「またこの天井か……」

誰にも聞こえない程小さな声で、だがはっきりと嫌そうに、目覚めと共に呟いた。

 


ただ、その小さな世界を…… 第4話


 

ごそごそと物音がする。

ミサトの家のシンジに割り当てられた部屋からだ。

程なくして、制服を着たカイが姿を現した。

「さて、とっとと住居変更しないとな」

手提げ鞄を持ち、シンジの掃除した廊下を玄関に向かう。

「シンジには悪いが、俺はここで暮らそうなんて微塵にも思わないからな」

台詞と共にドアを開き、一度も振り返ることなくネルフへの道を歩いていく。

 

 

ネルフ本部、司令室前

「司令、サードチルドレンの件で報告が纏まりましたので参りました」

「入れ」

紙の束を持ったリツコに、相変わらず愛想の悪い声が返事をする。

「失礼します」

リツコがその部屋の唯一の調度品である机の前に進む。

「報告を聞こう」

「はい。便宜上以後サードチルドレンの主格をシンジ、副格をカイと呼称します」

冬月の言葉に前置きを言ってから報告を始める。

「まずカイが現れたのは、本人の証言に依りますとおよそ五年前です。因みに、サードチルドレンが多重人格者である証拠は、彼等の交換日記と思われるノートに二種類の筆跡が見られたことです」

「交換日記?」

「はい。日記というには語弊がありますが……内容は主に次の二つです。

  1. 各人格の行動を纏めたもの
  2. 連絡事項
  3. シンジからカイへの相談」

そこで一旦区切り、相手の様子を窺う。

リツコの予想通り、二人は顔色一つ変えていなかった。

「1.と2.に関しては何も問題ありません。諜報部からの報告とも一致しておりました。おそらく、人格が切り替わることで起こり得る混乱を避ける為のものでしょう」

「3.については?」

一息待ってからリツコが続ける。

「計画に支障が出る可能性があります。内容から見ますと、シンジはカイにかなりの信頼を寄せており、又カイもシンジに好意を持っているようです。カイ以外の副格が無く、カイの現れる頻度がこれを裏付けています。これらのことから、シンジは当初の計画より精神的に強くなっているものと思われます」

孤立無縁の絶望の中、縋れるものが一つでも現れれば、人はそれに全てを委ねるかもしれない。

子供なら尚のことだろう。

「ちょっと待ち給え。先日シンジが碇を訪れた時の様子は、計画と大差なかったぞ」

「それはパイロットになる以上に逃げるのが嫌だったのではないでしょうか?」

「……なるほど」

望まぬ解を得た冬月の様子を見て、話を元の筋に戻す。

「放って置けば厄介ですが、然るべき処置を取れば寧ろ得と成ります」

「得かね?」

「はい。先程も述べたように、シンジとカイは強い絆で結ばれています。シンジから見ればカイは親友、又は兄となる相手であり、心の拠り所思われます。よってカイが消えると……」

「シンジに大きなダメージを与えることができる、ということか」

「具体的な方法は?」

冬月がリツコの言葉を継ぐと、今まで黙っていたゲンドウが間を置かず問う。

「マインドコントロールを応用すればカイを消去、又は封印することは可能です」

「何か問題があるのかね?」

リツコの言い方に疑問を感じた冬月が訊く。

「一つ目は再び新たな人格が生まれる可能性が有ることです。ですがカイのようなケースは極稀で、同じような人格が現れることはまずないでしょう。仮に生まれたとしても同じ処置を施せば良いだけです」

「また、二つ目はシンジが初号機にシンクロできない可能性がある、ということです。カイに傾倒していることから、彼が母親を必要としていない可能性があります。如何にせよ、これは早急に調べる必要があります」

「最後に、三つ目はダイレクトシンクロについて研究するだけの猶予を頂きたいのです。上手くいけばシンクロシステムを改良できるかもしれません」

そこで考え込み、部屋が静かになる。

数分後、冬月が最初に口を開いた。

「……確かにエヴァの戦闘能力が上がるのならそれに越したことはないな」

「ATフィールドを自由に操れたのもダイレクトシンクロが理由と考えられます」

他に考えられることが無いからだろうが、それは正解である。

通常のシンクロならリリスとの接触は有り得ない。

「あの力を解明できるなら魅力的だ。それにシンジがシンクロできなければ使徒と戦うことさえできん。だがカイは面倒なことになりかねんな」

ケイジでの一件は既に冬月の耳に入っている。

難しいな、と唸る彼を余所に、ゲンドウが口を開いた。

「所詮は子供だ。推理力に優れていただけだろう。何もできはしまい」

「副格の精神年齢は肉体の年齢にはあまり関係ないんだぞ。現に整備員を始めとして、ネルフに対する不信感が強まっている」

「問題ない」

全くと言って良い程に、迷い無く答えるゲンドウ。

「お前がそう言うなら従うが……」

対して冬月は更に不安そうだ。

「では、ダイレクトシンクロについては?」

「好きにしろ。但し、計画に支障をきたさない範囲でだ」

「分かりました」

話が終わると冬月はこめかみを押さえた。

プルルルルル   プルルルルル

と、そこで机に無造作に置かれた電話が鳴った。

ゲンドウが受話器を取り、無愛想な声を発する。

「なんだ」

『サードチルドレンが面会を求めているのですが、いかがしましょう?』

「通せ」

「噂をすれば影、だな」

聞こえたのか、ややうんざりした風に冬月が呟く。

受話器を置いて暫くするとカイが姿を現した。

「三人揃って、あやしい密会だな。新興宗教でも開いたらどうだ?」

挨拶とは程遠い言葉だが、ゲンドウは気に留めていない様子で訊き返す。

「カイだな?」

「早速だが要件を言うぞ。俺はこんな辛気臭い部屋には居たくないからな」

と、嫌味を返して話し始める。

「シンジはあの女の所に住むことになったようだが、俺は他の所に住みたい」

「なら、あなたの住居はここの居住区になるわ。あなたの保護者を希望する者は他に居ないの」

「それもイヤだ。こんな穴の中に住みたくはない」

「あなたは貴重なパイロットなのだから、警備の行き届いた所に住まなくてはならないわ」

これは只の建前に過ぎない。

本音は確実に監視できる環境に住ませたいだけのことだ。

「ならあのマンションでも良いみたいだな。誰かと住もうとは思ってないし、保護者はあの女のままでいいから、新しい部屋を用意してくれ」

「何を言ってるの?14歳の一人暮しなんて許可できるわけ「寝言は寝て言えよ」」

カイが馬鹿にしたように遮る。

「あの家では実質的に一人暮しさせられてたんだ。どうせお前等の命令だろ?今更道徳論なんざ、全然似合わないぞ」

「いいだろう。お前の部屋は葛城一尉の隣だ」

鼻で笑ったカイに、突発的にゲンドウが言った。

「もっと離れてて欲しいが、まあそれで我慢してやるよ。シンジはあの女を嫌ってないようだからな」

「話が終わったなら帰れ。私は忙しい」

「どこがだ?全くそうは見えんぞ。それに要件は一つとは言ってない。相変わらず人の話を聞かないんだな」

相変わらずのポーズで答えたゲンドウに、呆れの溜息を吐く。

「この話で最後だ。パイロットの待遇について訊きたい」

実際彼は向こうの世界で既に詳しく知っているのだが、目的の為には満足な物ではなく、一つ追加したいことがあるためにわざわざこうして話を切り出しているのだ。

「待遇は階級で言うと三尉とほぼ同等だよ、もちろん危険手当や特別報酬もつくがね。ああ、そういえば君にはまだ自己紹介していなかったな。私は「知ってる。シンジから教えてもらった」」

面倒臭そうに遮り、続ける。

「まあ組織で見ればそれでも十分高いんだろうが、替えの効かないパイロットが殆ど三尉待遇か……」

肩を落として、さも残念そうに呟いた。

「何が望みだ?」

「よく分かったな。俺が欲しいのは取り敢えず拒否権だ」

余りの演技臭さにゲンドウが訊ねると、カイは表情を一変して答えた。

「拒否権!?調子に乗らないで!ここは軍事組織なのよ!そんなことが認められると思ってるの!?」

リツコが怒り詰め寄る。

軍事組織は、上官の命令に従って初めて成り立つ。

そこでは命令に対しての拒否権など、有ってはならない物だ。

リツコが怒るのも当然のことだろう。

「何とでも言えよ。俺はお前等が信用できん。お前等の命令に従う義務あるなんて寒気がする」

そう言って、己の身体を抱くジェスチャーをする。

「で、どうするんだ?俺が表の時に使徒が来たら困るだろ?」

言葉と共に人の悪い笑みを浮かべる。

「呑まなければ乗らないつもり!?負ければ人類が滅ぶのよ!?」

「そんなことは関係ないだろ?お前等が死にたくないなら、選ぶ道は一つだけだよな?」

親に似た笑いを浮かべ、選択を迫る。

「……いいだろう」

「碇!」「司令!」

「使徒は倒さねばならない。サードしか使えない今、確実に使える状態にする必要がある」

道具扱いするような言い方にカイが眉を顰めるが、すぐに元に戻す。

「交渉成立だな。契約書ができたら俺の家に送ってくれ。じゃあな」

踵を返し、最後に付け加えて、カイは部屋を出た。

「碇、いくらなんでも拒否権は拙いだろう」

「問題ない」

(……お前の頭に油断大敵という言葉があることを切実に願うぞ……)

痛む頭を押さえ、冬月は心の中で呟いた。

 

 

「さて、部屋が準備できるまで何をするか……」

書き込みを終えたノートを閉じ、鞄に仕舞いながら考える。

「ゲーセンに行くにしても、色々買う物もあるし……」

財布の中身を思い出し、憂鬱な気分に浸る。

「……そういやまだ綾波に会いに行ってなかったな」

腰を上げ、病院に向かって歩き出す。

「いつまでも逃げるわけには、いかないよな……」

 

 

途中で出会った看護婦に案内され、今カイはレイの病室の前に立ち、眼を閉じている。

ドアの先には、ある少女と同じ姿の少女が居る。

かつて淡い思慕を抱いていた少女。

だが、それに気付く間もなく、彼女は目の前で光と熱に飲まれ、帰らぬ人となった。

そして再会の希望は、彼女の真実によって打ち砕かれ、恐怖し、逃げた。

あの紅い世界で、ヒトの成れの果てと交じり、知った。

彼女が、創造主の命に背き、己の姿を捨ててまで、彼を救おうとしたことを。

彼女もまた“綾波レイ”だったのだ。

受け継がれた微かな想い。

たとえどれだけ別人となっていても。

受け継がれなかった記憶。

そんなことに気付かなかった。

ずっと、後悔している。

もっと強ければ、彼女が死ぬことはなかった。

      弱かった。

もっと強ければ、彼女が自らを捨てなくてよかった。

      逃げてばかりだった。

どうしてもっと優しく出来なかったのだろう?

      自分勝手で、勝手に絶望して……

どうしてもっと優しく出来なかったのだろう?

      彼女はただ覚えていなかっただけなのに……


眼を開く。


今、自分はここに居る。

      原因は分からなくとも。

もう一度チャンスがある。

      やり直しではなくとも。

不幸になど、させはしない。

      それが、あの綾波レイではなくとも。

トン  トン

「……はい」

ノックに少し遅れ、聞き覚えの有る、初めての声が答える。

「入って、いいか?」

「どうぞ」

ドアの先は、まるで絵画のようだった。

純白の部屋、

窓から覗く風景、

そして蒼い髪、紅い瞳の少女。

こちらを見るその少女は、寸分違わぬ“彼女”の姿。

決意が揺らぐ。

駆け寄って、抱き締めて、自分の想いを全て吐き出してしまいたい。

そんな衝動に駆られる。

だが、逃げるわけにはいかない。

(重ねては、だめだ……あいつとは、絶対的に別人なんだ……)

自分にそう強く言い聞かせ、部屋に入る。

「具合はどうだ?綾波、さん」

「……誰?」

「ああ、自己紹介してなかったな。自分で名付けたんだが、カイって名前だ」

言いながら置いてあった椅子に座る。

「自分で?何故?」

「俺はシンジが生み出した人格だからな。名前ぐらい自分でつけてもいいだろ?」

「シンジ……碇シンジ…サードチルドレン?」

「その呼ばれ方は俺もシンジも好きじゃない。判別できるようなら名前で呼んでくれ。無理なら碇でいい」

この状況で饒舌になのは緊張ゆえか、それとも無理をしているのだろうか?

「……分かったわ」

沈黙が漂う。

(……嫌な沈黙。何か話題は……かと言ってあんまり踏み込んだのは……取り敢えず)

「その怪我、どうしたんだ?」

「零号機の起動実験に失敗して暴走、オートイジェクションが作動し、壁、天井に衝突後、落下したことが主な原因」

「………そう、か……」

予想を遥かに上回る返答だったらしい。

「どれくらいで直るんだ?」

「退院には少なくとも後二週間は必要と聞いたわ」

「そうか……」

「…………」

「……ずっと病院だと退屈だろ?」

「別に……」

「…………」

「…………」

「…………」

「……どうして、そんなことを訊くの?」

「どうしてって……」

お見舞いだから、と続けようとして、最悪の形で先手を取られた。

「誰かの命令?」

その言葉が、“彼女”の姿を思い浮かばせてしまった。

「っ!!?そんなんじゃない!!」

「なら何故?」

「それは……!」

言える筈がない。

“彼女”を断ち切れないまま救うわけにはいかない。

それが、彼の決意。

先程新たに言い聞かせたばかりだ。

「………今日は、もう帰る……」

かろうじて言えた。

手は爪が肉を抉る程に強く握られている。

「そう」

ドアへ向かう。

その背に声が掛けられた。

「さよなら」

ビクッと身を竦ませ、逃げるように外へ出た。

そのまま廊下を走ったが、すぐに息が上がってしまった。

膝に手を突き、荒い呼吸をする。

落ち着くと、思いっきり壁を殴りつけた。

鈍い音と共に痛みが広がってきた。

 

 

「くそっ、金使いすぎた」

あの後、結局ゲームセンターに気晴らしに行った。

が、結果は散々。

かなりの金額をつぎ込んでしまい、しかも全然気が晴れなかった。

予定していた買い物も出来なくなってしまった。

僅かに残った金ではカロリーブロックを買うのが精一杯だった。

エレベーターを降り、宛がわれた部屋に向かっていると、ドアの前の黒いスーツ姿の男が目に留まった。

「これがこの部屋の鍵だ。そしてこっちがクレジットカード。報酬はこれで使え。最後にこれが契約書だ。必要事項を記入して、明日ネルフへ届けるように」

事務的に用件を告げ、足早に去っていく。

それには目も向けず、部屋に入っていった。

廊下を抜け、リビングへ出る。

冷蔵庫が一つだけなことを除けば、家具やその配置は隣と変わっていない。

一通り見回すと、受け取った物を纏めてテーブルに放り投げ、ベッドがあるであろう部屋に向かう。

そのままベッドに倒れこみたかったが、しておくことがある。

鞄からノートを取り出し、必要なことだけを書いた。

その字に今の感情が浮き彫りにされている。

ノートを机に置いて、ベッドに、それこそ倒れるように横たわった。

(俺は、何をしてるんだ……この世界に来てもう五年だぞ?振り切るって決めたじゃないか……こんなんじゃ、ゲンドウと同じだろうが……あまつさえ『無理なら碇でいい』だと?……結局俺は、同じように呼ばれたがっているじゃないか……)

強迫観念、そして二律背反。

ゲンドウの、レイに碇ユイを重ねるという行為を心から嫌悪し、救いたいからこそのものである。

それを自覚しているのか、あるいはそうでないのかは分からないが……

寝返りを打つ。

(だからといって放っておくなんてできない。補完計画を止める為だけじゃない。一人の人間としても……それともこの想いすら重ねている証なのか……?)

痛みを堪える様に背を丸め、きつく目を閉じる。

(……分からない…分からない……俺はどうすればいいんだ……誰か、教えてくれ……)