シンジは司令執務室中央、重厚で巨大な執務机の前に毅然として立っていた。 椅子に掛け、机に肘をついて口元で手を組むゲンドウの姿は、まるで閻魔大王だ。 シンジは、自分が被告人でゲンドウが裁判官であるかのような錯覚を受ける。 それでもシンジは、必死の気迫を込めてその場に立っていた。 彼には今、どうしてもゲンドウに言わねばならない事があったのだ。 シンジには、その時何が起きているのか理解できなかった。 「パルス逆流!中枢神経素子にも拒絶が始まっています!!」 技術部所属オペレータ、伊吹マヤの叫ぶ声が異常を知らせる。 何重もの強化ガラスをはめ込んだ大窓の向こうでは、零号機が機体を拘束している巨大なアームを引き千切って暴れ出した。 シンジは暴れる零号機から目を離すことができない。 技術部の長、赤木リツコ博士は矢継ぎ早に指示を下す。 「コンタクト停止!6番までの回路開いて!」 「信号拒絶、だめです!」 だが、マヤの焦りを含んだ叫びが響いた。 零号機は両手で頭を抱えるようにして絶叫する。 『クゥゥオオオオオオォォォォォォン!』 「零号機、制御不能ですっ!!」 「く、実験中止!電源を落せ!」 さしものゲンドウも、その声から焦りの色を消すことはできない。 零号機の背中から、アンビリカルケーブルと言う名の電源コードがパージされる。 零号機は内部電源に切り替わった。 その時、シンジは叫ぶ。 「父さんっ!!」 暴走した零号機の拳が、制御室の窓を殴りつけた。 拳のちょうどこちら側には、ゲンドウとリツコが立っている。 シンジは父親に駆け寄ろうとしたが、足が竦んで動けない。 窓枠が歪み、強化ガラスにヒビが入った。 「司令っ危険で、あっ!?」 瞬間、ゲンドウはリツコをかばった。 零号機の拳は、幾度も制御室を殴る。 ゲンドウはリツコを窓際から制御室の奥へ押しやると、窓側を振り向く。 マヤが制御盤のモニタに目をやり、叫んだ。 「オートエジェクション作動!?」 「い、いかんっ!レイッ!?」 零号機の襟首のカバーが爆発ボルトで吹き飛ぶ。 その時、シンジの目には緊急用ジェットで打ち出されたエントリープラグが、ケイジの天井に叩きつけられるのがはっきりと見えた。 (あ、あの中には綾波がっ) エントリープラグはそのまま噴射により、ネズミ花火のように天井を踊りまわる。 そしてそれは、そのまま100メートル近く下の床へと落下した。 リツコ、そしてゲンドウの叫ぶ声が聞こえた。 「ワイヤーケイジ!特殊ベークライト急いで!!」 「レスキューは何をしている!」 だが、マヤの声は絶望的な事態を伝えた。 「扉の電源が落ちています!手動装置も故障している模様です!おそらく今の衝撃で…。今迂回ルートを指示していますが…」 「く、待ってはいられん。ここからが一番近い」 ゲンドウはそう言い残すと、扉へと向かう。 だが制御室の扉は、わずかに開きかけた途端、火花を散らしてその動きを止めた。 ゲンドウは隙間に手をかけて引くが、扉はびくともしない。 「…駄目だ、これ以上は開かん」 シンジは、父親が狭い隙間に必死で身体を押し込もうとしているのを見た。 彼の心に焦りが浮かぶ。 (ぼ、僕は何を…何をしてるんだっ!あんな隙間、僕にしか、僕が、僕…) 「と…父さん!僕が、僕がいくよ!」 その瞬間、ゲンドウはシンジを振り向いてサングラスを外した。 父子の目と目が合う。 ゲンドウは無言で頷いた。 シンジは扉の隙間から抜け出ると、全力で走り出す。 目指すは零号機ケイジだ。 シンジは床に叩きつけられたエントリープラグへ駆け寄った。 ケイジにマヤの声が響く。 『シンジ君!プラグの先端近くに緊急用のハッチがあるわ!』 「はいっ!」 シンジは熱気が篭る中、急いでハッチへと走る。 そして彼はハッチのハンドルに手をかけた。 「うわっ!?」 一瞬彼は手を放した。 ジェットの噴射、さらに天井との摩擦で、プラグの外装はまるでよく焼いたフライパンのように加熱されていたのだ。 だが彼の脳裏に、あの儚げな少女の紅い瞳が浮かぶ。 (…人間扱いもされないで。…実験動物みたいに。…ロボットの兵隊みたいに扱われて。…そんなのって、そんなのって無いよ。10年放っておかれた僕より…。僕なんかより、ずっとずっと…酷いじゃないか!) 彼は再びハンドルを手にした。 両手の平から音と煙が上がる。 蛋白質の焦げる、いやな臭気があたりに立ち込めた。 「ぎゃ…ぎゃああああぁぁぁぁっ!?ああああああ…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」 バン! 勢い良く、ハッチが開いた。 中からは恐ろしい熱気が噴き出す。 シンジは両手の平をかばいつつ、その中へと身を躍らせた。 「あ、綾波!綾波だいじょうぶっ!?」 プラグの中のレイは、インテリア…操縦席に座して身動き一つしなかった。 一瞬シンジは、自分が間に合わなかったのか、と恐ろしい考えに取り付かれる。 だが、次の瞬間レイがぴくりと動いた。 彼は安堵し、再び彼女に声をかけた。 「綾波…け、怪我は?」 「いか…り…君?」 レイはかすかに瞼を開き、シンジを見つめた。 シンジは涙を流しながら呟く。 「綾波…よかった。生きてる…。ほんとによかった…」 「碇…君…」 彼は制御室からの指示に従って、レイに応急手当を施す。 それが終わった頃、ようやくの事でレスキュー班が到着した。 シンジはゲンドウを前にして、あの時のことを思い出していた。 彼は包帯でぐるぐる巻きになり、治療用ゼリーバウムで固められた自分の両手を見やる。 そして彼は必死の思いで、あの時の勇気を振り絞った。 「父さん!僕、パイロットになるよ!」 「シンジ…」 「その…綾波のこと…放って置けないし…さ。も、勿論誰かを助けるとか…そんなのは傲慢なのかも…しれないけど…。少しだけでも…手助けでも…で、できたら…って…そう…」 シンジはその時見たものを一瞬信じられなかった。 サングラスに隠れたゲンドウの右目から、透明な液体がひとしずく頬を伝って執務机の天板に落ちたのである。 ゲンドウの口から、小さな、本当に小さな呟きが漏れる。 「シンジ…すまん。ありがとう」 「父さん…」 「…碇シンジ。本日付で、エヴァンゲリオン初号機専属パイロット・サードチルドレンに任命し、ネルフ特務三尉の階級を与える。詳細は作戦部より通達を受けるように」 突如として気迫の篭った声を発したゲンドウに、シンジは一瞬飲まれる。 だが彼はネルフ司令を真正面から見据えると、敬礼した。 「はいっ!」 「…作戦部からは敬礼の仕方も習え」 「…はい」 少し落ち込んだシンジは、ふとゲンドウの手元を見る。 そこには牛乳のパックと、口から中身のあんぱんがのぞいている売店の袋があった。 「…父さん、そのあんぱんは?」 「昼食だ」 シンジは少し考えると、ゲンドウに笑顔を向ける。 彼は思っていた事を素直に言葉にした。 「父さん、もしよかったら…。手が治ったら、ときどき弁当作って来ようと思うんだけど」 「…たのむ」 「うん!…それじゃ!」 シンジは上機嫌で司令執務室を立ち去る。 後にはゲンドウとあんぱんが残された。 ゲンドウは、執務机の引き出しを開ける。 彼はそこに制服のポケットから取り出した『目薬』を放り込んだ。 「ふ…シナリオ通りだ」 引き出しの中には、あちこちの自動扉から抜いてきたと思われる各種部品やら、ハンダゴテやらの工具類までもが収まっている。 碇ゲンドウは、誰も覚えてはいないかもしれないがこれでも名の知れた科学者だ。 彼には技術的素養も充分に備わっている。 しかも彼は、色々と後ろ暗い事にも手を染めているため、小手先の技術も完璧なのだ。 (ふ、これでシンジはレイから離れられまい。つまりはネルフから離れられんということだ。業者選択の問題で、ネルフ食堂の改善がなかなか進まぬならば、せめて昼食だけでも改善せねばな。…もっとも、こうまで上手く行くとは。いやいや、勝って兜の緒を締めよとの言葉もある。…司令とチルドレンが一緒に住むのは…さすがに保安上の問題がある…か。朝食や夕食は今の所無理…。いや他にも考えねばならん事が…。もうすぐ葛城一尉が赴任してくる。シンジと彼女の同居は阻止せねばならんな…。あ、いやレイの住居も変更せねばシンジが疑うではないか…。ふうむ…) 恐るべき陰謀により、碇司令は見事昼食をゲットした。 だが彼の前に立ちはだかる問題はまだ数多い。 しかし彼は負けない。 満足すべき食生活を手に入れるその日まで。