと開いてゆく。
 「これはっ!?」
 ミサトはそこに見える物を見て息を飲んだ。
 そこにあるのは、巨大な十字架に磔られた巨人だった。顔には七つの目が描かれた仮面、胸には槍のような物が突き刺さり、下半身が無い代わりに人間の足のようなものが幾つもまるで根っ子のように垂れ下がっている。
 「これは、EVA…いえ、まさか…。」
 ミサトの脳裏に14年前の悪夢が一瞬フラッシュ・バックした
 「そう、セカンド・インパクトからその全ての要であり、始まりでもある…アダムだ。」
 「あのアダムが何故此処に…。」
 ミサトは巨人の顔を呆然と見つめながら、事実の重大さを認識していた。
 「―――確かにネルフは私が考えている程甘くはないわね。」



超人機エヴァンゲリオン

第15話「嘘と沈黙」―――覚醒

完
あとがき