総司令の食卓

1章

◆はじまったシナリオ(中編)

 シンジは零号機ケイジ脇の制御室で、考え事をしていた。
 目の前では、E計画責任者たる赤木リツコ博士が零号機起動実験の準備を指揮している。
 そしてシンジの隣では、彼の父親にしてネルフ総司令たるゲンドウが黙然と立ち、実験準備の様子を眺めていた。
 シンジは巨大な窓の向うに見える、明るいオレンジイエローに塗装された巨人…人類の決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン試作実験機『零号機』を見つめる。
 その巨人の襟首に挿入されたエントリープラグと呼ばれる操縦システムの中には、数日前に出会ったばかりのあの儚げな少女、ファーストチルドレン綾波レイが居るのだ。
 彼はあの日、司令執務室で起こった出来事を思い出していた。



「シンジ…。まず最初に詫びておく。これまで放っておいて、すまなかった」
「え…」

 いきなり切り出したゲンドウの言葉に、シンジは一瞬呆然とする。
 そのままであれば、彼は猛反発したか、あるいは逆に泣き出してしまったかもしれない。
 だが彼が何か行動をする前に、ゲンドウは言葉を発する。
 偶然なのかそうでないのかはともかく、それはシンジの機先を制する形になっていた。

「シンジ…来い。この画面を見ろ」
「え、あ、う、うん…」

 ゲンドウは執務机へとシンジを誘い、端末の画面を操作する。
 そこには赤味がかった液体に浸かっている、紫色の鬼の顔が映し出されていた。

(ろ、ロボット!?…まさか、そんなものが?)

 傍らで作業している人間の姿との対比から、その顔がとんでもなく巨大な大きさであることが見て取れる。
 もしもこの顔の下に身体が続いているとしたなら、その大きさは50メートルはくだらないだろう。

「と、父さんこれは…」
「覚えが無いか?…だろうな。あの時お前はまだ4歳になるかならないかだった…。これは人造人間エヴァンゲリオン、その初号機だ。…ユイの遺作だ」
「か、母さんの!?」

 シンジは驚愕する。
 ゲンドウは言葉を続けた。

「覚えておらんかもしれんがユイ…母さんは世界有数の科学者だった。もっとも世間には殆ど知られてはいなかったが。そしてユイは人類の未来を拓く為、これを作り上げた」
「人類…」
「セカンドインパクト…。南極に巨大隕石が落下し、そのために世界が破滅しかけた…という事になっている。表向きはな。だが…事実は違う。事実は、南極で発見された『使徒』と名づけられた巨大生物の仕業なのだ」

 突然ゲンドウは話題を変えた。
 そして彼は端末を操作して、別の画面を映し出す。
 そこには、巨大な白い不気味な生物と、その周りで作業している研究者達の姿があった。

「これは15年前の南極での映像だ。この巨大な生物が、使徒…第一使徒『アダム』だ。この時、私もここに居た…」
「ええっ!?」
「人類は第一使徒アダムをエネルギー源として利用しようとして失敗、暴走させた…。その結果がセカンドインパクトだ。セカンドインパクトは天災ではなく人災だったのだ。そして私は…まず間違いなく失敗することを理解していながら…彼らを説得する事ができずに命からがら南極から逃げ出すことしかできなかったのだ」

 シンジはゲンドウの語る内容に、言葉も無い。
 ゲンドウの顔は何の表情も浮かべていなかった。
 彼はさらに続ける。

「使徒はアダムの他にも数多く居る。使徒は本能的にサードインパクトを起こすのだ。そしてユイは…。使徒と戦うために…。お前やその他の、世界中の子供達に未来を残そうとして…。あの巨人兵器エヴァンゲリオンを開発したのだ!」
「!」
「そしてユイは…母さんは、自分がエヴァンゲリオン操縦者としての素質があると知ると、自分で操縦者に志願した。だが…結果は失敗だった。その結果はお前も知っての通りだ。覚えていないようだが、あの日ユイはお前と私の目の前で…実験に失敗して消滅した。…エヴァンゲリオンの…エヴァのパイロットに必要な資質として必要な資質は、数万人に一人という遺伝子上の素質だけでは無かったのだ。…10代前半の…おおよそ13〜15歳ほどの少年少女でなければ、エヴァは操縦できないのだ」

 シンジの顔色が蒼くなる。
 ゲンドウが彼をここに呼び寄せた理由がそこにある…と、彼は思い込んだのだ。
 彼がその事を問いただそうとした時、再び機先を制する形でゲンドウの言葉が再開される。

「…お前にも操縦者の素質はたしかに遺伝している。だが本来なら私はお前を操縦者にするつもりは無かった…」
「え!?」
「…私はこのネルフを組織するために手段を選ばなかった。色々と手も汚した。ユイの理想を…。お前たちに未来を残すことを実現するためなら…。だが当のお前を危険に晒してしまっては本末転倒だ。それに汚い事に手を染めた私の傍に居ては…。いや、違うな。私は恐かったのだろう。お前に、ユイの面影を残すお前に、私の汚れきった姿を見られる事が…。だから…だからお前を人手に預けた…」

 ゲンドウは後ろを向く。
 シンジには、その背中がやけに小さく見えた。
 ゲンドウは再び振り向く。
 その顔には表情は無い。

「…だが現状がそれを許さなかった。使徒の力が、最初の数体を除き、予測を大きく上回ることがはっきりしたのだ。ここネルフには使徒をおびき寄せ、始末するための仕掛けがある。その仕掛けの最たる物がエヴァンゲリオンだ。私はネルフ司令として、お前にエヴァ操縦者、サードチルドレンへの就任を要請しなくてはならない!」
「と、父さん…」
「…だが、どうしても嫌ならば良い。お前に命がけで戦えなどとは言えん…。これでも司令職だ。お前が嫌ならばなんとかしてみせる。…だが、もう一つだけ。司令としてではなく、私個人として…。お前に…お前に頼みがある」

 凍りついたようなゲンドウの鉄面皮に、ヒビが入った。
 どこがどのように、とは言えない。
 だがシンジには、それは打ちのめされて疲れきった表情に見えた。

「…レイの事だ。あれを人間にしてやってくれ…」
「に、人間…に?」
「レイは…エヴァに乗るために遺伝子操作されて生み出された人間だ。ファーストチルドレン…『最初の』チルドレンというのは、そういう意味なのだ。お前のような生まれつきその素養を持った人間とは違う」

 シンジは衝撃の事実に言葉が出ない。
 床に描かれているセフィロトの樹が…神の国を表すその絵柄が、胡散臭い嘘っぱちに見えた。
 シンジの胃袋が、ぎゅうぅっと縮む。

(ここは…ここは地獄の入り口…じゃないのか?)

 シンジは目まいと吐き気を感じる。
 彼には、ゲンドウの足元にからみつく赤錆びた鎖が見えるように思えた。
 そして、その鎖は彼自身にもからみついている。

「レイは自分が『作られた人間』だという事実を知っている。いや、自分が人間ではないバケモノだとすら思っているだろう。そして私はその事実を利用して、あれをまるでロボットのように育てた。心を持たないロボットのように。私の命令なら、あれは命すら何の躊躇も無く捨てるだろう。理想の兵士として、そのように育てるのが有効だと思われたのだ。だが…最新の研究で、エヴァが充分に力を発揮するにはパイロットの感情が大切だとの結果が出た。私の…私のやっていた事は大きく間違っていたのだ。何の意味も無かったのだシンジ…」
「…父さん。ひどいよ…。そんなのって…」
「ああ、ひどい。しかも…レイは女でありながら、子供を生むことすらできない。そのように、使い捨てに作られている…。お前の言うとおり、ひどいことだ。許されることでは無い。せめて…せめてレイに人間らしい心を与えてやって欲しいシンジ。私やネルフの人間達では、もはやどうすることもできん。私達の言葉では、全て命令としか取られないだろう。難しく考える事はない、ただ友達として普通に…普通に接してやって欲しいのだ。私の尻拭いをお前に押し付けるようで忸怩たる物があるが…。だがお前にしか頼めない…。レイの秘密を知っている者は、私とほんの数人だけだ…。すまん…」

 結局シンジは、その場でゲンドウに即答することはできなかった。
 その後ゲンドウはレイを呼び戻すと、彼女に対しシンジにネルフ内を案内してやるよう命じる。
 レイはそれこそ機械的にその命令に従った。
 シンジは俯いて彼女の後を歩く。
 レイは無表情のまま施設を案内していった。

「…ここがネルフの食堂」
「あ…綾波…さん」

 シンジは思い切って声をかける。
 レイは振り返って、彼を見つめた。
 紅い瞳が彼を射抜く。

「あ…え、えと」
「さんはいらない」

 レイがぽつりと呟く。
 シンジは思わず目を瞬かせた。

「え…?」
「綾波さん、と言ったわ。さんはいらない」

 レイはそう言うと、再び先に立って歩き出す。
 彼は顔を上げ、レイの後姿を見つめた。
 その折れそうに細い虚ろな姿は、今にも消えてしまいそうにも思えた。



 シンジは制御室の大窓の外…エヴァ零号機のケイジ内に立つ、オレンジイエローの巨人…人造の巨神を見つめた。

「…綾波」

 表情などありえないはずの零号機の顔が、何とはなしに寂しげに見える。
 真紅の単眼が彼の心の中で、レイの深紅の瞳に重なった。