「………どういう……ことだ……?」

そこは、いつか居た過去の情景。

彼にとっては昔の、現在であった。

 


ただ、その小さな世界を…… 第1話


 

「本当に良かったのかい?」

どこまでも紅い世界、見渡す限りの紅。

そこに余りにも似合わない男声が一つ、

「……ええ…」

そして女声が一つ、響く。

「だけど、君は彼とずっと一緒に居たかったんじゃないかい?今の君ならそれも可能だろう?」

「………碇君がそんなことを望むはずがないもの…」

「自分の望みよりも他人の幸せを優先する、たとえ遥か彼方へ別れることになろうとも…か」

二人がいるのは、立つにはあまりに不自然な場所――海の上、否、そこから僅かながらに浮いている。

それも当然。彼らに肉体はなく、意志や精神の塊――精神体といったものだからだ。

「君は好意に値するね」

「わたしは好きではないわ。あなたのコト」

「…ははっ……そうかい」

即答に少年の顔が奇妙に歪む。

銀髪の少年と蒼銀髪の少女の二人。

その深紅の視線が交わることは決してない。

なぜなら二人のそれが向く場所は一つ。

それは最後の生命が途絶えた、あの砂浜。

 

 

漂っていた静寂を破ったのは少年の方だった。

「……もし」

「…なに?」

「もし、もう一度君がシンジ君と会えるとしたら…どうする?」

少年が顔を向けて言う。

「……そんなことが出来るわけがないわ」

「僕は、『もし』といったんだけど?」

暫くの後に少女が口を開く。

「……わたしは碇君と一つになりたい」

微かに少女の頬が桃色に染まっているように見えなくもない。

「何故だい?」

今まで表したことのないその表情にも、彼は驚きもせず訊ねる。

「…碇君は大切なことを教えてくれた」

「だから一つになりたい?」

「いいえ、それは違うわ」

「なら、何故だい?」

少女が胸に両手を当て、目を閉じて言う。

「…私は、多分碇君のことが好きなんだと思う」

「多分?」

「…ええ、わたしは人を好きになったこと、無かったから……この想いがそうなのかもしれない……」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「……なら、君は行くといい」

「………」

返事が無い。

それを訝しがって顔を覗きこむと、先程よりも色づいた頬がまず目に入った。

その様子に少年の表情が驚きと呆れが入り混じったものになり、もう一度同じ事を言う。

「なら、君は行くといい」

「え?」

少女の『まだ居たの?』といった感じの表情に、少年がさらに呆れ、溜息の後に続きを呟く。

「シンジ君の所へさ」(いつの間にこんなに変わったのか……)

「……無理よ。魂が大きく変化しているから、あの時間に存在する存在では身体がもたない。リリスやアダムにもわたしを受け入れる程の余裕はないわ。この海から新たに器を創るにしても同じこと」

先程までの雰囲気を微塵も感じさせずに言った少女には、決して少なくない哀しみが見て取れた。

「確かにその方法では無理だ。ガフの部屋の大きさはその生命が発生した時点で決まっている。それを変えるのは不可能だし、リリスのガフの部屋が崩壊し、溢れ出た僕達がこの状態で独立していることから、この海でも容量不足なのは明らかだ」

背後、遥か遠くの白い肉塊に一瞬だけ視線を向けた。

無駄なことを言うような少年ではない、と分かっている少女は黙って先を促す。

「だが向こうの世界で君の力を使い、スペアボディ達をLCLに還元してガフの部屋を融合すればかなり広大なものができる。彼女達はリリスが混じった存在だ。ガフの部屋の大きさは純粋なリリンに比べて遥かに大きい。けれど何故か魂の量が余りにも少ない。だから今の君を受け入れれることが出来るものが創れるだろう。そしてそれを依り代に肉体を再構成すれば……リリンの叡智か、それとも只の偶然か、まったく、素晴らしい産物だよ」

はっとした表情。だがすぐにその顔が曇る。

「あまりいい気がしないのは分かるよ」

「………」

「だけど他に方法は思いつかないし、彼も君に逢いたい筈だ」

「……私も…逢いたい……でもあなたはどうするの?」

少年も会いたがっていることは、少女にも分かる。

「僕は無理だよ。この世界にも管理者は必要だからね」

「…本当にいいの?」

「構わないよ。君は行きたいのだろう?」

少しも哀しみの色のない笑みを見せる。

「さあ、穴をあけるよ。一応訊いておくけど、いつがいい?」

「…碇君の時と同じ日」

「そう言うと思った。さあ、やるよ」

目の前の空間が揺らぎ、暗黒が広がり、一瞬で身の丈を越す大穴となった。

少女が無言のまま進み出す。

そしてあと一歩の所で、

「あっと、ちょっとだけ待ってくれないかい?」

少年が声を掛けた。

「…なに?」

振り返って応える。

「向こうに着いたら、シンジ君にこれを渡して欲しい」

そういって何かを投げ、少女が受け取る。

「…分かったわ」

それはルビーよりも深く澄んだ紅の宝石の嵌った、銀細工のペンダントだった。

そして少女が穴の向こうに消え、穴が閉じた。

「あっ!まずいな、時間設定をミスってた……怒るだろうなぁ……ま、いいとしよう。それほど大きくズレてるわけじゃないし」

呟いた後、彼はその姿を消した。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

「………遅いな…」

駅前の階段の真ん中に腰掛け、脚を組み、頬杖をついて呟く。

普通なら居心地が悪くなる視線が集まりそうなものだが、そんな様子は全くない。

それもそのはず、辺りには一つの人影もない。

彼は傍らに置いてあったスポーツバッグから一枚の紙を取り出した。

「……はぁ…よくこんなもので呼び出そうとしたよ」

そこには『来い 碇ゲンドウ』とだけ書いてあった。

それをバッグに戻し、視線を上げた。

と同時に青い何かを見つけた。

見つけたときは豆粒程度だったそれは、明らかに法定速度など無視したスピードでこちらに突っ込んで来る。

青い物体は目の前で何とも言い難い音と黒い紋様と焦げたゴムの匂いを残しながら、反転して止まった。

「碇シンジ君ね」

運転手の女性は青い物体――ルノーから降りるなりそう言った。

「……葛城、ミサトさん?」

「そうよ。さあ乗って!もうすぐここも危険になるわ!」

彼が後部座席に座ったのを確認する。

「飛ばすわよ!しっかり掴まって!」

返事も待たずに女性――葛城ミサトの操るルノーは、凄まじいGを乗員に与えながら発進した。

 

 

「いや〜〜遅れてごめんね。ちょっと道、間違えちゃってさ」

ミラー越しにそう言ったミサトには、全く反省の色が見られない。

だが声を掛けた相手はそれには答えず、後方で戦闘機やミサイルを叩き落す巨大生物を見ていた。

「ああ、アレ?私達はアレのことを“使徒”って呼んでるわ」

そんな彼の様子を見て言った。

(返事くらいしてもいいのに、混乱してるのかしら?)

ミサトの心の中で呟いた言葉は、シンジが振り返りもせずに言った言葉で霧散してしまう。

「……葛城さん、その使徒から戦闘機が離れて行きますよ」

「ちょっと!N2地雷を使うわけぇ!」

驚愕の声が上がり、すぐさまルノーはさらに加速し、少しでも距離を取ろうとする。

「伏せて!」

その言葉が終わると同時に爆風がルノーを襲う。

ルノーは一瞬抵抗を試みたもののすぐに吹き飛ばされ、道路から転がり落ちた。

 

 

逆さで止まったルノーから二人が這い出してくる。

「いたたたたぁ……シンジ君、大丈夫だった?」

「ええ、何とか…口の中がシャリシャリしますけど…」

「それは結構。車起こすの手伝ってくれる?」

「はい」

窓のあった場所に手をかける。

「「せ〜〜〜の!!」」

ひっくり返っているルノーを、反動をつけてもう一度ひっくり返す。

「ふ〜〜。思ってたより力あるのね。さっすが男の子♪」

そう言って運転席に向かう。その途中で何かに気付いたのか、振り返る。

「そうそう、私のことはミサトでいいわよ」

微笑みながらウインク。そして運転席に座り、キーを回す。

キュルルルルル… キュルルルルル…

「だぁ〜〜!!もう一体何なのよ!!」

バンッと勢い良く運転席から降り、ボンネットを開ける。

「あちゃ〜、バッテリーがイカれてるわ。どうしよう?」

きょろきょろと周りを見渡す。

「おっ、いいのがあるじゃない」

ニヤリ、と本能的に目を背けれしまう笑みを浮かべて言った。

その先には、同じく無遠慮な兵器の犠牲となった車があった。

 

 

「あ、リツコ、今からそっち行くからカートレイン用意しといて」

口調から推定すると親しい同僚に連絡しているようだ。

「……ええ、もちろん彼は最優先で保護してるわ。じゃ、また後で」

ミサトは電話を切った。…が、すぐに物凄く落ち込んだ雰囲気を漂わせる。

(一張羅の服はぼろぼろ…レストアしたばっかの車はベコベコ……はぁ〜、ローンが後33回に+修理費かぁ……)

「いいんですか?こんなことしちゃって?」

げんなりとした表情で訊ねる。

彼の隣には、先程の車から盗んだであろうバッテリーがいくつも転がっていた。

「いいのよ。車動かなきゃどうしようもないでしょ?それに私、これでも国際公務員だし、今、非常時だしね…」

その言葉にもどこか覇気がない。

「そういう問題じゃないでしょう。それに説得力ありませんよ」

常識として、国際公務員で非常時だからといっても、盗みを働いていいはずがない。

「可愛い顔して可愛くないこと言うのね」

ムカッときたのか棘のある声で言った。

「ミサトさんは年の割には大人気ないですね」

こちらも同じように言った。

だが言葉が悪かった。

“年”この単語は三十路一歩手前なミサトの最大のタブーである。

「んがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!!」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜!!!」

謎の雄叫びとスリップ音を発する車は、アクセル全開で蛇行しながら、トンネルに突っ込んでいった。

 

 

「お父さんからID貰ってない?」

金属製の頑丈そうな扉の前で停車し、後ろを振り向いて言った。

どうやら思いっきり暴走して気が済んだらしく、晴れ晴れとしている。

対してシンジの顔色は青く、気持ち悪そうだ。

「はい…ええっと、ちょっと待ってください……確かこの辺りに…」

バッグをごそごそと掘り返している。

その動作はかなり鈍い。

「あっ、あったあった。どうぞ」

「じゃ、着くまでにこれ読んどいて」

IDを受け取り、代わりにパンフレットを手渡す。

そこには『ようこそNERV江』、『極秘』と銘打ってあった。

「特務機関ネルフ?」

「そ。国連直属の非公開組織…私達がいるところよ」

化粧を直しながら言う。

その間にも、彼らの乗っている車はカートレインという物で運ばれていた。

「…父の居る所ですね…」

その顔が少し翳る。

「お父さんのこと、何か聞いてる?」

「……人類の平和を守る立派な仕事だと、先生が言ってました」

「なにそれ?皮肉?」

「……そう聞こえました?」

「……お父さんのこと嫌い?」

「…あんな所に10年近くほっといて、連絡もよこさない父親が好きだと言える子がいたら、会ってみたいですよ」

それっきり、車内は沈黙に包まれた。

 

 

 

 

「おっかしいな〜」

建物に入って数十分後、彼女は完全に迷っていた。

やたらと細かい地図の所為と言えなくもないが、それよりも彼女の方向感覚の無さが原因だろう。

「三度目ですよ。ここ通るの」

シンジがパンフレットからちょっとだけ目を離して言う。

「ぐ、シンジ君は黙って着いてくればいいのよ」

「……迷ったんですね」

「だ、大丈夫よ。システムは利用する為にあるんだから」

苦し紛れに言い、逃げるように近くの電話に歩いていく。

どこかに電話を掛け二言三言言葉を交わし、戻ってきた。

「ここで待っていれば迎えが来るから」

そういった彼女に反省の色は、またもや皆無だった。

 

 

数分後、近くのエレベーターの扉が開き、金髪の女性が現れた。

その服装は水着の上に白衣と、なんとも言い難いものだった。

「今まで何をしていたの、葛城一尉。まったく、人手もなければ時間もないのよ」

「ゴミン、まだココ不慣れでさ」

片手を挙げて謝る。

「まあいいわ、で、その子が例の?」

「そ。マルドゥック機関の報告書によるサードチルドレン、碇シンジ君よ」

彼女らはシンジを横目に話をしている。

「そう。私はココで技術部長をしている赤木リツコよ。リツコでいいわ。よろしく」

「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」

そう言って軽く会釈する。

「さ、二人とも着いて来て。シンジ君、お父さんに会う前に見せたいものがあるの」

 

 

 

 

「暗いから気をつけて」

リツコに連れて来られたのは、真っ暗な部屋だった。

ドアが閉まり、明かりが点く。

「これは……」

目の前に現れた紫色の巨大な鬼のような顔に向かって呟く。

「人の作り出した究極の汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン、その初号機。開発は極秘裏に行われたわ」

シンジの呟きにリツコが答える。

「これも……父の仕事ですか?」

『そうだ』

その声に頭上を見上げると、オレンジ色をした強化ガラスから一人の男の姿が見えた。

輪郭を覆う髭、赤いサングラス、凶悪な人相、決して見間違うことのないシンジの父――碇ゲンドウの姿だった。

『久しぶりだなシンジ』

シンジが俯き、それを自分を恐れてのことだと思ったゲンドウは鼻で笑った。

『フッ、出撃』

その一言にミサトが反応する。

「出撃!?零号機は凍結中…まさか初号機を!?でもレイはあの状態ですし、パイロットが居ません!」

「さっき届いたわ」

隣に居るリツコが冷静に答える。

「マジなの?」

ミサトが訊ねるが、彼女は無造作に頷いた。

「でもレイですらエヴァとシンクロするのに7ヶ月もかかったのよ!今来たばかりのこの子にはとても無理よ!」

「座っていればいい。それ以上は望まん」

「しかし!」

「いまは使徒撃退が最優先事項です。そのためには誰であれEVAとわずかでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしか方法はないわ。分かっているはずよ。葛城一尉」

「……そうね」

その言葉を聞いてシンジの肩が小刻みに震え始めた。

そのとき、ケージを振動が襲った。

『奴め、ココに気付いたか』

ゲンドウが顔をあげて言う。

『乗るなら早くしろ、でなければ帰れ!』

先程から俯いたまま震え始めたシンジに、威圧するように怒鳴る。

「何の為にここへ来たの?」

ミサトがシンジの傍で屈んで言う。

「逃げちゃダメよ。お父さんから……なによりも自分から」

それを合図として、シンジの震えが一際大きくなった。

それを見てゲンドウがモニターの方を向く。

『冬月、レイを』「ハハハハハハハハハハハハ!!!」

ゲンドウの声を遮る様に笑い声が響いた。

その場に居た全ての人間がその声の主に目を向けた。

そこには腹を抱えて嘲笑を上げる少年の姿があった。