(…とうとう来ちゃったな) シンジは駅のホームに降り立ち、溜息をついた。 彼は学生服のズボンのポケットに突っ込んだ、父親からの手紙に想いを馳せる。 十年前に親戚の所に預けられ、三年前に母親の墓参のときに一度あっただけでしかない父親から来たその手紙の内容は、文章ですらない、そっけない一言だった。 『来い』 彼の父親、碇ゲンドウからの手紙は、たったそれだけだった。 列車の指定席券や意味の分からないIDカードらしきものとともに同封されていたメモには、父親のものとは違う筆跡で、事務的に目的地の駅名と待ち合わせ時間が書かれているだけである。 その手紙を読んだとき、シンジは発作的にそれを引き裂いてごみ箱へ放り込んだ。 だが、今その手紙はテープで丁寧に貼りあわされ、いったんくしゃくしゃにまるめられたものを丁寧にのばした封筒に入れられて、彼のポケットに収められている。 シンジは再び溜息をついた。 彼は改札を出ると、人の流れに乗って駅の南口へと歩き出す。 「うわ…」 まぶしい陽の光が彼の目を射る。 シンジは思わず目をつぶる。 そして彼はゆっくりと目を開けた。 彼の目に、第三新東京市の街並みが映る。 そこは将来の首都として、活気と希望とに満ちていた。 シンジは内心、ここでは自分が浮いている、と感じる。 (…ここは…僕がいていい場所じゃない…んだろう…な、やっぱり) 実の所、それは彼の被害妄想である。 実際、彼は傍から見てまったく浮いていない。 シンジは多少はおのぼりさんの様に見えるかもしれないが、そのように見える者は周囲にいくらでもいる。 言ってしまえば、彼はその場の背景のなかに完全に溶け込んでおり、はまりこんでいた。 彼の考えは、本当に見当違いであり考えすぎなのである。 だが彼がそのように育ってきたのは、けっして彼の責任ではない。 その責任の大半は、彼がこれから会うことになっている彼の父親へと帰するのだ。 駅前のベンチに座り込んでいたシンジは、騒がしさにふと顔を上げる。 見ると、なにやら駅前のロータリーに、複数の白バイに先導されたこれまた複数の黒塗りの高級車が停まっていた。 彼は不審そうにその光景を見やる。 だが、それが彼自身にはまったく関わりのないことだろう、と彼は考えていた。 それが甘い考えだったことを思い知らされたのは、車から降りてきた黒尽くめの男たちがシンジを取り囲んだその瞬間である。 「…碇シンジ君だね?君のお父さんが待っている。こちらへ来たまえ」 黒尽くめの男達のリーダーらしき者が、シンジに向かって口を開いた。 シンジは焦り、ろくに言葉も出せない。 「え…あ、あ?」 「…我々は君のお父さんの部下だ。お父さんの命れ…いや指示に従っている。安心してついてきたまえ」 シンジは助けを求めて左右を見回した。 だが周囲の人達は遠巻きに眺めているだけで、誰も彼を助けようとしない。 考えてみれば、この黒尽くめ達は白バイ…警察に先導されてきているのである。 黒尽くめ達はあきらかに公的、あるいはそれに順ずる所属の人間達であるはずだ。 彼らの妨害をすれば、下手をすれば罪に問われることになるのである。 それにそうでなくとも、見ず知らずの少年を助けるために強面の男たちに食って掛かる熱血漢など、テレビの中でもなければそうそういるはずももないのだ。 シンジは半分パニック、半分諦めの気持ちで彼らに従った。 彼は車に乗り込もうとしたところで凍りつく。 車の後席には先客がいたのだ。 先客は、ぶっきらぼうに言い放つ。 「どうした。はやく乗れ」 その男は、赤いサングラスをかけ、赤いタートルネックの上に制服らしい黒の上下を着込んでいた。 その顔は、濃いあごひげに縁取られている。 それは紛う事無く、三年前に一度会ったきりのシンジの父親、碇ゲンドウだった。 彼の隣には、青が基調になっているどこかの学校の制服を着た少女が座っている。 その少女の髪の毛は、青みがかった銀髪だった。 少女はシンジに顔を向ける。 シンジは息を飲んだ。 彼女の瞳は紅玉のような深紅だった。 シンジはその後、カートレインでジオフロントへと連れて行かれた。 カートレイン上の車は、そのままジオフロントにある謎のピラミッド状の建造物へと吸い込まれていく。 レールの上からの眺めはけっこうな見ものだ。 だが、シンジは景色を見物するどころではなかった。 彼の隣には、彼の父親が恐ろしい威圧感を漂わせたまま無言で席に座っている。 そしてゲンドウをはさんで反対側の座席には、アルビノの少女がこれもまた無言のまま前だけを見詰めていた。 彼ら二人がかもし出す異様な雰囲気に、シンジはいたたまれない気持ちである。 だが、車内では逃げ出すわけにもいかず、シンジはひたすらに耐えていた。 やがて、カートレインはターミナルへと到着する。 ゲンドウはゲートに自分のIDカードを通し、そのまま歩いていく。 蒼銀の髪、深紅の目の少女も彼に続いてカードをゲートに通し、ゲンドウを追った。 シンジはゲートの前でどうしていいかわからず、左右を見回す。 すると、やや先で立ち止まったゲンドウが振り返った。 「…どうした。手紙にカードが入っていたはずだ」 シンジは目を見張る。 よもやゲンドウがこのような反応を示すとは、思ってもみなかったのだ。 彼は嬉しさと困惑とがないまぜになった奇妙な感覚にさらされる。 ふと彼は、あの紅い目の少女が彼をじっと見つめていることに気付いた。 慌てたシンジは、大急ぎで赤いIDカード…ゲスト用のIDである…を封筒から取り出すと、ゲートに通す。 そして彼は大急ぎでゲンドウを追った。 彼が見たところ、ゲンドウは彼を待たずにどんどん先へ行ってしまいそうなそんなイメージがある。 だがその印象を裏切り、ゲンドウはシンジが追いつくまで待っていた。 「…はやく来い」 「あ…。う、うん」 シンジはぱたぱたと駆け寄る。 ゲンドウは再び歩き出した。 シンジは薄暗く、だだっ広い部屋へと連れて来られた。 この部屋は『司令執務室』というらしい。 そして、明らかにこの部屋はゲンドウの物である。 という事は、ゲンドウはこの組織の司令ということだ。 シンジの頭は混乱した。 「…シンジ、来い」 ゲンドウの呼びかけにシンジは我に返る。 彼の父親は部屋の奥にある巨大な執務机には着かずに、部屋の中央であの少女と並んで立っていた。 ゲンドウはシンジに言葉をかける。 「シンジ、改めて紹介する。これがネルフに所属するファーストチルドレン、綾波レイだ。挨拶しろレイ」 「…綾波レイです」 少女は機械のように命じられた事を行う。 そこには愛想どころか、一片の感情も無い。 シンジは焦りを感じる。 「い、碇シンジ…です…」 ゲンドウはレイに顔を向けた。 彼は再び命令を発する。 「レイ、少ししたらまた呼ぶ。それまで席を外しているんだ」 「…了解です」 シンジはその一瞬だけ、レイの表情にかすかな翳りがよぎるのを確かに見た。 彼女はちらりとシンジを見やると、司令執務室を立ち去る。 シンジはドアが閉じる直前の、少女の紅い瞳に浮かんだ寂しげな光を、後々まで忘れる事はできなかった。