あとがき
最終話を書き上げてから、ある掲示板の過去ログを読み返してみた。「小説を書くということがどれだけ自分自身をさらけ出すことになるのか、その覚悟はあって書いているつもりだ」私に向けられたある人からの言葉だ。
村上龍の作品「海の向こうで戦争が始まる」に、「体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まる」というリチャード・ブローディガンの言葉がある。
本作は約2ヶ月間という例にないハイペースで書き上げた。
一本の物語を創り出すということが、どれだけ体験と想像力を要求されるのかということを思い知らされた2ヶ月間だった。
私は物語を書くということは自分を切り売りすることだと思っている。それは二次創作であっても同じだ。元作品を見た自分の心の揺れ、感情の動きを自分自身の中に取り込んでいく。その作業が、本作の中で主人公に語らせた「人物を演じる」という行為とシンクロしているのではないかと私は考える。
演じることと演じないことの境界はどこにあるのか?その線引きは世の中では大抵、他人に決められてしまう。それもひっくるめて、私は自分の心の内をさらけ出してみようと思い立ったのだ。
主人公は作者自身の投影とよく言われる。
私はそれを否定しない。私をこれまで取り巻いてきた、出会いそして別れていったすべての人間たちへの思いの交錯がこの作品に投影されている。
人類補完計画とは決してフィクションの中の存在ではない、ごく身近なところにもその片鱗は潜んでいる。それが時として恋愛や野望、挫折といった形になって現れてくる。私はそれをいくつ取りこぼしてきたか知れない。
人が生きていくうえで人を演じること、それこそが補完の産物ではないかと思う。
演じることを恐れてはいけない。そして、素顔と装った顔を分けて考えてもいけない。ただあるがままの姿を受け入れ、そこに存在することを許してくれるだけでいいのだと、私は願っている。
2007年 1月 氷霧の舞う朝
霧島 愛
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