「さて、そろそろ行こうかな?」
午前9時45分、手にしていた本を閉じて立ち上がる。
(迷わないように気を付けないと……)



ただ、その小さな世界を…… 第7話




予想以上に迷うことなく、ネルフ付属の病院に来ることができた。
(ふう、さすがに毎回迷う訳ないよね)
廊下を歩いていると、遠くから話し声が聞こえてきた。
「え、あの子がそうなの?まさに人畜無害って感じなんだけど……」
「そうなのよね。ほんと人は見かけによらないわ」
振り返ると、二人の看護婦がシンジの方を向いて話をしていた。
見られていることに気付いたのか、彼女らは小走りに角を曲がった。
「?」
取り敢えず気にしないことにして、当初の目的を果たす為に歩みを進める。
程なくして、目的の病室に到着した。
(来たはいいけど、何を話せばいいか殆ど考えてないよ。まあ昨日は考えててもうまくいかなかったんだけど……)
「それに普通に話せるようになりたいし」
うん、と一つ頷いてインターホンに手を伸ばす。
「綾波さん、シンジだけど、入っていい?」
「…どうぞ」
軽い音を立ててドアが開く。
「おはよう。今日の調子はどう?」
「別にいつも通りよ」
「そう、良かった。退院まであとどれくらいなの?」
「後十日ほど」
「そっか。あと少しだね」
「そうね」
「……」
「……」
「あ、あの本読んでみた?」
「ええ」
「どうだった?」
「…分からない」
(はぁ、やっぱりか。そうじゃないかとは思ってたんだよね……)
沈黙が続く。
レイは、昨日とは違って本を読むことなく、シンジの方を見ている。
反対にシンジは、目を合わせるのが恥ずかしいのか、少し俯いていた。
(それにしてもなんでこんなに反応が乏しいんだろ?)
(もしかして、僕が話すのが下手だからとか……?確かに自分から人に話しかけたことなんて殆どないし、カイとはノート使ってだし……)
(あ、そういやカイ、綾波さんに会えないとか言ってたけど……気になる。訊いてみようかな?でも言いにくいことだと悪いし……)
(でも何かあったんなら仲直りさせる手伝いくらいはできるかもしれないし……)
顔を上げる。
「ねえ、一つ訊きたいんだけど、カイと何かあった?」
「……」
「あ、言いにくいなら無理に言わなくてもいいよ」
「…別に、何も」
「何もなかったの?」
(でもそれなら『会えない』なんて言うはずがない。綾波さんが気付いていないだけかも)
「じゃあさ、その時の様子とか教えてくれないかな?覚えてる範囲でいいから」
「……最初に彼が自己紹介して、名前で呼ぶように言ったわ」
レイが話し始め、それに合わせてシンジが顔を引き締める。
些細なことも聞き逃さないようにと。
「その後に怪我の原因と退院までの時間を訊かれたから答えたわ。その次は『ずっと病院だと退屈だろ?』と訊かれて『別に……』と答えた。最後に私が何故ここに来たのかを訊いたわ」
「どんな風に?」
「誰かの命令で来たのかって」
「……それで?」
「『そんなんじゃない』と大声で言って、意気消沈した様子で帰っていったわ」
「それだけ?」
「ええ」
「………」
(カイらしくないな。確かに綾波さんの言い方はあまり誉められたものじゃないけど、怒るなんて。僕だって最初はもっとひどいこと言ったり、無視してたことだってあったのに。第一これくらいで『会えない』なんて……)
難しい顔で暫く考えこむ。
だが答えが出そうにないのか、ふと息を吐いて顔を上げる。
すると、この病室に相応しい簡素な時計が目に付いた。
12時半を少し回ったところ。
「ああ、もうこんな時間か。もっと早くに来れば良かったかな。じゃあ、またね」
「……また」
微笑を浮かべて、病室を出た。




食堂
奥の方にシンジの姿が見える。
食べているのはカツカレーだ。
家に帰って作るのも面倒で、丁度空腹を感じたので食べていくことにしたのだった。
大体半分くらいを平らげたところで、ふいにテーブルに影が映った。
それに気付いて顔を上げる。
「相席、いいかしら?」
その影の主は、テーブルの向かい側に、トレイを持って立っているリツコだった。
「あ、はい。どうぞ」
シンジの向かい側に座る。
トレイに乗っているのはきつねうどんだった。
「約束通り来たのね」
「え?約束?」
スプーンを止めてリツコを見る。
その顔から察するに、完全に忘れているらしい。
はぁ、と溜息をついてリツコが言う。
「……昨日帰る時に言ったでしょ?」
「あ……」
どうやら思い出したらしい。
申し訳なさそうにしている。
「わざわざこんな所でお昼を食べているのも妙だとは思ったけど……ならどうしてここに来たの?」
「え、その、それは、綾波さんのお見舞いに……」
「レイの?」
彼女にしてはやや大きな声で言った。
かなり意外なことだったらしい。
「なるほど、昨日道に迷ってたのもそういうことね。でもチルドレンの初顔合わせをさせる前に二度も自分から会いに行くなんて、レイのことが気に入ったの?」
そうシンジに問うたのだったが、答えは別の方向から聞こえてきた。
「そんなの当然じゃない。リツコ」
二人が顔を向ける。
そこにはニヤニヤと笑いながらミサトが立っていた。
「シンちゃんだって男の子だもんねぇ〜。可愛い女の子とお見舞いをきっかけにお近づきになりたいんでしょ?」
言いながらリツコの隣に座った。
ミサトのトレイには天ぷら蕎麦が乗っている。
「な、そういうのじゃないです!」
「またまた〜。そんな嘘はお姉さんには通じないわよ。しっかり証言を取ってるんですからね」
「証言?」
いやな汗を背中に流しながら、シンジが訊く。
「そ、昨日なんだけどね、なんと!シンちゃんがレイを口説いてたらしいのよ!」
「ち、違います!口説くなんて……!」
シンジが立ちあがって言うが、のれんにうで押し、興奮したミサトは全く意に介さない。
「いや〜、今日聞いたときはビックリしたわよ。ソースは私の知り合いでレイの担当の看護婦なんだけど、『おとなしそうな顔してるのに』って驚いてたわ」
既にシンジは真っ赤になっている。
「それでね、その時の台詞がもう可愛くって。確か……そうそう『“またね”も“さよ「うわぁぁーーーー!!!」』」
大声を上げてミサトに飛び掛り、その口を押さえる。
「んむぅ〜、んー!」
ミサトの顔が何故か赤くなっていき、苦しそうに見える。
それももっともなこと、シンジの手は口だけではなく、鼻まで押さえていた。
シンジはそのことに気付いていない。
「ミ、ミサトさん。お願いしますからそれ以上は言わないで下さい」
「んんー!んぅー!んむぅー!!」
だんだんとミサトの顔が青くなってきた。
おそらく押さえられる直前に、肺の中の空気を出してしまっていたのだろう。
「本当にお願いしますよ。誰にも言わないで下さい」
必死に頷くミサトを見て、手を離す。
「ぷはぁ!はぁ…はぁ……はぁ〜……死ぬかと思った……」
ようやくその言葉が冗談ではなく事実だと、ミサトの様子から分かった。
「すいません……」
「まあいいけどね。私も調子に乗ってたし。でもシンジ君」
怒られると思ったのか、身を堅くする。
「な、なんですか……?」
「残念だけど、もう大分広まってるわよ」
「………えええぇぇぇぇ!!!」
ミサトの言葉を理解する為か、少し間を空けて、先程の倍近い大声を上げた。
ミサトもリツコも耳を塞いでいる。
「い、言っとくけど、私は広めてないわよ。ほんのちょっとしか……
「広めてるじゃないですか……」
ミサトの小声も彼の耳は正確に捉え、精魂尽き果てた、といった感じで椅子に腰を下ろす。
(てことはあの看護婦さん達が話してたのって………)
「二人とも」
ずっと黙って昼食を摂っていたリツコが口を開いた。
「少しくらい周りを気にしたら?」
言われて周りを見る。
かなりの視線がこちらに向けられている。
あれだけの大声を上げていたのだから、当然の結果である。
昼食もそこそこに、三人は食堂を出た。




「シンジ君、これからテスト受けてもらいたいんだけど、いいかしら?」
食堂を出て暫くすると、リツコが訊ねてきた。
「はい、いいですよ」
「じゃあ私は準備してくるから。ミサト、説明お願いね」
「了解。シンジ君着いて来て」




「とまあ、こんなところだけど、何か質問ある?」
一通り説明を終え、今は休憩ブースでジュースを飲んでいる。
「いえ、特には」
「そう。そろそろリツコの準備も終わる頃だと思うけど……シンジ君、一つ訊いていい?」
「何ですか?」
「昨日も訊こうと思ってたんだけど、一人暮しでいいの?」
「……」
「カイ君が勝手に変えたんでしょ?あの部屋は使う予定ないし、私に遠慮しなくてもいいのよ?」
「大丈夫です」
はっきりと言った。
「ある程度の家事ならできますし、それにカイが我侭なコトしたのって殆どないんです」
「……」
紙コップの中身を見つめながら続ける。
「僕の為に色々してくれたんです。我侭言って困らせたことだって……だから……」
そう語る彼の表情は昔を懐かしむようで、誇らしくもあり、そして微笑を浮かべていた。
「分かったわ。でもいつでもうちに来ていいから」
紙コップの中身を飲み干し、ゴミ箱に捨てながら言った。
カイの評価を少しは改めただろうか?
「はい」
ミサトの言葉に頷くと、携帯の着信音が聞こえた。
シンジのものではない。
「あ、リツコ?準備できたの?」
『ええ、第二の方に来て頂戴』
「分かったわ。第二ね。すぐ行くわ」
電話を切る。
「じゃ、行きましょうか?」
「はい」
緊張しているのだろう、その声は堅かった。




「テストを開始するわ。準備はいい?」
管理ルームにリツコの声が響く。
『は、はい』
「始めて」
「プラグ注水」
プラグ内を写すカメラに、黄色の液体が溜まる様が写し出される。
『こ、これがLCLですか……』
「そう、肺に取り込むのよ」
『き、きもちわるいぃ……』
「男の子でしょ。情けないこと言わないの」
「A−10神経接続異常なし、初期コンタクト全て問題無し」
「シンクロ率16.3%。ハーモニクス、全て正常です」
「エヴァ初号機、起動しました」
(やはりこの程度ね。けれど起動できてよかったわ)
「ダイレクトじゃないのね」
少し残念そうなミサトの声をリツコの耳が捕らえた。
「ダイレクトシンクロは異常な現象なのよ。期待する方が間違ってるわ。それよりも初めてのシンクロで起動できたことを評価すべきよ」
「それは分かってるんだけどね。時期が時期だから……現状では唯一の戦力なんだし」
「確かに、このシンクロ率では即戦力にはなり得ないわね……」
ミサトが爪を噛む。
おそらくは戦闘のシュミレーションをしているのだろう。
「けれど経験を積めばましになるわ。調整もまだなんだし」
「次の使徒に間に合うと思う?」
「……使徒次第ね」
だがその言葉の裏には、期待できないという色が窺えた。
「シンジ君、どんな感じがする?」
その雰囲気を断ち切るように、マイクに口を近づける。
『えっと、何かに支えられて立っているような……そんな感じがします。ちょっとぼんやりしてますけど』
「そう、シンクロ率の割にフィードバックが強いわね。レギュレーターのレベルを一桁下げて」
「はい」
「他には?」
『いえ、特には』
「分かったわ。今日はあと少し調整したら終わりにしましょう」
『はい』




ブリーフィングルーム
シンジ、ミサト、リツコの三人が集まっていた。
「お疲れ様。今日は基本データの採集と感覚を掴んでもらうのが主な目的だったから早めに切り上げたけど、体調が悪かったりはしない?」
「いえ、大丈夫です」
「そう。次からは結構長くなるし他にも色々するから、気分が悪くなったりしたらすぐに言いなさい」
「はい」
「それと、これからのことだけど、毎日午前九時頃に私かミサトに電話を入れて頂戴。その日のことを伝えるから。本来なら予定を立てておくんだけど……」
「リツコ」
後ろから強い調子でミサトが言った。
「分かってるわよ。気を悪くしたなら謝るわ」
「いえ、気にしないで下さい」
「ありがとう。カイ君にもその旨伝えておいて。あと、ミサトからは?」
ミサトが前に出る。
「シンジ君にはテスト以外にも訓練を受けてもらうわ。具体的には体力をつけてもらうことと、戦闘技術を体得するのが当面の目標になるわ。それと兵装ビルや射出口、アンビリカルケーブル等の位置も覚えてもらうわ。あと、これ」
そういって渡されたのは金属製の箱。
開けてみる。
「これって……!!」
中に入っていたのはハンドガンと、マッチ箱よりも二周り程大きな箱。
ハンドガンは小型で、携行性を重視したものだ。
「カイ君に頼まれてたの。シンジ君にも許可はでているわ。練習は射撃場で、撃ち方とかは教官に教わって」
「はい」
箱を閉じる。
「ああ、あともう一つ。来週あたりから学校にも行ってもらおうと思ってるんだけど、向こうではカイ君、シンジ君のふりしてたの?」
「……そうらしいです。僕ってあまり良くは思われていませんでしたから。余計に立場を悪くする必要はないって……」
自嘲気味に笑うシンジに、二人は痛ましいものを見るような目をした。
「シンジ君。こっちには貴方のことを知ってる子はいないから、二人で考えて、好きなように学校生活を楽んでいいのよ」
優しく、諭すようにミサトが言った。
「はい。ありがとうございます」
「やめてよ、こそばゆいわ。さ、連絡はこれでお終り。私達はまだ仕事あるんだけど、一人で帰れる。送ったげよっか?」
冗談めかしてミサトが言い、シンジも笑いながら返す。
「大丈夫ですよ。ミサトさん、本当は『一人じゃ帰れません』って言うのを期待してたんじゃないですか?日向さん辺りに仕事を押し付けて帰る理由ができるんですから」
「あら?良く分ってるじゃない」
「うっさい!!」
三人でひとしきり笑った後、シンジは家路についた。




それから、シンジが表に出ている日は殆ど、レイのお見舞いに行っていた。
カイもそれを望んでいるからだろうか、シンジが表に出る頻度は上がっていた。
例えば、夕方に入れ替わった時もあった。
その日も急いで病院に向かったのだが、残念ながら面会時間は終わっていた。
ただカイに言われたからというだけでは、ここまでしないだろう。




「来週から学校に行くことになったんだけど、綾波も行ってるの?」
「ええ」
「どんなところ?」
「勉学に励む為にある建物」
「…………いや、それは分かってるんだけど…………」



「昨日は戦闘訓練だったんだ。あ、生身の方の。おかげで全身筋肉痛だよ」
「そう」
「綾波もリハビリ大変だろうけど、頑張ってね」
「………ええ」



「そういや、綾波って誰かと一緒に住んでるの?」
「いいえ、一人暮しよ」
「僕もなんだ。あ、カイも入れれば二人だけど。やっぱり家事って大変だよね。ある程度はやってたんだけど、かなり手際が悪くって。ほんと猫の手も借りたくなったよ」
「わたしは、そうでもないわ」
「そう?う〜ん、僕が不器用なのかな?いや、きっと綾波が家庭的なんだろうね。良い奥さんになれると思うよ」
「………何を、言うのよ……」




「たぶん、シンジも楽しんでるんだろうな。人と会話することを。そして段々と反応が増えていることを」
朝、ダイニングテーブルでカイがノートを開いている。

『話をしてて感じたんだけど、綾波って殆どのことに無関心なんだ。
物事に辞書的な意味しか見出していない。
表情らしい表情が浮かんだのは一回だけ……
本当は何も知らないのかな?って思うことがある。
それに無関心なのはそれだけじゃない。
たぶん、自分自身にも……
自分の命をどうとも思ってないみたい。
そう、生きてるってことがすごく希薄なんだ。
だからいつのまにか消えてしまいそうで、怖い』

「いつのまにか消えてしまいそうで怖い、か。いつだったかな?『俺はいつか消えてしまうかもしれない。だから甘えすぎるな』って言ったのは。ひどく悲しんでたな。あれ以来、『消える』ってことを極端に恐れている」
ふぅ、と一息ついて、朝食の片付けを始める。
「今日は戦闘訓練か。必要なのは分ってるが、まだ筋肉痛治ってないのに……仕方ない。終わったら湿布でも貰おう」
少しくらいは鍛えてたのになぁ、とぼやきながら外へ出た。




「まったく。何で湿布の一枚もないんだ?準備不足にも程がある。何かあっても応急手当すらできなさそうだな」
ぶつぶつと文句を言いながらネルフ付属病院の廊下を歩く。
「ここか」
遅い歩みで辿りついたのは、整形外科の診察室。
中には医者と、看護婦が一人居た。
「どうしました?」
穏やかな顔をして、医者が尋ねる。
「朝から筋肉痛だったのですが、そのまま訓練を受けたんです。そしたら痛みが増してしまって」
「どこがひどいのです?」
「全身ですが、特に脚です」
「分かりました。ではまず服を脱いでください」
言われた通り服を脱ぎ、下着姿になると、医者はカイの身体を入念に調べていく。
「……なるほど、結構ひどい状態ですね。取り敢えず筋肉をほぐして、湿布を貼っておきましょう。ベッドにうつ伏せになって下さい」
「はい」
うつ伏せになる。
意外と良いベッドだ。
「多少痛くても我慢してください」
そう宣言して、マッサージを始めた。




「これで終わりです。谷村さん、湿布を貼って下さい」
「分かりました」
(あれが………多少?)
マッサージが始まった途端、筋肉痛など吹き飛びそうな程の痛みがカイを襲った。
情けない声を上げて力を緩めるように言ったのだが、無情にも返ってきたのは「我慢してください」の一言だけだった。
(シンジが代わってくれたらどれほど感謝したことか……)
「大丈夫?」
湿布を背中に貼りながら、看護婦が訊く。
「まあ、なんとか」
「効果があるのは確かだから。それで、これから綾波さんの所に行くの?」
その言葉にはっきりと表情を曇らせ、心から辛そうに答えた。
「…………行けません………」
「喧嘩でもしちゃった?」
「そうじゃありません。でも会うわけにはいかないんです……シンジは毎日のように行ってるようですけど……」
「??……ああ、君がカイ君なの?それならそうと言ってくれればいいのに」
「すみません」
「いいのよ…………ねえ、少し外に出ない?」
「どうしてです?」
「悩みがあるんでしょ?人に相談すればすっきりするかも。あ、もちろん誰にも言わないから」
「……遠慮します」
拒否の言葉にもめげず、看護婦は続ける。
「けど苦しいんでしょ?でないとそんな顔しないもの」
「………」
指摘されたように、カイの顔は影を纏ったかのように暗い。
「それにね、私は大人なんだから結構場数を踏んでるのよ。経験談くらいなら聞かせてあげれるし」
興味本位ではなく、本当に心配している。
そう判断し、同意した。
「……分かりました」
彼も、やはり助け舟を求めていたのだろう。
相談できるような知り合いは、誰もいないのだから。
「そうそう、素直が一番よ。それじゃ、中庭に出ましょうか」




「で、何があったの?」
そこは病院の中庭。
多くの草木や花が植えられ、安心感を与えている。
二人は備え付けのベンチに座っていた。
「……別に、何かがあったわけじゃありません。ただ……俺が余りに情けないだけで……」
「どうして情けないの?」
「………」
「………」
「………」
「………」
当然だが、真実をありのままに言うことはできない。
しかし一度相談すると決めた以上、逃げるわけにもいかなかった。
「……ここに来る前、俺には好きな――といっても付き合いたいとか、デートしたいとか、そういう恋愛感情じゃなくて……そう、ずっと傍に居たい。居て欲しい。穏やかに同じ時を過ごしたい。そんな感情を抱いてた女の子がいたんです。その子に綾波さんはそっくりなんです」
「綾波さんに?あんなに変わった容姿の子が他にも居たの?」
「………」
「あ、ごめん。続けてくれるかな?」
「似ているのは容姿だけじゃありません。声も、話し方も、性格も、全てがそっくりなんで、でもその子は誰にも愛されてなくて、感情も知らなくて……」
「………」
「もしかしたら綾波さんも同じなんじゃないか、もしそうなら助けてやりたい。そう思ったんです。けど……」
「……けど?」
「俺は綾波さんにその子を重ねて見てるんじゃないかって思うようになったんです。それは最低の行為です。けど助け出したい。その気持ちは嘘じゃない。だから助けるならその子を振り切ってからじゃないと。でも……」
「振りきれないのね……」
「……はい……」
「でもそれは君が綾波さんとその子をとても大切に想っているからこそなのよ。むしろ誇らしいことだわ」
「……そんなことありません。全然、前に進めないんです」
「………」
「………」
「……怖いのかもね」
「怖い?」
「そう。振りきることで変わってしまうことが。自分が変わってしまうかもしれない。あるいはその子が自分にとって何でもない存在になってしまうかもしれない」
「………」
「まあ、ちょっとばかし女の勘ってのも入ってるけどね。もしかしたら、そうすることでその子をシンジ君に取られるって幻想しているのかもしれないし、ただ単に踏ん切りがついていないだけかもしれない」
「……俺は……」
「ただ一つ確かなのは、本当に苦しいときはその苦しさだけが前に立って、原因を振りかえらなくなってしまうことなの。振り切れない、って思うだけじゃなくて、もう一度その奥にあるものと向き合いなさい。そして行動なさい。自分にできることだけで構わないわ。待ってるだけじゃ、自分は変われないから」
看護婦という職業故だろうか、彼女の言葉はカイの心に染みていった。
「………やって、みます……」
立ち上がる。
「うん、応援してる、ってのも変か。とにかく、頑張ってね」
病院の出口へ向かうカイを、彼女は優しく見つめていた。




自分の部屋。
ベッドに横たわり、思考の海へと沈んでいく。
(俺は、綾波に特別な感情を抱いている)
(真実を知り、助けられなかったことを後悔している)
そして、何故か過去へと戻った。
(今、俺は綾波を助けたいと思ってる)
(けど、俺自身は関わってはいけない)
(振り切れていない。綾波の向こうに綾波を見ている)
(ただでさえ酷い行為。しかもゲンドと同じ行為。それに対する嫌悪)
(綾波を縛る鎖を完全に断ち切るのは、シンジだけでは難しいだろう)
(だからこそ、振り切りたいと思っている)
寝返りを打ち、壁に向き合う。
(けど、本当に振り切っていいのか?)
(あの看護婦――確か谷村さんだったか――が言ったのは、的を射ているのかもしれない)
(振り切ることで、綾波のことをどうとも思わなくなってしまうかもしれない)
それは大切な想い。
(振り切ることで、自分が変わってしまうかもしれない)
彼にとって、彼女ほど印象深いヒトは居なかった。
(シンジに対する嫉妬も、全くないとは言い切れない)
心の奥と相対することで、簡単に断ち切れる想いではないと、再認識した。
(助けたいのに、振り切るべきかも判らなくなってきた)
傍にいることがもう叶わないとしても、この想いだけは……と

『待ってるだけじゃ、自分は変われないから』

ふと、看護婦の言葉が脳裏をよぎった。
それはカイにとって、天啓であると同時に、痛苦の鎖ともなる。
(前に進みたいのなら、どれだけ苦しくても、もがきながらでも行動しなくてはならないと、そういうことなのか!?)
重ねて見ることが罪であるというのなら、その痛苦は罰であり、贖罪である。
救うと言うのであれば、その痛苦に立ち止まってはならない。
むしろ、それに耐えながら進むべきなのだ。
罰を受けることと、彼の目的は別物なのだから。

苦悩は、なおも続いてゆく。