regained world


第一話
〜ネルフへ〜





2015年5月某日。
第三新東京市の中心部から郊外へと続く道を、一台の青い車が走っていた。
その速度は余裕で速度制限をぶち破っている上、信号が見えていないかのごとき走りよう。
普通なら間違いなく、交通事故を引き起こしているのだろうが、今は特に問題もなく猛スピードで走り続けている。
何故事故が起こらないのか。
答えは簡単、見渡す限りにおいて、青い車以外に動くものがいない為だ。
車も人も、一切見当たらない。
それもそのはず、この街では2時間程前に特別非常事態宣言が発令されたのだ。
一部の人間を除けば、今頃は老若男女問わず特殊シェルターに避難していることだろう。
「まさか、こんな時にリニアが止まるなんて!」
繰り返し流れる特別非常事態宣言及び避難勧告を聞きながら、車の運転席に納まる女性は吐き捨てる。
背中まで流れる黒髪に縁取られた顔は人目を引くだけの華やかなもの。黒いチャイナスーツの上からも分かる豊かな胸元や腰のラインも、異性にとって、さぞ魅力的に見えることだろう。
ただしこの女性、魅力的なのは外見だけだが。
「まあいっか。これで待ち合わせに遅刻した理由が出来たし」
にやりと笑って呟いた女性の名は葛城ミサト。シンジ宛の手紙に同封されていた女性である。
そもそも何の交流もない14歳の少年に、きわどい服を着て胸元を強調した写真を送ることからして大人としての常識を疑うが、さらにはこの女、自分でも言ったように現在遅刻中の身だ。
元々シンジの迎えは彼女の所属する部署の仕事ではなかった。
それなのに、自分の役職と階級を振りかざして、無理やり仕事を奪ったのだ。
他にもしなければならない仕事(主にデスクワーク)が、山のようにあるというのに。
そのくせ、昨日深酒をしたせいでこうして遅刻している。しかも2時間も。
というか、2時間もの遅刻をリニアが止まったせいに出来ると思っているのだから、常識以外にも色々足りていないのだろう。
「っと、ここね」
本来待ち合わせ場所として指定されていた駅から車で10分前後。リニアが緊急停車した駅に着いた。
「碇シンジ君!? 早く乗って! ってなんで誰もいないの!?
ドアを開けて辺りを見回すが、他の場所と同じく人どころか猫一匹鳥一羽いない。
「ちょ、何処に行ったのよぉおおおおっ!!」




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時間は少し遡る。
シンジは待ち合わせの駅――リニアが止まった駅ではない――の前に停まっている車の中にいた。
黒塗りの高級車の中には彼の他にも2人の青年とシンリがおり、シンジを含めた全員が黒い軍服を着用している。
彼らはかれこれ2時間ほど、この場所で迎えに来るはずの女性を待っていた。
もちろん、約束の時間はとうに過ぎている。


「……来ないな」


呟いたのは、険のある顔立ちの青年だ。
呆れたとばかりに首を振ると、闇を凝縮したような髪が空を切る。
剣呑さを増している鋭い闇色の目が、隣に座るシンリにどうするかと問うた。
「……本当に常識のない輩だわ」
問われた方も呆れた顔で溜息を吐いた。
「ここで待つのはやめましょう。イサク、車を出してちょうだい」
後半は、運転席に収まる青年に向けたものだ。
長い茶色の髪を一つに束ね、鳶色の目を持つ青年は、甘いマスクに穏やかな笑みを浮かべ、小さく頷く。
「じゃあネルフに向かうよ」
窓の外の景色が動き出したのを確認して、シンリは隣に座る青年に話しかけた。
「トメサブロウ、あちらの方はどうなっているかしら?」
「問題ないぜ。モンジロウも『月影』に既に搭乗して、いつでも発進できる状態だそうだ」
「国連は?」
「何が何でも第三に入る前に足止めをしてくれと連絡がきている」
「そう……」
「心配?」
問うたのは、向かいに座るシンジだ。
「いえ、心配はあまりしていないのだけれど……」
ゆるく首を振るシンリの顔には、苦笑が浮かんでいた。
「ただ、少し憂鬱だと思っただけよ」
彼女の言葉に、残る3人も苦く笑う。
そんな話をしながら、4人はネルフ――国際連合直属非公開組織 特務機NERVへと向かった。




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所変わって、4人が向かっている先であるネルフの発令所。
「15年ぶりだな」
「ああ。間違いない、使徒だ」
その中でも一段高いところにいる、中年男性と老人が言葉を交わす。
中年男性の名は碇ゲンドウ。老人は冬月コウゾウという。
ここ特務機関ネルフの総司令と副司令だ。
2人の視線は、中央の大型モニタ――正確には、モニタ画面に映る緑色の巨大生物に向けられていた。



『目標は依然健在、第三新東京市に向かい進行中!!』
『航空隊の戦力では、足止め出来ません!!』
「総力戦だ。厚木と入間も全部あげろ!!」
「出し惜しみはなしだ! 何としてでも目標を潰せ!!」
スピーカーから流れてくる報告に、戦自の制服を着た将校達は怒鳴るように指示を出す。
その指示の間も、巨大生物の歩みは止まらない。
戦自の持つ様々な兵器が巨大生物へと放たれるが、ダメージを与えているとは言いがたい。
それどころか、表皮に傷一つ付けられないのだ。
将校達の顔に、信じられないという表情、そして焦りが浮かぶ。



「やはり、ATフィールドか?」
「ああ。使徒に対して、通常兵器では役に立たんよ」
2人はモニタを見つめたまま、会話を続けていた。
「エヴァでなければ倒せない、か。しかし、どうするんだ? 今本部にはパイロットがいないんだぞ」
正確には、エヴァンゲリオンを操縦できるパイロットがいない状態だ。
本部所属のファーストチルドレンは、約3ヶ月前に行った起動実験が失敗し、その時に大怪我を負った。
その傷はまだ癒えておらず、とても戦える状態ではない。
もう1人のパイロットであるセカンドチルドレンは、遠くドイツにいる。
「問題ない。もうすぐ予備が届く」
ゲンドウの答えを聞き、冬月の顔に苦いものが走った。
「そのシンジ君だが……大丈夫なのか? 他の組織が介入している可能性もあるだろう」
「構わん」
「しかしな……10年もロストしていたんだぞ。大人しくこちらの言うことに従うかも分からんし、他組織に所属している可能性も否めない」
子は親に従うものだ。それに、何らかの組織に所属していても、特務権限を使用して徴兵すればいい」
迷いのない男の態度に、老人は一つ溜息を吐き、それ以上言葉を重ねることを止めた。
ゲンドウの言葉に納得したわけではないが、ここで議論を交わしたところでどうにかなる問題でもないと気づいたからだ。

そんな2人を尻目に、戦況は刻一刻と変化していた。
変化しているのは巨大生物とこことの距離、そして戦自の残り兵器の数だけだが。
「……くそっ。地上部隊は後退しろ! アレを使うぞ!!」
『了解しました。総員、A-85ラインまで後退!』
将校の命令に従い、現場にいる隊員達は後退していく。
上空を飛んでいた戦闘機も同じだ。
『総員撤退完了しました』
『航空部隊も全員帰還を確認! 投下機のみ目標上空にて待機中!』
「よし、アレを落とせ!」
将校の声に応えるように、使徒の遥か上空から何かが落ちてくる。
それが地面に触れた瞬間、画面全体が白に染まった。
「見たかね? これが我々の切り札、N2爆弾の威力だよ」
「これで君の新兵器の出番はないだろう」
安堵と厭味が混ざり合った笑みを浮かべ、戦自の将校達は上段にいる2人に言い放つ。
「電波障害の為、爆心地の状況が確認出来ません」
「あの爆発だ。もう終わっている。確認など無用だ!」
効果を確信している将官が断言するのと同時に、オペレータの鋭い声が上がった。
「爆心地中央にエネルギー反応!」
「映像回復します。使徒健在です!」



モニタには、僅かに傷を負っただけの巨大生物――使徒の姿が映し出された。



「そ、そんな!? 我々の切り札が……」
「ま、街を一つ犠牲にしたんだぞ!」
「化け物め!!」
驚愕に叫ぶ将校達。その一人の通信機が音を立てた。
「……はっ、分かっております。しかし……はい、了解しました」
真っ青な顔で話す将校を眺めていたゲンドウのもとに、下段から報告が上がる。
「司令、正面ゲートにサードチルドレンが来ているそうです。その、葛城一尉以外の人と一緒に」
「何?」
報告に反応したのは、冬月の方だった。
「葛城君は一緒じゃないのかね?」
「はい。彼と他2名だけで、葛城一尉はおりません」
答えたのは先ほどの報告を上げたロンゲの男性、発令所オペレータの青葉シゲルだ。
その隣に座る眼鏡をかけたオペレータ、日向マコトが困惑した表情で新たに報告する。
「その葛城一尉から、カートレーンの準備をするようにとの連絡です」
「はあ? ちょっと待ちたまえ。今、彼女はどこにいるのだ?」
「その……カートレーン入り口前に待っておられます」
「一体どういうことだ?」
シンジは正面ゲートにいるのに、迎えにいったはずのミサトがカートレーンの入り口にいる。
「確認取れました。葛城一尉は指定時間から約2時間後に自宅を出発。特別非常事態宣言によりリニアが止まった駅へ向かい、サードチルドレンがいないことを確認すると、すぐにこちらへ戻ってきたようです」
今度は女性オペレータから答えが返ってきた。
女性――伊吹マヤは報告を続ける。
「サードチルドレンの方は、元々リニアではなく車を使って移動していたようです。指定時間の15分前に待ち合わせ場所の駅に到着。約2時間後に迎えが来るのを諦めたのか、直接こちらへ来たようです」
上がってきた報告に、冬月は痛み出した頭を抱えた。
ミサトの行動は問題だらけで、どこから突っ込めばいいのか分からない。
随分と優秀な作戦部長だな
その時、オペレータと冬月の会話を聞いていたらしい戦自の将校の1人が皮肉気に呟いた。
発令所の人間は、誰もその言葉に反論できない。
「司令、どうしますか?」
「……葛城一尉は減棒10%を3ヶ月。カートレーンは用意してやれ。赤木二佐を呼び出し、サードチルドレンを迎えに行かせろ」
「はっ!」
オペレータの返事も聞かず、ゲンドウは椅子から立ち上がる。
「レイの手配を頼む」
「彼女は重傷だぞ?」
「予備に揺さぶりをかける為に使うだけだ」
去っていく男の後姿を眺めながら、冬月は小さく溜息を吐いた。
(自分の息子を予備呼ばわりか……)


「え? ですが! ……分かりました。それでは、あちらに指揮権を移譲します」
不満そうな顔で電話を切った将校は、いくつかのボタンを押し、いずこかへ電話をかける。
「……戦自の柊三将だ。指揮権はそちらに移った。お手並み拝見させてもらおう」


戦自の将校の言葉を、ゲンドウも冬月も聞いていなかった。
発令所の人間もだ。
それは戦自が失敗すれば、使徒迎撃の指揮権は必ず自分達のところに移譲されるという思い込み故。
その思い込みこそが傲慢なのだと、彼らはいつ気づくのか。




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「……分かったわ。では作戦プランAを実行。モンジロウは引き続き、現状のまま待機。……ええ、それではまた後で」
<予定通りか?>
小型の通信端末を切ったシンリに、車内では彼女の隣に座っていた青年、食満トメサブロウが尋ねる。
運転手を務めていた善法寺イサクはここにはいない。彼は車で留守番だ。
<ええ、予定通りよ>
シンリの言葉に、シンジとトメサブロウが安堵の笑みを浮かべる。
最もネックだった問題が片付いたのだ。
後は計画通りに事を進めればいい。
<目標に動きは?>
<N2爆弾で負った僅かなダメージもすぐに回復。爆弾を受けた後はそれまで無視していた偵察用の無人ヘリコプターを撃破し始めたそうよ>
<自己修復機能と進化機能があると?>
<おそらくね。しかも戦自が持つ通常兵器では傷一つ付けられない硬い表皮も持っている上に……>
<何らかのシールドを持っている可能性があるね>
シンジの言葉に、他の2人も頷く。
<それも、かなり高性能のシールドを、ね>
<粒子砲じゃ、難しいかもな>
<その場合、THシステムを使うしかないでしょうね>
<最初っから、あのシステムを使うのか……>
ちなみにこの会話は、彼ら以外の者には聞こえていないし、監視カメラなどにも記録されていない。
それもそのはず、彼らは「矢羽音」と呼ばれる音による暗号を用いて話していたのだ。
すぐ傍で矢羽音による話し合いが行われていても、常人では何も聞こえない。
せいぜい、余程耳の良い者が微かな音を聞きとめるくらいだろう。
<ネルフの欠陥兵器はどうするんだ?>
<あれは>
「待たせてしまってごめんなさい」
3人の話を遮ったのは、白衣を纏った女性だった。
「碇シンジ君ね?」
人工的に染めた金髪の髪を撫でながら、女性が問う。
黒の眉の下にある意図的に感情を排したような目は、シンジだけを見ている。
年齢より若く見える理知的な容貌を持つこの女性を、3人は知っていた。
赤木リツコ。博士号を持つ、ネルフの技術部長を務める才女だ。
「お会いできて光栄です。赤木博士」
柔らかな笑みと共に差し出された手に、リツコはちょっと戸惑った。
「何故、私の名前を?」
「システム工学を専門としている友人が、貴女のことをよく話してくれるんです。素晴らしい頭脳を持つ才女だとね」
「そ、そう……」
悩んだ末、リツコは差し出された手を軽く握り返した。
「もう知っているようだけど、私は赤木リツコ。ここで技術部長をしているわ。……そちらの方々は、あなたのお友達?」
「僕の保護者のようなものです」
「保護者?」
シンジの言葉に、リツコの目が一瞬光る。
「保護者というのは、どういうことかしら? 貴方の保護者はお父さんである司令でしょう?」
「ここの司令は確かに僕の遺伝子提供者ですが、保護者ではありません。そもそもあの男は、とうの昔に僕の親権を失っているはずですよ」
「え!?」
これはリツコも初耳だった。
彼女が聞いていたのは、シンジが10年間行方不明だったということ。諜報員を使って調べても、足取りが全くつかめなかったということだけ。
「親権を失っているって、どういうこと?」
「そのままの意味ですよ。10年前に僕はある家の養子に入ったんです。その時に裁判を起こして、あの男から親権を剥奪しました」
ちなみにゲンドウ自身もこのことを知らない。
裁判所から何度も出廷するようにとの旨が書かれた書状が届いたが、中身も見ずに捨てた為だ。
「え、でも、じゃあどうしてここに……?」
「仕事で来ただけです。そうでなければ、こんなもので人を呼び出す男がトップを務める組織になんて来ませんよ」
そう言ってシンジは送られてきた手紙と写真をリツコに渡した。
社会常識とかそこら辺のものを備えているなら絶対出さないだろう手紙と写真に、リツコは絶句する。
(こ、こんな手紙で10年も行方不明だった子供が来ると思っているの? それにミサト……なんなのよ、この写真は。しかも子供に送るなんて……、あなたは何がしたいわけ)
「こんな常識も礼儀も知らない男が遺伝子提供者だなんて、ちょっと落ち込みましたよ。その女性にしても、何を考えてそんな写真を送ってきたんだか。しかも迎えに来ると言っておいて、指定時刻を2時間過ぎても来ないし」
「シンジ、その辺でおやめなさいな」
途中から半ば本気で愚痴りだしたシンジを、シンリが止める。
居た堪れない気持ちで彼の愚痴を聞いていたリツコはそっと息を吐き、気を取り直してシンジに話しかけた。
「色々ごめんなさいね。それと、こんなものでここまで来てくれてありがとう」
リツコの言葉に、3人は当たり障りない笑顔を崩し、不思議そうな顔をする。
まるで猿の群れの中で人間の子供を見つけた時のような表情だ。
「……いえ、別に構いませんよ。それより、あの男はどこにいるんです?」
「地下よ。司令のところまで、私が案内するわ。……でも、その前に」
リツコはシンジの傍に立つ2人の男女を見る。
「ここから先は、部外者を入れるわけにはいかないの。貴方達はシェルターに避難して貰えるかしら?」
「まあ、おかしなことをおっしゃいますね。それならば、シンジとて部外者でしょう?」
返したのはシンリだった。
初めて真正面から女性を見たリツコは、その完成された美貌に一瞬だけ言葉を失う。
「か、彼は、ここの司令の息子だもの。部外者では……」
「先ほどシンジ自身が、あれは父親ではないと申し上げたはずですよ。それに、仮にシンジがあの男の息子だろうと、シンジ自身はこの組織に所属しているわけではない。十分に部外者だと思いますが?」
「それは……」
暫し逡巡した後、リツコはシンジの保護者という2人の男女を締め出すことを諦めた。
「分かったわ。それじゃあ3人共、ついてきてちょうだい」
そうして4人は歩き出す。
エヴァゲージ――計画が壊れ始まる場所へと。