超人機エヴァンゲリオン

奇跡の戦士エヴァンゲリオン

 僕はふと、目が覚めた。知らない天井がそこにあった。
 「ここは…どこだろう?」
 僕は起き上がって周りを見回した。僕のいるベッドの他には何も無い。
 窓からの陽光が眩しくて、僕はブラインドを降ろす為にベッドから降りようとした。
 その時、後ろのドアが開いて黒髪の綺麗な女性が入ってきた。
 「シンジくん、お早う。丁度目が覚めたところかしら?」
 “…誰だっけ?この人…。”
 僕は思い出そうとしたが、駄目だった。
 「どうしたの、シンジくん?まだ寝惚けてるの?」
 “シンジ?…シンジって誰だ?今僕に呼びかけたみたいだけど…。”
 「やっぱり、まだ寝惚けてるみたいね。じゃあ、お姉さんが目覚ましのチュウを…。」
 「あ、あのっ!」
 何かとんでもない事をされそうな気がして僕は慌てて声を出した。
 「あはは、冗談よ、冗談。そんな事したらリツコに『やっぱり飢えていたのね。』とか言われるからねー。」
 美人の‘お姉さん’は手をちゃらちゃら振りながら笑顔を見せた。
 「あの…貴女は誰ですか?」
 「…はっ?」
 僕の言葉にお姉さんは笑顔のまま固まった。
 「シンジ…って、誰ですか?」
 「や、やーねぇ、シンジくんたら、冗談なのに冗談を返してくるなんて…。」
 僕の言葉にお姉さんは苦笑しながらそう返してきた。
 “今、確かに僕にシンジって言った…でも…でも…。”
 その名前に心当たりが無い。僕は急に不安になった。
 “僕は…僕の名前は………思い出せない!?”
 「シンジくん、どうしたの?シンジくん!?」
 お姉さんは僕の両肩に手を置いて揺さぶった。
 「…僕は…僕は…誰だ…?」
 「ま、まさか…ちょっと!誰か来て!!」
 お姉さんは大声で何か喚きながら出て行った。 
 “僕は…誰?…何故、ここにいるんだ?…誰か…誰か、教えて!”

 僕はベッドの上で膝を抱えていた。
 “これは…きっと、記憶喪失ってやつだ…聞いた事はあるけど、まさか自分がそうなるなんて…一体どうして…。”
 僕は‘記憶喪失’について思い出そうとした。
 “確か…頭を打ったり、何かのショックで記憶を失う…という事だ。だから、頭を叩いて記憶を戻そうとするマンガがあったよな…なんてマンガだったっけ?……違う!マンガの事なんかどうでもいいんだ!”
 僕は無意識のうちに頭をポカポカ小突いていた。
 そんな事をしていると、ドアがまた開き、さっきのお姉さんと共にもう一人、白衣を着た金髪の女性が入ってきた。
 一瞬外国人かと思ったが、髪の毛が金色であるだけで瞳も眉も黒の日本人だった。
 「お医者さんですか?」
 「…どうやら本当みたいね。」
 僕の言葉にその女性はそう答えた。
 「何よーリツコ、あんた信用してなかった訳?」
 「とりあえず、名前ぐらいは確認しておきましょう。いい、貴方の名前は碇シンジ。私は赤木リツコ。こっちは葛城ミサト。」
 さっきのお姉さんの文句に取り合わず、金髪の女性は僕に静かに話しかけてきた。
 「碇…シンジ…。」
 それからその金髪の女性はいろいろと僕の知らない事を教えてくれた。
 今居るのはネルフという国連直属の特別な機関の病棟だという事。
 ネルフとは人類を襲う敵・[使徒]を倒す為の機関で、葛城さん(黒髪のお姉さん)が戦闘の指揮をする人(女性なのにすごい)で、赤木さん(金髪の女性)が技術関連のトップ(こちらもすごい)だという事。
 [使徒]を倒す為にネルフは‘エヴァンゲリオン’(略してエヴァ)というロボットを作った事。そして僕はそのロボットのパイロットだという事。(これが一番びっくり)
 さらに僕がそのエヴァンゲリオンに乗って何かの実験をしていた際に何かのトラブルがあった事。(トラブルの原因は不明)
 「…でも、まるで夢みたいな話ですね…。」 
 僕はそう呟いた。あまりに突拍子も無い内容だからそう簡単に信じられる訳がなかった。
 「…リツコ、どうする?信じてくれないみたいだけど…。」
 「とりあえず、脳をMRIでスキャンしてみましょう。記憶喪失の原因がわかるかもしれないわ。」
 「MRIって?」
 また、聞いた事がない言葉だ。
 「ただの検査よ。貴方の脳を輪切りにして写真を撮るだけ。」
 「わ、輪切りっ!?そんな事したら死んじゃうじゃないか!!」
 僕は慌てた。
 “もしかしたら…この赤木さんってマッド・サイエンティスト!?どうしよう…逃げなきゃ…。”
 すると、葛城さんは大きな溜息をついて言った。
 「シンジくん、本当に貴方の頭を輪切りにするんじゃないわ。言うなれば、レントゲンと同じようなものよ。」
 「厳密には全然違うけど…とにかく、シンジ君は私達ネルフにとってとても大事な人間なの。私達は貴方に記憶を取り戻してほしい。貴方自身もそう思ってるでしょ?」
 “確かに今僕が不安を感じているのは記憶喪失のせいだ…自分の事がわからない、だからこれからどうしたら、どう生きていけばいいのかわからない…だから、記憶を取り戻せるなら…。”
 「わかりました。検査を受けます。」

 そしてMRIの検査の後、僕はネルフの中を葛城さんに連れられて歩いている。
 「どこに行くんですか?」
 「ケージよ。」
 「ケージ?」
 「シンジくんの乗っているエヴァンゲリオン初号機がある所よ。」
 エヴァンゲリオンというのは身長50メートルもある巨大ロボットで全部で3体あるそうだ。
 “でも、初号機って何か変な呼び方だな…。”
 何て考えてるうちにどうやら目的地についたみたいだ。
 「これは!」
 目の前にあるのは巨大な顔。全体が紫色で所々黄緑色に塗られている。
 “でも、想像していたのとは違って何だか悪役ロボットみたいだ…。”
 「これが、シンジくんの愛機、エヴァンゲリオン初号機。シンジくんはこれに乗って何度も使徒と戦ってそれを殲滅し、人類を守ってきたのよ。」
 “人類を守った?僕が?…ますますマンガみたいな展開だな…。”
 「…どうかな?」
 「…いえ…。」
 僕は首を横に振った。自分が人類を救ったヒーローなんて全然信じられない。
 「あれ?シンジ達も来てたんだ。」
 後ろから声が聞こえたので振り向くと、二人の女の子がそこにいた。一人は蒼い髪のショートヘアに紅い瞳の女の子。もう一人は赤い髪のロングヘアに青い瞳の女の子。
 “まるで正反対の取り合わせだな…。”
 「あら、どうしたの、貴女達?」
 「どうしたのって、リツコに呼ばれてきたのよ、ここに来いってね。で、リツコは?」
 すると、反対側のドアが開いて赤木さんが入ってきた。
 「みんな集まったわね。」
 「どうだった?検査の結果は。」
 「スキャンでは、外的損傷は認められなかったわ。」
 「そう…こっちも駄目だったわ。初号機を見ても反応無し。」
 「…人を呼びつけといて、意味不明な話はやめてくれる?」
 “なんだろう、この女の子…年上の人にタメ口なんて…そう言や、もう一人の女の子はさっきから何もしゃべらないな…。”
 「…葛城三佐、碇君に何かあったんですか?」
 びっくりした。口を開いたらいきなり僕の事を訊いてきた。
 “この女の子達も僕の事知ってるのかな?”
 「ちょーっち、驚くかもしれないけど…シンジくん、記憶喪失になっちゃったの。」
 「………き、記憶喪失〜!?」
 一瞬、絶句した後、赤い髪の女の子が驚きの声を上げた。
 「ええ。」
 と、二人の女の子が僕に駆け寄ってきた。
 「シンジ!」
 「碇くん!」
 「あ、あの…君達は?」
 僕のその言葉に赤い髪の女の子は目を見開いた。
 「…嘘…私の名前も忘れちゃったの?」
 「うん…。」
 「その蒼い髪の女の子は綾波レイ。エヴァンゲリオン零号機のパイロット。赤い髪の女の子は惣流・アスカ・ラングレー。エヴァンゲリオン弐号機のパイロットよ。」
 葛城さんが二人の名前を教えてくれた。
 「よ、よろしく…。」
 「…赤木博士、原因は?」
 蒼い髪の女の子は何故かそれほど驚いていないようだ。
 「不明よ。でも、零号機との機体相互互換試験の後という事から推察すると…おそらくシンジ君はただ記憶を失ったのではなく、零号機がシンジ君の記憶を吸い取ったんじゃないかしら?」
 「記憶を吸収した目的は?」
 今度は葛城さんの質問。
 「それも不明よ。」
 「そう…。」
 「とにかく、今はシンジ君をどうするか、それを考えましょう。」
 赤木さんがそう言うと、葛城さんは腕撫して何やら思案を始めた。
 
 僕はプラグ・スーツという、身体にフィットした服を着てエヴァのコックピットに座っていた。
 記憶が無くても身体は覚えている筈、エヴァに乗れば何か思い出すんじゃないか、葛城さんはそう言った。
 “でも、こんな目に逢うとは思わなかった…。”
 コックピットに乗った後、何か液体が下から上がってきて溺れ死ぬかと思ったけど、何故か息ができる。まるでお魚になった感じだ。
 『聞える、シンジくん?』
 葛城さんの声が聞こえてきた。
 「はい。」
 『気分はどう?』
 今度は赤木さんの声。
 「どうって、別に何も…ただ、この水の中にいるのがちょっと気持ち悪いだけです。」
 『直ぐに慣れるわ。それじゃ、続いて模擬戦を行うわよ。』
 「模擬戦?」
 『そう。でも、実際に戦うわけじゃないわ。仮想空間でのシミュレーションよ。』
 「…つまり、このロボットでヴァーチャル戦闘するって事ですか?」
 『ええ。飲み込みが早くて良かったわ。』
 『シンジ、模擬戦だからって手抜きはしないわよ。』
 惣流さんの声が聞こえた。
 『それじゃ、始めるわよ。プログラム、スタート!』
 突然、コックピットの外にどこかの街の様子が映し出された。でも、ポリゴンの映像ではなくて、本物の街みたいに見える。
 そして、ずっと前方に赤いロボットが立っているのが見えた。あれが彼女の操るエヴァらしい。
 『行くわよ、シンジ!』
 彼女が言うが早いか、赤いエヴァはどんどん僕の方に迫ってきた。
 「わっ、ちょ、ちょっと待って!」
 赤木さんの説明ではエヴァンゲリオは自分の考えたとおりに動くという事だった。でも、考える間も無かった…。
 「わああああっ!」

 「やっぱりダメみたいね。」
 葛城さんは随分がっくりしているみたいだった。
 さっきのシミュレーションで僕は彼女のエヴァに手も足も出ず、一方的に攻撃されてゲーム・オーバーになった。
 「何を今更…シンジよりも私の方が実力は上って事ぐらいわかってた筈でしょ。」
 赤いプラグ・スーツを来た惣流さんは呆れた口調で言った。
 “髪の毛、エヴァ、プラグ・スーツ…赤が好きなのかな?”
 「仕方ないわね。シンジくん、今日は病棟に泊まって、明日学校に行ってちょうだい。」
 「学校?」
 「ええ。あとは、日常生活の刺激による回復を期待するしかないわ。いいよね、リツコ。」
 「そうね。とりあえず私は副司令に状況報告してくるわ。」
 赤木さんはそう言って出て行った。
 「それじゃ、二人はネルフの中をシンジくんに案内してやって。」
 葛城さんもそう言って出て行った。
 「それにしても…あんた本当に何もかも忘れちゃったみたいね。」
 「…うん…。」
 「彼女のヒカリちゃんも忘れちゃった?」
 「か、彼女…ヒカリちゃん?」
 「そ。」
 “僕に…彼女がいた…もしかしたら、そのコに逢えば記憶が戻るかも…。”
 「シンジ、ボケッとしてないでついて来なさい。」
 「あ、今行くよ。」
 僕は慌てて二人についていった。


 翌朝、僕は葛城さんの車(アルピーヌ・ルノーというフランスのスポーツカーだった)で学校に行った。
 「とにかく、あまり深刻になる事無いわ。クラスメートに会ったら、そのうち楽しかった事とか思い出すかもしれないし、それが引き金となって他の記憶も戻るかもしれないわ。」
 「はあ…。」
 「んもー、しゃきっとしなさいな!」
 葛城さんは僕の頭を混ぜ撫ぜた。
 「わ、わかりましたから、止めて下さい。」
 「ま、肩の力を抜いて学校生活をエンジョイするのね。」
 坂を上りきったところで車は止まった。
 「は〜い。ここがあなたのガッコ。」
 向こうに門と校舎が見える。
 「来たのね。」
 車を降りると、そこに綾波さんがやって来た。
 「それじゃ、レイ、シンジくんをよろしくね。」
 葛城さんは僕が降りると去っていった。
 「碇くん、行きましょう。」
 「う、うん。」
 僕は綾波さんに促されて歩き出した。
 少し歩くと直ぐに校門に辿り着いた。
 “第三新東京市立第壱中学校…これが僕の通っていた学校?”
 でも、その校舎に見覚えは無かった。
 “知らない学校…知らないクラスメート…でも、知らない人達は僕の事を知っている…。”
 僕は何だか嫌な予感がした。
 「碇くん?」
 立ち止まった僕に綾波さんが振り向いた。
 「どうしたの?」
 「…ごめん、やっぱりやめとくよ。」
 僕は学校に背を向けて駆け出した。

 “…逃げ出して、どうなるっていうんだ…。”
 僕は歩きながら悩んでいた。もしかしたら、記憶が戻るかもしれなかったのに、自分からそのチャンスを手放してしまった…。
 “葛城さんや綾波さん、惣流さんが親切にしてくれたのに…でも、今更学校に戻るのもカッコ悪いし…どうしよう…。”
 「あれ?こんなトコで何してるんだ、シンジ。」
 「学校は反対方向やで。」
 賑やかな所に行くか、人気の無い所に行くか…どうしようかと迷っていると、誰かが僕に声をかけてきた。
 一人は眼鏡をかけており、もう一人は黒いジャージ姿だった。
 僕にシンジと呼びかけてきたという事は、僕を知っている人らしいが…思い出せない。
 「あの…君達…誰だい?」
 「へ?」
 僕の言葉に二人は一瞬ポカンとした。
 「何言ってるんだ?シンジ。」
 「新しい芸風か?」
 “…まずい、思いっきり困惑している…どうしよう…。”
 「さっさと学校行こうぜ。」
 「ああ、遅刻したらイインチョがうるさいしな。」
 「イインチョって…?」
 “誰だろう?変な名前だな…学校の先生の渾名か?”
 「シンジ、人をおちょくるのも大概にせんと、いくら親友のワシでも怒るでェ。」
 “関西弁!…ヤンキーか!?マズイ、逃げなきゃ!”
 僕は慌てて駆け出した。
 「おーい、どこ行くんや、シンジィ!」
 「俺達の友情はそんなものだったのか!裏切り者!」 

 “どうせ、本当の事を話したって、信じて貰えはしないんだ…。”
 僕は脇目も振らずに一心不乱に走った。走り疲れると立ち止まり、荒い息が収まるのを待った。
 そして再び歩き出そうとしたその時、僕は気配を感じて振り向いた。
 「綾波さん…。」
 「碇くん、学校に戻りましょう。」
 「どうして?」
 「葛城三佐に言われたでしょう。」
 「いやだ、戻りたくないよ。」
 「どうして?」
 「いいじゃないか、いやなものはいやなんだ!」
 僕は何故か声を荒げていた。でも、綾波さんは何も言わなかった。
 「…ゴメン、怒鳴ったりして…一人にしてほしいんだ…。」

 僕は当ても無く街を彷徨った。行く所なんて無いし、どこを歩いてきたかも覚えていなかった。
 “このまま、この街にいたって…。”
 知ってる場所はどこにも無かった。
 “僕はこの街で生まれたのだろうか…いや、別の街で生まれてこの街に来たのかもしれない…。”
 僕の足は駅の方に向かっていた。でも…。
 「まったく手間かけさせるわねぇ…。」
 ターミナル駅の前にはアルピーヌ・ルノーが止まっていた。そしてその傍には葛城さんと惣流さんがいた。
 僕はそこからも逃げ出した。
 結局、歩き疲れた僕は公園のベンチに寝転んだ。

 シンジくん…貴方はあの時、何故残ると決めたの?
 シンジくんは自分に勇気なんて無いみたいに言ってたけど、私はそうは思わない。
 …シンジくんは、卑怯で、臆病で、ずるくて、弱虫…。
 自分で自分の弱さを曝け出すのは、とても勇気が要る事だわ。シンジくんはちゃんと勇気を持ってる。

 僕ははっとした。いつのまにか眠っていたらしい。
 身体を起こしてベンチに座り直した僕は、今夢を見た事に気付いた。
 “今見た夢は…誰かが僕に話しかけていた…女の人だった…でも…顔が思い出せない…たった今見た夢なのに…。”
 と、足元に誰かの影が現われた。顔を上げると、そこには綾波さんがいた。
 「…なんでここが?」
 「なんとなく…他に行く所は無いでしょうから…。」
 「なんとなく…それで僕を見つける事ができるなんて…小さな街だったんだね、ここは…。」
 「どうしてここに来たの?」
 「どうしてって…僕にはどこにも行く所が無いんだ…この街には僕の居場所は無いんだ…。」
 「どうしてそんな事言うの?貴方には帰る場所があるのに。」
 「ネルフ?…違うよ、葛城さん達が僕を心配するのは僕がエヴァのパイロットだからだ。碇シンジそのものじゃない。」
 「帰れる場所があるだけ、幸せな事よ。」
 「そんな所に帰りたくない。帰るなら、僕自身を必要としているところに帰りたい。」
 「じゃあ、私の部屋に来る?」
 「え?」

 今、綾波さんは台所に立って紅茶の準備をしている。
 “それにしても殺風景な部屋だな…壁なんて壁紙も貼ってないし、カーテンもところどころ破れたまんまだし…普通、花とか絵とかぬいぐるみの一つぐらいあるんじゃないか?”
 変わってるのは部屋の中だけではなく、彼女はこのまるでゴーストタウンみたいな誰もいない団地にたった一人で住んでいるらしい。
 「紅茶って…どれくらい葉っぱ入れるのかな?…前から有ったけど、入れた事ないから…。」
 「あ…いいよ、そんなに気ィ遣わなくても…。」
 「これくらいかな?」
 「いや、それは入れ過ぎじゃないかな…。」
 綾波さんが取った紅茶の葉っぱは大匙山盛りだった。
 「その匙のすり切りぐらいでいいんじゃない?」
 「すり切り?」
 「うん。匙の縁の高さ。指でさっとするように…。」
 僕は両手でその仕草をした。綾波さんは同じようにやろうとしたが、手元をよく見ていなかったので片手を湯沸し中のポット
にぶつけてしまった。
 「あ、大丈夫!?」
 「平気…少し指を火傷しただけ。」
 「しただけって、早く冷やさないと!」
 僕は彼女の火傷した方の手を引き、直ぐに水を流して当てた。
 そのままほんの少しの間、僕達は流し台の前にいた。
 “あ…。”
 僕は彼女の手をずっと掴んだままだと気付き、何となく恥ずかしくなって手を離した。
 「紅茶…僕が入れるから、綾波さんはしばらくそうしてて。」
 「うん…。」
 僕は紅茶の準備をしながら彼女と何を話そうか考えた。
 「綾波さんは…何故一人で住んでるの?」
 「私は…一人だから。」
 「あ、いや、そうじゃなくて、親とかどこにいるの?」
 「親?」
 彼女は不思議そうな顔をした。
 “マズイ!訊いちゃいけなかったか…。”
 おそらく、彼女は孤児なのだろう。それでこんな所にしか住めないんだ。
 「あ、今のは無し。えっと、砂糖はどうする?」
 「いらない。」
 「わかった。」
 僕は出来上がった紅茶をカップに注いだ。
 「きれいな色…紅茶入れるの、上手ね。」
 「そうかな…。」
 「飲んでいい?」
 「勿論。」
 僕も紅茶を一口飲んだ。
 「少し苦かったね。」
 「でも…暖かいわ。」

 「碇くんは何が怖いの?」
 「えっ?」
 「何かが怖い…だから逃げていたのではないの?」
 「うん…ネルフや学校でみんなは僕を知ってる…でも、僕は誰も知らない…。」
 「一人が怖いの?」
 「うん…怖い…一人は怖いよ…。」
 ただ一人でいる事が怖いわけじゃない。孤独だと感じる事が怖かった。その事にはっきりと気がついた途端、僕は何故か身体が震えていた。
 「貴方は一人じゃないわ。私がいるもの。」
 「えっ?」
 綾波さんはそう言って背後から僕を抱きしめてくれた。
 「私は貴方の事を知っている。そして、少しだけど貴方は私の事を知っている。だから、貴方は一人じゃないわ。」
 彼女の言葉と温もりに僕は不思議と心地良くなり、身体の震えは治まっていった。
 「…ありがとう…綾波さんは優しいね。」
 「そう?」
 「うん。もう大丈夫だよ。」
 でも、綾波さんは僕を離そうとしなかった。
 「綾波さん?」
 「このままこうしていてはダメ?」
 「どうして?」
 「私も…本当は怖いの…碇くんがもしも記憶を取り戻さなかったら…また、私は…。」
 綾波さんはそこで言葉を途切れさせた。
 「ごめん、今日は学校サボって…記憶が戻るかもしれなかったのに、自分からその可能性を捨てて、綾波さんを不安にさせてしまった…。」
 「碇くん…。」
 「明日はちゃんと学校に行くよ。」
 「ええ。」
 ベッドに女の子と二人っきり…しかも後ろから抱きつかれたまま…でも、僕は何故か安心して、そのまま眠ってしまった。
 

 翌日、僕は綾波さんと一緒に学校に向かった。
 「そうだ、綾波さん、僕の親友って学校にいる?」
 「親友?」
 「昨日、変な二人組に会ったんだ。僕の事を名前で呼んでたから結構親しい友人だと思うんだけど…。」
 「どんな人達?」
 「えっと、一人は眼鏡を架けてて、もう一人は黒いジャージを着てて関西弁を喋ってた。」
 「…多分、眼鏡を架けてるのは相田くん、黒いジャージは鈴原くん…。」
 「どんな人?」
 「…よくわからない…でも、碇くんとよく三人で話してたわ。二人にちゃんと事情を説明できる?」
 「言うよ。だって親友なんだろ?」
 その時、携帯電話の呼び出し音が聞えた。
 「電話だわ。」
 綾波さんはポケットから携帯電話を取り出した。
 「はい、私です。…今、碇くんと学校に行く途中です。…今からそちらに?でも、碇くんは学校への道を知りません。…はい、わかりました。」
 「どうしたの?」
 「ネルフから呼び出し…でも、碇くんを学校に連れて行ってから来てもいいって。」
 「そう…なんかずっと迷惑掛けっ放しでゴメン。」
 「気にしないで。」
 校門の前に着くと、そこには惣流さんが待っていた。
 「な、なんであんた達一緒に来るのよ!?」
 何故か惣流さんは少々怒ってるみたいだ。
 「昨日は学校サボってゴメン。」
 「碇くん…私、ネルフに行くから。」
 「うん、ありがとう。」
 綾波さんを見送って振り向くと、惣流さんの姿はどこにも無かった。
 「…ま、いいか。」
 僕は学校に入り、他の生徒の行く方向に従って進み、昇降口までやって来た。
 “えーと、僕の下駄箱は…。”
 僕が2年A組だというのは聞いてるが、下駄箱は探さないとわからない
 「おっ、シンジやないか。」
 関西弁だ。振り向いたそこには昨日の二人組がいた。
 「あ、お早う。」
 「お早うシンジ。今日はいい天気だな。」
 「天気言うたら何かいな、夜になったらパッと点ける…。」
 「それは電気。」
 「電気言うたら何かいな、壁に塗ったりなんかして…。」
 「それはペンキ。」
 「ペンキ言うたら大工道具の…。」
 「それはペンチ。」
 「ペンチ言うたらボクシングの…。」
 「それはパンチ。」
 「パンチ言うたらパーマの…。」
 「あ、それはパンチで合ってます。」
 「合ってます言うたら条約の…。」
 「それはポーツマス条約と違うか?」
 「おっ、難しいボケにようつっこんだな。」
 「お前の相方、長いからな。」
 「相方(開いた)口が塞がらん、なんか言ったりして…。」
 「相方口が塞がらん…いい加減にしろ!」
 「「こりゃまた失礼しました〜。」」
 いきなりの漫才に僕はただ唖然とするだけだった。
 気まずい雰囲気の中、鈴原君がぽつりと漏らした。
 「…ちょっと、ハズしてもうたかな?」
 僕はハッとして再起動し、二人に声をかけた。
 「君達、そんな事やってて楽しい?」
 「何だ、ノリが悪いな、シンジ。」
 「昨日は新しい芸風を身に付けたと思ったのに。」
 「あれは本当の事さ。…正直に言うよ、僕は君達の事、覚えていないんだ。」
 「覚えてない?」
 「何故かわからないけど…記憶喪失になったんだ。」
 「き、記憶喪失〜!?」
 「本当よ。」
 そこに惣流さんが現われた。
 「あ、惣流さん…。」
 「惣流さん?おい惣流、シンジはホンマに…。」
 「…バカ。」
 惣流さんはそれだけ言って駆けて行った。
 ”気のせいかな?目元が潤んでいたような…。”
 「これは…。」
 「ああ、本当らしいな。」
 二人は信じてくれたらしい。
 「何も覚えとらんのならしゃーないな。ワシは鈴原トウジ。」
 「俺は相田ケンスケっていうんだ。」
 「よ、よろしく…。」
 「何や、辛気臭い顔すんなや、そんなん昔のお前やないで。」
 「…昔の僕って、どんなだったの?」
 「シンジはエヴァンゲリオンのパイロットで…。」
 「ちゃうで、ケンスケ。それは転校してくる前からだったやろ。」
 「あ、そうか。」
 「いいか、シンジ。お前はワシらをもしのぐ、クラス1のコメディアンだったんや。」
 「コ、コメディアン?」
 「そ、そうそう。それで毎朝教壇の前でみんなを笑わせていたんだぜ。」
 “…本当かな?でも、綾波さんはこの二人と僕は仲がいいって言ってたし…確かに二人とも朝から漫才やってたし、それで意気投合したとか…。”
 「シンジ、早く行かないとお笑いオンステージの時間が無くなるぜ。」
 「今日もシンジの芸を見て勉強させて貰いまっせ。」

 そんなこんなで僕は2−Aの入り口に来た。さっきの二人は先に入って席についている。
 僕は一、二度深呼吸をすると、入り口を開け、手を下手で叩きながら教壇の前に駆け寄った。
 「ドモー!シンジ君っでーす!」
 「………………。」
 クラスは静まり返っている。
 “よし、まずは意表をついてこれだ!”
 僕は右掌下に向けて額の前に持って行き、同時に左掌を上に向けてお腹の前に持って行き、さらに右足を直角に曲げて左足の前に持ってきた。
 「シェー!」
 誰も反応しない。
 “うっ、外したか…ならば!”
 今度は右手を前に出し、掌を見せたまま指を曲げ、一拍置いて右手を引き戻した。
 「ガチョーン!」
 みんなポカンとしている。何人かの女子は睨んでいる。
 “マズイ!つまらなくて怒っている人がいる。それなら!”
 次はいきなりがに股になり、股間の前で手をVの字にしてから左右の腰の上に引き上げた。
 「コマネチ!」
 男子は無反応、女子はムッとしている。
 “ダメか!?もしかして一発ギャグは今までに何回もやって飽きているのかも?じゃあ…。”
 「えー、お正月に、坊さんが二人で歩いてて、これがホントの’和尚がツー’。」
 反応は無い。
 “じゃ、じゃあこのネタを…。”
 「時代劇で一番よくある場面…『越後屋、おぬしも悪(ワル)よのう。』『いえいえ、お代官様にはかないませぬ。』」
 「………………。」
 “もう、破れかぶれだ!”
 「そうです、私が変なおじさんです。♪変なおじさん、あ、変なおじさん…だっふんだぁ!」
 「碇くん!いい加減にして!!」
 一人の女子が立ち上がって物凄い剣幕で怒ってきた。
 「い、いや、あの…。」
 「最低よ!」
 「碇君がそんな人だったなんて!」
 女子はみんな僕を非難してきた。
 “どうしよう…やっぱり、正直に…。”
 「あ、あの、聞いてよ、僕は…。」
 「記憶喪失になった事は聞いてるわ。」
 「だからって変な芸で誤魔化すなんて!」
 「幻滅だわ!」
 「ご、誤魔化すって何を…。」
 「もういいから、席について!」
 「う、うん…あ、僕の席ってどこ?」
 「そこだよ、シンジ。」
 相田くんが僕の席を教えてくれた。
 「シンジ、まだまだ芸の磨きが足りんのう。」
 鈴原くんの言葉は慰めにすらなってなかった。
 「語るに落ちるとはこの事ね。」
 後ろの入り口からそんな言葉が聞えてきた。そこにはクラスの女子と違って青いタイの女子がいた。
 「ま、真辺先輩。」
 相田くんの顔色が変わった。
 “先輩…三年生の人か…何しに来たんだろう。”
 「シンジくんが記憶喪失になったって聞いてきたんだけど…鈴原、あんたまた要らない事言ったみたいだね。」
 「い、いや、その…。」
 鈴原くんは何故か焦っている。
 三年生の人は僕の横にやって来た。
 「お早う、シンジくん。私の事も忘れちゃった?」
 「え、えっと…。」
 「…どうやら本当みたいね。私は3年B組の真辺クミっていうの。」
 「はあ…。」
 ”この人も僕を知ってるのか…あれ?…でも、どこかで聞いたような声だ…。”
 「シンジくんの不慣れなコメディアン振りは見せて貰ったわ。でも、どうしてそんな事をしたの?」
 「え?だって僕はクラス1のコメディアンで、毎朝教壇の前で芸を披露してクラスのみんなを笑わせていたから…。」
 「初耳ね。見た事ある人は挙手!」
 手を上げた人は一人もいなかった。
 「えっ?」
 “何か、話が違う…。”
 その時、三年生の人が怒鳴った。
 「逃げるな、後ろの二人!」
 「は、はい!」
 振り返ると、鈴原くんと相田くんが後ろの入り口の前で直立不動の状態を取っていた。
 ”こっそり出て行こうとしていた?何で?”
 「それで、シンジくんは誰からそんな事を言われたの?」
 「誰って…あの二人だけど…でも、綾波さんが彼らは僕の親友だって…。」
 「そう…レイちゃんがシンジくんに嘘をついたと思う人は挙手!」
 今度も手を上げた人は一人もいなかった。
 「…という事は?」
 何だかよくわからなくなった。綾波さんは嘘を言っていない、つまりあの二人は僕の親友。でも、僕はクラス1のコメディアンではない、つまりあの二人は嘘を言った…。
 「…あの二人は親友なのに、女子に非難されるような事をやれって言うのかな?」
 「ではその答えを導く為に、一先ず次の検証に移るわ。シンジくんのギャグは確かにしょーもなかったけど、女子のみんなは何故そんなにシンジくんを非難するのかしら?」
 三年生の人はそう言いながら前に歩いて行った。
 「碇くんって酷いんです。」
 「惣流さんの気持ちを傷付けたんです。」
 「なのに、変な芸で誤魔化そうとして…。」
 三年生の人は惣流さんの前に行った。
 「…何があったの、アスカちゃん?」
 “綾波さんに続いて惣流さんも名前でしかもちゃん付け?…あの人は一体、何者なんだろう…。”
 とか考えていると、惣流さんはとんでもない事を言った。
 「シンジったら…私と交わした熱いキッスの事もすっかり忘れてて…。」
 そう言って惣流さんは机に突っ伏した。
 「キ、キ、キ、キスぅ!?僕が君と!?」
 僕は吃驚仰天した。
 ”そんな事、聞いてないよ〜。”
 「ほ、ホンマか、シンジィ〜。」
 「この裏切り者!」
 「そんな大事な事を忘れるなんて、碇くんってサイッテー!」
 「ふ、不潔よ!」
 いろんな声がクラス中を乱れ飛んだ。が。
 「はいはい、静かに!」
 その一言でクラスは静かになった。
 “たった一言でみんなを黙らせるなんて…あの人は一体…本当はスケ番とか?…そんな訳ないか…。”
 「シンジくん、今の二人の言葉を聞いた?」
 二人はなんと言ったか?…僕は覚えていた。
 ほ、ホンマか、シンジィ〜。
 この裏切り者!
 「はい。」
 僕は二人に振り向いた。
 「謀ったな、二人とも!」
 「ス、スマン、シンジ!」
 「ほんの冗談だったんだ!それに言い出したのはトウジだ!」
 「この裏切り者!ケンスケだって直ぐに乗って来たやないか!」
 「うるさい!それは後で当事者同士で話し合うように。」
 三年生の人の一喝で二人は黙った。
 “なんかあの二人って面白いな…彼らが親友なら、学校も楽しそうだ…。”
 ふと気付くと、何人かの女子は口に手を当てて顔色を変えている。僕の視線に気付いた女子の何人かは、両手を顔の前で併せて頭を下げてきた。
 “さっきは口々に非難してたのに、今度は謝ってる…何で?”
 「何人かは察したようね。そう、シンジくんがアスカちゃんとの大事な想い出を忘れてしまったとしても、当事者でない人達が非難するのは筋違いな訳。」
 “そうか、そういう事か…。”
 結果的に、三年生の人は僕を弁護してくれたみたいだ。
 「シンジくん。」
 「あ、はい。」
 「どうして記憶喪失になったのかは知らないけど、頑張ってね。」
 「はい。有難う御座います。」
 三年生の人は僕に微笑んで去っていった。

 昼休み、僕はトウジ、ケンスケと一緒に屋上で昼食を取った。それまでの休み時間で二人は僕に謝罪し、僕は二人と打ち解け、名前で呼び合うようになった。
 「地球防衛バンド?」
 「そう。文化発表会の演し物さ。それで、俺がドラムス、トウジがギター、シンジがベース。」
 「ヴォーカルはどうするの?」
 「そこが悩みなんだよな…。」
 「悩む必要はあらへん!ワシがヴォーカルをやる!」
 「いや、ヴォーカルは女の子にした方がウケル!」
 「ワシや!」
 「女の子!」
 「ワシや!」
 「女の子!」
 二人の言い合いは永遠に続きそうだった。
 「ちょっといいかな?」
 二人は言い合いを止めた。
 「トウジの歌と誰か女の子の歌を聞いて決めたらどうかな?判定は僕達以外の人にお願いするって事で。」
 「よっしゃあ、女になんか負けへんで!」
 「よし、じゃあ女の子選びはシンジに頼むよ。」
 「ええっ!?」
 「記憶喪失で困ってるシンジが頼めば大丈夫だよ。」
 「そうかな…。」

 「碇くん。ちょっと話があるの。来てくれないかな?」
 放課後、帰り仕度をしていると女の子が僕に声をかけてきた。最初に僕を凄い剣幕で怒ってたコだ。
 「えっと…クラス委員の…。」
 「洞木ヒカリよ。」
 “あれ?…ヒカリ…って、どこかで聞いたような…。”
 彼女のヒカリちゃんも忘れちゃった?
 “そうだ、惣流さんが言ってた、僕の彼女かも…。”
 僕は思わず彼女を胸に抱いてる状況を想像してしまった。
 「ぼ、僕ら、そんな関係なんだっけ…?」
 「えっ?」
 「い、いや、なんでもない…。」
 「少しなの。いい、碇くん?」
 「う、うん…。」
 「それじゃ、自転車置き場で待ってるから。」
 彼女はそれだけ言って走っていった。
 “そうか、洞木さんと僕はつきあってるんだ。だからあの時凄く怒ったんだ。”
 そう理解した僕はちゃんと話そうと思って自転車置き場に行った。周りには誰もいないようだ。
 「やあ、待たせてごめん。」
 「どう思ってるの?」
 「…は?」
 「とぼけないで!それじゃ無責任すぎるわ!女の子の気持ちを弄ぶなんて!」
 「お、女の子の気持ちって?」
 「誤魔化さないで!アスカとの事よ!」
 「は?」
 意味がサッパリわからない。
 「ヒドイわ、シンジ!今まで私の事弄んでいたのね!」
 いきなりそこに惣流さんがやってきて、とんでもない事を言った。
 「はぁー?」
 「アスカの唇を奪っておいて、今更言い逃れはできないわよ!」
 「ちょっと待ってよ!僕には何の事だかわからないよ!」
 「ふええぇーん。」
 惣流さんは後ろを向いて泣き出してしまった。
 “どうなってるんだ?…洞木さんが僕の彼女だと言ったのは惣流さんだ…その惣流さんも僕の事が好きなのか?”
 「ヒドイ!ヒドイわ!」「不潔よ!」
 「あっ!」
 二人は別々の方向に走り去ってしまった。
 “ど、どうしよう…どっちを追いかけたら…。”
 僕は判断に迷った。その時。
 “アスカちゃんを追いかけるのよ!早く!”
 どこかから声が聞こえたような気がして、その声のとおり僕は惣流さんを追いかけた。
 「惣流さん、待ってよ!」
 僕はテニスコートの傍で惣流さんに追いついた。
 「嘘…あんた何でこっち来るのよ…。」
 「あんた…って…。」
 ヒドイわ、シンジ!今まで私の事弄んでいたのね!
 “さっき、僕を名前で呼んでたのに…。”
 それにしても…あんた本当に何もかも忘れちゃったみたいね。
 “ネルフでは今と同じ呼び方だった。”
 僕は疑問を抱いた。
 「…惣流さん、僕と君がキスしたというのは本当なの?」
 「…ぷぷっ…キャハハハハ!」
 惣流さんは突然笑い出した。
 「な、何で笑うの?」
 すると、惣流さんはようやく笑うのをやめると答えてくれた。
 「嘘に決まってるでしょ!」
 「ええっ!?」
 「あんたをからかってただけよ。あ、ついでに言っとくわ。ヒカリがあんたの彼女だというのも嘘だから。」
 「な、なんだって!?」
 「あー面白かった。鈴原達のイタズラは予想外だったけどね。」
 「ひ、ひどいよ、惣流さん…。」
 僕は騙されていたと知って愕然とした。しかも、トウジとケンスケは嘘がばれたらちゃんと謝ってくれたのに、惣流さんは謝るどころか僕を笑い物にしている。
 「お、またやってるわね。」
 後ろから声をかけてきたのは朝のあの三年生―確か、真辺先輩―だった。
 「真辺先輩。」
 「シンジくん、元気出して。よく言うじゃない、『好きな相手ほど困らせたい』ってね。」
 「…そうなの?」
 「ち、ち、違いますっ!」
 惣流さんは慌てて真っ赤になって否定した。
 「あら、違うの?ま、いっか。後は洞木さんの問題ね。」
 「アスカ…。」
 「ヒ、ヒカリッ!?」
 洞木さんが現われた途端、惣流さんは真っ青になった。
 「ひどいじゃない、みんなに嘘ついて!それに、私が碇くんの彼女だなんて!!」
 「そんな事言ってないって!名字の違う別のヒカリさんの事よ!」
 「この学校の生徒でヒカリという女子は洞木さんだけよ。」
 「そうじゃなくて、えっと、シンジの幼馴染の…。」
 「ドイツで生まれたアスカちゃんが何でシンジくんの幼馴染を知ってるのかしら?」
 「見苦しいわよ、アスカ!」
 「ご、ごめん、ヒカリ!」
 「許さないんだから!」
 惣流さんは逃げ出し、洞木さんがそれを追いかけていった。
 「ぷっ。」
 僕は可笑しくて思わず噴出してしまった。
 「気が晴れた?」
 「あ、はい。あの、一つ質問していいですか?」
 「何かしら?」
 「朝といい、今といい、どうして僕を助けてくれたんですか?」
 「私はシンジくんのファンだからよ。それに、シンジくんはこの街を守るエヴァンゲリオンのパイロットなんだし、応援するのは当然よ。」
 そう言って真辺先輩は僕にまた微笑んでくれた。
 「あ、そろそろ行かないと。じゃあね。」
 “あの人が僕の彼女だったらなぁ…。”

 「コンフォート17…あ、ここだ。」
 僕は晩飯用の食材をコンビニで買った後、ここに辿り着いた。僕はここに住んでいたらしい。
 「…あれ?」
 自分の部屋をポストで探したのだが、何故か見当たらない。でも葛城さんが7階に住んでいるのはわかった。
 “葛城さんにもう一度確認してみよう。” 
 僕は葛城さんの部屋に行き、チャイムを押した。すぐにドアは開いた。
 「シンジくん、おかえりー。」
 “?”
 僕はその挨拶を不思議に思いながらも中に入った。
 「あ、あの、お邪魔します…。」
 「ただいま、でしょ。」
 「え?な、なんでですか?」
 「当然じゃない、ここは貴方の家なんだから。」
 「えっ?だって表札には葛城って…。」
 「実は言ってなかったけど、私は貴方の保護者でもあるの。」
 「ええっ?ど、どうして…。」
 「まあまあ、詳しい話は中に入ってからにしましょ。」
 葛城さんはいろいろ教えてくれた。なんとネルフの司令官・碇ゲンドウは僕の父さんだそうだ。
 “ロボット・アニメでよく有る設定だけど、自分が当事者になるとは…事実は小説よりも奇なり、だな。”
 僕の母さんは碇ユイといって、僕が小さい頃に死んでしまったらしい。僕は父さんに呼ばれてこの街にやってきてエヴァに乗る事になった。で、何かの事情で僕は父さんと一緒に住む事ができなくて一人で暮らす事になりかけたのだが、そこでミサトさん(家族なんだからそう呼ぶようにとの事。)が手を廻してくれて僕の保護者になってくれたそうだ。
 “でも…一人の方がよかった気がする…。”
 僕は周囲のゴミの山を見ながらそう思った。
 「で、どうだった、学校は?何か思い出した?」
 「いえ…なんだか初めての事ばかりで…。」
 「そう…まあ、あまり深刻に考えないでいいわ。エヴァの操縦だって上手くできなかったけど、シンクロ率は変わってないし、訓練すれば前と同じくらいになるわ。」
 「はあ…。」
 「ただいまー。」
 「えっ?」
 聞き覚えのある声がして僕は慌てて振り返った。
 “ま、まさか…。”
 現われたのはやはり惣流さんだった。
 「おかえり、アスカ。」
 「み、ミサトさん!何で惣流さんがここに!?」
 「ああ、私、アスカの保護者でもあるから。」
 僕は頭を抱えた。
 “最悪だ…やっぱり一人の方がよかった…。”
 「はい、これ。」
 「え?」
 僕の前に何かの箱が置かれた。
 「おりょ?何々、おいしそうな匂いがするじゃない。」
 「ミサトはダメ!これはシンジの分。」
 「へ?…あ、そうか、そうなんだ、ふーん。」
 ミサトさんは何故かニヤニヤしている。
 「何勘違いしてんのよ!別にシンジの為じゃなくて、ヒカリに言われたから買ってきただけよ!」
 「洞木さんの怒りは治まったの?」
 「う…ま、まあね。」
 「何々、学校で何かあったの?」
 その後、僕はお風呂で温泉ペンギンなる新種のペンギンと遭遇した。


 翌朝、僕は地球防衛バンドのヴォーカルの事を惣流さんに依頼してみた。
 「この私にヴォーカルを依頼するからには、それ相応のサウンドじゃないとダメだからね。」
 「わかった。何とかするよ。それで、もう一つ希望があるんだけど…。」
 僕はケンスケの話を思い出してみた。
 “やはりカワイコちゃんでそれもセクシールック、これがメジャーを目指す為の必須条件さ!”
 「どしたのよ、シンジ。」
 「それで、できたらセクシールックでお願いしたいんだけど…。」
 だが、それを聞いた途端、惣流さんの渾身のビンタが僕に炸裂した。
 「なんで、この私が裸にならなきゃいけないのよぉっ!」
 惣流さんはそう言って走って行ってしまった。
 “誰も裸でなんて言ってないじゃないか…。”
 僕はひりひりする頬を押さえながら校舎に向かった。
 下駄箱の前に来た時、僕は後ろから声をかけられた。
 「お早う、碇くん。」
 「あ、お早う、洞木さん。」
 「昨日はゴメンネ、変な事言っちゃって。」
 「もう気にしてないよ。誤解も解けたし。」
 「アスカからシュークリーム貰った?」
 「うん。」
 「良かった、仲直りできたのね。」
 「うん、まあ…。」
 “さっきビンタを喰らった事は黙っていよう…。”
 「あ、そうだ。洞木さんにちょっとお願いがあるんだけど…。」
 「…私にできる事だったら…。」
 「じゃあ、放課後、音楽室に来て。」

 放課後、音楽室に僕、トウジ、ケンスケ、洞木さん、判定役の真辺先輩が集合した。
 地球防衛バンドのデビュー曲として用意されたのは、ケンスケ作詞・作曲の‘奇跡の戦士エヴァンゲリオン’だった。
 まずはトウジのヴォーカルで1番、洞木さんのヴォーカルで2番を演奏した。
 トウジの時はギターとヴォーカルそれぞれに気を使わなきゃならなかったので、どちらも中途半端になってしまった。でも洞木さんのヴォーカルは物凄い出来栄えだった。
 「それでは真辺先輩、判定をどうぞ!」
 「じゃーん!ヴォーカルは洞木さんに決定!」
 真辺先輩の出したボードには洞木さんの名前が花マル入りで載っていた。
 「完敗や、イインチョ。ワシはギターに専念するから、ヴォーカルは任したで。」
 「俺も驚いたよ、委員長にこんな才能があったなんて。」
 「ホント。♪人は見かけによらぬもの、って事ね。」
 真辺先輩は何故かメロディに乗せて言った。
 「何でっか?その唄。」
 「気にしない、気にしない。一休みしたら、フルコーラス聞かせてくれるかしら?」
 「「「「はい。」」」」
 それから、真辺先輩の前でフルコーラスを演奏した。真辺先輩は大きな拍手で誉めてくれた。
 「よっしゃ!これで、完璧やな、地球防衛バンド!」
 「そうだな。これも委員長のおかげだよ。」
 「別に、あんた達の為じゃないわよ。」
 「そんじゃ、誰の為?」
 「だから、誰かの為とか、そういう事じゃなくて…。」
 「成り行き、ってトコ?」
 「そ、そう、成り行きよ。」
 「ま、なんにせよ、上手く行きそうで良かったじゃない。文化発表会の当日、バッチリ取材しちゃうからね。」
 その時、サイレンと共に非常警戒態勢の警報が響き渡った。
 その直後、惣流さんが音楽室に飛び込んできた。
 「シンジ!出撃よ!」
 「出撃って…。」
 「記憶喪失だからって、甘えないでね。あんたは初号機のパイロットなんだから!」
 「でも…僕が行ったって…。」
 “記憶喪失の僕が、敵と戦える筈がないんだ…。”
 「どうするの?行くの?行かないの?」
 「…無理さ、戦うなんて…。」
 「この臆病者!!」
 惣流さんはそう言い残して駆けて行った。
 「シンジ!お前、ホンマにそれでエエと思うとるんか?」
 「…出しゃばっても足手まといになるだけさ…。」
 「お願い、碇くん、戦って。」
 「委員長…。」
 「戦わなければ来週は来ないし、来週が来なければ文化発表会も無いのよ。」
 「シンジくんは臆病者じゃないわ。ちゃんと勇気を持ってる。大丈夫、きっと戦えるわ。」
 僕は拳を握り締めた。真辺先輩の言葉を聞いたら、何故か戦いへの恐怖が薄らいでいった。
 「わかった、行くよ。」
 僕はネルフへ急行した。 

 僕はエヴァ初号機で出撃した。綾波さんはエヴァ零号機に、惣流さんはエヴァ弐号機に乗っている。
 [使徒]は第三新東京市に侵攻して来た。それは人間と同じように手足を持って直立歩行していた。
 『ちょっと、何あれ!?』
 『エヴァの素体にそっくりだわ。』
 “素体って何だ?でも、いちいち訊くのはまずいよな…。”
 『で、フォーメーションはどうするの?』
 『一人が先鋒、二人が後方支援。』
 『了解!二人とも、しっかり援護してね!』 
 エヴァ弐号機は薙刀みたいな武器を構え、前進していった。
 “勝手に先鋒になっていいの?”
 そう思ったが、多分彼女は自信があるのだろう。
 エヴァ零号機と初号機の武器はパレットガンというライフル銃だ。照準合せはコンピューターがやってくれるらしい。
 “これなら僕も戦える。”
 『攻撃開始!』
 ミサトさんの命令が出た。僕はパレットガンを発射した。エヴァ零号機も同じ攻撃をしている。
 『チャンス!』
 飛び上がったエヴァ弐号機は敵の直ぐ横に着地し、薙刀で切り付けようとした。
 だが、敵はその直前に振り向き、口から光線を発射した。
 『きゃああああーっ!!』
 「惣流さん!」
 エヴァ弐号機は吹っ飛んだ。
 「よくも!」
 僕はパレットガンを撃ちまくった。爆煙に敵が包まれていく。
 『シンジくん、ストップ!撃つのをやめなさい!』
 その時、爆煙の中から何か光る物が出てきて向かってきた。
 「わあっ!」
 やられたかと思ったが、武器を破壊されただけだった。
 爆煙が晴れると、敵の右手は手首から先が光る鞭みたいになっていた。
 また、光る鞭が向かってきた。
 “逃げられない!”
 『碇くん!』
 エヴァ初号機の前にエヴァ零号機が飛び込んできた。
 『きゃうっ!』
 『レイ!』
 エヴァ零号機の首に敵の光の鞭が絡み付いていた。
 「綾波さん!」
 敵はそのままエヴァ零号機を引張っていって自分の盾にしてしまった。これじゃ、攻撃は不可能だ。
 「くそっ、なんて卑怯な敵なんだ!」
 『いい、そのまま攻撃して。』
 「そんな!それじゃ綾波さんまでやられちゃうよ!」
 『エントリー・プラグに直撃しなければ大丈夫よ。それに、今なら敵も動けないわ。』
 「でも!」
 『シンジ君、あの敵は本来の貴方が嫌がる事をやっているのよ。この意味、わかるわね。』
 「つまり、敵は僕の事を…僕の過去を知っている…僕の過去そのものが僕の敵…。」
 『その通り。敵はシンジ君の記憶から、貴方が最も恐怖と感じる物をいぶり出して再現しているのよ。』
 僕はエヴァンゲリオン零号機が落としたパレットガンを拾って構えた。
 「…これが本当に、僕自身の恐怖の記憶って言うんなら…そんなもの、僕の手でやっつけてやる!!」
 僕は敵の肩に狙いをつけた。そこだけが、隠れていなかった。
 「撃つよ、綾波さん!」
 僕はパレットガンを撃った。だけど、敵は直ぐにエヴァ零号機を投げつけてきた。
 「あっ!?」
 パレットガンの弾丸は殆どがエヴァ零号機に当ってしまった。
 エヴァ零号機は地面に倒れこんでしまった。
 「綾波さん!」
 『シンジくん、前を見て!!』
 「え?」
 敵が目の前に迫っていた。
 「うわあああ!」
 僕は慌ててパレットガンを撃った。それしかできなかった。
 でも、やはり敵は平然としていた。
 やがて、弾が切れると、敵は殴りかかってきた。
 「うわああーっ!!」
 僕は吹っ飛ばされた。
 地面との激突の衝撃で僕は頭がくらくらしていた。だけどその時、頭の中に何かが流れ込んできた。
 いろんな敵との戦い―黒い巨人、赤紫のイカ、青いクリスタル、白い海獣、二体のヤジロベエ、四本足の蜘蛛、バカでっかい目玉…。
 いろんな人達との出逢い―ミサトさん、リツコさん、父さん、綾波、トウジ、ケンスケ、委員長、アスカ、加持さん、冬月副司令、マヤさん、日向さん、青葉さん
 それは、僕の以前の記憶だった。でも…。
 “…誰か…一人足りないような…。”
 僕は警告音にはっと気付いた。
 「…もう手遅れだ…僕は自分の記憶と引き換えに、命を…。」
 目の前に黒く巨大な拳が迫ってきた。その後、何も見えなくなった。


 “…これで…ゲーム・オーバーか…。”
 “ゲーム・オーバーって、’敗北’じゃなくて’ゲーム終了’って意味よ。知らなかったの?”
 “その声は…真辺先輩!?”
 “シンジくんは記憶を取り戻した。プログラムを作った奴は悔しがってるでしょうね。”
 “真辺先輩…言ってる意味がよくわからないんですが…。”
 “じゃあ、目を開けてみなさい。そしたらわかるわ。”


 僕は目を開けた。そこには前にも見た光景があった。
 「イヤだな…またこの天井だ…。」
 それは零号機との機体互換試験の直後だった。

 “全部夢だったのか…それにしても、長い夢だったな…。”


その夜、リツコは差出人不明のメールを受け取った。
《イロウルはまだ生きている。》



超人機エヴァンゲリオン

「奇跡の戦士エヴァンゲリオン」―――電子の悪魔

完

あとがき